2.少女の日常
メイリスの朝は早い。
まだ薄暗い空は静かで、家の中の空気も冴え冴えとしている。
日中太陽に干された寝具はふかふかのぬくぬくで、ベッドから出るにはちょっとだけ気合いが必要だ。
メイリスはいつも、えいやっと掛け声を一つ、勢いで起き上がっていた。
「おはやうごふぁいまぁーーーーあふぅ」
身支度を終え、のっそりとした動作で階下を降りるとママは家族のために、せわしなく朝食の準備をしていた。
トマトと豆のスープのいい匂いがする。
メイリスはテーブルに並べられた朝食のお皿を眺め、キッチンの戸棚を開けた。
「あ、レーズンパンがある!」
「昨日、隣のワーリンさんのところからもらったのよ。多めに作っちゃったからって。あなた、お会いしたらお礼言いなさいね」
「はーい」
まだぼんやりしていた頭だったが、一気に目が覚めた。
ウキウキした気分でレーズンパンを取り出し、パン切り包丁で家族分を切り分けて籠に盛っていく。
「ちょっと! まだ黒パンあったでしょ。そっちから切って欲しかったのに」
「美味しいものは新鮮なうちに食べないと」
「まったく、もう……」
あらかた支度ができるとママはメイリスに向き合った。
「ああ、ほら。襟が曲がってる」
ママがメイリスのブラウスのよれた襟を正す。
「ちゃんとしっかりしてよ? 今日はパパも仕入れで出ちゃうし、ママもおばあちゃんの世話で1日いないんだから」
「分かってるって、店番でしょ?」
メイリスの家は薬草屋を営んでいた。
いつもは、メイリス自身は朝のお店の開店準備だけで学校に行く。
しかし今日はパパが薬草の仕入れのために1日中出かけていて、ママも先日、階段から落ちて腰を痛めてベッドから起き上がれなくなってしまったおばあちゃんの世話で家を出る。
そのためメイリスが学校を休み店番をすることになっていた。
「でもー」
「大丈夫だって。一人で店番するのなんて初めてじゃないんだし」
ちなみに弟はいつも通り学校だ。ねぼすけの彼は店の準備もしない。というかできない。
「でもあなた、この間のお祈りの日に勝手に家を飛び出したでしょ」
「そ、それは」
嫌なところを突かれた。
お祈りの日とは、メイリスが星を見るために夜にこっそりと抜け出した日だ。
「そ、そのおかげで勇者様をお城へお連れすることができたわけだしぃ……」
「それとこれとは別よ」
どこにも行くあてがないと言う、星灯花の咲く丘で出会った少年を家に連れて帰ると、家は大騒ぎになった。
メイリスは少年と会った時のこと、少年が異世界から召喚されたらしいことをパパに話した。
メイリスのパパは、少年の出現した時刻が召喚の儀とほぼ同時刻であったこと、それから少年の着ていた衣服がこの世界には存在しない生地で出来ており王族でも着れないような整然としてた縫製であったことからメイリスの話を信じ、少年を勇者と判断した。
パパはすぐさま町の役人を通して王城へと連絡した。
そして次の日、少年とパパとメイリスの三人は王城に行くことになった。
メイリスがついて行くことになったのは少年の第一発見者で、出現したときの状況を説明するためだ。
まさか自分が王城に行くなんて思ってなかったメイリスは混乱した。
まず町の外になんて近隣の森や丘くらいにしか行かないし、王都だって学校の課外授業で一回行ったきり。王城なんてもってのほかだ。
パパもママも急に現れた勇者に右往左往。慌てて出発の準備をしていた。
弟に至っては「すげー! すげー!」としか言わないからくり人形のようになっていた。
とりあえず王城に連れて行くことが決まり、取るもの取り敢えずあの時は出立した。
朝食を並び終えたテーブルの自分の席に座りながら、メイリスはあの日の朝に想いを馳せる。
普通の男の子に見えたな……。
ばたばたと慌てて家を出たし、道中はずっとパパが一方的に世界の情勢を話していたので、勇者様がどういう性格なのか、メイリスには分からない。
しかし、空から降ってきたことや見慣れない上等な服を着ていたことを差し引いても、メイリスの目には、世界を救うはずの救世主たる勇者様はどこにでもいるごく普通の黒髪の少年に見えた。
例えばそう……家を出る前のことだ。
勇者様も一緒に、家族みんなで今メイリスが座っているこのテーブルで朝食をとった。
朝食で出したのはごく普通の黒パンにヤギのチーズ、それから厚く切ったベーコンを炙ったものだった。
それを見た黒髪の勇者様は、目を丸くしながら「わっ……めっちゃインスタ映えするカフェ飯出てきた。ファンタジーっぽい」とつぶやいたのだ。
“いんすたばえするかふぇめし”や、“ふぁんたじー”とやらがなんなのかは分からない。
食事の前だったことを考えると、メイリスたちが収穫の感謝の祈りをするように、何か勇者様の国の祈祷のまじないだったのかもしれない。
しかしそれはともかく、勇者様の食事を前にした表情は、思いがけないごちそうが出てきたときの弟の顔によく似ていた。
威厳も強さもそこにはない。ただ無邪気においしいものを前に頬が緩んで笑ってしまった、人間味あふれる親しみのある顔だった。
だからメイリスはつい、その時思ってしまったのだ。
こんな子が、世界を救うの? だってその辺にいる男の子と同じだよ?
今、思えばかなり不謹慎だ。誰かにその呟きを聞かれたら眉を顰められ最悪、不敬罪として捕えられても可笑しくはない。なんせ国家、いや世界の魔術師一同が決死の思いで召喚した勇者様なのだから。
「メイリス! ちょっとほんとに大丈夫?」
「ふぇ?ふぉごほっ」
気がつくとメイリスはレーズンパンを口いっぱいに頬張っていた。それはいいのだが、心ここに在らずで食べていたせいかテーブルの上がパン屑だらけになっている。
スープを溢さなかったのが不幸中の幸いだ。
「もう……お店を任せるの、心配になってきたわ」
ため息をつくママ。
慌ててメイリスは口いっぱいのパンをスープで流し込み、パン屑を集めた。
「今のはちょっと考えごとしてただけだってば!」
「何を考えていたのやら」
「う、それは……」
勇者様が普通の子すぎる、と言ったらまたお小言を言われそうだ。
メイリスは黙ってまた、スープを飲んだ。
ママはそんなメイリスをじっと見つめてから、まあ仕方ないとでも言いたそうに肩をすくめ、おばあちゃんの家へ行く準備をし出した。
ホッとため息をつく。
今まで気まずくて何の味も感じなかったスープの塩味が口の中でやっと広がった。
トマトの酸味と豆のぽくぽくとした歯ざわり。
お小言はうるさいが、やっぱりママの作る料理は最高に美味しい。
そのとき、メイリスはふと思った。
あの子にも、このスープを飲ませたらどんな顔をするだろう。
またチーズ乗せ黒パンを食べたときみたいに笑ってくれるかな。