岬の赤レンガ屋敷(1)
時は流れ、十一年後。
西暦二○三○年の一月。
空中浮遊都市国家ハチドリ市。
市の中心部から自動車に乗ってアスファルトの舗装道路を北へ北へと一時間半、そこから脇道に外れて土を踏み固めただけの田舎道をさらに三十分進んだ岬の先端に、その館は建っていた。
最も近い(それでも自動車で四十分かかる)馬田久村の住民は、その館のことを『岬の赤レンガ屋敷』と呼んでいた。
その名のとおり赤レンガ壁に黒い日本瓦を載せた二階建て和洋折衷館だった。
敷地内には、母屋の他に、車庫、機械小屋、納屋があった。みな母屋と同じレンガ壁の堅牢な造りだ。
しんしんと粉雪が降るその夜、岬の赤レンガ屋敷内の洋風居間では、二人の女が赤々と燃える暖炉の前に椅子を並べて、ラヂオの声に耳を傾けていた。
* * *
「フハハハハハハ!」
「この不敵な笑い声! 何やつ!」
「我こそは、正義の剣士、牡丹鬼燈頭巾!」
「何ッ!」
「神妙にしろ! 今まで重ねた極悪非道の数々、たとえ天が許そうとも、この牡丹鬼燈頭巾が許さん!」
「おのれ、こしゃくな! 野郎ども! 殺っちめぇ!」
それぞれ短刀を抜き、牡丹鬼燈頭巾に襲いかかる子分ども!
キンッ! キンッ! ズサッ! ズサッ!
しかし、剣の腕で牡丹鬼燈頭巾に勝る者無し!
下っ端悪党は次々に血を流して倒れていった。
「おいっ! 牡丹鬼燈頭巾! これを見ろ!」
悪党の親分、いつの間にか人質の姫を後ろから抱きしめ、その喉元に刃を当てていた。
「ふっふっふ……やいっ、牡丹鬼燈頭巾とやら! そこから一歩でも動いてみろ! このお姫さんの首が飛ぶぜ! せっかく救いに来た姫を殺されたんじゃあ、元も子もねぇって物だ! さあ、大人しく刀を捨てな!」
「ぬう、卑怯者め!」
危うし牡丹鬼燈頭巾! 姫の命や、いかに!
次回、『無事姫を救い出し砦から逃げるの巻』!
来週のこの時間も、ラヂオ・ハチドリ第二、ラヂオ・ハチドリ第二をよろしくお願いします。
* * *
そこまで聴いたところで、和服姿の年上の女が『もう良いわ』という風に右の手首をサラサラと振った。
それを合図に、小柄で華奢な若い女(まだ少女と言って良い歳頃だ)が立ち上がり、壁際のラヂオまで歩いて行って、スイッチを切った。
若い女は銀縁の眼鏡を顔に掛け、長いスカァトの洋装に白い前掛け、いわゆる洋式女中の格好だった。
「ふう……」
和服の女が、右手を顳顬に当てて大きく一つ溜め息を吐いた。
「赤葉台先生ったら……今度、ラヂオの脚本をやる事になったんだ、ぜひ聴いてくれ……って喜んでたから、さて、どんな物かと試してみたら……」
和服に包んだ女の肩が震えだした。
笑っているのだ。
その様子を見ていた銀縁眼鏡の若い女中も、思わず口に手を当てて肩を震わせた。
「ああ、奥様、どうか笑わないで下さい……連られて私まで……我慢していたのに……ホホホ」
「わたしゃ、最初から嫌な予感がしていたんだよ……ねえ、富喜坊」と和服の奥様。「だって題名からして『牡丹鬼燈頭巾』だろ? 聴いてみりゃあ案の定、『ホオズキズキズキ』の大安売りじゃないか。ズキズキ、ズキズキ、ズキズキ、ズキズキ……いったい何回言ったら気がすむってのさ」
奥様は、笑いながら「やれやれ」といった風に頭を振り、続けて言った。
「それにまあ、あの終わり方は何だい? 『姫の命や、いかに!』の直ぐあとに『無事姫を救い出し砦から逃げるの巻』って予告でバラしちまうなんて……何とも斬新な演出だね」
「ホホホホ……奥様、どうかそれ以上は堪忍して下さいまし……腹が捩れて……ホホホホホ……息が、息ができない」そう言って、眼鏡女中の少女は、腹を押さえて涙を流しながら笑い続けた。
人里離れた岬の館、その洋風の居間で狂ったように笑う二人の女たち。
およそ五分後、ようやく笑いの発作が収まった和服姿の奥様が、眼鏡の少女に言った。
「分かっているとは思うけど、念のために言っておくよ、富喜坊」
「はい、奥様」
「赤葉台旭先生、あれで中々繊細な御方だからね」
「はい」
「私らが先生の脚本を笑い転げながら聴いてたって分かったら、相当なショックを受けちまうと思うんだ……だから今度、先生に会ったら、ちゃんと『ワクワクしながら聴いていました。素晴らしい台本だと思いました』って言うんだよ……あの人、万年貧乏小説家先生だけど、錠さんにとっては大学時代からの一番大切な親友なんだから」
「はい、わかりました、奥様」
「恋人の私としちゃあ、錠さんと小説家先生、男同士で仲が良すぎるってのも、ちょいとハラハラ物だけど」
女主人の最後の台詞に何と返していいか分からず、若い女中は黙ってしまった。
「さて……」言いながら、女主人が立ち上がる。
この奥様、女にしては少し大柄だ。
乳も尻も巨きく張って、柔らかな脂がコッテリと載った、なんとも肉付きの良い年増盛り女盛り。
地味な和服をキリッと着こなしても、クラクラするほど濃厚に立ち昇る女の色気は隠せなかった。
「今日は、ここで回復訓練をしようかしら。富喜坊、訓練用の椅子と台を持ってきておくれ」
富喜坊と呼ばれた小柄で可愛らしい眼鏡少女の女中が「はい、奥様」と言って居間を出たあと、年増女は、力なくブラブラ揺れる自分の左腕に右手を当てた。
「もう慣れちまったとは言え、こうして毎晩、毎晩、小一時間も回復訓練に費やすなんて、まったく面倒な人生だ」
そこで、奥様の顔がギュッと憎悪に歪む。
「十一年前、気の違った書生野郎に目ぇ付けられたばっかりに、この先ずっと片輪走行なんて、こりゃ一体何の因果だい」
……そう……
この、豊満な体を和服に包んだ美しき年増女こそ、あの可憐な美少女ダンサー美園三音子の十一年後、二十九歳の姿なのだ。
「私の体をこんな片輪自動車にした犯人は、雨あられの銃弾を浴び、地獄へ落ちた……でも」
神経を切断され自分の意思では動かせなくなった左腕を、三音子は右の手で揉んだ。
あの十一年前の夜、ステージの上で死ぬ直前、犯人・柳豆文勝が呟いた『蛇目髑髏党、万歳……蝮ドクロ様、万歳……』という言葉が、今も耳にこびり付いて離れない。
そして死んだ直後に額に浮かび上がった、あの不思議な入れ墨……髑髏の額から一匹、二つの眼窩からそれぞれ二匹ずつ、合計五匹の蛇が這い出る様を描いた不気味な図柄……あれは一体何だ?
(あの事件には、きっと裏があるんだわ)
一人きり、洋風居間の真ん中に立って、三音子はジッと考えた。
(警察にも探り出せなかった、恐ろしい秘密が……)