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その夜は満月であった。
煌々と輝く月は漆黒の街を照らし、真夜中とは思えない明るさであった。
だがその一角、影と影のはざま、光の届かぬ路地裏に一人の男がいた。
男は黒ずくめ。多くの人が眠りの中にいるさなか、その男の靴音だけが夜空にコツコツと響いていた
男はふと月を見上げた。
満月のはずだった。
いや、確かに先ほど見たときは満月のはずだった。
いやいや違う。今も夜空に輝いているのは満月に違いない。違いないのだが、そんなはずはない。
男が見上げている月は真っ赤に染まっているのだ。
そんなはずはない。
男は何度も何度も同じ言葉を繰り返した。それに加えて、何度も目をこすったりして月を見つめなおした。
それにもかかわらず、月は赤いままであった。
次第に男はわなわなと体を震わせた。
そんなはずはない。
そんなはずがあるわけないのだ。
頭の中に自分の声が響く。
その音はだんだんと大きくなっていき、ついに男は頭を抱え、その場に座り込んでしまった。
これはもしかしたら己が犯したことに対する罪なのか。
男はそう思うようになっていた。
男は到底許されるはずのない行為をしてしまった。
殺人。
その対価に自分の正気を奪われてしまったのだろうか。
そうならば仕方がない。殺人の罪の重さは分かっている。分かっているうえで行っているのであるから、文句が言えるはずもない。
ただ、男にとってその行為は正義となんら変わらないものだった。
社会的に悪だとしても、それが絶対的な悪であるとは言えない。
正義も悪も、あくまで人々の大多数の総意に基づく相対的な評価でしかない。
表現の自由などという高尚な言葉があったとしても、少数の意見は大多数の意見に抹殺されてしまうのである。
だから、男が行った行為が反射的に悪であると判ずることは出来ない。
出来ないが、それを認めることも出来ない。それは仕方がないことである。
どんな理由があろうと殺人は殺人である。
犠牲者がいるのである。
いかなる行為であれ、そこに犠牲となる者が出てしまえば、その行為は正義ではなくなってしまう。
男もそれは分かっていた。
ましてや殺したのは赤の他人である。
これを正義ということができるわけはない。
しかし、男にはどうしてもやらなければならないことであった。
それも独りよがりな戯言なのだろう。
この行為は間違いなく罪なのだ。
証明するものは、赤い月だけだ。
だが、これが自分を正気と狂気、日常と非日常を分ける境界なのかもしれない。
男はそう思った。
人殺しという禁忌を犯した以上、もう元には戻れない。今までの自分とは違う自分をこれからは生きていかなければならないのかもしれない。
しかし、これは終わりではない。始まりなのだ。
境界を越えてしまった以上、元には戻れない。
だが、元に戻る気もないのだ。
男はこれからも何度も禁忌に触れることになるのだ。
赤い月は始まりの鐘なのだ。
最早、あの白く輝く月を見ることはないのだろう。
だがそれこそ男の願ったことだ。
あの日から、男の世界の太陽は堕ちてしまった。
太陽の代わりに現れる月など見たくもない。あの輝きは男には禍々しすぎるのだ。
ふてぶてしい輝きを放つ白い月よりも、男には赤い月がお似合いなのだ。
男は立ちあがった。
何を恐れることがあるのか。
この罪こそ、男とあの子をつなぐ唯一のつながりなのだ。
断ち切ってたまるものか。
男は空を見上げる。
空は白み始めていた。夜明けだ。
男は歩き出す。
空はすでに青く澄み渡っていた。
男の頭上には赤い月が煌々と照っていた。




