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紅き月雫  作者: 陰陽堂
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 呼び鈴の音で目を覚ました。

 目を覚ましたはいいが、起き上がれない。

「昨日飲みすぎたかな。」

 身体のだるさに負けてしばらくごろごろしていたが、そうだ誰か来ていたのだったと思い、意を決し起き上がった。

 身体は相変わらずだるかった。それに頭も痛い。

 やはり二日酔いのようだ。

 口が渇いた。

 水を飲もうと思い、立ち上がろうとすると、玄関のドアが開いた。

 待ちきれなくなったのか。

 玄関に目をやると、

「先輩いつまで寝ているつもりですか。早く起きてくださいよ。」

 という声とともに、男が顔をのぞかせた。

「なんだ、西川かよ。一体何の用だ?」

 男の名は西川望という。俺の一つ下の後輩だ。

 俺たちは警視庁の刑事課捜査一課に勤めている。そして俺と西川はいわば相棒といった関係だ。

「何の用だ、じゃないですよ。例の事件に進展です。」

「例のってあの世田谷一家心中事件のほうか?」

「いいえ、嬰児殺害事件のほうです。」

「ああ、そっちか。」

 今世間を騒がせている事件が二つある。一つが世田谷一家心中事件である。そしてもう一つが、連続嬰児殺害事件である。俺の担当は世田谷一家心中事件のほうであった。だから、嬰児殺害事件に関しては新聞に書かれていることと、職場で耳にする噂話程度しか知らない。

 また、世田谷一家心中事件に関してもほとんどわかっていないことだらけであった。

 事の発端は先週。世田谷区に住む産婦人科医、山口誠一およびその一家が死亡しているのが、彼の部下である永田研一によって発見された。

 永田の話によると、山口はここ3日ほど無断で欠勤をしており、心配して様子を見に来たところ、死亡しているのを発見したとのことだった。

 後日鑑識に聞いたところ、妻と二人の子どもは、ともに喉を鋭利な刃物で切られたことによる失血死、また誠一は腹部を鋭利な刃物で突き刺したことによる失血死であると判断された。

 なお、この事件に使われた刃物はすべて同一のもの、もしくは同一のサイズのものであると断定されたが、刃物自体は現場で発見されることはなかった、ということだった。

 以上が世田谷一家心中事件について分かっていることの全てである。

 つまり、まだわかっていないことは多く、事件解決はまだまだ先になりそうだ、ということである。

 俺は息を吐いた。寝起きであまり考え事はするもんじゃないな。そう思っていると、

「先輩。目開けたまま眠っているんですか。いい加減に起きてくださいよ。じゃないと、木戸さんに言いつけますよ。」

「おいおい、それだけはやめてくれ。わかった、わかったよ。すぐに準備するから、外で待っとけ。」

 俺がそう言うと、西川は最初からそうしてくれればいいんですよ、と小言を呟きながら扉を閉めた。

 スーツに着替えて外に出ると、下のほうで西沢が、車にもたれかかっていた。俺が住むアパートは二階建てになっており片側には階段があり、階段下には全部屋分の郵便受けがある。俺の部屋は二階の階段とは反対側の角部屋だ。

 階段を下りて西沢のほうへ行くと。

「一回署のほうに行きますか?」

 と訊いてきた。

「事件について何か進展があったんだろ。まずそれを教えてくれよ。」

「そうでしたそうでした。どこかのお寝坊さんのせいですっかり忘れていましたよ。」

「うるせぇよ。」

「ええっとですね、単刀直入にいうと凶器が見つかりました。」

「やっと出たか。それで?」

「はい。見つかったのはメスです。山口宅の近くの植え込みの中から発見されました。なぜそこで見つかったかは不明ですけど、刃の部分から山口誠一の血液が、柄の部分からは彼の指紋が検出されました。おそらくこれが凶器で間違いないようです。」

 なるほど。しかし疑問がある。これは誰にでも気づくことである。

 山口は産婦人科医である。本来メスを扱うような仕事ではないはずである。ただ帝王切開などで使う機会もあるだろう。だとするならば、そのメスは彼の病院から持ってきたものと考えるのが通常である。

 しかし、彼の病院からメスが紛失したという事実はない。一応危険なものであるので、メスは看護士たちによって管理され、その本数なども常に数えられていた。このような事実があるのだから、メスはここから持ち出されたわけではない。

メスの入手経路については、調べる必要がありそうだ。

「メスがどこから持ち出されたものなのか気になりますよね。形状的に山口の病院で扱っていたものではないようです。今のところ全くわかんないんですよね。」

「なるほどね。だが、数少ない証拠ではあるな。」

「ですね。取り敢えず、来栖さんに詳しいことを聞きに行ってみます?」

「来栖か、そうだな。気が乗らないけど仕方ないな。行くか。」


     ※


 警視庁に到着し、科捜研に向かうと、

「いやはや無能刑事のお出ましだなぁ。」

 という下品で癪に障る声が聞こえた。

「うるさいよマッドサイエンティストめ。」

「ひっひっひ。相変わらずだなぁ有森。」

 目の前の机に座っている男が言った。

 こいつは来栖龍之介という名前の男で、残念ながら俺の知り合いだ。科捜研の職員として勤めているが、遺品から被害者が殺された情景を想像して興奮するという変態だ。

 そういった歪んだ性癖は周知のものであるが、それに加えて一九〇センチを超す長身とひょろひょろとした四肢、汚い長髪に丸メガネといういかにもといった出で立ちも相まって、当然のことながら周囲からは避けられている。

 もちろん俺にしてもできることならばこいつには関わりたくない。しかしこいつは憎たらしいことに抜群に有能なのだ。

 だから仕事に関してはこいつに頼らざるを得ないのである。

 その事実がまた俺を苛立たせる。

「先輩たちいつも喧嘩していますね。」

 西川はにやにやしながらそう言った。

「当たり前だろ。こんな変態野郎誰が好き好んで会わなきゃいけないんだよ。」

「まぁそう言うんじゃないよ有森。俺たちの仲じゃないか。」

「うるせぇよ。それより」

「ああ分かっているよ。例の世田谷一家心中の凶器のことで来たんだろう。話してやるよ。」

 来栖は高圧的な笑みを浮かべながら、これが例の凶器だよと言って、発見された凶器とされるメスを見せてきた。

「これが凶器で間違いないのか?」

「ああ、十中八九そうだろうな。メスには血液がべっとり、指紋もべっとりだ。これが犯行に使われていないというのは、どうしたって立証しようがないだろうな。ただおかしな点がいくつかある。」

「というと?」

「ああ。まず一つ。柄にかかっている圧力が異常だ。メスの刃というのは非常に鋭いんだ。触れるだけで皮膚が切れてしまうほどにな。だから、本来メスを使うときに力を入れて切る、といったことはしないんだ。しかしこのメスは違う。かなりの力がかかっている。その証拠に柄が少し曲がってしまっているんだ。山口は余程力を込めて自らの腹部を刺したんだろうな。あるいは」

「ほかの力が加わったか、ですね。」

「その通りだ西川君。もう一つはだね、指紋の付き方だ。本来自分の腹部をメスで突き刺す場合どうやってやるだろうか。ああ、そうだ。もちろん刃を小指側にして柄を握るだろう。だがこのメスについた指紋からは刃を親指側にして握られている。まぁこれは確かに不自然だが、そう握ることが不可能というわけではないから、気にすることもないだろうと思った。だが」

「柄にかかる圧力がおかしいということと併せて考えれば、それがおかしいということがわかる、ということだろう?」

「ああ。そこから導き出される答えはおのずと決まってくる。山口誠一は何者かに殺されたのだ。ほかの人間はどうか知らんがね。」

 なるほどな。

 来栖の話は確かに筋が通っている。それにメスが山口の病院のものではないということから他殺説ではないのか、ということはある程度誰の頭にもあった。

 山口が何者かに殺された、ということになると問題は誰が殺したのかということである。それに山口誠一が殺されたということはいいとして、残りの山口家の人間は一体誰によって殺されたのかということは依然問題である。

 来栖によると、その三人の傷口から誰によって殺されたのかということは分からないらしい。彼の言葉を借りれば

「最終的に山口誠一が殺されるという事実さえあればあとは自殺だろうが他殺だろうが問題はない。その事実だけあればいいのだ。私には動機がどうのこうのとかいう馬鹿げたことを考える必要もないからな。」

 ということだった。

 来栖の言い方がいちいち癪に障るということは置いといて、その他のことはすべて事実だろう。だが分かったことは結局のところそれだけである。

「振出しに戻りましたね。自殺であれば楽だったのですが。」

 全くだ。

「また一から調べなるしかないな。」

 俺はそう言って深いため息をした。


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