訪問者
〈岬の赤レンガ屋敷〉の名で呼ばれる古く堅牢なこの館には、主婦の美園三音子、女中の耳原富喜子の他に、もうひとり住人が居た。
その名は黒目鏡壱。
普段は、お抱え運転手らしい詰襟の制服を着て、片腕の効かない主婦を後部座席に乗せ自動車を走らせている。
年齢は十八。身長百八十センチのスラリとした細身。
ある事件で咽に大怪我を負い、声帯を駄目にしてしまった。
つまり声が出ない。
* * *
その夜、女中の富喜子に呼ばれ急いで駆けつけた黒目少年は、青いパジャマにスリッパ、首のまわりに赤いスカーフ、右手にレバー作動式ライフル、という、何ともチグハグな格好で居間に現れた。
喉の醜い傷跡が気になるのか、彼は、パジャマ姿で自室に居るときでも赤い布を首に巻いていた。
女主人から、事のあらましを聞いた少年運転手、さすがに困惑の色を隠せない。
「信じられないかい? まっ、そりゃ、そうだろうね」話し終えた三音子が、最後に言った。「こんな幽霊話、誰が真面目にするもんか……って、アンタの立場で思うのは当然だ……でもね、信じておくれ。本当なんだよ……私ゃこの目で実際に見たんだ……真っ白な服を着た、真っ白な肌の綺麗な女が、突然、部屋ン中に現れたかと思ったらスゥーッて消えちまうのを……私だけじゃない。富喜坊だって見てんだよ。彼女が証人さね」
主婦の言葉に、少年運転手の鏡壱、視線を動かし富喜子の方を見た。
女中が頷いた。銀縁眼鏡の奥から見返す黒い瞳は、真剣だった。
「それで鏡壱、あんたを呼んだって訳」三音子が続けた。「こんな夜中に悪いけど、私たちの護衛をして欲しいと思ってさ……私が撃ち方を教えたライフル銃と、錠さん直伝の格闘術でもって……ね」
鏡壱は、とりあえず『わかりました』という風に頷いて見せた……本当に相手が幽霊というのなら、ライフルや格闘術は何の役にも立たないだろう、と思いながら。
* * *
それからおよそ半時間、〈赤レンガ屋敷〉の三人の住人たちは、居間のソファに座ってラヂオの放送を聞いた。
暖炉に近い側に主婦の三音子。その隣に女中の富喜子。
合い向かいに運転手兼用心棒の鏡壱。
それぞれの前には、富喜子が淹れ直した焙じ茶の茶碗。
三音子の前には、茶碗の他に38口径二段動作式の小型ピストルが置いてあった。薬室に弾丸を込めた状態で安全装置を掛けてある。
二連発のデリンジャーだけでは心許ないと思い、鏡壱に言って、地下の倉庫から持って来させたものだ。
鏡壱の横には、レバー動作式ライフル。
富喜子の25口径は、薬室から弾丸を抜いて前掛けの裏側に戻してあった。
あれを『幽霊』と呼んで良いのなら……三音子も富喜子も生まれて初めて幽霊を見たことになる。
二人とも、(とにかく今夜だけは、自室に戻って一人きりで眠るのは御勘弁)と思っていた。
もしも一人で寝ているときにあれが現れたら……と考えただけでゾゾッと身震いが来る。
少しでも賑やかな方が気分が紛れると思い、ラヂオを点け、適当にチャンネルを合わせた。
ニュースに、オーケストラ、天気予報。番組は何でも良かった。
「どうやら雪も真夜中過ぎには止みそうですね」富喜子が言った。「予報通りなら、積もった雪も二、三日中には溶けて無くなるでしょう」
「……どうだかね」と三音子。「気象局の予報より、子供の下駄占いの方がまだ当たるって話だよ」
「奥様……あの……」
「何だい?」
「あの……あれは一体、何だったのでしょうか?」
あれとは、もちろん、真っ白な和服に身を包んだ、肌の白い美しい女のことだ。
「私に聞いたって分かる訳ないじゃないか。こっちが聞きたいよ」
「やはり、あの……幽霊……」
「止しとくれ。そんな風に言われたら、ますます気味が悪い……でも……そうさね、そう呼ぶのが相応しい感じだった。富喜坊だって、そう感じただろ?」
「ええ。まるでお話にある幽霊みたい……でなければ雪女……」
「ううっ! ぶるぶるっ! そんな風に呼ぶんじゃないよ! 聞いただけで震えが来る」
「あの……奥様」
「今度は、何さ?」
「蛇目髑髏党とは、何ですか?」
女主人の三音子、その言葉にハッとして、隣に座る女中を見た。
間近で見る富喜子の顔は、いつになく真剣……というより、追い詰められたような、思い詰めたような表情。
銀縁眼鏡の奥で、黒い瞳が怪しい光を帯びてチロチロと燃えていた。
「あんた、さっきも、そんな怖い顔して私に迫ったね」と三音子。「主婦に向かって、ちょいとばかり礼が無かったよ……一体そんな事を聞いて、どうするってのさ」
軽口を叩くように、あくまでサラリと流そうとする三音子に対し、女中の富喜子は、ますます語気を強くして「奥様っ」と叫んだ。
さすがの三音子も、女中の頑な態度に苛立って、キッと富喜坊を睨み返す。
蛇のような目で互いの顔を睨む美しい二人の女。
相向かいのソファで、運転手の鏡壱が居た堪れないといった風に女たちから目をそらし、スラリとした長身をモジモジさせた。
「チェッ」と言って、女どうしの睨み相撲から最初に降りたのは、意外にも主婦の三音子の方。
「今回ばかりは私の負けだ、富喜坊……あんた、随分と拘るじゃないか? ……でも、まあ良いさね。そんなに知りたきゃ、教えてやるよ……〈蛇目髑髏党〉ってのは……私をこんな体にした頭のおかしな書生が、死ぬ直前に言った言葉なんだ。『蛇目髑髏党、万歳……蝮ドクロ様、万歳……』って」
聞かされた意外な事実に、女中の富喜子は「アッ」と小さく声を上げ、驚きの目で主婦を見つめた。
相向かいに座る鏡壱も、少し驚いた様子。
「奥様、そ、それは本当の事なのですか?」と富喜子。
「今さら嘘を言ったって仕方ないだろ」主婦の三音子は苦笑いのような表情をちょっと浮かべ、それから真顔になって、逆に富喜子を問い詰めた。
「さあ、主婦の私の方から暴露してやったんだ……次は、あんたが吐く番だよ、富喜坊……あんた、その言葉をどこで仕入れたんだい? 今さら知らぬ存ぜぬは聞かれないよ」
三音子の逆襲に、女中は目を逸らし、目を伏せ、テーブルの茶碗をジッと見つめていたが、最後にボソリと言った。「親の仇なんです」
「エッ!」今度は三音子の方が驚く。
「私の両親は、私が六歳のときに殺されました」
と、富喜子が続けた。
「みなし児になった私は、小学校を卒業して奥様に拾って頂くまで、親戚の家を転々としながら暮らした……殺された父が、最後の最後、死ぬ直前、娘の私に言った言葉が『蛇目髑髏党』だった。『母さんは死んだ。父さんも直に死ぬ……いいか富喜子や、覚えておけ、仇の名は〈蛇目髑髏党〉の〈蝮ドクロ〉! 奴らに気をつけろ! そして何時か、父さんと母さんの仇を打ってくれ』って……その言葉を最期に、父さんは、父さんは!」
可憐な少女の女中は、感情を抑えられずに「ワッ」と叫び、顔を両手で覆った。
三音子は隣でシクシク泣いている女中を見ながら「やれやれ……何だか毒気を抜かれちまったよ……白けちまった」と低く呟いた。
冷めた茶を飲もうと、テーブルの茶碗を持って口に付けようとした、その瞬間。
……カラン……カラン……カラン……
玄関の呼び鈴が鳴った。
誰かが訪ねて来た。
こんな夜中に。
人里離れた、この岬の屋敷に。




