まずは、会話のキャッチボールをしましょう
ぽすっ、と軽い音を立ててグローブに収まる白球。
それを利き手に持ち替えて投げれば、それは向かい合う相手のグローブに収まる。
何度も何度もそれを繰り返しながら、お互いにボールと一緒に言葉を飛ばす。
「それで、今日はどうしたんですか」
彼は太めの黒縁眼鏡の奥の瞳を僅かに見開いたけれど、すぐにいつも通りの薄い笑みを浮かべた。
私は淡々とボールを受けては投げ返す。
「どうってこともないけど」
「……嘘」
ポコン、と間抜けな音。
彼がボールを取り損ねて、グローブに当たってからボールが地面を弾んで転がる。
静かにボールを拾い上げた彼。
動揺が目に見えて困る。
あからさまなその態度に、どうやって踏み込むべきなのかと思考を巡らした。
彼はどうしても背負いたがりなところがあって、悩んで困って一人でやろうとする。
だからこそ隙を突いて本音を引きずり出して手を出して背中を押して引っ張ってあげたい。
そうするべきなのだ。
だって、彼女だし。
彼の重荷を少しは分けて欲しい。
彼と一緒に道を歩きたい。
背中を押してあげたい、引っ張ってあげたい。
支えてあげたいと思うのはきっと普通のこと。
「嘘じゃないって」
彼のボールを受けながら、小さく溜息を吐き出した。
誤魔化されるのは好きじゃない。
踏み込まれたくないとか聞かないで欲しいとか、そういう気持ちが分からないわけじゃないけれど、私にも思うことや考えることはある。
それが交わらないなら、譲らない姿勢を見せるしかない。
「ドラフトのことですか」
そう言いながらボールを投げたら、またしても彼が取り損ねる。
こんな彼でも強豪校の野球部で一年生からレギュラー入りしていたし、二年生になって三年生がいなくなった頃からは、キャプテンとしてチームを引っ張ってきた。
まぁ、今私の目の前にいる彼はそんな雰囲気を欠片も持っていないのだけれど。
試合中の獲物を狩るような目は見えない。
引退してからというものの、彼は何だか刺が抜けたような物足りない雰囲気をまとっている。
「迷うことなく受ければいいんですよ。もっともっと貪欲になって、やりたいことやって、生きたいように生きるんです」
彼は苦笑を浮かべてボールを受けて投げる。
白球が青空に滲むような爽やかな気持ちにはなれない。
試合じゃないからか、キャッチボールだからか、それとも彼の打つホームランじゃないからか、単純に私達の放つ空気が悪いからか。
私の言葉が気に入らなかったのか、少し強めに投げられたボールをグローブで弾いてしまう。
あーあ、なんて声を漏らしながら拾いに行って、思い立ったように「じゃあ、別れます?」と一言。
その瞬間に空気が冷えた気がした。
もう秋だしなぁ、と暢気に考えて定位置よりも離れた場所からボールを投げる。
「え?」
「あ、ちょっとボール」
「いや、え?」
彼が飛んで行ったボールに目もくれずに私を見た。
それから何度も「え?」と繰り返す。
だからボールを取るように指示しながらももう一度同じ言葉を繰り返せば、彼はまたしても同じ言葉を繰り返すので埒があかない。
いつもはもっとクールで冷静で人を食ったような雰囲気を出しているのに、今日は完全にペースが来るっていて主導権は私にある。
珍しいこともあるけれど、それだけ心労がたたっているのか考えることが多いのか。
「別れてもいいですよ。前に進めるなら」
彼が前に進むために別れると言うならば、私は迷うことなく彼から身を引けるだろう。
これが浮気とかだったら一、二発は殴っていた気がするけれど、それとこれとは別の話。
「忙しくなるんですよね、ドラフト受けたら。それで私のこと気にしてるから別にいいですから。私は――」
別れられます、と続くはずの言葉が消えた。
彼がボールを拾わずに私を抱き締めたせいだ。
じわりと彼の熱が私の体に伝わっていく。
何も言わない彼は私の肩に顔を埋めて、ぎゅうぎゅうと私の体を締め上げている。
「別れねぇよ」
怒りやら悲しみやら色んな感情がごっちゃになった声で言う彼に苦笑が漏れる。
本当に今日の彼は不調だ。
いや、その前から不調だったけれど。
この人はどうしようもないな。
今は学生だけど来年の春になれば、学生の時期が終わって社会人とか呼ばれるようになるのに。
私のことでこんなに不安定になっちゃ意味ないのに。
特にスポーツの道に進むのに、彼女とか言語道断的に思える。
学生だけど鍛えた体にぎゅうぎゅう締め付けられると、正直苦しいし痛い。
骨がミシミシ言ってる。
「ねぇ、ちょ、痛い」
「別れねぇ」
ギシッ、と骨が軋む。
痛いと言ってるのに離す気はないらしく、ガッチリしたその背中を叩いてみても反応なし。
駄目だなぁ、と思いながら「ねぇ」と声をかける。
無視してる感じだけどスンッ、と私の肩に鼻を押し付けて鳴らす。
苦笑を漏らしながら背中を叩いていた手を、彼の頭に移動させて撫でる。
大きな子供みたいだ。
「簡単な一言で受けて、私に一言『待ってろ』って言ってくれればいいんですよ。そしたら私は二年でも五年でも十年でも、死ぬまで死んでも待っててあげますよ」
笑いながら言えば彼の肩がぴくっと跳ねて、もぞもぞと身をよじらせてから顔を上げた。
黒縁眼鏡の奥は緩く揺れていて、何を言うべきかと言うように私を見ている。
「……結婚しよう」
「馬鹿なの?」
ばすっ、と音を立ててはめていたグローブを彼の顔面に押し当てる。
待ってろだけで十分でしょう。
なのに何だ、結婚って。
話が飛躍し過ぎでしょう。
本当に……馬鹿。
私の名前を呼ぶ彼がどうしようもなく愛おしい。
彼が別れると言えば私は別れられる。
いつか帰って来るんじゃないかって、戻って来てくれるって、勝手に待てる自信があった。
待ってろと言われれば、当たり前だと答えられる。
誰よりも好きだから、大好きだから、愛してるから。
「本当ッ、馬鹿……」
グローブを退けた彼が笑う。
私を見て笑う。
嬉しそうにいつも通りの顔に戻って、真っ白な歯を見せて笑う。
体中の熱が顔に集まって、視界を滲ませる私を見て笑う彼。
馬鹿はきっと、私。