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女主人、動く

 廊下を歩きながら、三音子は半歩後ろを()いてくる運転手の黒目(くろめ)鏡壱(きょういち)少年に、「地下から車庫(ガレージ)へ行って、セダンのエンジンを暖めておくんだ」と言った。

 主婦(あるじ)の言葉に、鏡壱少年は小走りになって三音子を追い越し、廊下の奥へ消えた。

 今度は、三音子が鏡壱少年を追うような形になって、廊下の奥にある折れ階段を地下へ向かって降りて行く。

 この『岬の赤レンガ屋敷』は、母屋と車庫(ガレージ)、母屋と機械小屋がそれぞれ地下通路で(つな)がっていた。

 車庫(ガレージ)へと通じる地下通路を突き当たりまで歩いて狭い階段を昇り、扉を開けて車庫に入る。

 青いセダンのエンジンには既に火が入っていて、バラッ、バラッと音を立てて回っていた。他に、幌付きトラックも格納されているが、こちらのエンジンは冷えたままだ。

 車庫の中は電灯が()いて明るく、壁面に二段三列・計六つ埋め込んである換気扇が庫内の排気ガスを煙突へ流していた。

 運転席から鏡壱が出て来て、三音子の後ろに回り、地下道へ通じる扉の鍵を()けた。

「暖気にはどのくらい掛かりそうだい?」三音子が鏡壱に(たず)ねる。

 鏡壱が指を三本立てて見せた。

「三分か……動けるようになったら、玄関へ回しておくれ。私は一足先に玄関へ行って、化物(ばけもの)どもと話をつけて来る」

 主婦の言葉に、少年運転手が(うなづ)く。

「それじゃ、戸を開けて」

 鏡壱が再び頷き、頑丈な鋼鉄製の車輪付き引き戸を、重い(ふすま)を開けるようにして動かす。

 外の冷気が、車庫の中へ流れ込んだ。

 車庫には暖房が通っていないから、もとより庫内の温度は外気とさして変わらないが、空気が動いた分だけ、肌から体温が奪われる。

 三音子は寒さを(こら)えて、雪の積もる敷地に一歩踏み出した。

 雪の上に踏み出して初めて、自分が室内ばきのスリッパのまま来てしまった事に気づいた。

「おや、私としたことが、飛んだ間抜けをやっちまった……が、まあ仕方ない」

 スリッパのまま、ザクザクと雪を踏んで玄関へ向かう。

 向こうから、化物の美男がカシミヤの(すそ)(なび)かせて、こちらへ歩いて来るのが見えた。

「おっと! 待ちな! それ以上、近づくんじゃないよ!」

 自動拳銃を前へ突き出して、三音子が大声で叫ぶ。

 男の足がピタリと止まった。

 三音子は、銃口を男に向けたまま、半円を描くように一定距離を保って玄関まで歩いた。

 玄関扉の(のぞ)き窓から、屋敷の中を覗く。

 女中の富喜子がこちらを見ていた。

「あっ、奥様」

 富喜子の構えるライフルの銃口が、どこを狙えば良いのか分からない、というようにウロウロと動いた。

富喜坊(ふきぼう)、白い着物の女は、どうした?」

「それが……消えてしまったんです……どこにも居ません」

「消えたって? ええいチクショウ、またかい……」毒づいて、三音子は化物男の方を見た。

「あれは一種の幻……妻の幻だ」男が言った。

()? それじゃ、あの白い着物の幽霊が奥方だって言うのか?」

 三音子の問いかけに、カシミヤを着た化物男が(うなづ)く。

「妻の()()の一つだ。だが能力(ちから)を使えば、それだけ消耗する。姿が消えたということは、それを維持するだけの体力が、もはや底を突いてしまった可能性が……頼む、早く、早く妻を助けてくれ」

 切羽詰まった様子で、男が一歩、三音子へ近づく。

「動くな!」叫ぶ三音子。

 化物男がピタリと止まる。

 女主人が、化物男に続けて言った。「お望み通り、助けてやるよ」

「ありがとう」化物男が頭を下げる。

「ただし、妙な真似をしたら承知しない」

 屋敷の女主人は、化物男へ注意を向けながら、玄関の(のぞ)き窓に顔を近づけて、若い女中を呼んだ。

「富喜坊、こっちへ来な……それから、いい加減、銃口を私へ向けるのは()して。物騒で仕方がない」

 女中の富喜坊、銃を降ろして、恐る恐る玄関へ近づいて来る。

「いいか……」鉄格子入りの分厚いガラス越しに、主人が女中に言った。「私と鏡壱は、あの化物の奥方とやらを助けに行って来る」

「し、信じるのですか? 化物の言うことを?」

「ああ……まったく、我ながら妙な仏心が芽生えちまったもんだ……富喜坊には留守番を頼むよ。ボイラーを炊いて屋敷を暑いくらいにしておくんだ……あの化物紳士、奥方が(こご)えるのを随分(ずいぶん)気にしてるようだからね」

「あの……先生には、連絡しますか?」

 指示を仰ぐ女中の言葉に、三音子は(しば)し考えた。

「……いや……」考えた末、首を横に振る。「()しとこう。(ジョウ)さんには、落ち着いたら私から連絡するよ」

「分かりました」

「それじゃあ、頼んだよ」

「あの……」

「何だい?」

「ゆ、幽霊は、もう現れないでしょうか? 留守番のあいだ(こわ)くて……」

「さてね。あの化物の旦那が言うには、もう奥方の幻は出ないような感じだったけど」

「奥方? あの幽霊って、化物の奥さんなんですか?」

(やっこ)さんは、そう言っている」

 その時、三音子の立っている玄関を前照灯(ヘッド・ライト)の強い光が照らした。

 目を細めて光の方を見ると、車庫(ガレージ)から出た自動車(セダン)が、こちらへ向かって来るところだった。

 青色のセダンは、雪の上にタイヤの跡を付けながら、化物男の横を通り過ぎ、屋敷の正面で停車した。

 いったんエンジンを止め、点火回路の鍵を抜いて、運転手の鏡壱が自動車(くるま)の外へ出た。

「乗りな。助けてあげるよ……凍えそうな美人の奥様とやらの居る所へ案内するんだ。嘘だったら承知しないからね」

「すまない……ありがとう……ありがとうございます」化物の紳士が再び頭を下げた。

「良いから、乗りなよ」なぜか気まずくなって、三音子は拳銃を振った。

 化物がセダンの後部座席のドアを開けて乗り込んだ。

 身長百九十センチはあろうかという大男。太っているわけではないが、全身を覆う筋肉は分厚い。

 自動車のサスペンションが、ギシリッと沈んだ。

 続いて、三音子が化物の反対側に回り、鏡壱の開けてくれたドアから後部座席へ乗り込む。

「変な真似するんじゃないよ」隣に座る化物の脇腹にピストルを突きつけ、三音子が言った。

「分かっている。信用してください」と化物紳士。車内に響く、渋いバリトンの声。

 狭い後部座席、肩が触れるほど近くに座る化物男と年増女。

 三音子は、あらためて間近で男の顔を見た。

 マフラーで顔の下半分を覆ってさえいれば、本当に惚れ惚れするような()い男だ。

 顔だけじゃない。

 百九十センチ位はありそうな大男なのに、その身のこなし所作振る舞い、なんだか繊細で(みやび)なものを感じる。

 年甲斐もなく心臓が高鳴り(ほお)が染まるのを感じて、三音子は気まずそうに男の顔から少しだけ目を()らした。

(ば、馬鹿っ、相手は化物なんだっ、なに娘っ子みたいに赤くなってンだよ!)口に出さず自分自身に毒づくが、一度高くなった心臓の音は、なかなか収まってくれない。

(ジョウ)さん、(ジョウ)さん、(ジョウ)さん……)念仏みたいに心の中で恋人の名を唱えてみる。

 運転席に鏡壱が収まり、鍵を差してエンジンに火を入れた。

「さあ、自動車(くるま)を置いて来たって場所に案内しておくれ……と、言っても、街道まで(ほとん)ど枝の無い一本道だから、迷わないだろうけどね」

(まったく……妙な冒険心なんか起こしちまって……私ゃ、悪い女だよ)

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