第40話:妲己、羞恥の暴走で澄んだ声を響かせる
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 二階層 】
魔法陣を抜けると、今度は和風建築の中に現れた。
ここが伊勢神宮の中なのかしら?
スタート地点は確かに『伊勢神宮の中』って感じの場所だけど……。
あたし達の前には100mくらいあるんじゃないかっていう長い廊下があった。
床板や壁は白木らしい材木でできている。
「……ここも、妙な空気ですね」
ノワールの言う通り、一階層と同じくこの部屋にも静謐な、神聖な空気が張り詰めている。
けど、その濃度は一階層よりずっと濃い。
嫌でも、ここが異様な場所だと思い知らされる。
「……この静けさ……少し、変です」
ノワールが呟いた。
ノワールは、一階層でも妙な音に気づいていた。
さっきの『ノワールの過去』みたいに、また何か出てくるのかしら?
「でも、何か音がする訳じゃないので……気のせいかも……」
ノワールの言葉ははっきりしない。
色んな音を聞きなれている彼女でも、ここの異質な音は判定しにくいんだろう。
嫌な雰囲気ね。別に怖いって訳じゃないし。
気のせいよ、きっと。
(ぶぅ……ん)
……ん? 今、何か……した?
「……? 今、空気が……少し……」
「空気が?どういうこと?」
「気のせい……かもしれません」
ノワールは何だか不思議そうな顔をして、首を傾げている。
「何よ、その顔は?何かあるっていうの?」
あたしは、ノワールの反応を見て段々不安になってきた。
あたし達の及びもつかないような何かが、この二階層にはあるんじゃないか……。
(ぶぅ……ん)
ノワールがピクンと反応し、周囲を見回した。
ノワールは「……やっぱり何か……?」と呟きながら眉を寄せた。
「まあ、良いわ。進みましょう」
「多分、あそこを進まないといけないんでしょ」
あたしは100mの長廊下を指さして言う。
「はい……でも、気をつけてください」
廊下の幅はわりと広い。二人で横に並んで歩いても十分に余裕がある。
あたし達は、廊下や周囲の音に警戒しながら、少しずつ進んでいった。
(ぶぁ……ぁぁ)
ドン、ドン、ドン……。
……え? 何これ。心臓が、さっきより速い……?
緊張? 怯えてる? そんなはずない。
へ、平気よ……! あたしだって何百年も生きてるんだから……!
「何か変よ……」
そう、変なのよ。こんな廊下に脅えるわけないのに。
「……妲己様の心音が……?」
ノワールがあたしをじっと見つめた。
「大丈夫ですか」
その声を聞いた瞬間、胸が跳ねた。
ドンドンドンドン!
(ぶわ……ん)
《……ッ》
空気がさっきより強く震えた。
ノワールが小さく息を呑んだ。
「……ノワール? どうしたのよ」
「い、いえ……その……音が……少し……」
ノワールは視線を逸らし、すぐに戻した。
何かを聞いたような、でも言葉にできないような……そんな顔。
……何よ、その反応。
あたし、そんなに変な顔してる?
「ほ、本当に大丈夫ですか。心音が……その……」
「だ、大丈夫よ! ちょっと驚いただけ!」
慌てて強がった瞬間、胸の奥がまた跳ねた。
ドンッ!
(ぶわぁ……ん)
《……ッ……?》
「ちょ、ちょっと!? なにこの音!」
通路が、あたしの声に反応した“気がした”。
ノワールは眉を寄せ、耳を澄ませるようにして言った。
「……さっきの揺れと……違います」
「はぁ!? どういう意味よそれ!」
意味が分からない。
でも、ノワールの真剣な顔が余計に不安を煽る。
……なんなのよ、この廊下。
あたしの心臓まで勝手に暴れて……。
しばらく、何も起きなかった。
ただ、二人の足音だけが白木の廊下に吸い込まれていく。
「……妲己様」
「な、なによ……」
ノワールが何か言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉が遅れた。
視線がわずかに外れ、呼吸が一拍だけズレる。
でも声色は変わらない。
「……気をつけて進みましょう」
その微細な変化が何を意味するのか分からない。
ただ、胸の奥がまた熱くなって、心音が跳ねた。
ドクン……!
(ぶぅ……ん)
《……ッ……!》
「や、やめてぇぇ! もう! なんなのよこの廊下!」
ジタバタと足をばたつかせると、また空気が揺れた。
ノワールは困ったように眉を寄せたまま、あたしを見つめている。
「……やっぱり変です、この廊下」
「き、気のせいよ! 気のせいったら気のせい!」
(ぶわ……ん)
《……ッ》
否定した瞬間、また揺れた。
でも、あたしにもノワールにも、この現象の正体はまだ分からない。
ただ“妙なことが続いている”——
その程度の認識のまま、あたし達は通路の奥へと進んでいった。ま、あたし達は通路の奥へと進んでいった。
通路を進んでいくと、白木の廊下がふいに途切れた。
「……え?」
その先には、何もない空間に“透明な踏み石”のようなものが浮かんでいた。
よく見ると、下には白木の床が続いている。落ちても怪我はしなさそうだけど……。
「な、なによこれ……。絶対イヤな予感しかしないんだけど……」
「……足場、のようですね。進むには、ここを渡るしかないようです」
ノワールは淡々と言う。
あたしは思わず後ずさった。
「ちょ、ちょっと待って……透明よ? 落ちるかもしれないじゃない……!」
「大丈夫です。下に床があります」
「そ、そういう問題じゃないのよ!」
ノワールはためらいもなく一歩踏み出した。
ポン。
透明な足場が軽い音を立てた。
揺れは……ない。ノワールは普通に歩いている。
「……普通に歩けます」
「な、なんで平気なのよ……」
あたしの声が震えた。
ノワールは振り返り、手を差し出す。
「妲己様も、どうぞ」
「う、うぅ……」
怖い。
でも、ここでビビってると思われるのもイヤ。
「い、行くわよ……!」
恐る恐る足を乗せた。
キン。
透明な足場が澄んだ音を返した。
その瞬間——胸が跳ねた。
ドクン……!
(びり……)
《……ッ》
「ひっ……!? ちょ、ちょっと!? 揺れてるんだけど!?」
足場が震えた“気がした”。
ノワールは眉を寄せ、足元を見つめる。
「……妲己様の足場だけ、音が……強いです」
「な、なによそれ……!?」
怖い。
でも、怖いって言いたくない。
「べ、別に怖くなんて——」
強がった瞬間だった。
ポンッ!!
「ひゃっ……!」
足場が大きく跳ね返し、あたしはバランスを崩した。
「妲己様!」
ノワールが手を伸ばす——が、届かない。
ドクンッ!
(びりっ)
《……ッ……?》
「ちょ、ちょっと待って! なんで揺れるのよ!!」
揺れる。
胸が跳ねる。
落ち着かない。
理由なんて分からないのに、体が勝手に反応する。
「妲己様、手を——」
ノワールが再び手を伸ばすが、
足場が“ビリッ”と震えて、また届かない。
「や、やだ……! もう無理……!」
足場が揺れ、あたしの足が滑った。
「きゃっ——!」
踏み外し → 足場に跳ね返される → 軽く跳ねる。
ポンッ!
「やめてぇぇぇぇぇぇ!!」
叫んだ瞬間、空気が大きく揺れた。
(ぶわぁぁ……ん!)
《……ッ……!》
跳ね返った自分の声が、白木の通路に薄く響いた。
……最悪。
「妲己様、大丈夫ですか!」
「だ、大丈夫じゃないわよ!! もうイヤ! なんなのよこの足場!!」
半泣きで叫ぶと、また足場が震えた。
ノワールは困ったように眉を寄せたまま、静かに言った。
「……偶然、では説明しづらいですが……」
「……た、多分……偶然よ……」
声が震えていた。
否定しないと、もっと怖くなる気がした。
こんなの、自分のせいなわけがない——
そう思いたかった。
でも、心音は乱れたまま。
足場はまだ、かすかに揺れている。
あたし達は“妙な現象が続いている”とだけ認識して、
その先へと進んでいった。
足場の揺れは、まだ止まらなかった。
ドクン、ドクン……。
胸の奥で跳ねる心音に合わせて、足場が“ビリッ、ビリッ”と震える。
その揺れに引きずられるように、あたしの視界までぐらついた。
「……っ」
ノワールの姿が、一瞬だけふらついたように見えた。
危ない——そう見えた瞬間、もう身体が動いていた。
「ノワール、危ないわよ!!」
反射だった。
考えるより先に、足が前へ出ていた。
踏み出した瞬間、胸が跳ねる。
ドクンッ!
(びりっ)
《……ッ……だ……》
空間が反応し、足場が“ポンッ!”と跳ね返した。
「きゃっ……!?」
あたしの体が軽く浮いた。
ノワールは揺れていない。普通に立っている。
なのに、あたしだけが吹っ飛んだ。
「ちょ、ちょっと待ってぇぇぇ!!」
手足をバタつかせながら半回転し——
ドスン。
尻もちをついた。痛くはない。でも衝撃で息が漏れた。
(びり……)
《……ド……》
「……え?」
《ジ……ッ……》
「ちょ、ちょっと……!」
《ド、……ジ……ッ!》
「やめてぇぇぇぇ!!」
バラバラに崩れた音が、あたしをからかうように跳ね返ってくる。
恥ずかしさで頭が真っ白になりそうだった。
「妲己様!」
ノワールが普通に立て直し、こちらへ歩み寄ってくる。
揺れの影響なんて受けていない。
その落ち着いた足取りが、逆に胸を締めつけた。
「妲己様、大丈夫です……?」
差し伸べられた手。
優しい声。
その全部が、今のあたしには刺激が強すぎた。
「み、見ないでぇぇぇぇ!!」
尻もちの姿勢のまま、顔が熱くてたまらない。
心音が跳ね上がり、空間がかすかに震えた。
……今の、何……?
恥ずかしさで頭が真っ白になって、考えが追いつかない。
息を呑む。
空間が静まり返る。
胸の奥で、心音だけが跳ねた。
——一拍。
尻もちをついた姿勢のまま、あたしは固まっていた。
顔が熱い。呼吸が浅い。
胸の奥だけが、ドクン、ドクンと跳ね続けている。
空気が……変わった気がした。
「妲己様……大丈夫ですか……?」
ノワールの声が、そっと落ちてきた。
その優しさが胸の奥に触れた瞬間——
羞恥が、一気に閾値を越えた。
や、やだ……優しく言わないで……!
《……や、やだ……優しく言わないで……!》
〝〝〝〝〝……優しく……言わないで……〟〟〟〟〟
「やめてぇぇぇぇ!!」
自分の声と澄んだ反響が重なって、空気が震えた。
立ち上がろうとしたけれど、膝が笑って力が入らない。
「む、無理……立てない……やだ……見ないでぇ……!」
顔を覆ったまま震えるあたしの周囲だけ、
空気がびりびりと揺れた。
〝〝〝〝〝……見ないで……でも……そばにいて……!〟〟〟〟〟
「っ……!」
聞こえる。
はっきりと、あたしにも聞こえる。
でも、どうして……?
やだ……これ……どれが……なにが……苦しいの……!?
《……やだ……これ……どれが……なにが……苦しいの……!?》
〝〝〝〝〝……どれが……苦しい……〟〟〟〟〟
「……妲己様、あの……震えて……寒いんですか……?」
ノワールの声が近づく。
必死に理解しようとしているのが分かる。
でも、それがまた胸を締めつけた。
「来ないでぇぇぇ!!」
〝〝〝〝〝……来ないで……でも……そばに……!〟〟〟〟〟
「妲己様……!」
ノワールがさらに一歩近づいた瞬間、
羞恥が限界を越えた。
〝〝〝〝〝……やだ……分かんない……全部……!〟〟〟〟〟
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
叫びが空間に跳ね返り、
澄んだ声がまた重なる。
胸が苦しい。
頭が真っ白で、何が何だか分からない。
「……妲己様……なんで……胸が……こんな……」
ノワールの声が震えていた。
あたしの胸の奥で、まだ心音が跳ねている。
〝〝〝〝〝……そばに……〟〟〟〟〟
空間は、まだ微かに反響していた。




