空中都市トウキョウの少女歌劇団(4)
収容数千七百席を満杯に埋めた観客たちは、事件発生後、警察によってオペラハウス内に足止めされ、一人一人簡単な聴取を受けた。
深夜〇時をずいぶん過ぎた頃、やっと最後のひと集団が警察の聴取を終えてオペラハウスを出た。
支配人は、あちこちのタクシー会社に電話を掛けて、帰る観客に不便が無いよう、オペラハウスの前に出来るだけ多くのタクシーを呼んで待たせた。
深夜を過ぎて解放された観客の中に、一人の上品な紳士が居た。
身長は175センチくらい、年齢は四十前後に見える。
頭にはソフト帽。目にはロイド眼鏡。
鼻の下にチョビ髯。
顔に際立った特徴は無い。別れて五分もすれば忘れてしまうような平凡な顔だ。
均整のとれた引き締まった体を仕立ての良い背広で包んで、その上からマントを羽織っていた。
家路を急ぐ観客たちの並ぶタクシー乗り場とは反対の方向へ、男はトボトボ歩いていく。
粉雪が落ちる歩道を歩きながら、何やらブツブツと呟いていた。
「ふむん……特殊人間製造計画の第一歩としては、上出来の実験結果と見て良かろう……これで、暗い情念を抱いている人間に処置を施し、その情念をエナルジーに変換して素晴らしき破壊能力を付加するという当初の目標は、ほぼ達せられた……この私への……〈蛇目髑髏党〉党首、〈蝮ドクロ〉さまへの忠誠心を間近で確認できなかったのは残念だが……まあ、いずれその機会もあろう」
ロイド眼鏡の奥で、切れ長の目が三日月型に変形した……笑いを堪え切れないのだ。
「ふっふっふ……奴に犯行予告文を書かせて正解だった。おかげで武器を持った多数の警察官に対して『特殊人間』がどれほどの攻撃力と防御力を持つのか実地に試すことができた」
歩道を歩くチョビ髯の紳士の横に、スゥっと寄り添うように停車した黒塗りのセダンが一台。
紳士は、扉を開けスルリと後部座席に滑り込んだ。
「発車しろ」という紳士に、運転手が「どちらまで」と聞いた。
「真っ直ぐ移動アジトで良い」
「へえ」
紳士を乗せた黒塗りのセダンは、しんしんと降る雪の中、何処とも知れぬ街の暗闇へ消えた。
* * *
被害者の美園三音子は直ぐに救急車で近くの大病院まで搬送され、そこで緊急手術と輸血を受けた。
執刀した医者の腕が良かったのか、それとも持って生まれた三音子の生命力か、幸い一命は取り留めた。
しかし刺された左肩の後ろ、肩甲骨の上には酷い傷跡が残った。
もはや肩を露出するドレスや踊り子の衣装を着ることは叶わなかった。
彼女にとって何より不幸だったのは、後ろから左肩を抉った暴漢の刃が、肩から先を動かす神経をスッパリと切断した事だった。
皮膚や筋肉はいずれ癒着しようとも、一度切断された神経を再び接合する事は、どんな名医の技術をもってしても不可能だ。
十八歳の三音子は、左腕をだらんと下げたまま残りの人生を歩くより他なかった。もはや、踊り子としての未来は絶望的と言うしかない。
百年に一人、千年に一人の天才とまで呼ばれた踊り子の人生を、一瞬にして破壊した犯人とは一体どんな男なのか?
後の調査で分かった事だが、男の名は『柳豆文勝』という某大学の文学部に籍を置く学生だった。
しかし、ここ半年は、ろくに授業にも出ずに下宿に篭って殆ど誰とも会わず、鬱々として過ごしていたらしい。
月に何回か夕方フラリと出かけて、酒臭い息を吐きながら帰ってくることもあった……と、下宿先の女主人が証言した。
結局、神経衰弱を患った学生が、ある種の妄想に取り憑かれ、孤独の中でそれを肥大化させた果ての犯行だろうという結論に達した。
あくまで精神に変調を来した学生の単独犯行であり、背後に犯罪組織や第三者の存在は確認できなかった、というのが警察の公式発表だった。
しかし、疑問点が残った。
第一に、あの奇妙でグロテスクな被り物を、犯人はどうやってオペラハウスの中に持ち込んだのか?
入館時、全ての観客が厳重な身体検査を受けた。
身体検査を担当した警察官は、柳豆文勝の顔を良く憶えていた。こんな雪の降る夜に一重の着流しで来るなど正気の沙汰ではないと驚いたからだ。
しかし、その時点で、彼の所持品に怪しい物は見当たらなかった。そもそも所持品を殆ど持っていなかった。一重の着流しでは、何かを隠し持つなど、どだい無理な話だった。
あれほどの大きさの被り物を、警察に気づかれずに館内へ運び込むのは不可能だ。しかし、現に犯人は頭に奇怪な被り物をして現れた……一体どうやって?
そして、五秒の停電を経て、再び電力が戻った時には、そのバケモノの被り物は、跡形も無く消滅していた……一体どうやって?
そもそも、あれは本当に被り物だったのか? あのウネウネと生々しく嫌らしく動いていた触手は、本当に作り物なのか?
同じ事は、凶器にも言えた。
一部の観客は、犯人が左手に持った『何か』で美園三音子の左肩を突き刺したところを目撃している。鋭く長い爪のような刃物だったらしいが、しかしハッキリと断言できる者は居なかった。
それが何であったにしろ、その凶器も、五秒間の停電後には綺麗サッパリ消滅していた。
二番目の疑問点は、犯人の額に現れた『五匹の蛇を生やした髑髏』の印だ。
同じく身体検査を担当した警察官は、入館時には、そんな入れ墨など絶対に無かったと主張した。
ならば、この入れ墨は、入館してから犯人が死ぬまでの何処かの時点で『浮かび上がった』と考えるしかない。
だが、浮かんだり消えたりする入れ墨など、この世に有る筈がない。
最後の疑問点は、巨体の警察官を客席からステージまで投げ飛ばしたあの怪力だ。
ガリガリに痩せた小男の何処にそんな力があったのか?
なぜ二階席から飛び降りても平気だったのか?
オリムピック選手以上の走力を発揮したのは、どういう原理か?
解けない謎の多い事件だった。
下宿先の女主人は、柳豆文勝は何らかの新興宗教に入門した可能性があると話したが、しかしそれも『何となく、そんな気がする』という女主人の心象以上のものではなかった。
いずれにせよ、ステージの上で美園三音子の背中を刺し大怪我を負わせた犯人は柳豆文勝である事に間違いは無く、その柳豆文勝は、警察官たちに何十発もの銃弾を浴びせられ、全身穴だらけになって死んだ。
一、犯人は柳豆文勝だ。
二、犯人は既に死んでいる。
これが事件における最重要点……警察当局はそう考えた。
この二点が確定している以上、それ以外の要素は所詮枝葉に過ぎない。多少の矛盾や謎があっても本質ではない……そう結論づけた。
世間も最初こそ謎めいた事件に興味を引かれ、大衆雑誌は挙って特集を組んだ。しかしそれも美園三音子がこの地に残っている間の事だった。
緊急手術を受けた病院にそのまま長期入院していた美園三音子の体力が如何にかこうにか退院できる程度に回復し、彼女が天空トウキョウ市を去って空中都市国家ハチドリ市に帰ると同時に、人々の興味も新聞雑誌の熱量も急速に冷めていった。