救出
〈岬のレンガ屋敷〉主婦の美園三音子、運転手の黒目鏡壱、そして謎多き訪問者の三人を乗せた自動車が、そろりそろりと雪を踏んで動き出した。
閉ざされた門の内側で一旦止まる。
運転手が自動車の鍵をシリンダーから抜いてポケットに入れ、車外へ出て鉄柵の門扉を開けた。
エンジンが止まり暖房の切れた車内の温度が、徐々に下がっていく。
「門を開けるために車外へ出るだけなのに、わざわざエンジンを止めて鍵を抜くのか?」化物紳士が言った。
「外へ出るときは必ずエンジン・キーを抜くよう運転手には言ってある。私以外の客が乗っているときは特に用心しろ、とも」
「凍えているだろう妻のためにも、少しでも車内は暖かい方が良いのだが……」
「悪いが、あんたを完全に信じ切っちゃいないんだ」
「そうか……」それ以上抗議しても無駄と思ったのか、化物は背もたれに身を預けて黙った。
鏡壱は直に戻ってきた。
自動車がまた動き出し、ゆっくりと門柱の間を抜ける。
「門が閉まっていたけど、どうやって入ったんだい?」三音子が、隣に座っている男に尋ねた。
「ひと飛びに越えさせてもらった。何しろ、緊急だったからな」
「へええ、ずいぶん運動が出来るんだね」
「まあ、瞬発力には自信があるさ。見ての通りごつい体をしているからな……しかし持久的な運動は得意じゃない……事故現場から貴方のお屋敷まで半時間ほどマラソンをしただけで、息が上がってしまった」
「つまり、事故現場はここから走って半時間の場所ってわけか」
「そういう事になる」
セダンは雪道をそろりそろりと走った。平均すると時速二十五キロから三十キロの間といったところか。
「ずいぶん遅く走るのだな」と化物紳士。声に少しだけ苛立ちの色が混じっていた。
「雪道は危ないんだ。慎重第一で行くのが鉄則さ」三音子が返す。「一刻も早く奥方を助けたい気持ちは分かるけどね、急いた挙句に滑って道から落ちたら木乃伊採りが木乃伊だ……それじゃ元も子もないだろ。溺れた人間を助けるつもりが自分も溺れちまうなんて話、私ゃ御免蒙るね」
およそ十五分後、化物紳士が身を乗り出し、フロント・ガラスの向こうを指差して言った。
「あそこだっ、あのカーブの所……」
見ると確かに、曲がり道の外側がちょっとした窪地になっていて、そこに一台の黒いセダンが斜めに嵌っていた。
傾斜の緩い、小さな浅い窪みだった。
季節が冬でなければ、並みの自動車なら楽に抜け出せる筈だ。
しかし今は路面が凍っている。車輪が滑って空転しているとすれば、自力脱出は困難だろう。
鏡壱は、手前で充分に速度を落としてカーブに入った。
ちょっと油断しただけで危うく後輪が横滑りして道を外れそうになる。
「慎重に、慎重にするんだよ、鏡壱」三音子が少し不安そうな声で言った。主婦の言葉に、運転手が前を向いたまま頷く。
カーブ全体の三分の一ほど行った場所で、鏡壱は自動車のエンジンを切った。
目当ての黒い自動車を、自車の前照灯が照らす空間の丁度真ん中に収める位置だった。
停車するかしないうちに、化物紳士が後部ドアを開けて飛び出し、窪地に嵌った黒い自動車の方へ駆けていく。
「アッ、待ちな! 勝手は許さない!」
叫んで、三音子もドアを開けて外へ出る。しかし、自分の自動車の傍に立ち、用心深く男の背中へ銃口を向けるだけで、あえて化物紳士を追いかけようとはしなかった。
鏡壱も、エンジンを切って鍵をパジャマのポケットに入れ、運転席から車外へ出た。道の外れまで歩いて行って跪き、カーブから外れた自動車の轍を前照灯の光を使って調べる。
再び立ち上がって振り返った鏡壱に、三音子は「どうだい? 何とか成りそうかい?」と尋ねた。
鏡壱は首を横に振った。
「この自動車とロープで縛って牽引しても無理かい?」
三音子の問いに、再び首を横に振る。
鏡壱は、三音子のセダンの所まで戻って来て、自動車の車体を拳で軽く叩いた。
コン、ココン、コココン、コン……
それは一種のモールス信号だった。しかし只のモールスではない。三音子の夫で名探偵の泥渕錠太郎が考案した、暗号的モールス信号だ。
『今夜ハ、無理。共倒レノ、危険アリ。雪ガ、溶ケテカラ、出直ス必要』
三音子も、この特殊モールス信号を理解できる。
「そうか……駄目かい……ラヂオの予報じゃ、明日以降は気温が上がるって言ってたから、明日の昼か、遅くとも明後日までには凍った路面も溶けるだろうけど」
館の主婦は、もう一度、道を外れて斜めに止まっている黒い自動車を見た。
化物紳士が、その巨体の上半身を車内に潜り込ませていた。
弱った奥方とやらを、せっせと介抱しているのか……
やがて、化物紳士の上半身が車の外に出た。
カシミヤのコートを着た胴体に、何かが巻き付いていた。
それを見た鏡壱の体が、驚きと恐怖と緊張で、ビクッと震えた。
三音子も「ヒィッ」と息を飲んだ。
化物紳士の巨体に巻きついたもの……それは、巨大な一匹の〈百足〉だった。
大蛇めいたその胴の太さ、成人男子の大腿くらい。
長さは、たっぷり一メートル半はあるだろう。
前照灯の光を反射して、赤黒い節だらけの胴体がテラテラと光っている。
胴体の左右に並んでワシャワシャと蠢く足の数……百本どころか二百はありそうだった。
男の胸から腹の周囲へ三重四重に巻きついて、二股に別れた尻尾をピクピク動かす大百足の様、見る者の本能的嫌悪を呼び起こし、三音子も鏡壱もゾワゾワと背筋の悪寒が止まらない。
三音子はヴァルター拳銃で、鏡壱はパジャマのポケットから出したブローニング拳銃で、大百足に狙いをつけた。
しかし、このまま引金を引けば、百足だけでなく、巻きついている男の胴体も無傷では済まない。
「待てっ、早まるなっ」と化物紳士。「これが……この百足こそ、我が妻なのだ……」
「エッ! 何だって?」
三音子と鏡壱、自分の耳を疑った。




