逃走と降ってくる衝撃
「ちょっとあんた来なさい!」
女性にしては低めの声で長髪を揺らしながら怒号を響かせる彼女。
「あ…っエ、エン…こ、この子…」
「口答えしない!そこ座んなさい!!」
その剣幕に気圧されながらも、イリーはすこしだけ僕を持ち上げるが、「エン」と呼ばれた彼女は聞く耳を持たず暖炉の前にある机の椅子を引いた。
流石にこの状況を飲み込んだのか、悲しそうに眉を下げたイリーは僕をゆっくりと解放した。
「…私、これからお説教なの。終わったら絶対みんなに紹介するから、ここで待っててね?」
「さっさとしなさい!!」
机を叩く音と共に再び放たれた声がイリーの肩をビクリと揺らす。
玄関の前で僕を置き、タタタと行ってしまった。
「あんたねぇ…ここ何日この家空けてたと思ってんの!?」
「み、3日…?」
「5日よ!!あの馬鹿と筋肉ダルマは街に出かけちゃうし!!あんたら何でそんなに自由なの!!??」
まくし立てるようなエンの口調。
その昂りを抑え切れずに繰り返し叩かれる机の音にイリーは怯えきってしまっているようだった。
だが聞く限り、1つわかった事がある。
この2人の他に、まだ仲間がいるという事だ。
エンはまだ僕の存在に微塵も興味を向けていない。
多分、魔物とも気が付いていないだろう。
ならば長居は無用だ。
処刑場を抜け出すのは今しかない。
「大体なによその装備!戦衣ならまだしも布の服って!死ぬ気か!!」
「うう……」
口を開く度にヒートアップしていくエンの言葉。
それに俯きながら畏縮するイリー。
今、僕への意識は完全に途絶えている。
(よし……っ)
その中で1人、僕は眦を決すると音を立てないようゆっくりと扉を開ける。
ギィ、と少しだけ叫びを上げる扉。
そんな些細な音は2人の注意を引くことなく、陽気な外の日照りと消える。
そして開いた僅かな隙間を僕はスルリと抜け、地面を捉えた脚は勝手に走り出した。
風が吹く。
後ろから背中を撫でる、風が。
僕はその心地よさからか、1人でに上がる口角を感じながら走った。
(イリー…)
上気していく呼吸の中、僕はポツリと彼女の名前を落とす。
何故か胸が、チクリと痛んだ。
たったひと言呟いたその言葉が、僕の脚を止めようとする。
もう、あの家はきっと見えない。
なら足を止めて、振り返って、せめてもの別れの言葉を呟きたい。
いや、だめだ。
ここはもう既に人間(敵)の陣地。
近くに街があるとも言っていた。
安全な場所まで、走れ、走れ、走るんだ。
僕は目を瞑り、全ての思考を置いていくように、真っ直ぐな道を駆けた。
そして
『ハッ…ハッ…ハッ…ハッ…』
舌と大量の涎を垂らし、僕は森の中を歩いていた。
木々の間を埋める橙色の光。太陽はもう眠る準備をしていた。
僕1人だけの空間。静かな、空間。
だがここからでも捉える事のできる大量の人間の臭いは、近くに街がある事を声もなく告げていた。
慎重に草木を掻き分け、奥へと進む。
少しでも臭いの薄まる所を目指して僕は歩いた。
しばらくすると、薄っすらと臭いが漂ってきた。
人の臭いだ。数は、1つ。
(道を変えよう…)
広大な森だ。いくらでも道はある。
そう考え、僕はその臭いから遠のくように方向を変え、再び歩き出した。
だが、その時。
「うぅ〜ったくよぉぉ。そーりょの奴ぅどぉぉこ行ったってんだぁ…。俺が小便してる間によぉ…。ゆーしゃ様怒っちまうゾォォ…。……んお?」
だらしなく伸ばされた語尾と共に、木の後ろから突如として現れたのは、人間。
その体を赤い血に染めた、人間だ。
臭いも、何も、しなかった。
完全に、無臭だった。
なのに…何故……。
「魔物かぁ…。んま、食っとくか」
その答えを導くより先に、僕の頭に激しい衝撃が襲った。
明るさを失っていく視界。
体が倒れたのが、わかった。