帰還
「この大百足こそが、我が伴侶なのだ」前照灯の光の中、巨大な虫を体に巻きつけた男が言った。
「ご冗談っ!」三音子は恐ろしさと苛立ち半々の声で、男に返した。「旦那っ! この後に及んで、悪巫山戯は止しとくれ! 私は昔っから、湿っぽい男と百足ゲジゲジの類が大嫌いなんだ」
そして、これ見よがしに大百足に向けて銃口を振った。
「どうしても、その気味悪いのを私の自動車に乗っけて帰れと言うのなら、慈善活動もここまでだ。私らだけでサッサと帰らせてもらう」
「今さら何を言われる……どうか、我が夫婦を哀れと思って、頼む」
「嫌だね」
「頼む」
「くどい。嫌だって言ってるだろ」
「どうか」
これ以上の押し問答は無用と、三音子が運転手に目配せをした。
鏡壱が主婦の目配せに気づいて、扉を開けて運転席に座り、一発ブルルゥンッとエンジンを始動させた。
三音子自身も後部ドアから自動車に乗ろうとした直前……
前照灯に照らされ、今まで男の体に必死になって巻き付いていた大百足の体から急に力が抜け、赤黒い甲羅を纏った大蛇のような長い体が、カシミヤのコートから剥がれて、ずるりっ、と男の足元に落ちた。
大百足は、怪物紳士の足元で一瞬だけ鎌首をもたげ、光を反射して虹色に輝く大きな二つの複眼で夫の顔を見上げ、直にクタッと雪の上に頭を倒した。
「おおっ、雪夜、雪夜!」
紳士、カシミヤのボタンを外して前を広げながら雪の上に跪き、輪っか状に横たわる長い体を、優しく抱き上げ自分の胸に押し当てた。
暗い冬の夜、前照灯の光の中に浮かぶ彼らの姿は、悍ましく奇怪であると同時に、この上もなく美しく、見つめる三音子の胸を打った。
二目と見られぬ化物紳士……しかしマフラーで顔半分を隠せば、眉目秀麗、筋骨隆々の美丈夫……そんな男が雪の上に蹲ってさめざめと嘆いていれば、情けの一つもかけてやりたくなるのは、どうしようもない女の性。
三音子は、構えた銃口の先で化物を抱く化物を見つめ、小さく「チクショウ」と呟いたあと、「旦那っ!」と声を張って言った。
「まったく今夜の私は、どうかしてるよ! ええいっ、毒を飲んだら皿までだ。サッサとこっちへ来て自動車に乗りな」
化物紳士、その三音子の声にハッとして顔を上げ、立ち上がりながら「済まない……恩に着る……恩に着ます」と言って、出来るだけ速く、しかし、そっと胸に抱いた大百足に衝撃が伝わらないように、彼女の自動車へ向かって歩いて来た。
間近で見る赤黒い甲羅の長虫みたいな生き物、見れば見るほど気色悪い。
生理反応的に全身から力が抜けて、膝から砕けて落ちそうになって思わずセダンの車体に寄りかかり、それで体をどうにか支える。
大虫を抱いた男が向こう側の後部座席の扉を開けようとするのを見て、ハッと気づいた三音子が「駄目だっ、後部座席は駄目だ。助手席へ乗ってくれ!」と叫んだ。
化物を抱いた化物男、言われた通り素直に助手席の扉を開けて車内に収まった。
三音子も扉を開け、助手席の化物たちとは対角の位置、すなわち運転手の真後ろの席に座った。彼らと出来るだけ距離を取り、しかも後ろから銃を突きつけるためには、この席順以外に選択は無い。
運転席に座る鏡壱の顔は分からなかったけれど、微妙に助手席から距離を取り、窓側へ滑らした背中を見れば、その心の内は大体察しがついた。
「鏡壱、出して。屋敷に戻ろう」と三音子が言って、運転手がギヤを繋いでソロソロ動き出す。
いったんカーブを通り過ぎ、少し道幅の膨らんだところまで行って、そこで何度かハンドルを切り返し、岬の屋敷に帰る方向へ鼻先を向け、またソロリソロリと自動車を走らせた。
走る車内、後部座席の三音子は、斜め前に座る男に用心深く銃口を向け、様子を伺った。
化物紳士は、座った腿の上に例の大百足を載せ、腹のあたりで抱くようにして、カシミヤのコートで覆っていた。
背もたれと、彼自身の体と、カシミヤに隠れて、後ろからは百足の姿が見えなかった。
大っ嫌いな虫の化物を見ないで済む……三音子はホッ息を吐いた。そして、ある事に気づく。
車内が少しも暖かくない。
「ちょっと、鏡壱、寒いじゃないか……もっと暖房を強くして」
トトン、トン、トン……
運転手が、ダッシュボードの板をリズム良く指で叩いた。
『暖房、一番、強イ。コレ以上ハ、無理』
つまり、すでにダイアルは最強にしてあるという事か。
ならば、なぜ効かないのか? なぜこんなに寒いのか?
「ほう……モールス信号か?」
助手席の紳士が言った。
「よく分かったね。そうさ、その通り。運転手の鏡壱は理由あって、声が出せない……だから、こうしてモールスで自分の意思を伝えるんだ……おっと、あらかじめ言っておくけど、解読しようったって不可能だよ。私らの仲間うちだけで通じる暗号的モールスだからね」
「なるほど、それは素晴らしい」
しばらくの沈黙のあと、化物紳士が「車内が寒いのは、運転手のせいでも、自動車の暖房が壊れているからでもないよ」と言った。
「なんだって? どういう事さ?」と三音子。
「雪夜の……妻の体が冷えているからだ」
「その気味の悪い奥方とやらが、凍えて死にそうだってのは最初に聞いたよ……でも……」
「いや、冷えているというのは、物の例えじゃない……製氷機や冷房装置のように、文字どおり、雪夜は周囲から温度を奪っているのだ」
生き物の体温が冷えていると言った場合、普通それは『通常体温に比べて低い』という意味だ。体温がどんなに下がったとしても、周囲の気温以下になる事は無い。体が冷え過ぎて周囲の温度を下げてしまうなど有り得ない。
しかし現に、暖房を目一杯効かしても車内は一向に暖くならない……男の言う通り、あの大百足が冷気を出して熱を奪っているのか。
(姿形だけじゃない。こいつらには不思議な能力が備わっているって事か……気を許すんじゃないよ、三音子……)と、心の中で自分自身に言い聞かせる。
岬の先端へ向かう雪道を走ること十五分。
前照灯の明かりの先に、〈赤レンガ屋敷〉の門が現れた。




