もしも、ママが生きていたら(1)
「オクト、起きるのじゃ」
漂っていた意識を引き戻すように、声が聞こえて私は目を開けた。
「……っ」
意識がはっきりすると同時に頭痛がして、私は頭を押さえる。また、酷い胃痛があった時の様にこの体のオクトは何かを患っているのだろうか。
でもこの頭痛は、まるで未来のコンユウからの手紙を受け取った時のような――。
「気が付いたか。心配したのじゃぞ」
「……トキワ……さん?」
「そうなのじゃ。ほれ水じゃ」
トキワに水を差し出され、私は受け取り飲んだ。ゆっくりとだが、頭痛が消えていく。そして頭痛が消えると同時に、少しずつ現状を確認できた。
「まだ、元の世界じゃない……」
「悪いのう。まだ元の世界へはつなげないのじゃ」
私の体は見た限り、先ほどと同じぐらいの体格だった。となると、再び学生ぐらいの時間だろうか。
「ただ、見つかって良かった。まさか移動して早々に別の時間に流れてしまうとは思ってもみなかったのじゃ。目の前からいなくなってしまうから、ちーっと焦ったのじゃ」
別の……時間。
それと同時に、何が前の世界で起こったのかを思い出す。
「トキワさん。あれは、どう言う事?!」
私はトキワの腕を掴む。あの世界は一体何なのか。
「どういう事とは、どういう意味じゃ」
「あそこは、私が混融湖に落ちた世界だった。でも私は、訳が分からないまま、弾かれた」
あそこは私の世界ではない。私が望む世界でもない。でも強制的に弾かれた。納得できないままに。
何故、あの事件の原因となった私だけではなく、エストやコンユウまで私の時間に巻き込まれなければいけないのか。コンユウは若干私と同罪だと思わなくもないが、エストは違う。でもだからといって、コンユウに守られ続ける気もない。というか義務って何だ。
「あの世界は、捻じれた世界じゃのう」
「捻じれた世界?」
「オクトが神となり、過去の時間に戻った世界ともいうかのう。本来はあり得ない世界じゃが、オクトが神様となった代わりに叶えられた。数十年の時間を望む者達と共に過ごす代わりに、その後数百年の時をかけて神としての責務を果たすのがあの時間じゃ」
神となった私が過去に戻って――ん?
「私はあの時間に居たの?」
カミュは私に久々に会ったかのような様子だったけれど、どういう事だろう。
「でも、カミュはずっと待っていたって」
「そりゃ、待っておるじゃろ。オクトが流れ着かんかったら、カミュが時の神と過ごした時間はなかった事となるからのう」
トキワが遠くを見つめながら、あの時間のカミュについて語る。
でもずっと私と過ごしていたのなら、最初に会った時のカミュの涙は何なのか。
「まさか、嘘泣き?!」
「さてのう。そうかもしれんし、オクトを神にする事に対する後悔の涙かもしれんし、ようやく時を繋げる安堵の涙かもしれん。こればかりは、あやつにしか分からないことじゃからのう。わらわに分かるのは、時の流れだけじゃ」
今まで世界の何もかもをお見通しのようだったトキワさんだったが、カミュの考えまでは分からないようだ。まあカミュの考えている事を全てお見通せる人なんで、誰もいないだろうけれど。
「なら、アスタは?」
「ふむ。オクトがいなくなったことにより、オクトが足りずに魔族特有の病気に罹ったようじゃ」
カミュが言っていた、アスタが病気に罹ったというのは嘘ではないらしい。
なら、アスタは――。
「しかし神のオクトが現れて、オクトが充足して今も生きておる様じゃのう」
「やっぱり――へ? 生きている?」
「病気で衰弱しないかぎり、魔族は腹が立つほど長生きだからのう。忌々しい」
「いや、忌々しいって」
生きてた。
えっ? 生きてた? あれ? 何で死んだと思ったのだろう。よく考えればカミュは死んだなんて一言もいっていない。
やられた。
私が足りないとか、何だかツッコミ所が多いが、この際スルーしておこう。違う世界とはいえ、アスタが生きているという事は悪い事ではない。
「私を神にして、その時間を守りたいのは分かったけれど、どうしてカミュはエストとコンユウに、私を守る義務があるだなんて言ったの?」
「あれは、オクトではなく、オクトに付き添っているエストとコンユウが言わせた様じゃ。あの腹黒がどう思ってその言葉を口にしているかは分からんがのう」
「あそこは……それを選んだ世界だったの?」
「選んだ世界ではあるが、これから選ぶ世界でもあるのう」
時間が入り組んでいる世界……。だから捻じれた時間か。
「それよりも、今おる世界は今までの世界より、更にオクトの時間が大きくずれておるからのう。事前にどういう世界かは伝えておくぞ」
トキワさんから伝えると言ってくるのは珍しいなと思う。そんなに私が生きていた時間と違う人生を、この世界のオクトは歩んでいるのだろうか。
「ここは、ノエルが生きておる世界じゃ」
「ノエル? ……ノエルって」
「オクトの母親の事じゃよ」
ママ?
……ママが生きている?
ママが生きている時間を私はほとんど知らない。
私の自意識ができた時に、ママが消えてしまった為だ。だから私の記憶にはほとんどない。
「なら、私はどういう状況?」
私が前世の知識を思い出し、それによって人格構成がされたのは、ママが死の直前に私にかけた前世の記憶の封印を緩めたからだ。私が1人になっても生きていけるようにと。
もしもママが生きているのならば、この世界の私は幼児ぐらいの知能と考えればいいのだろうか?
「ノエルは一度死にかけた瞬間、オクトの記憶に関する契約条件を変えたから、今とそう変わらんよ。しかしオクトがノエルの死を認めんかった為に、色々あってノエルは生き残ったのじゃ。とはいえ、そう長生きはできんじゃろうがな」
ママが生きている。
もしかしたら病弱な状態かもしれないけれど。でもそれは確かに私が今まで過ごしてきた、どの時間とも違う。
「学校は?」
「通ってはおらんな。今は旅芸人の一座の一員としてオクトは働いておる。どうやら、オクトは異国の歌を歌う歌姫として舞台に上がり、人気は上々のようじゃ。まあ、顔だけは良いからのう」
確かに私の顔立ちは、エルフ族の血が入っている為か、はたまた先祖が面食いだったのか、結構いい。歌声も風の精霊族の血のおかげで音程を外さないし、その上で異世界の歌を歌えば、それなりに客には楽しんでもらえるだろう。
「腹黒王子とは一度だけ会っておるがそれ以来は会っておらん。魔族にも会っておらんのう」
アスタにも、カミュにも会っていない世界。
学校にも通っていないので、ミウやエストやコンユウとも会う事はないだろう。……確かに、その世界は私の知っている世界とは全く違う時間のようだ。
「海賊に攫われる事もなかったゆえに、海賊とも会っておらん。ただし、クロはオクトと一緒に一座に残り、オクトの歌の演奏や剣舞をしておるようじゃのう」
ママが生きていて、クロとも別れずに、ずっと旅芸人の一座に居られた世界。
エストやコンユウに出会ってないから、混融湖の事件も勿論起こらないだろう。何一つ自分が築いた絆を手にできない代わりに、何一つ捨てずに済んだ世界。
「では人が近づいてきておるからのう。しっかりやるんじゃぞ」
「えっ」
しっかりって、何を?
しかしトキワに質問をする前に、テントの中に人が入ってきた。
「オクト! ビラ配りに行こうぜ」
「……あ、うん」
そこにいたのは、クロだった。でも既に子供の姿ではなく、少年と青年の中間のような姿だ。私と再会を果たした時間の姿に近い気がする。
「って、そんな姿だと、またノエルさんに怒られるぞ。外で待ってるから早く着替えろよ」
クロはそう言ってテントの外へ出て行く。
小さい事は一緒に着替えたりもしていたのだからわざわざ外に出なくてもいいけれど、やはりあの頃よりもお互い成長したという事だろうか。
今私が身にまとっている服は、麻でできた安物の男物服のようだった。確かにもう少し歌姫らしい姿をした方が、ビラは貰ってもらえるだろう。
しかし、服は一体どこにあって、いつもはどんな服を着ていたのか。
何も分からない。まったくの未知の世界なのに、情報が少なすぎて、この世界に合わせるなんて無理だ。
私は小さくため息をつきつつ、とりあえずこの世界の私の記憶に少しだけ触れた。




