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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

葬の淵へ

作者: 作倉

夢を見ていた。

湿った狭い浴室で、僕は服を着たまま水の張った浴槽に両腕を突っ込んでいる。

視界が暗く浴槽の中はよく見えない。


水で濡れた髪が顔に、そして衣服が体にまとわりつく。その感覚がやけに生々しい。


気持ち悪い……。


夢であると認識できているのに、ひょっとして現実だったりするのだろうか。という考えすら頭の中を過ぎる。


その時、腕に何かが掠めた。目を凝らす。

黒いぬめぬめとしたものが水中に漂っていることに気付いた。これは……髪?

そう確信した途端、自分が何故浴槽に腕を突っ込んでいるのかが思い出された。頭の奥が冷えていくような感覚を憶える。咄嗟に腕を引くと、浴槽の中から冷たい眼差しが見えた。


これは……僕のよく知っている目だ。だって、これは。



「――……っ」


次に瞬きをした瞬間、視界に入ったのは見慣れた天井だった。あぁ……ちゃんと、覚めた。視線だけを動かしてカーテンの隙間から外をまさぐるに、まだ起きるには早かった。


「はぁ……」


安堵のため息を洩らすと、次は腕に違和感を覚えた。夢の中での出来事を思い出しゾッとしたが、あんな恐ろしいことは現実には起こっていなかった。この腕の違和感は、恋人である彼女をずっと腕枕しているから。彼女を起こさぬように体勢を変え、彼女の寝顔を見る。

当たり前のことだが、僕が夢の中であんな恐怖を覚えたというのに彼女は隣で安らかに眠っている。空いている片方の手でそっと頬を撫で、目を閉じた。


……あれは、彼女の目だった。僕は、夢の中で彼女を殺そうとした。



――…


「昨日見た夢でさぁ」


トーストにかじりつきながら彼女が喋る。

“夢”その単語を聞いた途端、昨晩見た夢のことが脳裏に過ぎり思わず顔をしかめる。彼女はそんな僕の様子に気付いていないようで、話を続けた。


「私、イルカに乗ってて」

「イルカ?」

「イルカ」


コーヒーを淹れ彼女に差し出す。


「ありがと。で、隣ではあなたがシャチに乗ってて、一緒に海を泳いでた」

「それは……すごい楽しそうな」

「いや、めっちゃ怖かったよ。だっていつ海に落ちるか分かんないし」

「それもそうか」


僕があんな怖い夢を見ていたというのに、彼女は隣で楽しげな夢を見ていたらしい。彼女にとっては怖かったようだが。

少し笑ってみせると、彼女も笑った。


「今日何限からだっけ」

「僕は3限から」

「あーいいなぁ」

「1限からだっけ?」

「そー」


彼女と僕は同じ大学に通っている3年生。学部はどちらも文学部であるが、学科は違う。

二人とも大学の近辺で1人暮らしをしており、最近ではずっと僕の部屋に入り浸っている。半分同棲しているようなもの。気が付けば部屋には彼女の私物が溜まり、自分のパーソナリティスペースが減ってしまった。しかし、空間を共有している感覚が僕にとって心地よかった。


「あーあ、学科違うだけで何でこうも講義構成が違っちゃうかなぁ」


交際が始まったきっかけというか、出会いは入学式後に行われた他学科との交流会。その場だけの付き合いかと思ったが何故か彼女との交流はその後も続き、いつの間にか交際が始まった。


「今日何着て行こうっかなー」


朝食を済ませた彼女がクローゼットの戸を開く。元々僕の私服の数が少ないこともあるが、今ではクローゼットの大半が彼女の服で占められている。


「そろそろ寒くなってきたし、羽織れるもの持っていきなよ」

「そうだねー。んー、このワンピースどう?」

「この前買ってたやつ?」

「そう」

「うん。可愛いよ」

「じゃーこれにしよっと。となると、羽織りはこれだなー」


コーヒーを飲みながら支度する彼女をなんとなく眺める。……髪、伸びたなぁ。




「な、なに?」

「……え?」


気が付いたら僕の手は彼女の髪に触れていた。


「え、あー、髪、伸びたなって」

「そうだねぇ」


……びっくりした。今、何も考えていなかった。手を引っ込めると、行き場のない手は空になったマグカップに伸びた。


「……髪、長い方が好きって言ってたから」

「え?」

「何でもない。着替えるからあっち向いて」

「あっち向くも何も、付き合ってるんだから」

「なんとなく! 着替えている姿とかあんまり見せちゃうと、マンネリ化? 倦怠期? が早く来るって」

「それを言っちゃうのもどうなの」

「知らない!」



――……


彼女が大学に向かった。部屋には僕1人。とりあえずマグカップと皿洗って、洗濯機回して……。


「ん?」


テーブルの上には彼女のスマホが置かれていた。あー、またか。取りに戻るかなぁ……いや、戻ってこない気がする。3限の時にでも持っていくか。でも教室どこだっけ……。

ふと、彼女のロック画面が時間割に設定されていたことを思い出し、電源を付けた。人のこういったものを見るのは気が進まないが、ロック画面を見るだけ、見るだけ……。


「えっと、今日の3限は……。……?」


そこには奇妙なものがあった。

ロック画面は以前見たときと同じような時間割。しかし、明らかにおかしいものがあった。表示されている日付が1週間前だったのだ。

これは……バグ?


――ガチャッ



「あーやっぱり忘れてた!」

「あ、おかえり」

「ただいまただいま。何だかカバンが軽いと思ったらやっぱり忘れてた」

「どんだけスマホ重いの……」

「あれ、ひょっとして見てた?」

「ロック画面をね。3限の時に持っていこうと思って、教室がどこか分からないからロック画面の時間割見た。ごめん」

「あぁそういうことね。まぁあなたが人のスマホ見るような人間じゃないって分かってるし」


彼女はにこりと笑うと、僕からスマホを受け取った。


「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


――バタン


「あ」


日付けのこと聞くの忘れた。




――……


夢を見ていた。

駅のホームで、彼女と一緒に電車が来るのを待っている。


よかった。今日は嫌な夢じゃない……。それにしても、夢の中だと言うのに意識がはっきりしている。確か、明晰夢って言うやつだ。だけど噂に聞いていたものとは少し違った。僕が知っている明晰夢は、夢だと認識したら体を自在に動かせるものだ。これは、認識できてはいるが思うように体が動かせない。ただ映像を見ているような……。


「特急が通過します。黄色い線の内側に……」


頭上から注意を喚起するアナウンスが聴こえた。ここがどこの駅かは分からないが特急は止まってくれないらしい。視線が隣の彼女に移る。


「……え」


僕は繋いでいた手をほどき、両の手で彼女の肩を力一杯押した。

勿論のこと自分の意志とは全く関係ない。何故、何故僕は彼女を殺すのだろう。


「――!」


ホームの向こう側に落ちていく彼女が咄嗟に何かに掴もうと腕を伸ばす。が、ただ何もない宙を掴むだけだった。大きく開かれた目と合う。そして、特急列車は線路に流れ込み。



「あぁ――……!」


声を上げたのは、夢の中の僕か現実の僕か分からなかった。胸が上下する。息が浅く、早い。

何で、どうしてこんな夢、連日……。


「どうしたの……」


隣で眠る彼女が目を擦りながら僕に向き直る。


「ご、めん。起こした……」

「まぁ、隣でそんな悲鳴上げられたら」

「そんなに……?」

「割と大き、」


肩を抱き寄せ、彼女の顔を自分の首元に押し当てた。あたたかい……。生きている。当たり前のことだが、その事実にほっとする。


「どしたの。怖い夢でも見た?」

「ちょっとね……」

「もう、怖がり」


二の腕に彼女の柔らかな手。密着させられた胸からは、規則正しく波打つ鼓動が伝わってくる。その心地よさに早くもまた睡魔に襲われるが、先ほどの夢の続きを見そうで眠りたくなかった。眠るのが怖いなんて、いつ振りに思っただろう。


その時、彼女のスマホから小気味いい音が鳴った。


「ん? こんな時間に誰……ちょっとスマホ取ってくれる?」

「あぁ」


布団の隙間から腕を伸ばしテーブルの上にあるスマホを取る。プッシュ通知で画面が点灯しいつものロック画面が表示されていた。


「ん……?」


日付は朝見たときと同じく、一週間前のものだった。いや、日付が変わったから正確には8日前のもの。彼女はこのバグに気づいていないのだろうか。


「サークルの全体ラインか……。幹事長もこんな時間までご苦労だなぁ」

「あのさ」

「ん?」

「日付、おかしくない?」

「……あ、ほんとだ。何これ」

「昨日見たときも表示変だったよ」

「ほんと? うーん、バグかなぁ……なんか気持ち悪い」

「設定で直せない?」

「多分できるはず……明日やってみる」

「うん」


結局その日は眠れなかった。いや、正確には眠ろうとしなかった。

隣で静かに眠る彼女を見ていると何度も落ちてしまいそうになったが、その度に頭を振って気を紛らわした。

翌日の講義は2限から4限まで。講義中に幾度かうつらうつらしては手の甲にシャーペンを差し、前を向いた。



「ただいま」


眠気のせいでふらふらした足取りのまま部屋に帰ると、既に帰宅していた彼女は僕の顔を見るなり眉間に皺を寄せた。


「ちょっと、大丈夫?」

「大丈夫」

「少し寝たほうが……」

「いや、いい。ご飯食べた?」

「おやつは食べたけど夕飯はまだ」

「そっか。何にする?」

「寒いし鍋かな。一人で買い出し行くから休んでていいよ」

「え。いや僕も行くよ」

「しんどそうな人連れて行けないよ。ね?」

「……分かった」


彼女に言われるがまま僕は部屋に残った。テーブルの前に腰を下ろし背もたれ代わりにベッドに寄りかかる。一日まともに寝ていないだけで何でこんなにも疲れているのだろうか。1年の頃はオールしてから1限に行くとかよくあったことなのに、たった2年でここまでこうなるのか……


睡魔が頭をもたげ、瞼が落ちる。目を閉じるだけ、目を閉じるだけ……。



「……」


次に目を開けた時、僕は夢の中にいた。ここは……自分の部屋の中だ。電気は点いておらず、窓から差し込む月の光だけが室内を照らしていた。

状況が呑み込めず辺りを見回す。ベッドの上に人の気配があった。……彼女だ。寝ているのだろうか。ベッドに歩み寄ろうとした時、自分の手から何かが滑り落ちた。反射的に拾おうとしてしゃがみ込む。


それは、刃先に血がべったりと付いた包丁だった。


「!」


顔を上げベッドを見遣る。まさか……また、僕は彼女を殺したのか?

震える足を無理矢理立ち上がらせベッドに近寄る。そしてゆっくりと覗き込むと……。案の定、といったところだろうか。腹部を赤に染めて、彼女は息絶えていた。


「何、で」


同じ赤色に染まった自分の両手を見、自分に問いを投げかけた。その先には、ピントがずれた彼女の顔が見えた。死んだはずの彼女の瞼は開いており、冷たい目で僕を見ていた。

しかし、それとは別の視線をどこからか感じた。その先は……。




――……


「……」


ゆっくりと、瞼を開ける。夢の現場と同じ部屋。しかし夢の中と違い、電気は点いているし血まみれの包丁も握っていない。そして何より、彼女は死んでいない。


長くため息を吐き立ち上がる。台所に向かいマグカップに水を注いだ。いつもであれば少しでも眠れば体力はそれなに回復するが、こればっかりはむしろ更に疲れたような気がした。

冷たい水を一気に飲み干し部屋に戻ると、小気味いい音が部屋に響いた。その主はテーブルの上にいた。


「また忘れて行ってる……」


何となしにスマホを手に取る。日付表示は依然変わっていなかった。設定変更していないのか、できなかったのか、忘れているのか……。


「一週間前……」


そう呟くと、頭の奥が冷えたような感覚が走った。一週間前……?


「……」


首を捻りクローゼットを見遣る。そういえば、さっき見た夢でクローゼットのから視線を感じた。そこで現実に戻ってきたためその先は確認できていない。

ひょっとして、夢占い的なものでここに何かあるのだろうか。スマホをテーブルの上に戻しクローゼットを開けた。彼女の服が視界に飛び込む。あとは使っていない布団や要らなくなった教材、漫画本……。そして、これは一体?


一見すると普通のキャリーケースだが、隙間から黒いビニールが見えていた。中は空だったはずだが……。何気なくチャックを下ろし、中身を取り出した。


「……何だ?」


大きな黒いビニール袋が出てきた。袋の中には何かが詰まっているようだが、上から触れると形容しがたい感触を覚えた。一体……これは……。

また頭の中がスッと冷え、それは指先にも伝って来た。言い知れぬ恐怖を感じる。しかし、それでも手を止められなかった。生唾を飲み、袋を開けた。


「……!」


髪の毛が見えた。まさか、これは……。体から力が抜け、僕はその場で尻餅をついた。


それが何なのか分かってしまったが、それでも認識したくなかった。どうしよう。どうして、そんなものがここに……! 警察に連絡すべきなのだろうが、この場合真っ先に疑われるのはやはり僕なのだろうか。どうしよう。その内彼女も戻って……。


「どうしたの」

「!!」


いつの間にか彼女が戻り、隣で僕を見ていた。


「えっと、その……」


思わず彼女から視線を外し、袋の口を手で押さえた。


「……ようやく気付いたの?」

「え?」

「それ」

「……どういう、こと」

「あれ、気付いたんじゃないの」

「気付いた、って」

「……何だ。気付いてないじゃん」

「だからさっきから何を……!」

「もっとはっきり見てみなよ」

「……」


彼女が何を言っているのかさっぱり分からない。僕が躊躇していると、彼女はため息を吐いた。


「……まさか、これって君が」

「見れば分かるよ。……何で私がそこまで言わなきゃいけないの」

「……」


恐る恐る袋の中を再び開き、顔を見る。

それは……。



僕がよく見知った顔。彼女のものだった。


「……え」


しかし、彼女は今僕の隣にいる。じゃあ、これは一体。


「どういう、ことだ」

「全然思い出せてないんだね」

「思い出すって何を」


恐怖で体が震え、ガチガチと歯を鳴らす僕とは対照的に、彼女は冷静だった。

そして、表情をぴくりとも変えずに言葉を吐き捨てた。



「私を殺した、ってこと」


「……は?」


間抜けな声が出、何が何だか分からなくなった。僕が、彼女を、殺した?

死体にまた視線を戻す。腐敗は進んでいるが間違いなく彼女である。しかし、目の前にいるのもまた彼女である。


僕はまだ、夢の中にいるのだろうか。


「ちゃんと思い出して」

「僕には、何が何だか……」


「……あの日部屋に戻ると、突然あなたに刺されたの」

「わから、ない。さっきから何を言って……」


――カタン


突然の物音に驚き振り返る。黒いビニール袋から血まみれの包丁が放り出されていた。


あれは……凶器になったものだろうか。刃先だけではなく柄も血がべったりとこびりついていた。その血液はすっかり酸化し、黒くなっている。


「すごく痛かったし、すごく悲しかった」

「……あれ、は」


――……あれは?



「君が、悪い」


口から勝手に言葉が出る。頭が痛い……。

小さい箱に閉じ込められた何かが、酸素を求めるかのように箱をこじ開けるような。決して出口でもないようなところから無理矢理這い出そうとしているような。そんな感覚を憶えた。


「君が、悪い……僕以外の男と、」


箱に亀裂が走る。


「会ったりするから……」


こめかみに手を当て、目をきつく閉じる。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。



「だから、僕は」




――君がもう誰にも会えないようにしたんだ。



箱が破壊された。

頭の中に、僕が彼女を殺したときの映像が鮮明に映し出される。あぁ、そうか。そうか……あれは、一週間前の出来事だったか。


「もしその男が、あなたが思っているような男じゃなかったら?」

「え……」

「結婚式を控えた身内と偶然会い、その時奥さんはお手洗いに席を外していただけだったら?」

「そ、んな」

「……だから私決めたの。復讐しようって」


彼女が包丁を手に取った。……殺される?

それは、不思議と怖くなかった。僕は人を殺してしまった。その記憶も取り戻してしまった。もう、今までのように生活はできないし、殺されることでこの罪を償えるかどうかはわからないが、このまま殺されることは本望ですらあると思ってしまった。


しかし、彼女はその包丁を僕に握らせた。


「……何?」

「あなたへの復讐は、私を殺し続けさせること」


彼女を見遣ると、それはにこりと微笑んだ。



「愛する彼女を殺す苦しみと痛みを、一生味わい続けて」


刃先が、また鮮血に染まった。





――……



腕の痺れで目を覚まし、僕はゆっくりと瞼を開けた。

見慣れた天井が見える。


「……」


隣では静かに眠る彼女。

……夢、か。随分と長い夢を見ていた。しかし、その割に内容は早くもぼやけている。決していい夢ではなかった気がする。が、そう思った瞬間、夢を見たことすら曖昧になってしまった。


「ん……」

「ごめん。起こした?」

「ううん……」


彼女は僕の胸に額を押し当てた。起きたかと思ったが寝言だったらしい。

カーテンの隙間から外をまさぐるに、起きるにはまだまだ早そうだ。僕は彼女の白い頬を撫ぜ、その手を首に伸ばした。


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