岬の赤レンガ屋敷(2)
銀縁眼鏡をかけた小柄な美少女の女中が、木の椅子を持って居間に戻って来た。
* * *
この女中は、耳原富喜子という名で、五年前に義務教育を終えて就職先を探していた所を、身の回りを世話してくれる女中を探していた美園三音子の目に留まり採用された少女だった。
以来五年間、この〈岬の赤レンガ屋敷〉に住み込んで、左腕の利かない三音子に代わって赤レンガ屋敷の家事一切を片付けていた。
年齢は十七歳。ちょうど三音子とは十二歳違う計算だ。
体は小柄で華奢。繊細な造作りの顔に銀縁の眼鏡を載せている。
高等教育は受けていないが読み書き算数は充分以上。持って生まれた性質は利発で活発。大きな屋敷の家事も難なくこなした。
読書という共通の趣味もあって、三音子は、この年の離れた女中を『富喜坊』『富喜坊』と言って大事にした。
三音子には拳銃射撃という女にしては少しばかり変わった趣味があるのだが、試しに富喜子にも撃たせてみたら、これが中々筋が良く、そこで本格的に銃の撃ち方を学ばせた。
ある日、富喜子は、三音子から25口径自動拳銃をもらった。以来、その自動拳銃を肌身離さず持ち歩くようになった。
彼女が来ている洋風女中服の前掛け裏地にはポケットピストルを忍ばせる特別な仕掛けが縫い付けてあり、そこに25口径拳銃を薬室を空にして収めた。
彼女には、幼い頃に両親を犯罪者に惨殺され、学校を卒業するまで親戚じゅうをたらい回しにされた悲しい過去が有るらしかったが、それについて多くを語ろうとはしなかった。三音子も強いて聞き出すことは無かった。
* * *
持って来た木の椅子を居間の中ほどに置くと、富喜坊は「台を持って来ます」と言って再び居間から出て行った。
三音子はその椅子に座って待った。
座面の硬い、どこにでもある安物の木製椅子だった。この硬い座面が回復訓練には却って都合が良かった。
次に戻って来たとき、富喜坊は木製の細長い台を持っていた。
椅子に座った三音子の左横に台を置いて、女中は「よろしいですか?」と尋ねた。
「ああ。やっとくれ」と三音子。
富喜坊は、三音子の着物の襟を崩し広げ、袖口から手を入れ、自分自身では動かせない彼女の左腕を折り畳んで着物の肩から出して片肌を脱がせた。
巨きく熟した白くて柔らかい果実のような奥様の左乳房が、着物からポロンと溢れ出た。
乳房と一緒に露出した左腕を肩の高さの台に載せ、富喜子は主婦の肘関節を曲げたり伸ばしたりしてやった。
自分では動かせない左肩から先の各関節を、誰かに頼んで、曲げ、伸ばし、曲げ、伸ばし、と繰り返しやってもらうのが、三音子の日課だった。
十八歳で暴漢に肩を刺されて以後、もう十一年間も、ほぼ毎日一時間弱、この回復訓練に励んでいるが、未だに小指の先さえ動かせない。
(こうして他人に動かしてもらえば、回復は見込めなくても衰えを最小に食い止められるって医者は言うけどさ……)
台の上で富喜子に関節を曲げ伸ばしして貰いながら、三音子は小さく溜め息を吐いた。
(後ろ向きの努力ってのは、やるせないもんだ)
ふと部屋の隅に目をやり、ラヂオの横に置かれた別の受信装置に目をやった。
〈特殊電波通信器〉だ。
電話線の引かれていないこの岬の先端で、外界と通信する唯一の手段だった。
ただし通信先は限られる。
第一に、警察。
第二に、恋人で私立探偵の泥渕錠太郎が市内に構えた事務所。
錠太郎が所有する黒の自動車、そして三音子自身が所有する青色のセダンと幌付きトラックにも、その小型版が設置されていた。
「まったく、正月だってのに」
沈黙したままの〈特殊電波通信器〉を恨めしく睨みならが、三音子が言った。
「市中を駆けずり回って、血なま臭い犯罪者と追っかけっ子なんて……錠さんも酔狂なことだ……ねぇ、富喜坊」
「はぁ」と富喜坊が曖昧な返事を返す。
「正月くらい、捕り物なんか警察に任せて、こっちでユックリ休みゃあ良いのに」
「きっと先生なりに、ご自分の使命を感じているんだと思います。この頃はハチドリ市にも凶悪犯罪が増えていると聞きますから」
「何が使命だよ……それより私の体を湿らせて御くれよ」
そこで三音子は、左横に立って彼女の左腕を曲げ伸ばしする若い女中を見上げた。
レビュウの女王と言われた十代の頃の自分に比べれば、この若い女中の顔は少しばかり地味に見える。
とはいえ、まずは美少女と呼んで差し支えない器量良しだ。
「やけに錠さんの肩を持つじゃないのさ……あんた、一体どう思うんだね?」
「どう、とは、どういう意味でしょう?」
「錠さんの事さ。私の良い人をどう思うかって聞いてんのさ」
「立派な方だと思っています。素晴らしい推理力で警察の犯罪捜査にご協力なさっている立派な方です」
「そんな話じゃないだろ、女の目で見て、一人の男としてどう思うかって事だよ」
「そう仰っても、立派な方としか言いようがありません……それに、私がどう思おうと、先生が私みたいな小娘を相手にするとは思えません」
「私自身も十年前、いや十五年前は立派な小娘だったから言わせてもらうけどね……その乳くさい小娘に入れ上げる男が、この世にゃ巨万といるんだよ……ねぇ、怒らないからさ、はぐらかさないで正直に言いなよ。富喜坊は錠さんの事どう思ってんだい?」
「あの、私……正直に白状しますと……」
「白状すると……?」
「いくら立派な紳士でも……あんまり年齢の離れた方は、ちょっと……旦那さまにするなら、同い年か、せめて二つ三つ年上くらいまでが理想です」
それを聞いて、安心したように三音子は椅子の背に体を預けた。
「それも、そうだね……錠さんは今年で三十四……ちょうど富喜坊の二倍だ。下手すりゃ親子さね。まあ、例え富喜が妙な気を起こしても、さんざん錠さんに遊ばれてポイッと捨てられるのがオチだろうよ……あ、それから、これだけは言っとくよ。錠さんも二十歳前の小娘は好みじゃないんだ。あの人が好きなのは、私みたいに脂の載った、味の濃い女なんだからね」
主婦の台詞に、女中は「はぁ」と曖昧に返事を返した。