第39話:妲己とノワール、恥ずかしい記憶に悲鳴を上げる
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 一階層 】
神域特有の静謐な雰囲気が周囲に流れてる。
でも、それより何より……。
「白い、何もない真っ白な空間だわ」
周囲は空も地面も空間も真っ白だ。
目がおかしくなりそうなくらい何もかも真っ白い。
いくら神域って言ったって、こんな空間が普通にあるはずないわよね。
やっぱりここはダンジョンなんだ。
「音……が」
ノワールに言われて耳を済ますと、澄んだ水の音がどこからか聞こえてくる。
澄んだ水の音……五十鈴川?
でも周囲は相変わらず、真っ白だ。
川どころか水も見えやしない。
ノワールは不安そうに眉を寄せたけれど、すぐに表情を整えて私から目をそらした。
「……何か出そうな雰囲気……」
その不安げなつぶやきが、逆に胸に引っかかった。
ここは、あたしがしっかりしないとダメかしら。
そう思っていると、突然 私達の耳に『正体不明』の音が響いた。
「……耳鳴り?」
違う。耳鳴りじゃない。何かが聞こえる。でも音源が分からない。まるで空気そのものが震えているような、そんな感覚。
でも、何となく優しい響きでもあるような……?
「いえ……これは……」
ノワールが小さく呟く。その声は、いつもより少し震えていた。
「音が、揺れてます……」
「音が……揺れる?」
私はノワールの言葉の意味が掴めなかった。
でも耳を澄ますと、確かに何かが鳴っている。それも一定のリズムではなく、波のように揺れながら。
ノワールは胸に手を当てて、目を閉じた。その表情が、少しずつ強張っていく。
「……不思議な感覚」
ノワールがそう呟いた瞬間、それまで揺れていた音が、まるで誰かの心臓の鼓動みたいに形を変えた。
空間の音が、突然変わった。
それは心音のような、優しくて温かい音。
トクン、トクン、トクン……。
「これ……」
ノワールの目が見開かれる。そして次の瞬間、白い空間に薄い影が滲み始めた。
輪郭だけがぼんやりと浮かぶ幻影。
まるで音が形を作っているみたいに、揺れながら滲んでいく。
視覚的には曖昧で、何が映っているのかはっきりとは分からない。
でも——
「にゃあ……」
小さな鳴き声が、鮮明に響いた。
あたしは思わず身構えた。
何これ? 何が起きてるの?
幻影の中から、幼い声が聞こえてくる。
「子猫ちゃん……大丈夫……?」
その声は優しくて、少し震えていて。
「これって……」
あたしがノワールを見ると、彼女は両手で顔を覆っていた。
「み、見ないでください……!」
「え、ちょっと、何——」
「ワンワン! ワンワン!」
突然、犬の吠え声が響く。
そして別の幼い声が叫んだ。
「子猫ちゃんが食べられちゃう!」
……状況が全然つかめない。
これは何? ノワールの記憶?
でもなんで音だけこんなに鮮明なのよ……。
幻影の中で、小さな人影が動く。
積み木の剣を持った子供が、犬の前に立ちはだかる。
「レナ……」
ノワールが震える声で呟いた。
「任せなさいレナ」
別の声が響く。
それは少し高めで、でも自信に満ちていて。
幻影の中で、もう一人の子供が前に出る。
マントを翻し、堂々とした足取りで。
「あれはただの犬よ」
その声には、確かな自信が込められていた。
「私の魔眼で退治して見せるわ」
「……魔眼……?」
あたしは思わず呟いた。
ノワール、魔眼なんて持ってたっけ?
現在のノワールは、もう顔を覆ったまま動かない。
耳まで真っ赤になっている。
幻影の中で、幼いノワールが犬を睨みつける。
その姿は確かに格好良くて——
「ワンッ!」
犬が一声吠えた。
吠え声は軽い。……これ、ただ遊んで欲しいだけじゃない?
「ひっ……!?」
次の瞬間、幼いノワールの膝がガクガクと震え始めた。
そして——
スライド。
音もなく、見事な速度で、レナの後ろに隠れた。
「……こ、これは、背後から急所を狙う戦術……」
震え声での強がり。
あたしは……吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
いや、ダメ。笑っちゃダメ。ノワール、もう真っ赤だし。
でも——
無理。
可愛すぎる。
「ノワールお姉ちゃんがガクガク病になっちゃったぁ!」
レナの泣き声が響く。でもそれは怒りじゃなくて、心配の声。
「怖かったの……? ごめんね……!」
「ち、違います……! 私は……その……!」
幼いノワールの必死の弁解。
現在のノワールは、もう蒸気が出そうなほど赤くなっている。
そこに、新しい人影が現れた。
静かで、優しい気配。
それに呼応するように、空間の音がふっと柔らかくなった。
「よしよし……」
犬を撫でる音が聞こえる。
……やっぱり、ただ遊んで欲しかっただけね。
「レナ、大丈夫だよ」
その声は温かくて、包み込むような優しさがあった。
「セレナ……姉様……」
現在のノワールが、涙声で呟く。
幻影の中で、セレナがレナを抱き寄せる。そして、震えているノワールに向き直った。
「ノワール、ありがとう。レナを守ろうとしてくれたんだよね」
「……っ」
幼いノワールの耳が、ますます赤くなる。
「怖かったのに前に立ってくれたの、ちゃんと見てたよ」
「うぅ……」
幼いノワールは、しゃがみ込んで顔を覆った。
現在のノワールと全く同じポーズで。
「失敗なんてどうでもいいよ。守ろうとした気持ちが一番大事だから」
セレナの言葉が、空間に優しく響く。
あたしは……胸が熱くなるのを感じた。
こんなの、見ていられない。
幻影が霧のように消えていく。
白い空間に、再び静寂が戻る。
ノワールは動かない。
顔を覆ったまま、小刻みに震えている。
その肩は、今にも壊れそうなくらい震えていた。
ノワールは小さく息を吸った。震えはまだ残っているけれど、逃げる気配はなかった。
「……見ないでください……妲己様……」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
「あれは……その……恥ずかしい……です……」
あたしは——どうすればいいのか分からなかった。
いつもなら、こういう時は強がる。
「別に大したことないじゃない」とか、「昔の話でしょ」とか、そういう風に流す。
でも。
ノワールの震える肩を見ていたら、そんな言葉は出てこなかった。
代わりに、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
(守ろうとしたのに……)
(怖かったのに、レナのために前に出たのに……)
胸の奥が熱くて、息が苦しい。
(なんで恥ずかしがらなきゃいけないの……?)
息を吸った瞬間——
「優しくて何が悪いのよ!!」
叫んでいた。
ノワールがビクッと震える。
「怖くても、震えてても、守ろうとしたなら、それで十分じゃない!!」
あたしの声が、白い空間に響き渡る。
「魔眼なんてなくたって!膝がガクガクしたって! レナを守ろうとしたノワールは格好良かったわよ!」
「妲己……様……」
ノワールが顔を上げる。
その目には、涙が浮かんでいた。
「失敗したって、逃げたって、そんなの関係ないわ! 大事なのは……」
あたしは言葉に詰まる。
自分が何を言おうとしているのか、ちゃんと分かっていなかった。
でも口は勝手に動く。
「大事なのは、守ろうとした気持ちでしょ!」
叫びの余韻だけが、白い空間にいつまでも残っていた。
ノワールは涙を流しながら、あたしを見つめている。
あたしは……恥ずかしくて死にそうだった。
何言ってんの私。柄にもない。
でも、後悔はしていなかった。
「……妲己様も……セレナ姉様みたいで……」
ノワールが小さく呟く。
「恥ずかしいことを言われても……堂々としてて……」
「べ、別に堂々となんて——」
「すごいです……」
あたしは思わず目をそらした。
そんな風に言われるなんて、慣れていない。
ノワールは涙を拭って、あたしをまっすぐ見た。
「私も……勇気を出したい……」
その目には、確かな決意が宿っていた。
「優しい自分を……隠したくない……」
あたしは……何も言えなかった。
ただ頷くことしかできなかった。
ノワールはハープを取り出す。
その手は、まだ少し震えていた。
「でも……まだ怖いです……」
「……そうね」
あたしは一歩、ノワールに近づく。
触れはしないけど、すぐ隣に立つ。
「私も怖いわ」
「妲己様が……?」
「当たり前でしょ。こんな訳の分かんない場所、怖いに決まってるじゃない」
あたしは小さく笑う。
「でも、あなたがいるから……少しだけ、大丈夫な気がするわ」
ノワールの目が、また潤む。
「……私も……妲己様がいるから……」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
ノワールが、震える手でハープに触れる。
あたしは黙って見守る。
一音。
ポロン……。
その音は——以前とは違っていた。
澄んでいるとか、綺麗とか、そういうことじゃない。
もっと根本的な何かが変わっていた。
芯がある。
その一音には、確かな芯があった。
「……これ……」
ノワール自身も驚いているようだった。
音は空間に広がり、白い床に魔法陣が浮かび上がる。
優しさを隠さなくていい。
怖がりでもいい。
失敗してもいい。
大事なのは——
守ろうとする気持ち。
そして、その気持ちを恥ずかしがらないこと。
ノワールがそれを学んだように、あたしもまた、何かを学んだ気がした。
胸の奥に、さっきまでとは違う温かさが残っている。
ノワールも、あたしも。
まだ何が待っているのか分からない。
でも——少しだけ、前より強くなれた気がした。
魔法陣の光が、二人の足元を照らす。
「……行くわよ、ノワール」
あたしは小さく笑った。
「はい……妲己様」
ノワールも笑顔で頷く。
二人は並んで、光の中へと歩き出した。




