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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

奇妙な味のレストラン

うっぷん晴らしルームの裏サービス

作者: 恵良陸引

 ギターが粉々に砕ける。そのギターは砕けぎわに奇妙な音色を出した。まるで、最後の演奏のように。しかし、すぐギターの木材が放つ、ぐしゃぐしゃとひしゃげる音にかき消されてしまった。

 荒貝睦夫あらがいむつおは、はぁはぁと息を吐きながら、床に叩きつけたギターの残骸を放り捨てた。床には破壊された皿や椅子の残骸が散らばっているが、その中から金属バットを拾い上げると、今度はテーブルの上に置いてあるテレビに向かった。テレビはかなり古いもので、現在では見られないブラウン管テレビだ。丸みを帯びた画面には、バットを手にした荒貝の姿が映っている。

 「……だいたい、何でブラウン管なんだよ」

 荒貝はテレビに向かって凄んでみせた。当然だが、テレビは静かに沈黙している。アンテナだけでなく、コンセントもつながっていないので、そのテレビが何かを映すということはありえないのだが。

 「ふざけんな、ブラウン管!」

 荒貝はバットを振り下ろした。バキリという激しい音とともに、テレビの上部がへこみ、ブラウン管のガラスが割れた。細かな破片が飛び散ったが、荒貝は頓着しなかった。彼はゴーグルに皮手袋、レザーのズボン、厚底の靴という重装備だった。多少の破片でケガをする危険はない。

 「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなー!」

 荒貝は何度もバットを振り下ろした。バットを振り下ろすたびに、テレビの破片があたりに散らばる。いつしかテレビは元の姿が想像できないほどに破壊しつくされ、荒貝はテレビを載せていたテーブルを叩き壊していた。

 「この、くたばれ!」

 荒貝は思い切りテーブルを蹴り飛ばした。テーブルは派手な音を立てて床に転がった。彼は肩で息をさせながらあたりを見渡した。四方を白い壁に囲まれた狭い部屋で、ドアのほかには小さな黒い窓しかない。文庫本一冊ほどしかない小さな窓で、明かりを取り込むこともできない。しかし、荒貝は顔にかけていたゴーグルを外しながらその窓に向かうと、その向こう側へ声をかけた。

 「すみません、終了です」

 すると、ひとつしかないドアが開いて、タキシード姿の男が入ってきた。短く刈り揃えた口ひげで、ほっそりとした長身の男だった。年齢は50歳前後に見えた。

 「本日はいかがでしたか、荒貝様?」

 男は落ち着いた声で尋ねた。部屋の惨状を目にしても表情ひとつ動かない。

 「今日の趣向は、まぁまぁ楽しかった。ブラウン管のテレビなんて、ぶっ壊す機会はなかったからな。よく手に入ったな、あんなもの」

 「さるところの廃品でございます。当方も珍しいものが手に入ったと思っています。それを一番のお得意様である荒貝様に壊していただけて、このテレビにも良い供養になったと思います」

 男は丁寧な口調で答えた。穏やかで他人を不愉快にさせない落ち着いた口調である。職業はホテルの支配人かと思わせた。

 「おかげで、いつになくスッキリできたよ。ありがとう、店長」

 荒貝はバットを店長に預けると部屋を出た。部屋を出るとやや狭い廊下になる。荒貝が今出たドアと同じドアがいくつか並んでいた。いずれにも黒い小さな窓がはめ込まれている。室内と違うのは、その窓は室内の様子を見ることができたことだ。どうやら、この小窓はマジックミラーになっているらしい。

 荒貝は廊下を慣れた様子で歩いて、奥にある部屋へと入った。そこはロッカールームになっていて、彼はそこで身につけていたレザーズボンなどを脱いで近くの籠に放り込んだ。ロッカーにあるのは自分の背広だ。彼は背広姿になると、鞄を取り上げた。どこにでもいるようなサラリーマンの姿である。

 荒貝は再び廊下へ出ると、まっすぐ出口に向かった。出入り口にある受付カウンターで清算を済ませてガラスのドアを開ける。ドアは触るだけで開く半自動のものだった。彼は外へ出ると、そこで立ち止まって振り返った。

 『ストレス解消に! うっぷん晴らしルーム

 思いっきり、破壊衝動を吐き出してみませんか?』

 出入口の脇に、宣伝文句を並べた小さな立て看板が立っている。看板に目をやれば、さらに小さな文字で、『ここには、いくらでも壊していい皿やグラスなどが常備しています。日頃のイライラは、これらを壊すことでスッキリしませんか? さらに、様々なアイテムを不定期に仕入れていますので、思わぬ掘り出し物〈壊し物〉に出会えるかも』と煽り文句も並んでいた。ここは物を壊させることで、客のうっぷんを晴らす手伝いをするサービスルームだった。そして、荒貝はその会員なのだ。

 スッキリした、と言って店を出た荒貝だったが、看板を見つめている彼の表情はどこか物足りなげだった。実際に、彼はこうつぶやいたのだ。

 「もう少し、ぶちのめしたい気分は残っているんだよな」

 しかし、荒貝は再び店に入ることはせず、そのまま帰っていった。


 翌朝、荒貝が勤め先に出社すると上司に呼び出された。同期の武利むり部長からである。同期入社ではあるが、初めから差がつけられていた。親会社社長のご子息であり、いずれは親会社に戻って後を継ぐことになる。この子会社での出世は形だけでもステップアップした結果とするためだろう。新規ノルマも無く、既存顧客の引継ぎだけで数字を出してきた。それはそれで無能ではできないことなのかもしれないが、売れ筋の商品がなく、業界として斜陽を迎えている会社で新規獲得は厳しい。その厳しさ知らずで主任、係長を飛ばして課長となり、数年で部長にまで昇られると、一から積み上げてきた荒貝からすれば面白いはずがない。その武利からの呼び出しである。荒貝はできるだけ自分の感情を顔に出さないよう意識しながら部長室のドアを叩いた。

 「おはようございます、部長」荒貝はお辞儀してあいさつした。

 「おはよう、荒貝係長」

 武利は机のパソコン画面を眺めながらあいさつした。朝から忙しそうな様子だ。荒貝は机の前に立つと、背筋を伸ばして話しかけられるのを待った。本題をすぐ話そうとしないのはいつものことだ。こんな態度は数え切れないが、いっこうに慣れることができない。こちらが我慢できずに用は何かと尋ねようものなら「誰が話していいって言った?」と凄まれてしまう。完全な嫌がらせである。嫌がらせをされる原因は全く思い当たらない。何かのうっぷん晴らしに付き合わされているとしか思えない。もっとも、これまでその役割は課長だったが、課長は先月から心を病んで休職中だ。そのおかげで、彼に『お鉢』が回ってきたのである。

 話しかけられることなく待たされること数分。いや、実際は1分程度のものかもしれないが、無言で待たされるのはそれだけで苦行に近い。いいかげんじりじりとしてきたところで武利が顔を上げた。

 「今朝は何で呼び出されたか、わかっているか?」

 わからない。それに、そんな質問から始めるのであれば先に言ってほしい。それなら、待っている間に考えることができるというものだ。

 「質問されたら5秒で答える」

 武利は目を糸のように細くして畳みかける。――質問されたら5秒以内に答える――。これが武利のいるグループの『決まり』である。顧客からの問い合わせに即答できなければ結果は出せないという理屈だ。荒貝にすれば、その理屈からすでについていけない。顧客の要望に対するレスポンスの良さが大切なのはわかる。しかし、それがこの『5秒ルール』で縛る理屈になるとは思えない。この数年、武利のルールについていけず会社を辞める若手が後を絶たない。荒貝の下には、2人だけ部下が残っている状態だ。

 「申し訳ありません。何の件なのか……」

 「これを見たまえ」

 荒貝の目の前に書類が突き出された。それを受け取って見てみると、荒貝の部下が新規契約を目指す先に提出した見積もりだった。通常価格の7割の金額で見積もられている。新規契約を結ぶため、初回取引の限定条件として先方からの要求に応えたものだ。部下からの相談を受け、逆ザヤにならないギリギリの数字を荒貝が指示したのだ。

 「通達していたよね? 粗利率15%を切る金額で見積もりを提出してはならないって。言ったよね、僕は?」

 「はい……」

 荒貝は頭を下げて肯定した。そして、心の中でつぶやく。

……今月、売り上げ目標の未達だけは何としてでも阻止することと、新規獲得5社を達成することもおっしゃっていましたよね? うちだけが一般他社より3割も価格が高いから、新規獲得には商品の改良、あるいは価格の見直しが必要と言う社内の声は聞こえないふりをして……。

 荒貝が勤める会社は中堅の工具メーカーだ。彼はそこの営業部に所属している。90年初頭のいわゆる「バブル」時代は大いに儲けていたようだ。何をどんな価格で売っても売れた時代があったのだ。しかし、今の時代では通用しない。価格競争がし烈を極めるのに、バブル時代と同じ価格帯で勝負できるとは思えない。もちろん、価格に見合った付加価値のある商品を提供しているのであれば、価格を下げないのもうなずける。しかし、荒貝自身が残念に思うのは、自社商品の性能は特別に優れているわけでないことだった。これまで取引のある顧客は付き合いの長さや、ゴルフ等さまざまな交流があるから続いていたと言える。真の意味で、企業努力の賜物ではないのだ。中国からは安い品物がどんどん入り込み、さらに品質面でも大きな差がなくなってきた。むしろ、品質管理部などをリストラで廃止するなど、自社製品のほうが品質で勝負できなくなっているのだ。こんな環境で営業が成果をあげるためには、手段なんて選んでいられない。品質に改良は見られないのに価格は据え置き。それで、売り上げ目標の達成に加え、新規獲得5社を月内に達成せよと言うのは、あまりに現実を知らなさ過ぎる。本当は、武利も達成は現状不可能だと悟っているはずだ。それを承知でコンプライアンスだの、内部統制だのを持ち出しているのだ。荒貝は武利の腹の内があまりに丸見えで腹立たしかった。

 「まことに申し訳ありません。今月、必ず新規獲得5社を命じられていましたが、1社も獲得できていません。こちらのお客様はようやく新規契約に持ち込めそうでしたので、この見積もりを提出するよう指示いたしました」

 「問題は価格だけの話じゃない。見積もりにある商品は自社製品じゃない。これじゃ、粗利だって取れないだろ。わかっているのか?」

……わかっているよ! ただ、お客様のニーズに応える商品がそれだった、ということなんだよ!

 荒貝は叫び出したい衝動に駆られた。わかりきったことで説教されるほど、イライラさせられるものはない。もし、武利の言う通りに自社の製品を納品すれば、来月からの注文をいただけなくなるのは間違いない。自社製品では先方の要求に応えられないからだ。

 友人、親戚からはよく言われる。どうして、そんな会社で働いているのか、と。もう少しまともな会社は無かったのか、と。

 荒貝はいわゆる就職氷河期世代で、働き口があるだけでも幸せな部類に入る。荒貝が働く会社は、業界では中堅だが、それでも年商数十億を超える企業である。親会社が安定の大手企業ということもあったのか、マンション購入時にローンを組むのは簡単だった。収入が今ひとつなのは正直不満だが、家族を養えないほどではない。長女の受験のため、妻がパートに出て塾費用を捻出するようにはなったが、妻から文句は出ていない。彼女の周辺では、荒貝程度の収入が普通で、むしろ、まだましだと言われているぐらいだからだ。今の勤め先を辞めて、これより好条件の転職先があるとは思えない。それに、もっとお金が要り様となるのに、転職のリスクは冒せられない。荒貝がこんな不条理に耐えて、今の会社にしがみついているのは、結局のところ、「しがみつくしかない」というのが本音だった。

 「何だよ、黙っていれば話がすむと思っているのか?」

 荒貝が頭を下げたまま押し黙っているので、武利が不快そうな声をあげた。

 「荒貝君、どうなんだ、ええ? なぜ、君はこんな見積もりを出させたんだ!」

 「お客様がお望みなのは、最近他社が力を入れている新機能付きの工具です。我が社の製品には備わっていませんので、メインは我が社ではないものにしました。しかし、付属品や消耗品などは、我が社の製品で対応できます。価格面や種類の豊富さも遜色ありません。これならば、お客様に我が社とお取引いただくメリットを感じていただけると考えたのです」

 「言い訳はしなくていい!」

 武利は大声をあげた。荒貝は頭を下げたまま口をつぐんだ。

 「こちらが聞いたのは見積もりを出させた理由だ。君は止める立場のはずだ。なぜ、止めなかったのかと聞いているんだ!」

……そういう解釈になるか? 今までの話は……。

 ここまでくると言い掛かりにしか思えない。しかし、荒貝はぐっと口を閉じて耐えた。しばらくすると、武利が「ふん」と鼻を鳴らすのが聞こえた。

 「……こことは取引契約できるのだろうな?」

 荒貝は顔を上げた。「必ず、契約にこぎつけます」

 「わかった。ここまで話が進んでいるなら、必ず契約を取れ。こんな真似までして、契約できませんでした、では済まないからな。いいな?」

 「はい、申し訳ありませんでした」

 荒貝はようやく解放された。自分の席に戻りながら、すでに身を覆う疲労感にため息をつく。時間はまだ9時を過ぎていない。この不条理が気まぐれのように起こるのだ。自分もいずれ、課長のように会社に出られない身体になってしまうのだろうか。

 席に戻ると隣に座る部下が不安そうな顔を見せた。荒貝が呼び出された理由に自分が関わっているのではないかと気にしているのだ。荒貝は否定するように弱々しく首を振って、パソコンを起動させた。


 「足りない! 足りない! 足りなーい!」

 荒貝は床に皿を次々に叩きつけた。叩きつけられた皿は粉々に砕けて床一面に散らばっていく。荒貝は大きなかけらを見つけると、思いきりそれを踏みつけた。靴底の下で、かけらが細かく砕ける感触がある。荒貝はそれをさらに踏みにじった。ゴーグルで実際には見えないのだが、荒貝の顔は真っ赤に紅潮し、こめかみからは血が吹き出しそうなほど血管が浮き上がっていた。

 皿を粉々に踏みしだくと、荒貝は大きく息を吐きながら呼吸を整えた。

――足りない! 足りない! 足りない! こんなのじゃ、俺の腹は治まらない! もっと、もっと、もっとだ!

 「今日は、特別なアイテムは無いのですか?」

 荒貝は小さな窓に向かって問いかけた。こんな小さな皿をいくら壊しても、荒貝の怒りは鎮まらない。何か爽快感を得られるようなものが必要なのだ。だが、それが何なのか、荒貝には思いつかなかった。

 扉が開き、例の口ひげ姿の店長が現れた。荒貝の前に立つと、静かに頭を下げる。

 「申し訳ございません。本日は特別に入荷したアイテムはございません」

 「そうか……」荒貝は残念そうな声をあげた。

 「これでは、ご満足いただけないのでしょうか?」

 店長は床に目をやりながら尋ねた。室内の皿はすべて粉々にされて散らばっている。いくつかは荒貝に踏みにじられて、白い床に灰色の粉となって、足型の模様をつけていた。

 「店長には悪いけど、今日はまったく満足できないんだ。いや、もう、皿を何枚割っても気分が晴れないんだ。こんなのじゃ、もうスカっとできないんだよ。俺が望んでいるのはこんなチンケな皿を割ることじゃないって思うんだ」

 「力が足りず、誠に申し訳ありません」

 店長は穏やかな口調で詫びると頭を下げた。荒貝は顔をそむけた。今の自分の発言は、言いがかりと同じものだと感じたからだ。ばつの悪い思いが、店長から視線を逸らさせたのである。

 店長はまったく感情のない表情で、きまり悪そうにしている荒貝を見つめていた。しばらく無言だったが、わずかにうなずいてから口を開いた。

 「荒貝様。わたくしたちに次の機会をお与えいただければ、荒貝様をご満足いただけるメニューをご用意いたします。荒貝様のように、ご贔屓いただける方限定の特別メニューでございます」

 「限定のメニューだって?」

 荒貝は思わず店長を振り返って、不思議そうな声をあげた。店長は静かにうなずく。

 「当店は、すべてのお客様にご満足いただけますよう努めておりますが、なかなかすべてのお客様にご満足いただけないのが実情でございまして。少しでも当店の目的に適うよう、当店独自のサービスを提供しているのです」

 「そ、そのサービスって……」

 勢い込んで尋ねる荒貝に店長は首を振った。

 「申し訳ございません。今ここで詳細をお教えはできません。それは特別なものだからです」

 「特別?」荒貝はオウム返しにつぶやいた。

 「それに手配など、準備が必要なものでして、それが整わなければご提供できないのです」

 「どれぐらい時間のかかるものですか?」

 店長は荒貝を見つめた。「荒貝様はご希望なさいますか?」

 荒貝はうなずいた。サービスの内容を教えてもらえないのが気になるが、スカっとさせてもらえるのなら構わない。

 「かしこまりました。準備でき次第、荒貝様にご連絡差し上げます。次こそは必ずご満足いただけますよう当店はより一層努力してまいります」

 店長はうやうやしく頭を下げた。


 それから数日は、荒貝は社内の悩ましい些事に耐えながら過ごした。「些事」と表現したが、荒貝にとっては些事ではない。ほとんどが武利からの小言で、ひとつひとつは大した内容ではないものの、荒貝の神経をどんどんすり減らせるものだった。書類はもっと正確に、あいさつはもっと明瞭に、常に利益を生むことを考える……。一方で、本社に不都合な書類はあいまいなものにする、武利派に含まれない者にまともなあいさつを交わすな、利益よりも売り上げ実績が必要……。時として矛盾する小言などをさんざん浴びせられるのだ。

 荒貝のいる課の雰囲気は悪くなる一方で、課全体のモチベーションを下げないよう、荒貝は頭を悩ませ続けた。課長の容態は一向に快復に進んでおらず、このままでは課長は退職されるかもしれない。そうなると、荒貝への負担はさらに増加することになる。課長は働ける状態にないが、それでも荒貝のみに責任が集中していたわけではないからだ。

 ある日、荒貝は武利に呼び出された。荒貝はいまいましい思いを抱きながら部長室へ向かった。この間、新規獲得の件で見積もりの相談に応じた部下が出社していないのだ。なかなか連絡が取れず、困っているところだったのだ。武利からの呼び出しが、ちゃんとした用事でなかったら爆発してしまいそうだ。

 「この間、得値の見積もりを出したご新規さんだが、あれの担当は君がしたまえ」

 「は?」

 部長室に入るや、武利は荒貝に命じた。荒貝は困惑した表情を浮かべた。

 「し、しかし、あのお客様は……」

 あれは部下が長い時間をかけて、ようやく顧客になったものだ。得値の見積もりに関わったのは確かに自分だが、あれは部下の手柄だ。部下の手柄をかすめ取るような真似はしたくない。

 「これは部下のものだと言いたいんだろう? でもね、彼はうちを辞めるそうだ」

 武利は静かな声で説明した。相変わらずパソコンの画面を見ながらで、荒貝に顔を向けようとはしていない。荒貝は全身が震えるのを感じた。

 「そ、それは、どういう……こと……でしょう……か……。彼はようやく結果を出したのです。これからじゃないですか」

 「さぁね。ただ、君に助け舟を出してもらったおかげでの新規獲得だからね。獲得のポイントは半分だと伝えたら、翌日には辞めるときた。もともとやる気が無かったんだよ」

 荒貝の頭の中は沸騰しそうになった。この会社では、係長以下の者は新規獲得の件数や売上金額に応じて、ポイントで営業成績がつけられている。昇格・昇進やボーナスの査定につながるもので、一定数のポイントがつかなければ収入が増えない仕組みだ。正直なところ、この会社の給与は良いとは言えない。しかし、ポイントを獲得できれば収入を増やすことができる。この会社で働いている者にとって、ポイントの獲得は死活問題に等しい。荒貝の部下は最近結婚したばかりで、来年は子供が生まれる予定だ。これからもっと収入を上げなければならない立場なのだ。武利はいきなり管理職になっているので、ポイントを手に入れる苦労をしたことがない。そんな者から軽々しくポイントを削られたので働き続ける意欲を無くしたのだろう。心が折れてしまったのだ。

 さらに腹立たしいのは、新規契約に結び付いた経緯の解釈が間違っていることだ。荒貝は助け舟を出したのではない。療養中の課長に代わって得値の見積もりを出しただけだ。それは社内ルールに則ったもので、荒貝はそうしなければならなかっただけである。そうしなければ契約できなかった顧客なのだから、そのことでポイントを削られるいわれはない。ただ、ここでの最終決裁者は武利である。武利が「黒」と言えば白でも「黒」なのだ。荒貝は、部下が絶望的な気持ちで退職を決意したのだと悟った。握りしめるこぶしがブルブル震えるのを抑えることができない。

 「何か? 何か言いたいことがあるのか?」

 うつむいていたので、武利がこちらを見ていることに気がつかなかった。糸のように細い目をこちらに向けている。文句があるなら言えという態度だが、それができるなら苦労はない。

 荒貝は握っていたこぶしを広げた。「いいえ。何もありません」

 「では、先方への挨拶を済ませてくれ。担当変更の理由は適当に。話は終わりだ」

 武利はそう言うとパソコンの画面に視線を戻した。荒貝は無言で頭を下げると部長室を出て行った。たまたま部長室の前を通りかかった女性社員が、荒貝の表情を見るや飛び下がるようにして道を開けた。通り過ぎる荒貝は女性社員に目もくれない。女性社員は完全に怯えた表情で遠ざかる荒貝の背中を見送っていた。もし、今この瞬間に自分の顔を見ることができれば、荒貝は『憤怒』の表情を知ることができたはずである。

 荒貝が自分の席に戻ったタイミングで携帯が鳴った。通知を見ると、『うっぷん晴らしルーム』からだ。

 「特別メニューのご用意が整いました」

 店長からの連絡だった。荒貝はゆっくりとうなずいた。「必ず行きます」


 店でいつも指定されている服装に着替えると、店長が待っていた。荒貝の姿を見るとうやうやしく頭を下げる。

 「本日までご辛抱いただき、誠に申し訳ございませんでした」

 店長は静かな声で詫びた。荒貝は首を振る。

 「前置きはいいよ。さっそく案内してくれませんか」

 「かしこまりました」

 店長は店内の奥に向かって歩き始めた。荒貝は無言でついていく。店長が案内したのは入り組んだ廊下の一番奥にある壁の前だった。荒貝は戸惑った表情を浮かべた。店長は荒貝の反応を予想していたようで、「ご心配なく」と短く言うと壁を押した。すると、壁は中心を軸にしてぐるりと開いた。まるで忍者屋敷のカラクリ扉だ。

 「特別メニューは一般の方にお知らせしていないものなので、専用のルームを別に設置しているのです」

 店長は説明すると壁の奥へと進んでいく。荒貝は遅れまいと後を追った。壁の先は狭い階段になっていた。薄暗い蛍光灯が足元を照らしている。店長は「足元にお気を付けください」と言いながら降りていった。荒貝は辺りを見渡しながら降りていった。灰色のコンクリートがむき出しで、普段のもてなしに使っていないことがうかがえる。本来は非常階段として使用するところではないか……。荒貝はそう推測した。

 その推測は当たっているらしい。荒貝はひとつの扉の前を通り過ぎた。扉の上には「非常口」と書かれた誘導標式が明かりを灯していたのだ。店長はその先へ進んでいる。行先はどうも地下にあるらしい。普段利用している店舗は雑居ビルの2階にあるが、特別メニュー用の部屋は地下にあるということなのか。荒貝は少し気分が高まってきた。いかにも秘密めいて、特別なものである気持ちが湧いてきたからだ。同時に、それがこの店の演出なのだろうという、少し冷めた考えも浮かんでいた。ただ、ここは店長の演出に乗ってやろうと思った。これも趣向のひとつとして楽しめばいいのだ。

 地下への階段は少し深かった。階段は途中で折り返すほど長かったのだ。やがて、荒貝はひとつの扉の前に降り立った。灰色に塗られた鉄製の扉で、その前では店長が待っている。荒貝が店長の前に立つと、店長は口を開いた。

 「今回、壊していただくのは、今までと趣が異なっておりまして、『ブタ』でございます」

 荒貝は目を丸くした。「豚?」

 「『ブタ』でございます」店長は訂正するように繰り返した。

 「荒貝様には、その『ブタ』を思う存分にお仕置きしていただければと思います。お仕置きの道具は当方で何種類もご用意いたしておりますので、物足りなくなることはないかと考えております」

 荒貝は慌てて両手を振った。

 「待て待て。『ブタ』って生きている『ブタ』なんだよな?」

 「左様でございます」

 「『ブタ』をいたぶる趣向って、動物愛護団体とかうるさく言われるだろう」

 「そうでしょうね。ただ、この件で愛護団体からうるさく言われることはございません。ですが、おおっぴらにもできませんので、こうして特別な会員様にだけご案内差し上げているのです」

 特別ルームが店舗と離れた地下にある理由がわかった。お仕置きされた豚の悲鳴が聞こえると、ほかの客はやる気を削がれることになるはずだ。

 「お気に召しませんか?」

 店長は荒貝の顔をのぞき込むようにして尋ねる。荒貝は一瞬迷った。うっぷん晴らしをしたいが、生き物をいたぶりたいと考えたことはなかったのだ。一方で、強い興味も湧いていた。試すぐらいならいいのではないか――荒貝の心の中にはそんな考えが浮かんだ。気分が乗らなければやめればいい。それだけのことだ。

 荒貝は首を振った。「まずは試してみるよ。気に入らなかったら止めていいんだろ?」

 「もちろんでございます」

 店長はうなずいた。それで荒貝の気持ちも決まった。「じゃあ、やってみよう」

 「『ブタ』はただブヒブヒ鳴くものではありません。いろいろ哀願するような目を向けるものです。そんな『目』に応えるのも、この趣向の目玉でございます。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」

 店長はそう言いながら扉を大きく開いた。白い明かりがふたりの足元を照らす。荒貝が扉の内側へ入ると、店長はそっと鉄の扉を閉めた。残された荒貝は正面を見つめた。扉の内側にあったのは、もうひとつ別の扉だった。音漏れ対策だろうか。二重の扉にしているのだ。荒貝は扉の向こう側へ耳をすませた。何も聞こえてこない。まるで生き物がいないようだ。荒貝はドアのノブを回して扉を開けた。


 部屋はコンクリートの打ちっぱなしで灰色だった。天井にはいくつもの蛍光灯が灯っていて、かなり明るい。部屋の角にはシャワーが設置されていて、その足元には大きな排水口が広がっていた。そこだけ見ればスポーツジムのシャワールームのようだ。ただ設置されているシャワーはそれ一基だけだ。荒貝が立っている入り口の脇には長テーブルが置かれていて、そこにはさまざまな道具が並べられていた。ピコピコハンマー、数種類のバット、革製の黒い鞭、大きな『やっとこ』など。バットは子供が使うようなプラスチック製、木製、金属製と揃えられていた。

 部屋の中央にはあるものがうずくまっていた。荒貝はそれを目にして立ち止まっていた。室内にいるのは『ブタ』だと聞いていたが、荒貝が考えている豚ではなかった。

 うずくまっているのはパンツひとつだけ身につけている太った男だ。後ろ手に手錠をかけられて、口には黒い玉状の『猿ぐつわ』を咥えている。年齢は30代から40代あたりか。耳回りや後頭部の髪は長いが、前頭部が少し薄くなっている。かなり体重がありそうだ。胴回りと、お尻の大きさから見て百キロは超えているように見えた。細い目が神経質そうにまばたきしている。

 「これが『ブタ』……」

 荒貝は思わずつぶやいた。そして、慌てて後ろを振り返る。すでに扉を閉めていたので、見えるのは茶色に塗られた鉄の扉だけだ。荒貝は少し放心した様子で視線を戻した。

 『ブタ』は身体を起こして、正座してこちらを見ていた。表情は戸惑いの色が浮かんでいる。自分がなぜこうしているのかわかっていない様子だ。

 「動物愛護団体から抗議はされないというわけか……」

 荒貝は首を振りながらつぶやいた。半ば呆れた気持ちで『ブタ』に顔を向ける。すると、『ブタ』から声が聞こえた。

 「ぶひ」

 荒貝は笑い出した。男は『ブタ』役を務める係なのだ。『ブタ』に徹しようとしている。

 「なるほどね。これが趣向ってわけか」

 荒貝は長テーブルに視線を向けた。そして、道具の中からピコピコハンマーを選び出す。荒貝はピコピコハンマーを手に『ブタ』に近づいた。『ブタ』は荒貝を無言で見上げていた。先ほどの困惑の表情は消えて、どこか期待するような目に変わっていた。荒貝は『ブタ』が何を期待しているのか想像できなかった。とりあえずピコピコハンマーを『ブタ』の頭に振り下ろす。ピコピコハンマーは「ピコン」と軽い音を立てた。すると、『ブタ』はうなずくように頭を動かすと「ぶひ」と言った。荒貝はもう一度叩いてみた。

 ピコン、「ぶひ」。

 さらに叩いてみる。

 ピコン、「ぶひ」。

 ピコン、「ぶひ」。

 ピコン、「ぶひ」。

 荒貝がハンマーを振るうたびに『ブタ』は「ぶひ」と声をあげる。どうも、それがこの趣向のルールのようだ。荒貝はちょっと面白くなって『ブタ』を叩き続けた。『ブタ』は『ブタ』で、うれしそうな表情で「ぶひ」と言い続ける。しばらくそんなやり取りが続いた。

 しかし、それを繰り返すうちに荒貝は飽きてしまった。始めからわかっていることだが、ピコピコハンマーでいくら叩いても相手は痛がらない。事実、『ブタ』は痛そうな表情も見せず、むしろ嬉しそうな表情で「ぶひ」と言い続けているだけだ。

 「こいつはやめだ」

 荒貝はピコピコハンマーを投げ捨てると立ち上がった。長テーブルに戻ると、今度はプラスチックのバットを手にした。振り返ると『ブタ』が目を丸くしているのがわかった。

 「おい、これもアイテムのひとつだぜ。問題あるか?」

 荒貝が話しかけると、『ブタ』はかぶりを振った。しかし、その目にわずかだが怯えの表情があったことを荒貝は見逃さなかった。

 「ほう」

 荒貝は『ブタ』の前に立った。『ブタ』は力なく荒貝を見上げる。その頭に荒貝はバットを軽く振り下ろした。『ブタ』の頭から、今度は「ぽこん」という音が返ってくる。こちらも軽い音だ。一瞬、『ブタ』は硬直したが、我に返ると「ぶ、ぶひ」と言った。思ったより痛くなかったからだろう。荒貝が手加減したおかげだ。

 「おら、『ぶひ』って鳴けよ」

 荒貝は再びバットを振り下ろした。今度は『ブタ』は笑顔を取り戻して「ぶひ」と鳴いた。うれしそうな声だ。

 ぽこん、「ぶひ」。

 ぽこん、「ぶひ」。

 ぽこん、「ぶひ」。

 ぽこんぽこん、「ぶひぶひ」。

 ぽこんぽこんぽこん、「ぶひぶひぶひ」。

 こうして痛みの無いお仕置きを続けたが、これも間もなくつまらなくなった。『ブタ』はバットでぶたれるたに「ぶひ」と鳴くが、こちらの手加減のおかげで痛そうな表情を見せず、むしろ笑顔を向けている。荒貝は不快になってきた。なぜ、こいつを気遣ったお仕置きをしなければならない? 客は俺で、こいつは俺を満足させなきゃならないやつだろうに。俺がこいつを喜ばせてどうする。うっぷんを晴らしたいのは俺なんだ。そう思うと、荒貝は急に腹が立ってきた。

 「何で笑っている!」

 突然、荒貝はバットで横面を殴りつけた。ビシィっと鋭い音が『ブタ』の頬から鳴った。『ブタ』はびっくりした表情を浮かべた。ぶたれた頬をかばいたいのか、ぶたれた側の肩が上っている。荒貝はバットを振り上げた。

 「おい、『ぶひ』はどうした? 『ぶひ』はー!」

 今度は勢いよく振り下ろす。


 かぽん!


 プラスチックのバットは相変わらず乾いた音を立てたが、先端の比較的固い部分が頭に当たった。

 『ブタ』は「あがっ!」とこれまで聞いたことがない鳴き声をあげて突っ伏した。荒貝はそれを聞くとますます腹が立った。

 「おい、俺が言ったことは聞こえてなかったのか? そこは『ぶひ』だろう!」

 ビシィ! むき出しの背中にバットを打ち下ろす。『ブタ』は突っ伏した姿勢のまま、「ぶ……ぶ、ぶひ……」と小さい声で鳴いた。

 「お前、ルールがよくわかっていないようだな」

 荒貝は長テーブルに戻ると、今度は鞭を手に戻った。長テーブルに向かう荒貝を不安そうに見送っていた『ブタ』は、荒貝が手にしている物を目にすると、上体を起こして顔色を変えた。ぶるぶると頭を左右に振る。さらに口からは「うー、うー」という声も漏れ聞こえた。どうも「よせよせ」と言っているようだ。

 「何だよ、お前は意見を言える立場か!」

 荒貝は鞭を打ち付けた。パチーンと鋭い音が響き渡り、『ブタ』の胸に赤い筋が浮かび上がる。『ブタ』の口から悲鳴があがった。『ブタ』は仰向けにひっくり返ると、その場でのたうち回った。

 「ハズレだ。この場合、何て鳴くんだっけ?」

 荒貝は鞭を構え直すと、再び打ち付けた。荒貝の鞭は『ブタ』のわき腹に赤いミミズ腫れを生じさせた。『ブタ』の口から呻き声が漏れる。

 「今度もハズレだ!」

 荒貝は鞭を振るった。『ブタ』は逃げるように床を転げまわる。『ブタ』は足も黒いゴムチューブで拘束されて立ち上がることができなかったのだ。

 「逃げるなボケェ!」

 荒貝はすばやく『ブタ』のかたわらに駆け寄ると、たぷたぷと脂肪のついた腹を蹴り上げる。『ブタ』は「ぐ、ぐぅうう……」と呻き声をあげる。荒貝は『ブタ』の髪をつかむと頭を持ち上げた。

 「まだわからないのか? この場合、お前は何て鳴くんだ?」

 『ブタ』は苦痛と恐怖で震える目で荒貝を見ながら、「ぶ、ぶひ」と鳴いた。

 「そうだよ!」

 荒貝は吐き捨てるように叫ぶと、『ブタ』を床に叩きつけた。『ブタ』は額を床に打ち付けながらも「ぶひぃ……」と鳴いた。荒貝は鞭も投げ捨てた。足音も荒く長テーブルに向かって行く。『ブタ』は上半身を突っ伏しながらも、頭だけを持ち上げて荒貝の行方を見ようとしていた。

 「お前、ちょっと態度悪いよな。別のお仕置きが必要だよな!」

 荒貝が怒りに燃える目を向けると、『ブタ』は怯えた表情を見せた。

 「さて、次はどれでやろうか……」

 荒貝はテーブルに並べられた道具に目を向ける。

 「こっちでいくか」

 持ち上げたのはプラスチックのメガホンである。野球場で見られるものだ。

 「それともこっちか」

 次に持ち上げたのは木製バットである。『ブタ』は目を見張った。

 「こっちか」メガホンを持ち上げると、『ブタ』は小刻みにうなずく。

 「いや、こっちか」木製バットを見せると、ぶるぶると頭を振る。

 「こっちにしようか?」

 メガホンを持ち上げてみせると、『ブタ』はこわばった表情を浮かべながらこちらを見つめている。固唾を呑んで様子をうかがっているのだ。

 「じゃあ、ご期待にお応えして……」

 荒貝は一呼吸置くと、

 「こっちだぁ」

 と叫んで木製バットを高々と持ち上げた。その瞬間に『ブタ』が浮かべた表情を見て、荒貝の口もとが緩んだ。

 『ブタ』が浮かべていたのは、ひと言で「絶望」と呼べるものだった。荒貝は初めて絶望の表情というものを見たのである。正真正銘、本物の絶望を。

 「さぁて、お仕置き再開といこうか……」

 荒貝はバットで自分の手のひらをポンポン叩きながら『ブタ』に歩み寄る。『ブタ』は荒貝に背を向けると、「ぶひ! ぶひ!」と鳴きながら逃げようとしている。

 「今さら遅いんだよ!」

 荒貝は助走をつけるとバットを振りぬいた。芯が後頭部を捉え、『ブタ』は床を転がった。顔面で床を打ち付けたらしく、鼻血が吹き出していた。

 「何、鼻血出してんだよ!」

 荒貝はバットを打ち下ろした。肩と言わずわき腹と言わず、全身くまなくぶっ叩いた。全身が紫色に変わり、一部の皮膚が破れて血が滲みだしている。いつの間にか『ブタ』は大人しくなっていた。ただ荒い息を吐いているだけである。

 「気を失ったのか?」

 荒貝は『ブタ』の両脚をつかむと、力任せに部屋の隅まで引っ張った。そこには、最初に目にしたシャワーがついている。栓をひねると、シャワー口から冷たい水があふれ出した。荒貝は『ブタ』をシャワーの下まで引きずった。冷たい水に打たれると、『ブタ』は意識を取り戻したように「うう」と呻き声をあげた。

 「『うう』?」

 荒貝が凄むと、『ブタ』は気づいたように「ぶひ」と鳴いた。

 「やっとわかったか」

 荒貝は木製バットを投げ捨てた。木製バットは、根元に亀裂が走って使い物にならなくなっていたのだ。

 荒貝は途中で投げ捨てた鞭を拾うと、『ブタ』のところへ戻った。『ブタ』は表情の無い目で荒貝を見上げている。荒貝は『ブタ』に見えるように鞭を持ち上げてみせた。

 「さて、ルールがわかってきたところで、復習を始めようか……」


 荒貝が特別ルームを出たのは、それから数十分経ってからのことだった。

 店長が室内をのぞいてみると、『ブタ』はうつぶせで静かになっていた。背中がわずかに上下しているので、息はあるようだ。しかし、身体の下からは赤い血だまりが広がっている。

 「いかがです。ご満足いただけましたか?」

 店長は荒貝に尋ねた。室内の様子を見ても顔色ひとつ変えていない。荒貝は息を荒く吐いた。

 「そうだな。今までにないぐらいの気分だ」

 荒貝はそう答えた。実際、いつになく晴れ晴れとした気分である。抵抗できないものを徹底的にぶちのめすことが、ここまで快感をもたらすとは発見だった。今回のことは荒貝の支配欲を充分に満足させたのだ。欲を満たすことは快楽へ通じる。荒貝は突然、武利の顔を思い出した。あいつは毎日、この快楽を得るために部長をやっているのだ。

……そりゃあ、あんな態度は止められなくなるよな……。

 荒貝は武利を理解できた気持ちになった。

 「ようやく荒貝様にご満足いただけて良かったです」

 店長は扉をそっと閉めた。『ブタ』の姿は視界から消えた。

 「店長ありがとう。本当にスカっとしたよ」

 荒貝は礼を言うと階段を昇り始めた。


 あれから数日が過ぎた。

 ある日、仕事中である荒貝の携帯に、『うっぷん晴らしルーム』から通知が届いた。今回は文章だけでなく、何かのファイルが添付されている。半分、「ウイルス?」と思いながらも、添付されたファイルを確かめた。

 それはある動画のファイルだった。動画を見た荒貝の表情は一変した。慌てて画面を閉じると辺りを見渡す。それから荒貝は自分のデスクを慌ただしく片付け始めた。

 「係長、どうされたんです?」

 残った最後の部下が不思議そうな表情で尋ねる。荒貝の顔はこれまで見たことがないほど蒼ざめていたのだ。

 「ちょ、ちょっと具合が悪くなった。びょ、病院で診てもらう。悪いが、早退する」

 「ほんと、大丈夫ですか? ひとりで大丈夫です?」

 荒貝の答えに、部下は心配そうな顔つきになった。課長は休職中で、同僚は退職した。係長まで倒れてしまったら、この課は完全にお終いだからだ。

 「た、たぶん大したことない。あ、あとは頼んだ……」

 荒貝は鞄を抱えると逃げるように会社を飛び出した。ときおり足をもつらせながらも『うっぷん晴らしルーム』へと急いだ。

 「これは荒貝様」

 『うっぷん晴らしルーム』の店長は穏やかな表情で荒貝を迎えた。荒貝は携帯を取り出して店長に噛みついた。

 「い、いったい、何のつもりだ? こ、この動画は、『あのとき』の俺じゃないか!」

 荒貝に送られていたのは、荒貝が『ブタ』をお仕置きしていた一部始終の動画だった。あの部屋のどこかにカメラやマイクが仕込まれていたらしく、あらゆる角度から荒貝の行動が記録されていた。顔がしっかりと撮られているだけでなく、音声までクリアだ。これでは動画を見た誰もが荒貝だとわかるだろう。

 「あそこではお客様のご満足度が量れるよう、詳しく記録できるようにしているのです。また、さまざまなトラブルも起きやすいので、その解決の一助になるよう記録を使用することもあるのです」

 「こ、今回は、トラブルのためとでも言うつもりか? こ、こんな動画で俺を脅しやがって!」

 荒貝は声を荒げたが、店長は冷静な様子を崩さない。

 「荒貝様がお仕置きした『ブタ』ですが、お仕置きが過ぎたようでして、数か月は使い物にならないようなのです。当方としましては、次のお客様のために特別メニューをご提供したいところなのですが、現在では不可能な状況です。そして、この事態をお招きしたのは荒貝様でございます」

 「そ、それで、この動画を送りつけて、賠償金を取るつもりか? こ、こんな真似をして……」

 「考えている動画の送り先は警察でも裁判所でもございません。荒貝様がお勤めの会社宛てと考えております」

 荒貝は真っ青になった。

 「だ、ダメだ! そ、それだけはやめてくれ! わかった。賠償金を払う。だから、そんなことはやめてくれ!」

 「勘違いなさらないでください」

 店長は片手を上げて否定した。店長の声はずっと落ち着いたままである。

 「わたくしどもは荒貝様からお金を取ろうなんて、一切考えておりません。ただ、当方の損害に対して、少しでもご協力をお願いできないか考えているだけでございます」

 「きょ、協力だって?」

 荒貝は全身が震えるのを感じた。とてつもなく嫌な予感で頭がくらくらしてくる。荒貝は何とか身体を持たせた。

 「協力って、何だ? 俺に、何をさせたいんだ……?」

 「なに、大したお願いではございません」

 荒貝の声が震えている一方で、店長は最後まで静かな口調だった。口もとにわずかだが笑みを浮かべている。


 「ただ、痛いのを我慢していただくだけでございます」

作者注:

この物語で登場する業態のサービスは実在するし、アイデアの元もそれである。しかし、特定の業態に対し、揶揄したり、批判したりする意図は一切無い。ここで風刺されているのは、自分自身も含めた「人間」そのものである。誤解されないよう、ここで明言させていただく。


この作品のレシピ:

スタンリイ・エリンの『特別料理』は、『奇妙な味』の短編の中ではオチの見える作品である。しかし、誰もが「名作」と讃えるのは最後の一行にスパイスの効いた味わいがあるからだ。こちらも最後の一行をいかにスパイスの効いたものとするか。この作品はそこに注力した。「いじめ」を社会学的に考察した内容を盛り込んだりと、ただ暴力的な内容にしないよう心掛けたが、最後の一行が効いているのか。こちらもオチが見え見えであるだけに、一番気になっているのはそこである。

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