第零話 ノーザンハザード
古代国家ユートピア崩壊から700年、ヒューム大陸の歴史は争いの連続だった。戦争によって人口は大幅に減少し、化学兵器によって大陸周辺の海は1000年以上生物が住めない毒の海と化した。民族による住み分けが進み、崩壊暦700年代を迎えたヒューム大陸には東西南北4つの国が存在していた。
東のエレメントイースト。
西のワイルドウェスト。
南のサプライズサウス。
北のノクターンノース。
国境上では激しい戦争が繰り広げられ、四国は軍備拡張と新兵器の開発に必死だった。
そんな中迎えた崩壊暦717年。時の科学者ニコラス・N・ユワルドが『ルーインウェポン』と呼ばれる近代兵器の開発に成功した。その技術はすぐに漏洩し、四国はルーインウェポンの開発を競い合うこととなる。わずか3年の間に四国が配備したルーインウェポンの合計は100以上になると言われている。
その威力についても、小さな街を一瞬で吹き飛ばすといった割と現実的なものから、たった1つで世界を破滅させるといった大袈裟なものまで、様々な噂が飛び交った。いずれにせよ、従来の兵器とは一線を画す破壊力を持っていることは確かで、もしルーインウェポンを用いた戦争が起これば、歴史上類を見ないクラスの甚大な被害が出るのは明白だった。
それから10年以上、四国は極度の緊張状態にあった。緊張状態とはつまり冷戦状態であり、裏を返せば武力を交えた戦争は一切行われなかったということである。奇しくもルーインウェポンという人類史上最悪の兵器の恐怖によって、ヒューム大陸に見せかけの平和が訪れたのである。
しかし、それが嵐の前の静けさであることは、疑う余地すらなかった。崩壊暦729年、北の国ノクターンノースから、今まさに、悲劇の歴史が幕を開けようとしていた。
Δ Υ Σ Τ Ó Π Ο Σ
「死ねぇぇええ! じじぃ!」
雪の降り積もる寒空の下、声変わりしていないやんちゃな少年の声が響く。雪道を勢い良く駆けながら、少年は自慢の右肩で力いっぱい雪玉を放った。
「リオル!」
10メートル程離れた所で、中年の男が振り向きながら少年の名を呟く。男が咄嗟に雪玉を避けようと体を翻す瞬間を、リオルは見逃さなかった。
「甘いぜ!」
好戦的な少年の目が銀色の光を放つ。その瞬間、まるで魔法のように、中年の男の両足が一瞬にして凍りついた。
「し……、しまった!」
足を固められ、逃げ場を失った男の顔面に、リオルの放った拳大の雪玉が迫る。男は肉付きのいい両腕をクロスさせ、防御の姿勢をとった。
その時、リオルの目がまた銀色に輝いた。すると、男の顔面へ一直線に飛んでいた雪玉は、突然急浮上を始める。寒空へと高く飛翔し、そして、すぐに見えなくなった。
少ししてから、男が恐る恐る両腕のガードを下げた。不思議そうな顔で、辺りをキョロキョロと見回す。そして、一転、ニヤリと笑顔を浮かべた。
「ハハハハ! このノーコン野郎が。不意打ちで外すとは、情けねぇ野郎だ」
男はリオルを指差しながら、声を上げてあざけ笑った。しかし、リオルはまったく動じない。
「おいおい、クソじじぃ。オレを誰だと思ってやがる」
男をあざけ笑い返すような不敵な笑みを浮かべ、リオルは空を指差した。
「な……、な……」
リオルの小さな指、その先を見上げて男は驚愕した。上空5メートル、男の真上には大きな雪玉が浮遊している。それは、さっきリオルが投げた拳大のものとはまるでスケールが違う、直径1メートル近くあろうかという、雪だるまクラスの大きさだった。
上空を見上げたまま驚愕の表情を浮かべる男。しかし、その足元は凍りついていて、逃げ場はない。
「死ねぇぇええ! クソじじぃ!」
生き生きとした無邪気な笑顔とともに、リオルは右の拳を勢い良く振り下ろした。それと同時に、巨大な雪玉が落下し、男が断末魔のような叫びをあげる。
「ぁぁぁぁああああああ!」
ボスン! 大きく柔らかい雪玉が襲い掛かり、男は尻餅をついて生き埋めになった。
「っしゃあ!」
小さな拳をぐっと握り、リオルが歓喜の声を上げた。満面の笑みで勝ち誇る。
少しすると、埋もれた雪の中から男が顔を出した。口の中に入った雪をペッと吐き出し、童心に返ったように笑いながら立ち上がる。
「クソッ、リオルめ。やりやがったな」
左手で雪を払うと、男は、右手に隠し持っていた雪玉ですぐに反撃の態勢に移る。
「仕返しだ、リオル! これでも喰らえ!」
「来いよ、クソじ…」
「こら! リオル!」
リオルの背後から、耳をつんざく女性の怒鳴り声。凛としたその声色に、リオルだけでなく中年の男も思わず背筋を伸ばした。
怒声の方向。リオルの後ろから、一人の少女がズンズン歩み寄る。リオルや男と同じように、銀髪銀眼。キレイな顔立ちの少女は右手のおたまで、リオルの頭をカーンと叩いた。
「いってーな! 暴君テレサ。バーカ。バーカ。死んじゃえ」
「お姉ちゃんに向かってその口のきき方は何? だいたい、町長さんに雪玉をぶつけるってどういうことよ? しかも、天術まで使ってあんなに巨大なのを……。その特別な力は人を傷つけるためのものじゃないのよ」
姉のテレサはおたまを振りながら、頭一つ高いところから、リオルを睨みつけた。
またいつもの説教がはじまるのかとうんざりしながらも、リオルは負けじと姉を睨み返す。
「わかってるよ、そんくらい。だから、ちゃんと怪我しないように手加減してやってんじゃねぇか。じじぃはザコだからな」
「じじぃじゃなくて、町長さんでしょ!」
カーン! テレサのおたまが軽快にリオルの頭を打ち、脳みそがつまってるのか疑わしいほど小気味のよい音が響いた。
「いってーな! 暴君テレサ。バーカ。バーカ。死んじゃえ」
「リオル、いい加減にしなさい! 死んじゃえとか、簡単に言っていい言葉じゃないのよ。いつか大切な人を失ってからそのことを後悔しても遅いのよ」
「うるせー。バーカ。バーカ」
「まぁ、まぁ。その辺で……」
まだ少し雪にまみれた町長が歩み寄り、リオルの頭をくしゃくしゃと撫でた。そして、怒るテレサにも、優しく微笑みかける。
しかし、町長の笑顔は一瞬で凍りついた。テレサの怒りの矛先が、今度は町長に向けられたからだ。
「町長さんも、町長さんです。クソじじぃなんて呼ばれて、おっきな雪玉ぶつけられて、優しく頭なんて撫でてちゃダメです」
「いやぁ、それは何と言うか……。リオルは『精霊の子』だから、この町の希望だから、つい甘やかしてしまったというか……」
「そんなのダメです。叱る時は、きちんと叱る。精霊の子だからとか、そんなのは関係ありません。大人なんだから、子どもの教育はきちんとして下さい。そもそも、この町のそういう方針を打ち出したのは、町長さんですよね? しっかりして下さい」
「いやぁ、それは何と言うか……。面目ないというか、情けない限りで……」
町長は頭をかきながら、思わず苦笑いした。町長は今年で50歳になる。ちょうどリオルが生まれた年に町長に就任したから、もう10年もやっているのだが、未だに威厳は感じられない。
対して、リオルの姉、テレサはまだ16歳である。16歳の少女に叱られる50歳の男。しかも町長。その構図はあまりに滑稽で、10歳のリオルはクスクスと笑わずにはいられなかった。
「何笑ってるのよ、リオル! そもそもはリオルが悪いのよ。ちゃんと町長さんに謝りなさい」
「は? 何でオレが謝らなきゃいけねぇんだよ」
やんちゃなリオルが反論すると、テレサは優しく微笑んだ。
「いいのよ、別に……。ちゃんと謝れないなら、今日の夕食抜きだから」
あまりにえげつないテレサの宣告に、リオルは返す言葉を失った。とてもじゃないが、このお腹は明日の朝までもちそうにない。そもそも、今リオルは、夕食の買い出しのためにテレサと外出しているのだ。それによって夕食抜きになってしまっては、あまりにやるせない。
「……ごめんなさい。町長さん」
リオルは苦虫を噛み潰したような表情で、小さく頭を下げた。
やはり、テレサには勝てない。リオルはいつもそう思う。
精霊の子と呼ばれるリオルには、生まれつき自然を操る力が備わっている。天術と呼ばれるその力を使えば、腕っ節のいい大人の男が10人束になっても、リオルにはかなわない。
一方で、血の繋がった姉であるテレサは精霊の子ではない。天術どころか拳法もまったく使えず、戦闘面でできることといえば、せいぜいリオルの頭をおたまで軽く叩くくらいだ。
それでも、リオルはテレサには敵わない。
「卑怯だ。いつも夕食抜きだの、おやつ抜きだの……」
顔を上げながら、リオルは小さく呟いた。その不満がテレサの耳に届いたかどうかは定かではない。それでも、テレサは笑顔で頷き、リオルの頭を優しく撫でた。
そうされると、リオルはいつも不思議と温かい気持ちになってしまう。
しかし、リオルは口を尖らせてそっぽを向いた。姉の強引さにまだ納得がいかないわけではない。ただの照れ隠しだ。
「卑怯だ」
今度はちゃんとテレサに聞こえるように呟いた。さっきとは全然ニュアンスが違う。
「うん」
ニュアンスの違いも、リオルの気持ちも。全てを受け止めるように、全てを包み込むように。テレサは優しい姉の笑顔で頷いた。
その笑顔をチラッとだけ見たリオルは、またすぐにそっぽを向いた。でないと、怒ったフリを続けられる自信がなかったから。
結局の所、食べ物をエサにしなくても、リオルはテレサに敵わない。
リオルは、姉のテレサを誰よりも深く愛しているのだから。
テレサが哀しむのを、リオルは絶対に耐えられないのだから。
頭を撫でる姉の手を払おうともせず、本当はとっくに収まっている怒りを取り繕って、リオルは不機嫌そうに口を尖らせ続けた。
「では、失礼します。町長さん」
テレサは最後に丁寧にお辞儀をして、町長と別れた。イマイチ威厳に欠ける町長だが、町長になる前にはノクターンノースの政府で官僚をしていた超エリートである。どういう事情で帰郷して町長になったのかは知らないが、親しみ溢れるいい町長だとテレサは思っている。
「さぁ、さっさと行こうぜ」
町長を見送ったリオルとテレサは、市場を目指した。辺りは一面雪景色で、緑は全く見えない。港町アイスバーンは一年中、どこもかしこも銀世界なのだ。
2人とも幼い頃からこの町で育っているため、雪の上をつまずかずに、氷の上を滑らずに歩く方法を自然と心得ていた。等間隔に立つまだ明かりのついていない外灯を横目に歩を進める。
5分程真っ直ぐ歩くと、右折して細い路地に入った。左右を民家に囲まれたこの道を早足で抜けると、目の前の視界は一気に開ける。
紫色の大海原。どこまでも続く紫の水平線。
流氷の浮かぶ紫の海に、リオルとテレサは駆け寄る。これが、世界に広がる毒の海。大量の化学兵器の使用によって生物が住めなくなった哀しい海。
「「クーリアー!」」
2人は紫の海に向かって大きな声をあげた。それに答えるように高い波が防波堤を打ち、自然と笑顔がこぼれる。
キレイな海を願ったおまじない。港町アイスバーンに伝わる大切な習慣である。
もちろん、まだ10歳のリオルでさえ、こんなおまじないでは海がキレイにならないことはわかっている。自分たちが死ぬまでに決して青い海が戻らないことも知っている。
それでも、アイスバーンの人たちは未来に願いをかけ続ける。いつか遠い子孫がキレイな海で泳げるようにと。争いのない美しい世界で暮らせるようにと。
「クーリアー!」
向こう側から歩いてきたおばさんが、迫力のある声で紫の海に叫んだ。リオルとテレサは自然と温かい気持ちになり、笑顔でおばさんとすれ違う。
『まず、自分たちの心をキレイにすることから始めよう』
300年以上前に誰かがそう言いだして以来、この素敵な習慣は街に強く根付いている。そういう優しい人々で溢れるこの町が、リオルもテレサも大好きだった。
海沿いを歩くと、すぐに一際大きな平屋づくりの建物が見えてきた。大きな三角形の屋根と広い敷地が特徴的な、この町で最も活気溢れる場所。港の市場である。
「らっしゃーい!」
「タイムサービス! 今しかないよ!」
市場に足を踏み入れる前から、景気のいい声が耳元へと届く。日の出のずっと前から、日の入りギリギリまで。この場所は毎日多くの人とエネルギーで溢れている。
「リオル、ちゃんとメモ持ってる?」
雪道を歩きながら、テレサが問いかけた。リオルは小さく頷くと、ポケットから四つ折りの紙キレを取り出した。
『 今夜は特製ラムシチューよ♪
羊肉 1kg チカラ屋さんのいつもの特製骨付きラム
ミルク 2本 早く大きくなりたいなら3本買ってきなさいね、リオル
ポテト 6個 形より大きさ! 芽が出てるものはダメよ
ベジタブル 70ギルドを上限に、お姉ちゃんにおまかせ 』
母からのメモをざっと確認して、リオルはそれをテレサに手渡した。
「まず、チカラ屋さんでラムとミルクかな。あっ……。でも、重いから一番最初にするのは良くないか……。荷物持ちが大人の男だったら、別に問題なかったんだけどなぁ……」
わざとらしくリオルの方をチラチラと見ながら、テレサは独り言のように呟いた。
「は? 余裕だよ、そんくらい。ガキ扱いすんじゃねぇ」
「それは頼もしいわね。チカラ屋さんの特製ラムは、早くに売り切れちゃうから助かるわ」
精霊の子リオル。しかし、リオルが操れる天術は氷属性であって、その能力は荷物持ちには役に立たない。まだ細いその腕ではすぐにへばってしまうのは目に見えている。
それでも、頼もしいというその言葉はテレサの本心だった。
『強がらない男の子は、絶対に強い男にはなれない』
それは、2人の母の言葉だった。
「片手で余裕だよ、そんくらい」
リオルはこういう場面で必ずムキになって強がる。だから、テレサはリオルの将来が楽しみで仕方なかった。姉として。そして、1人の女性として。
少なくともあと10年は弟離れできそうにないな、とテレサは思う。絶対に離れたくなんてない。もし、そのまま一生弟離れできなかったらどうしよう……。
そんなことを考えていると、テレサは何だか急におかしくなって笑えてきた。
「オレが持てないと思って、バカにしてるんだろ!」
「違うわ。リオルはきっとモテるわよ。絶対にいい男になる。私が保証するわ」
リオルにはテレサの発言の意図がよくわからなかったが、それでも悪い気はしなかった。
2人は入り口からそう遠くない行きつけの店を目指し、活気溢れる市場を進んだ。チカラ屋の前まで来ると、おばさんの怒鳴り声が聞こえてくる。
「ちょっと! チキンもポークも無いってどういうことよ!」
「こっちが聞きてぇよ……。今日の入荷が無いから電話してみたら、仕入先にも配送先にも繋がりやしねぇ。ったく……、いったい何が起こってんだよ」
顔を真っ赤にして怒る恰幅のいいおばさんに、チカラ屋の店主はタジタジの様子だった。
「もういいわ、こんな店。他を当たるわ」
「おい、おばちゃん。他の店に行ったところで同じだぜ」
「おばちゃん? アタシはまだそんな歳じゃないわ」
一度は店に背を向けたおばさんが、無駄な肉を揺らしながら振り向き、店主に噛み付いた。
「それは悪かったよ、お姉さん……。ともかく、どういうわけか、今日はどこの店にも肉が届いていないんだ。他の店も在庫は全部売り切れちまったらしいよ」
「何ですって! あなたたちは肉屋でしょ? 肉屋がケンカを売ってどうするの? 隣町でも、牧場でも行って、さっさと肉を仕入れて来なさいよ」
「無茶言いなさんな……」
チカラ屋の店主はうんざりした様子で、ため息混じりに呟いた。
いや、チカラ屋の店主だけではない。周囲の店も、その客も、テレサも。全員が一様に困った様子だった。恰幅のいい彼女は、この近所では有名なクレーマーなのである。
活気のあった市場を、重苦しい雰囲気が包む。
「そんなに肉が欲しいんなら、自分のぜい肉でも切り落とせばいいじゃねぇか」
その一言に、辺りが一瞬で凍りついた。そんなブラックジョークを呟いたのは、もちろん店主ではない。怖いもの知らずの少年、リオルだ。
「ちょっと、アンタ! それ、どういう意味よ!」
「どうもこうもねぇよ。そうすりゃ、おばちゃんは肉を食べられて、しかも痩せられる。一石二鳥じゃねぇか。まぁ、ゲテモノ以下のクソ肉だから、腐った味が…」
そこまで言った所で、テレサが慌ててリオルの口を塞いだ。テレサは明らかに引きつった笑顔でおばさんに微笑みかけ、小さく会釈をする。
「何ですって! このクソガキが!」
このおばさんは10歳のリオルと同レベルだな、とテレサは心の中で思った。それでも、腕の中で暴れようとするリオルの口を必死に押さえつけ、これ以上、事が荒立たないように、できる限り柔らかい笑顔を取り繕った。
とは言っても、テレサは謝ったりするつもりはない。そんなことしたら、リオルが本気で暴れ出すのは目に見えているからだ。それに、個人的には、皆の意見を痛快に代弁したリオルを褒めてあげたいくらいだった。
そういう勇猛果敢さというか、無鉄砲さが、時々、男としてとても頼りになる。まぁ、それは本当に時々で、ほとんどはこうやってトラブルにしかならないのだけれど……。
おばさんはリオルとテレサを交互に睨みつけ、チカラ屋の付近を一触即発の空気が包んだ。何とかならないものだろうかと、テレサが心の中で祈った、その時である。
「ブリザードが来るぞ!」
入り口の方から大きな声が響いた。皆が一様に恐怖に顔を引きつらせ、慌てふためく。
テレサの祈りは、かなり最悪な形で現実のものとなった。ブリザードとは、北の国ノクターンノースで起きる予測不可能の自然災害。窓の無い頑丈な石づくりの家にいれば大抵は問題ないが、このブリザードに直接飲み込まれると、死の危険がある。過去には何千人単位の死者が出たことすらある。
「とにかく、早くドアを閉めろ! ブリザードを市場に入れるな!」
「ダメだ! 間に合わねぇ」
大勢の人々と大きな車両が出入りする市場の扉は、普通の扉とはまるでスケールが違う。機械仕掛けで、閉めるのにも1分以上かかる。
「みんな、動きを止めたらすぐに凍りつくぞ! 小刻みに体を揺らすんだ!」
「小さな子はしっかり抱いて離すなよ!」
入り口の方から次々と怒声が飛び交う。
姉のテレサ、チカラ屋の店主、クレーマーのおばさん。隣や近くの店の店員に、それぞれの買い物をしていた客。さらには、クレーム騒動で集まってきた野次馬たち。周囲の視線が一点に集まった。その視線の先にあるのは、皆の不安や恐怖を切り裂く希望の光。
精霊の子、リオル。銀色に光り輝くその両目は、この町全員の希望だった。
「任せとけ。オレが何とかするから。だからそんな顔すんな」
頼もしい言葉とともに、少年は皆を勇気づけた。
リオルは、精神を統一して目を閉じる。雪と氷を巻き上げて、ブリザードが一気に迫るのを感じる。かなり巨大なブリザードだ。自分の天術だけでは抑えきれないかもしれない。かなりの被害が出てしまうかもしれない。リオルは冷静にそう分析した。
「大丈夫だ、この規模なら何とか制御できる。誰1人ケガなんてさせねぇ」
それでも、リオルはそう言って、皆と自分を鼓舞した。
強がりなリオルだって、まだ10歳の少年。特別な力を持ち将来を期待されているけど、本当は不安なことだらけなのだ。だから、いつも小さなことでブツブツ文句を言って町の人に突っかかるし、時々家族にも甘えたくなる。
それでも、いや、だからこそ、リオルはこういう場面でだけは決して弱音を吐かない。
この町の人々が大好きだから。自分が弱音を吐いたら、この町の人々は希望を抱けなくなるから。たとえ結果として上手くいかないことがあるとしても、事前にそれを悟られてはならない。それが希望というものなのだ。
「頼むぜ、リオル」
チカラ屋の店主の声に、リオルは目を閉じたまま頷いた。
「リオル、頑張って」
「負けんなよ、リオル」
明るい皆の声がリオルの耳に届く。しかし、その中にテレサの声はない。
すると、目を閉じたリオルは、背中と首筋に優しく温かい感触を覚えた。
あぁ、やっぱりテレサにはバレてるのか……。リオルは心の中で小さく呟いた。
テレサだけは、自分が虚勢を張っていることに気づいている。だから、何も言わず後ろから優しく抱きしめてくれるのだ。やっぱりテレサにだけは絶対に敵わない。
だったら、こんなブリザードくらい何とかできるんじゃないだろうか? そんな根拠の無い勇気まで湧いてくるから不思議だ。リオルが町の人々にとっての希望なら、テレサはリオルにとっての希望なのかもしれない。強がりが本物の強さに変わるのをリオルは感じた。
「ブリザードが来るぞ!」
「みんな体を震わせろ! 絶対に止まるなよ!」
入り口からの声と同時に、リオルは目を開いた。周囲の人々は、凍りつかないように体を小刻みに震わせ始める中、一人静かに精神を統一する。両手を前にかざし、銀色に光輝く瞳で市場の巨大な扉を凝視した。
その時、市場の気温が一気に20度以上下がった。それは、北の国ノクターンノースを苦しめ続ける大災害、ブリザードの幕開けを告げる合図。そして、次の瞬間。
「来た!」
男の叫び声の直後、ゆっくりと閉まっていた扉が音を立てて一瞬にして凍りついた。その扉の隙間から、雪と細氷を大量に含んだ猛吹雪が、唸るような轟音とともに押し寄せる。
「はあっ!」
リオルは両目を銀色に光らせ、舞い踊る雪と細氷を扉の外へと押し戻す。氷属性の天術の使い手であるリオルは、雪や氷を操ることができるが、風までは操れない。雪崩を止めることはそう難しくないが、このブリザードは予測不可能な風が厄介なのだ。
凍りついた扉の隙間から、冷たい風がびゅうびゅうと凄まじい音を立てて市場の中に侵入した。リオルの天術によって細氷や雪は失われているため、あらゆるものを凍てつかせる程の冷気ではない。それでも、市場の中を激しく吹き荒れる冷たい風は、人々の体力をどんどん奪っていく。
「ぅえーーーん。ぅえーーーん」
遠くから、小さな子どもの泣き声が聞こえてきた。しかし、それすらかろうじて聞こえる程度で、市場に吹き込む冷たい風はどんどんその威力を増していく。
びゅうびゅうと吹き荒れる冷たい風の音。紙キレが舞い、商品が舞い、買い物袋が舞った。その場に立っているのがやっと、目を開けていられない程の強風。それでも、市場を荒らす冷たい風に負けるものかと、皆、必死に体を震わせている。
その時、リオルは扉の外から、さらに強力なブリザードが近付くのを感じた。とても、じゃないが、手に負える規模ではない。
「くそっ!」
大量の雪と細氷で真っ白に染まった風が、扉の隙間から一気に市場へと押し寄せた。相当な冷気とパワーを備えたブリザードである。
リオルは意識を集中し、必死に雪と細氷を市場の外へと押し出した。その瞳は先程以上にまばゆい光を放っている。
しかし、あまりに強力なブリザードで、天術で跳ね返すことができた雪や氷はせいぜい8割程度だった。凍りついたドアの隙間から、押さえ切れなかったブリザードが市場に吹き込む。
一瞬にして視界が真っ白に包まれ、すぐ隣のテレサも見えなくなった。リオルは急に不安になって、思わずドアから視線を逸らしてしまう。
「テレサ!」
「私は大丈夫よ、リオル! みんなを助けるんでしょ?」
真っ白な視界の中、テレサのしっかりとした声を聞いて、リオルは安心した。もう一度、市場の大きなドアの方へ意識を集中する。
低い轟音を立ててブリザードが吹き荒れ、キラめく高音とともに市場の中のものを次々と凍りつかせていく。床が、壁が、天井が、商品が、次々と凍りついていくのを感じた。
「体を震わせろ! 止まったら死ぬぞ!」
吹き荒れるブリザードの中、凍てつく風の轟音に負けじと、人々は大きな声を上げて、互いを鼓舞し続けた。
「クソ野郎がぁ!」
リオルも負けじと踏ん張る。真っ白な視界の中、巨大なドアは見えないが、天術を駆使して雪や氷の動きを感じ取ることができた。リオルは必死に、ブリザードを市場の外へと押し戻す。
皆の体力も限界に近い。これ以上ブリザードを市場の中に入れるわけにはいかない。
ここが正念場。リオルの体力も限界に近いが、こんな所でへばるわけにはいかない。
誰1人ケガなんてさせねぇって、そう言ったんだ。
「なめんなぁぁああ! バカ野郎!」
リオルは必死に力を振り絞った。市場の中を暴れまわっていた雪と細氷が白い一団となって、冷たい風を引き裂く。そして、巨大なドアへと一気に逆流した。
内からのリオルが操る雪と細氷、外からのブリザード。2つの大きな勢力が巨大なドアの所でひしめき合う。一進一退の攻防。リオルは足を震わせて寒さに耐えながら、両手の延びる先、巨大なドアの隙間に全ての力を込めた。
「死ねぇええ!」
襲いかかったブリザードがわずかに後退すると、叫び声とともにリオルの天術が一気に押し切った。白い塊が扉から流れ出て、ふわりと市場の外の空へと舞う。
市場の中を漂っていた雪や細氷も、つられて外へと押し流された。真っ白だった視界が一気に晴れる。少し遅れて、風も静まる。ブリザードは完全に収まった。
「みんな、大丈夫か?」
「ケガをしているヤツはいねぇか?」
すぐに安否確認をする声が次々と飛び交う。
「こっちは大丈夫だ」
「子どももみんな無事よ」
幸い、返答はどれも明るいものだった。少し遅れて、皆の表情も晴れていく。
安堵のため息をつくと、どっと疲労感が押し寄せ、リオルは凍りついた地面に座り込んだ。天井には小さな氷柱がいくつもできている。店の商品もみんな凍ってしまったが、この際、そんなのは些細な問題である。
「大丈夫、リオル?」
すぐにテレサはしゃがみこみ、リオルの顔色を伺った。
「大丈夫……、じゃないかな? ちょっと疲れた」
そう言って、リオルはテレサの肩にもたれかかった。強がってみようとしたが、全力を出しつくした後の気だるさで、甘えたい気持ちが勝ってしまった。
テレサはリオルの気持ちを受け止め、優しく抱きしめてくれる。
「良くやったぞ、リオル!」
チカラ屋の店主がテレサに抱きしめられたリオルの背中を強く叩いた。普段なら、「いってーな! クソじじぃ」と食ってかかる所だが、今はそんな元気はない。
「良くやったぞ、リオル。やるじゃねぇか」
「さすがは、精霊の子。希望の光」
町の人々はリオルを心から賞賛し、テレサに抱きしめられた小さな頭を変わる変わるくしゃくしゃに撫でた。
「あ~、もう! オレはお前らのオモチャじゃねえんだよ!」
照れくささに耐え切れなくなって、リオルはうざったそうに大きな声を上げた。顔を真っ赤に染めて恥ずかしがるリオルに、町の人々は声を上げて笑った。
「何照れてるのよ、アンタ。よくやったわ」
どういう手の平返しだろうか? ブリザード前は一触即発の状態にあった、あのクレーマーのおばさんまで、リオルを褒め称えて頭を撫でてくる。
「うるせぇ、クソばばぁ」
テレサにだけ聞こえる声で、リオルは照れながらもちょっと拗ねてみせた。テレサもリオルの耳元だけでクスリと笑った。
本当によくやった、とリオルは自分でも思う。あんな規模のブリザードを、ケガ人を一人も出さずに跳ね返せるとは思えなかった。自分でも信じられない。
天術は常に一定の力を発揮できるわけではなく、コンディションによって、特に精神状態によって大きく左右される。
こんな力を出せたことは、今までに一度も無い。どんぶり勘定で見積もった自分の力のさらに2倍以上。本当に嘘みたいで、リオルはとても信じられなかった。
でも、皆には、今のブリザードの規模も、それを押さえ込むためにどれだけの天術が必要だったかもわからない。だから、リオルがスゴイことをしたのはわかっても、どれだけ頑張ったのかを皆はよくわかっていない。
「偉いよ、リオル。みんなを守るために本当によく頑張った。リオル……、私の自慢の弟」
でも、テレサだけはきっととわかってくれている。天術は使えないけど、それでも弟のことはいつもちゃんとわかってくれている。だから、今にも泣きそうな声で、こんなに力いっぱい抱きしめてくれるのだ。
リオルにとってもテレサは自慢の姉だった。恥ずかしいから誰かに自慢したことなんて一度もないけど、いつもそう思っている。自慢の姉に、自慢の弟と言われた。リオルにとってこんなに嬉しいことはない。そう思うと、疲れも一気に吹き飛んだ。
でも、もう少しだけ。リオルはまだ疲れたフリをして、優しい姉の胸に顔をうずめた。
少しして、リオルは市場が異常な盛り上がりを見せているのに気がつく。
「「「アイリス! チャチャチャッ! アイリス! チャチャチャッ!」」」
手拍子に合わせて声を上げ、大の大人がまるで子どものようにバカ騒ぎをしている。
「よっ、アイリス!」
「よっ、希望の光!」
そんな合いの手まで聞こえてきた。リオルとテレサは顔を見合わせて立ち上がる。凍った床に足を滑らせないように気をつけながら、急いでその声のする方へと駆けた。
「「「アイリス! チャチャチャッ! アイリス! チャチャチャッ!」」」
氷の床を一歩駆けるごとに、群集の声と手拍子が大きくなっていく。この悪ノリはまるでお祭り騒ぎだ。市場の中央付近に出来た人ごみをかき分け、リオルとテレサはその中心を目指す。
リオルの中の違和感が確信へと変わっていく。おかしいと思ったんだ。いくら、天術が精神状態によって大きく左右されるとはいえ、普段の2倍以上の力なんて出せるものじゃない。
では、何故あんな巨大なブリザードを制御できたのか。その答えは簡単だ。
「アイリス!」
人ごみをかき分け、リオルはお祭り騒ぎの中心にいる少女の名前を叫んだ。リオルに気づいたアイリスも驚きの表情を返す。
リオルと同い年の10歳、幼馴染のアイリス。
この町のもう1人の精霊の子。リオルと同じ氷属性の使い手。
「あれ? リオルじゃねぇか」
相変わらず止まないドンチャン騒ぎの中、大人たちのそんな呟きもチラホラと聞こえる。
「「「アイリス! チャチャチャッ! アイリス! チャチャチャッ!」」」
歓声の中心で、アイリスは小さな体に不釣合いな大きな紙袋を抱えていた。
すると、一人の男が踊りながらアイリスに近付く。男は、右手に持っていた可愛らしい人形をアイリスに見せた。おそらく店の商品だろう。先程のブリザードのせいで氷漬けになっている。その人形を見たアイリスは、目をキラキラと輝かせて頷いた。すると、男はその人形をアイリスが抱えた大きな紙袋に入れ、人ごみの中へ消えていった。
その時、リオルに遅れて、テレサがようやくアイリスの元に辿り着いた。大人の女性と変わらない身長のテレサは、この人ごみをかき分けるのにだいぶ苦労したようである。
「「「アイリス! チャッチャッ! アイリス! チャッチャッ!」」」
「アイリス、このお祭り騒ぎは何なの?」
大きな拍手と歓声に負けないように、テレサは声を張り上げてアイリスに問いかけた。
アイリスがゆっくりとテレサのもとに歩み寄る。テレサはすぐに気を利かせてかがみ込み、アイリスの口元に自分の耳を寄せた。同い年のリオルと違い、アイリスは大人しく静かなタイプなのだ。大きな声を張り上げるのはあまり得意ではない。
「私がブリザードを防いだら、お祭り騒ぎになっちゃって困ってるの」
物静かなアイリスはテレサの耳元で呟いた。
アイリスが抱える大きな紙袋の中には、氷漬けになったお菓子やらオモチャやら、アイリスの好きそうなものが色々入っていた。ブリザードで氷漬けになってしまった商品は売り物にならない。でも、氷属性の天術を使えるアイリスなら、商品を傷つけずに氷をとかすのは造作も無い。それで、感謝を込めて、皆が次々にアイリスにプレゼントをしているというわけだ。
なるほど、とばかりに頷き、テレサは納得した。しかし、そんな説明では彼が納得しない。
「ふざけんな! あのブリザードを止めたのはアイリスじゃねえ。オレだ!」
リオルはかなり頭に来た様子で、大きな声を張り上げた。
「「「アイリス! チャチャチャッ! リオル! チャチャチャッ!」」」
相変わらずのお祭り騒ぎの歓声には、いつの間にかリオルの名前も入っている。
アイリスが背伸びをして、もう一度テレサの耳元に口を近づけた。
「ブリザードの時、リオルも市場にいたの?」
その問いに、テレサはアイリスの目を見てから頷いた。
リオルもブリザードを止めたの? そう重ねて尋ねるほどアイリスは野暮ではない。
幼馴染のリオルの性格はよくわかっている。頭で考えるより先に行動してしまうタイプ。だいたいはトラブルしか起こさないが、時々とても頼りになるのだ。本当に時々だけど……。
「リオルが次に頼りになるのは、何年後かしら?」
テレサが耳元で呟くと、アイリスは可笑しくなって思わず噴き出し笑いしてしまった。
「なに笑ってんだよ!」
「リオルとアイリス、仲良くブリザードを追い払って、とってもお似合いねって話してたのよ」
声を荒げるリオルを上手くかわし、テレサが返す。リオルもアイリスも顔を真っ赤に染めた。
「ふざけんな! あんなブリザード、オレ1人で余裕だったし」
リオルの言葉に、アイリスが怒って口を尖らせた。もちろん、そんなハズないことはリオルが一番わかっている。それでも、照れ屋のリオルはそう言い返さずにはいられない。
そして、リオルがそう言わずにはいわれなかった理由はもう一つあった。
アイリスだけ、お菓子とかオモチャとか貰ってズルい。
しかし、そんなことを言うのはガキみたいで、少年のプライドが許さなかった。
「欲張りアイリス! 欲しがりアイリス! 強欲アイリス! 人助けの見返りに求めていいのは笑顔だけなんだぜ。お前の正義は偽者だ。悪者アイリス!」
だから、結果的にこういう突っかかり方になってしまう。アイリスは涙目になって大きな紙袋をぎゅっと抱きしめた。
「「「アイリス! チャチャチャッ! リオル! チャチャチャッ!」」」
「お~い、リオル!」
突然の大きな声に振り向くと、そこには大きなフィッシュを持ったチカラ屋の店主がいた。
フィッシュはリオルの大好物。思わず心が躍った。
「リオル、さっきのお礼に、このフィッシュいるか?」
「くれ!」
リオルは屈託の無い笑顔で即答した。
買い物を終えたリオルとテレサは、アイリスとともに家路についた。シングルマザーであるアイリスの母親は、先週から、仕事で国境沿いの首都にいる。こういうことはよくあるのだが、その度にアイリスはリオルの家で一緒に夕食を食べるのが習慣になっている。
もう午後4時半を回って、辺りはすっかり暗くなっている。北の国ノクターンノースの中でもかなり北の方に位置するこの町は、極端に日が短く午後4時には暗くなってしまうのだ。
等間隔に道を照らす街灯を横目に、静かに降り積もる雪明かりの中、三人は歩を進める。しかし、その足取りは重い。
「ほら、もうちょっと早く歩きなさい」
先頭を歩くテレサが後ろを振り返ると、リオルとアイリスは5m以上後ろを歩いていた。2人ともそっぽを向いたまま薄暗い雪道を歩いているので、時間がかかってしょうがない。
「早くしないと夕飯も遅くなっちゃうわよ」
「誰のせいだよ……。欲張ってあれもこれも貰うから、こんな時間になったんだ」
ようやくテレサに追いついたリオルが不満そうに呟くと、アイリスはふくれっ面をした。
「男はグチグチ言わない」
カーン! テレサはリオルの頭をおたまで叩いた。
「女の子はそんな顔しない」
ぷしゅっ! テレサは両手でアイリスの顔を挟みこみ、そのふくれっ面をしぼませた。
大きな紙袋を抱えたアイリスはご機嫌斜めのようで、そっぽを向いたままだ。リオルに強欲だの悪者だの言われたことを、ずっと怒っているのだ。リオルはリオルで謝る気配すらないし、市場からここまで、2人はずっとケンカをしたままなのである。
リオルの扱いに慣れたテレサだが、アイリスとセットになった時は別だった。同い年の精霊の子で、2人は何かと比べられることが多い。だから、負けず嫌いのリオルは、アイリスの前ではとにかく強がる。ここで、食事抜きと言ったら、本当に倒れるまで食事を我慢しかねないから、困ったものだ。
「ほら、すげぇだろ。フィッシュだぜ!」
ご機嫌斜めのアイリスとは対照的に、リオルはケロっとした様子で、通りすがりの人にフィッシュを自慢している。幼い少年の手に握られた大きな魚に、皆一様に驚いた顔を浮かべた。
毒の海に囲まれたヒューム大陸、しかも凍らない湖が数えるほどしかない北の国ノクターンノースで、フィッシュはなかなか手に入らない高級品なのだ。
「人助けの見返りに求めていいのは笑顔だけじゃなかったの?」
テレサは呆れ顔で尋ねた。
「本当に必要なもんは貰ってもいいんだよ。しょうがないだろ、ラムもチキンも売ってないんだから。オレは誰かさんと違って、あれもこれも貰ったりはしねぇんだ」
アイリスは唇をきゅっと噛むと、涙をこらえながらリオルを睨んだ。
「何泣きそうになってんの? やーい、泣き虫アイリス」
「泣いてないわ」
「でも、目ぇ真っ赤だぜ。やーい、アカメ、アカメ」
「リオル! いい加減にしなさい!」
テレサは声を荒げ、本気で怒った。普段とは違うテレサの剣幕に、リオルは思わず、しゅんとなってしまう。
『アカメ』とは、西の国の人々に対する差別用語である。ヒューム大陸の人々は、国によって瞳の色が違う。リオルたち北の国の人々の瞳は銀色。西の国は赤、東の国は緑、南の国は黄色。ギンメ、アカメ、ミドリメ、キメ、という呼び方は、それぞれの民族を蔑んだ差別用語になる。
「そういうこと言っちゃいけないんだよ」
テレサという後ろ盾をえて、アイリスがリオルに追い討ちをかけた。まだ充血しているアイリスの目だが、赤くなっているのはあくまで白目の部分であり、瞳の赤い西の国の人々とは全く別物。北の国のアイリスの瞳の色は生まれた時から死ぬまで銀色なのだ。
「何ビビってんだよ。西の国のワイルドウェストなんて、いつかオレがぶっ潰してやるよ」
血の気の多いリオルの言葉に、テレサは思わずため息をついた。大人たちが歴史教育をすると、子どもたちはどうして悪いことばかり吸収してしまうのだろう……。
広場中央へと差し掛かりると、『凍てついた泉』と呼ばれる噴水が見えてきた。凍てついた泉は港町アイスバーンを象徴するモニュメントである。四方向に放物線を描いて散る噴水は300年以上前から凍りついたまま。水面、いや、氷面には同心円状に4つの波紋が広がり、ぶつかることなく穏やかに溶け合っている。
凍てついた泉は、単に氷と港の町としての象徴に留まらない。300年以上凍ったままということは、つまり、この地で300年以上戦争が起こっていないということである。町の人々にとって、凍てついた泉はとても大切な平和の象徴なのだ。
古代国家ユートピアの崩壊後、ヒューム大陸の歴史は悲惨な戦争の繰り返しだった。その中で、300年間争いに巻き込まれていない町というのは、数えるほどしかない。
凍てついた泉が見えた瞬間、リオルとアイリスが走り出した。2人は荷物を持ったまま左右に分かれ、凍てついた泉の周りのベンチに積もった雪を片手で落とし、また次のベンチへと走る。
これは、単なる子どもの遊びではない。港町アイスバーンの人々の大切な習慣なのである。凍てついた泉の傍を通る時は、大人も皆、ベンチに積もった雪を落とす。次にここに来た人が気持ちよく座れるようにである。それだけ、港町アイスバーンの人々にとって、この凍てついた泉は大切なのである。
そして、これは2人の競争でもあった。ベンチは5つしかない。リオルもアイリスも、ほぼ同時に2つ目のベンチの雪を落とし終えた。2人とも急いで最後のベンチへと駆ける。
アイリスが大きな紙袋を落としそうになって、バランスを崩した。その隙にリオルは最後のベンチに駆け寄り、満面の笑みで雪を落とした。
テレサが2人の傍に歩み寄ると、競争に勝利したリオルが小さな体をめいいっぱいに使って2人がけのベンチに腰かけていた。負けたアイリスは近くで小さくうずくまっている。
その時、アイリスの目が銀色に光った。天術を使い、小さな雪玉をリオルの顔面にぶつける。
「この野郎!」
雪まみれの顔になったリオルも、売られたケンカを即決で買い取り、その両目を光らせた。倍返しの雪玉がアイリスを襲う。
「2人ともそこに座りなさい!」
天術でケンカを始めた2人を、テレサは激しい剣幕で厳しく叱りつけた。
リオルは下を向きながらしゅんとして横にズレ、アイリスと一緒にベンチに座った。顔にまだ少し雪のついた2人が恐る恐るテレサを見上げる。
「ここのベンチに積もった雪を落とすのはとても素敵な町の習慣よ。でも、それで競争してケンカしてたら何の意味もないじゃない。わかる? 凍てついた泉は平和の象徴なのよ」
テレサの言葉に、リオルとアイリスは目を伏せた。2人ともこの噴水の大切さは肌で感じていたが、テレサに怒られた所で、目に見えない平和の大切さはよくわからなかった。
「あなたたちのその特別な力は、人を傷つけるためのものではないのよ。人を守るための力。精霊の子は平和な世界への希望の光なんだから」
精霊の子は200年程前から、突如としてヒューム大陸に生まれ始めた。古代国家ユートピアは、天候を操る精霊ガイアテルを信仰することで平和を維持していたと言い伝えられており、精霊の子は世界に再び平和をもたらす存在と言われている。その存在はとても貴重で、今現在、ヒューム大陸全土、東西南北の四つの国を合わせても、精霊の子は100人程しかいない。
200年程前に生まれ始めたにも関わらず、未だに精霊の子が少ない大きな理由に、極端に短命であることが挙げられる。平均寿命はおよそ7歳。10歳まで生きることはないと言われていた。
しかし、それも今は昔。リオルもアイリスもすでに10歳を迎えている。他の国にも、リオルと同年代の精霊の子が何十人といると聞く。医学の進歩、遺伝子治療によって精霊の子は時間の呪縛から遂に解き放たれた。平和な世界の実現に向けて、精霊の子の更なる活躍が期待されている。
そして、この12年間、ヒューム大陸では一度も戦争が起きていない。
しかし、その平和をもたらしたのは、精霊の子でもなければ、人々に目覚めた慈愛の心でもなかった。
ルーインウェポン。
12年前に完成した史上最悪の兵器が、奇しくもこの大陸に平和をもたらした。必要悪という形の正義もあるのかもしれない。一部の大人は、そう考えを改めつつあった。
ともかく、戦争を知らない時代に生まれてきた自分たちは幸せだとテレサは思う。リオルにもアイリスにも、争いとは無縁の世界で育って欲しい。
「仲直りの印に2人で手をつないで歩きなさい」
「は!?」
テレサの突然の提案に、リオルは声を上げ、アイリスは目を見開いた。2人の顔が赤く染まっているのは、肌を刺すような寒さのせいではない。むしろ2人の顔は火照っていた。
「何で手をつないで歩かなくちゃならねぇんだよ! もうガキじゃねぇんだよ!」
「その反応がガキなのよ、リオル。ほら、見てみなさい。あそこの大人な2人を」
雪明りの夜道を手を繋いでゆっくりと歩くのは、20代くらいのカップルだった。雪の払われたベンチを見つけると、2人は嬉しそうに顔を見合わせ、ぴったりくっついて座った。
そして目を瞑ってゆっくりと唇を重ね合わせる。大人の時間が流れた。重なった唇は一向に離れない。それはリオルとアイリスの知っているキスとは少し違った。
「あれが大人……」
リオルが神妙な顔つきで呟き、アイリスも頷いた。食い入るように眺めていた2人の視界に、テレサがさり気なく入る。
予想外の出来事に、テレサも動揺を隠せなかった。コホン。そして一つ咳払い。
「ともかく、大人は手を繋ぐくらいでイチイチ恥ずかしがったりしないのよ」
そうは言われても、手を繋いで歩くのはやはり照れくさい。リオルは体を倒してまた大人のキスを覗こうとする。照れ隠しにテレサを困らせてやりたかったのだ。
「もう! リオル」
テレサに目隠しをされ、リオルの視界が真っ暗になった。
その時である。リオルは自分の右手に、温かく優しい感触を覚えた。驚いたリオルは左手でテレサの目隠しを払い、ゆっくりと自分の右手を見る。
「早く帰らないと、夕飯が遅くなっちゃうから」
アイリスは夜風に消えそうな小さな声で言った。そっぽを向いていたが、それでも、アイリスの頬が真っ赤に火照っているのがリオルにはわかった。その熱が、繋いだ手を通して、自分の頬へと伝わっていくのを感じた。
「女の子にリードされてるようじゃダメよ、リオル。男ならしっかりエスコートしなきゃ。まぁ、でも、まだガキのリオルには無理かなぁ……」
そう煽ったあと、ちょっと白々しかっただろうか、とテレサは心の中で思う。
「ガキじゃねぇよ! それくらいできるよ!」
しかし、リオルはあっさりと釣られ、粋がって立ち上がった。
「行くぞ、アイリス」
繋いだ手を強引に引っ張るリオル。少し戸惑いながらも、アイリスが恥ずかしそうに頷いた。
リオルがアイリスの手を引いてずんずん雪明かりの夜道を進んでいく。テレサは後ろから2人を見守りながら歩いた。リオルの強引さはエスコートとは程遠いが、一歩遅れてついていくアイリスは嬉しそうだし、これはこれで微笑ましい。
そんな心温まる光景を眺めながら、素敵な未来が2人を待っていますように、とテレサは願う。まぁ、可愛い弟をアイリスに譲る気は、まださらさらないけれど……。やっぱり、少なくともあと15年は弟離れできそうにない。
日没からすでに2時間ほど経過した、午後6時過ぎ。リオルは、父親、母親、姉のテレサ、そしてアイリスとともに食卓を囲んでいた。
「うんめぇ」
母とテレサが腕によりをかけて作ったシチューを頬張りながら、リオルは声を上げた。特に朱色に輝く脂ののったフィッシュがたまらなくうまい。
「まさか、おつかいに頼んだラムがフィッシュになるとは思わなかったわ」
「あぁ、フィッシュなんて食べたのは何年ぶりだろうな。これは本当に格別だ」
スプーンを口に運びながら、リオルの両親もこのフィッシュを絶賛した。
「リオルとアイリスのおかげよ。2人でブリザードを食い止めて、すごい活躍だったんだから」
夕食中ずっと、この話題で持ち切りである。リオルとアイリスはそれだけスゴイことをやってのけたのだ。両親も、リオルも上機嫌で温かい団欒の時間だった。
しかし、アイリスはずっと浮かない顔を浮かべている。
「ほら、アイリスももっと食べなさい。フィッシュなんて滅多に食べられないんだから」
リオルの母が、鍋からフィッシュを選んで、アイリスの器によそう。アイリスは小さく頷くも、やはり元気が無い。
リオルとのケンカを引きずっているわけではない。手を繋いで帰宅した時には、むしろ相当に上機嫌だった。それでもアイリスが浮かない様子なのは、とても心配な事があるからである。
「アイリス、ご飯食べたら、もう一回電話かけてみようね」
テレサの優しい言葉に、アイリスはゆっくりと頷いた。
帰宅後、市場での出来事を伝えようと、アイリスは国境沿いの首都に出張中の母親に無線電話をした。しかし、何度かけても1度も繋がらなかったのである。
「きっと、仕事が長引いているのよ」
そう言いながら、テレサも少し不安だった。仕事中に無線電話の電源を切るとは考えにくい。
それだけではない。何より引っかかっているのは、市場のドコにも肉の入荷がなく、電話も繋がらなかったということだ。もしかして、国境付近で何かあったのではないだろうか?
カンカンカンカン! その時、石の扉を激しく叩く音がした。
こんな時間にいったい誰だろう? テレサは一早く立ち上がり、1人玄関へと向かった。
「やぁ、テレサ」
重い石の扉を開くと、そこには町長がいた。先程会った時とは違い、神妙な顔をしている。
「食事中に悪いんだが、あがらせてもらうよ」
非常に切迫した空気の町長を察し、テレサは急いでリビングへと案内した。
「申し訳ないね、ユクリアさん。ただ、事態はあまりに緊急なんだ」
ユクリアというのは、リオルの一家のファミリーネームである。
「いいかい。アイリス、落ち着いて聞くんだ」
目線を合わせて屈み込んだ町長の神妙な顔つきに、不穏な前置きに、アイリスの顔が引きつった。心配が、嫌な予感が、今まさに現実として突きつけられる。
「首都ダイヤモンドダストで、今朝ルーインウェポンが使われた。生存者は0」
アイリスは言葉を失って茫然自失した。涙も流れず、声も出ず。ただ、目の焦点が合わないまま、ゆっくりと首を横に振った。
アイリスだけではない。リオルも、テレサも、両親も。まさかの知らせに耳を疑い、それを現実として受け入れることができなかった。
「周辺の町も皆、壊滅状態で、今も状況はよくわからない。ただ、間違いないのはルーインウェポンが使われたということ。そして、首都では生存者が1人もいないということだ」
町長が繰り返す辛辣な言葉に、アイリスは茫然としたまま首を振り続けた。
「ふざけんな、クソじじぃ! そんなわけねぇだろ!」
リオルが立ち上がり、町長につかみかかった。しかし、町長は暗い顔で俯くだけである。
「おい、嘘だろ……? 嘘っだて言えよ」
「落ち着くんだ、リオル。これは嘘なんかじゃない。ルーインウェポンを使用したのがどこの国かもまだわからないが、これから北の国ノクターンノースは第一級戦闘警戒態勢に入る。リオルとアイリスはすぐに私と一緒に来なさい。精霊の子である君たちは、軍の保護を受けなくてはならない」
町長は極めて淡々と、事務的に、要点だけをかいつまんだ。しかし、そんな説明でリオルが納得できるハズがなかった。
しかし、すぐに受け入れざるを得なくなる。悲劇はもうすぐそこまで来ているのだから。
ウーーウーーー。ウーーウーーー。ウーーウーーー。
突然の空襲警報が鳴り響いた。
「えっ……?」
この町の人々にとって、それは訓練でしか聞いた事のない音だった。テレサも両親も、どうしていいかわからず茫然とする。
「とにかく、リオルとアイリスは私と一緒に来なさい」
町長が2人の細い手首を掴もうと手を伸ばす。
「イヤだ! オレはみんなと一緒に逃げる」
リオルの右手が町長の手を払い、代わりにテレサの手をとった。
町長がアイリスの手を、リオルがテレサの手をとった瞬間、それはあまりに唐突に起こった。
遠くからの轟音。激しく揺れる家。闇に支配される視界。突き抜ける爆風。
そして、巨大な石が豪雨のように次々とリオルたちに襲い掛かった。
暗闇の中、リオルとアイリスの銀の瞳が光る。テーブルを囲んでいた全員を、まるごと巨大な氷で包みこんだ。あまりに一瞬のことで何が起こっているのか全くわからなかったが、それでも2人は反射的に天術を発動した。
ブリザードすら耐える頑丈な石造りの家が、一瞬にして崩壊していく。子どもの頭くらいある無数の石が強く打ちつけ、巨大な氷にいくつものヒビや亀裂が入った。リオルとテレサはそれを敏感に感じ取り、天術を発動して必死に修復を続ける。
しかし、それでも追いつかない。遂に巨大な氷の一部が乾いた音を立てて割れた。リオルを、心臓を抉り取るような深い絶望が襲う。
驚天動地の天変地異。その現象は10秒程続いた。
そして、辺りは急に静かになった。空襲警報も、唸るような爆風も、人の声も聞こえない。まるで、この町そのものが死に絶えたように、不気味な程の静けさが訪れた。
用心のため、もう10秒程氷の防御を解きたくはなかったアイリスだが、リオルがすぐにそれを解除してしまった。無理もない。アイリスも何が起きたかは、わかっているのだ。
「父さん! 母さん!」
繋いでいたテレサの手を振りほどき、リオルはつい数秒前まで両親が立っていたその場所に駆け寄った。
そこにあるのは、氷漬けになったままバラバラに砕け散った、両親の無残な姿だった。
「うわぁぁああああああああああああ!」
声を上げて泣き叫ぶリオルを、テレサがすぐに抱きしめた。悲惨な両親の最期を、凍ったまま砕けた生首を、これ以上リオルに見せるわけにはいかなかった。今にも折れそうな心を互いに支え合うように、テレサはリオルを悲しい程強く抱きしめた。
足元には無数の石と、砕け散った氷が広がっている。あのわずか10秒の間に、いったい何が起きたのだろうか。目が暗闇になれるまでは、近くの状況しか確認できない。
その時、暗闇に小さな銀色の光が輝いた。アイリスの瞳だ。アイリスは天術を使って、オーロラを発生させて辺りを照らした。
視界に広がる変わり果てた光景。美しいオーロラに照らし出されたあまりに残酷な光景に、リオルたちは絶望し、絶句した。
ブリザードでさえ耐える石造りの家々は1つ残らず吹き飛び、瓦礫と化していた。その中には、血まみれでグチャチャの無数の死体が無数に埋もれている。誰1人として息をしている様子はなく、皆、確実に即死だった。
人々は死に絶え、町は一瞬にして廃墟と化した。東の市場も、西の丘も跡形もなかった。東を向けば水平線が、西を向けば地平線が見えた。
「ルーインウェポン……」
アイリスの手首を握ったまま、町長が呟いた。それは、明らかに通常の兵器とは一線を画すものだった。空襲のように、炎がじわじわと燃え広がるわけではない。
まるで、見えない巨大なハンマーで町を上から叩き潰したように。炎をともなわない未知の兵器は、町を、人々を、一瞬にして無残な姿に捻り潰した。
生き残ったのは、精霊の子であるリオルとアイリス。そして、その時運良く2人の手を握っていたテレサと町長だけだった。同じ部屋で食卓を囲んでいた両親すら、リオルは助けることができなかった。
一瞬だけ見た光景が、凍ったまま吹き飛んだ両親の首が、リオルの心を深く傷つけた。それは、テレサもアイリスも町長も同じだった。炎をともなわない未知の兵器に、灰へと帰らない町の生々しい傷跡に、心を深く抉られた。
「もう一発来るわ」
アイリスの声に、南からの轟音に、リオルは慌てて振り向いた。泣き腫らした目を拭い、テレサを背に立ち上がる。
銀色に光る少年の目が、南から近づく未知の兵器に対峙した。
今度のルーインウェポンは、先程とは少し違う。3つの轟音が、冷たい北の国の空気を切り裂き、地面を深く抉りながら、リオルたちへと迫っていた。それは、まるで見えない巨大な怪物が、地面を3つの爪で激しく引っ掻くかのようだった。それはリオルたちへと向かって直進している。逃げ場はない。
リオルは、背後のテレサの手をぎゅっと握った。
「絶対に手を離すなよ、テレサ!」
リオルは枯れた声で叫んだ。泣いている場合じゃない。せめて、テレサだけは守らなくてはならない。最愛の姉だけは、何があっても死なせはしない。それが、この絶望の中で、リオルの唯一の心の支えだった。
地面を深く抉る見えない爪が、リオルの視界いっぱいに迫った。轟音とともに地面を抉りながら、死体や瓦礫を引き裂きながら進むそれは、地獄絵図そのものだった。
それでも、リオルはテレサの手を握り、アイリスは町長の手を握った。必死に力を振り絞り、瞳を銀色に輝かせる。高密度の氷がリオルとテレサの体を、アイリスと町長の体を包んだ。
そして、家だった石を巻き上げ、人だった塊を巻き上げ、見えない爪がリオルたちを襲う。
「くっ!」
氷で歪んだ視界を石が打ちヒビが入る。赤黒い肉の塊が目の前に張り付き、吐き気を催す。高密度の氷の中にいても、全身を、精神を激しく打つ衝撃がリオルたちを次々に襲った。それでも、リオルは必死に平静を保ち、氷の防御を維持する。
しかし、見えない爪が直撃したその瞬間、高密度の氷に亀裂が走り、砕けた。
「くそっ!」
暴れ狂う風に吹き飛ばされながらも、リオルはテレサの手を強く握り続けた。
この手だけは絶対に離さない。
宙に飛ばされながらも、リオルは一瞬で氷の防御を固め直した。激しく削られながらも、ヒビ割れながらも、必死に氷の再生と精製を繰り返す。遠くへ飛ばされる中でも、視界が反転する中でも、リオルはテレサの手を離さない。
ガンッ! しばらく吹き飛ばされると、鈍い衝撃が、リオルたちを襲った。吹き飛ばされた氷が、リオルとテレサを包み込んだまま、不時着したようだった。
頭を強く打ったリオルは、朦朧とする意識の中、ゆっくりと瞳を開く。ヒビだらけの氷の視界の外は、とても静かだった。リオルは慎重に氷の防御を解除する。氷が溶けると、リオルは右手にテレサの温もりを感じ、ホッとした。
「テレサ……」
ゆっくりと体を起こしたその時、リオルは生温かい液体の感触と、鉄のような臭いに気づいた。テレサの体から流れ出る大量の血。リオルは血の気が一気に引き、恐怖に取りつかれた。
「テレサ!」
天術を発動し、慌ててテレサの傷口を凍らせる。しかし、それは傷口なんて生ぬるいものではなかった。
リオルがずっと手を繋いでいたテレサは、下半身がまるごとなかったのだから。
「テレサ! テレサ! テレサ!」
「うん……。大……丈夫……、だよ。リオ……ル」
恐怖で泣き叫ぶリオルを落ち着かせるように、テレサは必死の笑顔とか細い声で答えた。しかし、何をどう考えても大丈夫ではなかった。テレサはすぐに大量の血を吐いてしまう。
「テレサ! テレサ! ぁ……ぁ……。テレサ! テレサ! テレサ!」
リオルは混乱のあまり、何度も姉の名前を叫ぶことしかできなかった。その度に、テレサは小さく頷く。しかし、それもだんだんと儚く、弱々しくなっていった。
もう一度吐血し、テレサはもう自分に残された時間がわずかであることを悟った。
「リオ……ル……」
せいいっぱい力を振り絞って口を開く。
これで命が尽きてしまうのなら……。
大好きな弟と話せるのがこれで最後なら……。
せめて、これだけは伝えたい。
「愛して……るよ、リオ……ル……。今までも……、これからも……。お姉ちゃんは……、ずっと……、リオルの幸せを……、祈ってる……から」
必死に言葉を紡ぐテレサの目に大粒の涙が溢れた。
「わかってるよ、姉弟なんだから。だから、泣きながらそんなこと言うな」
ちょっぴり照れ屋だけど……。もの凄く意地っ張りだけど……。
私の……、私だけの可愛い弟。将来がとっても楽しみな自慢の弟。
強がって歯を食いしばるリオルの頬にも、止めどなく涙が流れていた。リオルの頬を伝った涙が、テレサの頬へと落ちる。その温かさに、テレサはまた涙が溢れた。
テレサの視界が曇ると、リオルは小さな手で涙を拭ってくれた。
心優しい弟で、本当に良かった。これで、私は笑顔で死ねる。最愛の弟に看取られて、笑顔で死ねるのは、とても幸せなことなのかもしれない。
ただ、将来有望な弟の成長をもう近くで見ることはできないのが、残念でならない。本当は、弟離れなんて永遠にするつもりなかったのに……。
悔しくなってまた溢れてきた涙を、リオルの小さな手が拭ってくれた。
本当に優しい弟。とってもお姉ちゃん想いで、恥ずかしくなるくらい嬉しい。
だからこそテレサは涙が流れるのをこらえ、幸せな笑顔で最後の力を振り絞ることができた。
最愛の弟へのお別れの言葉に、全身全霊の愛情を注ぎ込む。
「大好きだよ……、リオ……ル」
美しい笑顔でそう言い残すと、テレサは静かに息を引き取った。
最期の笑顔は、とても優しく温かい、慈愛に満ちた姉の笑顔だった。
「テレサぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!」
リオルはもう動かないテレサを強く抱きしめ、いつまでも叫び続けた。
それから、先のことをリオルはよく覚えていない。
目覚めると日が昇る頃で、視界には、心配そうに顔を覗きこむアイリスがいた。
ここがどこなのかもよくわからない。それでも、ゆっくりと顔を上げると、リオルの視界に生々しい傷跡が飛び込んできた。朝の光に照らされる一面の廃墟は、昨晩の出来事が全て現実であることをリオルに突きつけた。
「良かった……。リオルが無事で……」
茫然自失するリオルに、アイリスが涙を浮かべて抱きついた。
リオルを支えるように。そして、リオルにすがるように。アイリスは、ただただリオルを強く抱きしめた。
「リオルは……、リオルだけは絶対に死なせないから……。どんなことがあっても、リオルは必ず私が守るから」
朝の光が、廃墟の中で輝くアイリスの涙を鮮やかに映し出す。
周辺の町も含めて、生存者は精霊の子であるリオルとアイリスのみだった。
崩壊暦729年。これが、北の国で起きたルーインウェポンによる悲劇の幕開け。
『ノーザンハザード』である。