もしも、混融湖に落ちたならば(3)
「オクト、大丈夫?!」
部屋に入ると、エストが声をかけてきた。ベッドから下りようとするエストに慌てて私は近寄る。
「大丈夫。エストはまだ寝ていて」
元々時属性を持っている私は、混融湖の多量の魔素が馴染むのも早い。コンユウも同じだろう。
しかしエストは、時属性なんて持っていない純粋な樹属性だ。あまり無理はして欲しくない。
「目が覚めたようだね」
カミュの声賭けに、エストは私以外に人がいたのだとあらためて気が付いたようで、慌てて頭を下げた。
「助けて下さってありがとうございます」
余所余所しい態度に、やっぱりエストでもカミュの事は分からないかと思う。
「エスト、この人は――」
「僕はカミュエル・サーリチェ。今は公爵の座を息子に譲って、神殿の守り人をやっている、ただの呑気な隠居爺さんだよ」
「カミュエル?」
名字は王子ではないので変わってしまっているが、その名前にエストが大きく目を見開いた。
「彼はアールベロ国の第二王子様と同一人物だ」
まさか、そんなと呟いているエストの隣で、同じくいつの間にか体を起こしていたコンユウが説明を加える。
やはり元々時属性の魔力を持っているコンユウは、先に目を覚ましカミュと話をしていたらしい。
「だって。同一人物って」
「ここは君たちが流されてから100年と少し経った場所だからね。僕も年をとったという事だよ」
「100っ――。なら、皆は?」
「大半が亡くなっているよ。君のお姉さんも、天寿を全うしてね」
エストが愕然とした表情をする。
ああ、そうか。私も全然理解をしていなかったようだ。この世界は100年後。魔力が低い者達は死んでいる時間だと認識ていたけれど、それが近しい人に当てはまっていなかった。
「……そうですか」
エストは何かを飲み込んだような低いかすれた声だった。
エストの親族はお姉さん一人だ。例え罪を犯した人であったとしても、エストには大切な人に違いないだろう。その人の死を伝えられたのだから、エストが落ち込むのは当たり前の事。
私には血のつながった人は、風の神だけしかいない。でも家族というならば、アスタや、この時間の私は出会っていないがアユム、それにヘキサ兄が当てはまる。幼馴染なら、クロだし、友人ならライやミウ。先輩ならアリス先輩。
彼らはどうしているのだろう。
アユムは魔力を持っていない。そもそも私とは出会う事のなかった世界だ。……無事である可能性は低い。
他の皆も、魔力を持っているとはいえ、だから絶対長生きするとは限らないのだ。
エストほど勇気のない私には今は聞けそうにもなかった。
考えたら、不安で押しつぶされてしまう。絶対元の世界に戻るのだという気持ちがあったとしても、近しいものの死というのは、とても怖い。
「元の時間に帰りたいかい?」
カミュの言葉に、2人がカミュをまっすぐに見た。
それは私が――いや、私達3人が願っている事だと思う。エストやコンユウの顔を見たらすぐに分かった。でも何でだろう――。
「……悪魔と契約している気分」
「悪魔とは酷いね」
「いや、あまりにも都合のいい事だから」
それと相手がカミュだからだと思う。
カミュは私達に元の時間に戻ってもらいたいと思っているのだろうか。……たぶん思っているんだろう。そうでなければ、こんな提案をそもそも持ち出さないと思う。
もしくは、上手く帰れなくするためにあえて口を出そうとしているという、裏の裏な考えがあってもおかしくないけれど。
「都合はいいけれど、オクトさんがいれば可能だからね」
「私?」
何か無理難題を言われそうな気配に、私は身構える。
私の時間のコンユウやエストが元の時間に繋がる為に苦労していたのを知っている。だからこそ、とてつもない事を提案されるのではないかと思えてくる。
「オクトを犠牲にするぐらいなら、オレは返れなくていいです」
「俺だって」
「オクトにアレしたくせに」
「アレは仕方がなかったって言ってるだろ。あの時はアレしかなかったんだ」
再び高齢者的コミュニケーションをし始める2人を見て、私はため息をつく。
どうにもしまらないなぁと思いながら。
「それで、私は何をしたら帰れる?」
「まずはトキワさんに会ってもらう所からかな」
「……トキワさん?」
って、トキワさん?!
私が精神だけ移動している事をカミュは知らないはずだ。……知らないよね? いや、カミュなら?
カミュの口から出てきた言葉にぐるぐると考えが巡る。
「トキワさんというのは時の精霊で、どうやら先代の時の神に仕えていたヒトなんだ。混融湖というのは、時の神と密接に繋がっているからね。まずは彼女に相談するといいと思うんだよね」
ああ。私と一緒に現在時間移動中のトキワさんではなく、この世界のトキワさんの事か。なんだかややこしいが、私がこの体の持ち主ではないという事に、このカミュは気が付いていないようだ。
普通に考えたら早々気が付けるものではないのだけど。一つ前の世界のカミュが、色々異常なのだ。
「カミュエル先輩……でいいんですよね」
「そうだけど、どうかしたかい?」
「何故オクトだったら可能になるんですか? トキワさんという方に会う事と繋がらないんですけど」
エストに言われて、確かにそうだよなと思う。トキワさんは別に私だから会ってくれるとかそういうヒトではない。そして会ったからと言って、元の世界に返してくれたりもしないと私は知っている。
私なら出来るという事はどういうことなのか。私とエストやコンユウの違いは――。
違いを考えたところで、私は気が付いた。
カミュの指し示しているものの答えに。でもこれはこの世界の私は知らない事だ。
「この世界の神はどんな人物がなれると思う?」
「神?」
カミュの質問に、コンユウがいぶかしげに言葉を繰り返す。
でもその質問で、私は確信する。私達が元の時間に帰る方法。それは、私が時の神を継ぐという事だ。
ただし時の神を継ぐという事は、長い眠りにつくという事。それでも混融湖を渡り歩くよりずっと確実な方法だろう。
「この世界の龍神は、混ぜモノが代々引き継いでいるんだよ。だから、オクトさんには神を継ぐ資格がある。特に、時の神は空席だからね。いつでも代替わりができるんだよ」
カミュの言っている事は嘘ではない。
これは、かつてトキワさんに説明された事だったから。
「……神になると、どうなるの?」
はたして、カミュは知っているのだろうか。神になると、長い眠りについた上に、果てしなく長い時間を生きる事になる事を。
もしかしたら、カミュはトキワさんから、とても都合のいい事しか聞いていなくて、こんな提案をしてくるのかもしれない。
【私】は神にいつかはなる決意をしている。
でもこの世界の私は、まだ神になる事がどういう事かを知らない。これは簡単に答えられる質問ではない。
「しばらくの間眠りにつく事になるね」
「眠りにつくって、どう言う事ですか?」
「龍神はこの世界の魔素を生み出す存在だからね。とても希薄になってしまった時の魔素を一定量生み出すまでは目を覚ますことはできないんだ。そして、神になった後は、とても長い時を生きる事になる。この中に居る誰よりもずっと長い時をね」
カミュはすべてを知っていた。
知っていた上でこの提案をしてきているのだと知る。でもカミュだったら知っていて当然な気もした。
「眠るってどれぐらいですか?」
「混融湖に融けた時の神の力をオクトさんの中に溶かし込んだ上でになるから、1000年ぐらいかな」
「1000?!」
それはとてつもなく長い時間だ。
カミュ程度の魔力があっても100年ちょっとたてば、初老に差し掛かるのだ。1000年というのはどれだけ気の遠くなる時間なのだろう。
「そして神となれば眠ったのと同等程度の時間を生きる事になるだろうね」
1000年という時間を想像するのは容易ではない。
むしろまったく想像もできない時間だ。もしも元の時間に戻れたとしても、半分以上の時間を独りで生きる事になる。
「オクト一人に、そんな事を背負わせるなんて……オレにはできません」
「帰る必要なんてないだろ。ここでだって何とかなるし」
私を気遣って、エストとコンユウが意見を変える。本当は2人は帰りたいだろうに。エストにはお姉さんが居るし、コンユウになって育て親が居る。
待っている家族が居るのだ。
「もしくは、別の方法を探してもいいんじゃないかな?」
エストの提案は優しいけれど、それはどうだろうと思う。カミュが長い年月をかけて導き出した方法よりもいい方法が、そう簡単に見つかるとは思えない。もしもあの時間に帰るなら、私が神になるしかないのだ。
「……アスタは私が居なくなってから、どうしていた?」
たぶんこの世界の私にとっても、アスタという存在はとても大きなものだろう。きっと一番気になるとしたら、そこだと思う。
しかし私の質問に、カミュは目を逸らした。
「魔族というのは、一つに執着してしまうから……。オクトさんが居なくなった彼は魔族特有の病気を罹って……」
言いにくそうに誤魔化すのを見て、私は帰らなくてはいけないと思った。
数年記憶を失って、私から離れていただけでもアスタは荒れていたと聞く。アスタを独りにはできないし、したくはない。
「ただ、オクトさんだけが全て背負うべきではないとは思うんだ。エストやコンユウには、時属性の魔法で眠りについてもらって、オクトさんと同じ時を眠ってもらう」
「えっ?」
「その後、神になったオクトさんと元の世界に帰ったとしても、2人にはずっとオクトさんを守り続ける義務があると思うんだ」
「必要ない」
私は慌ててカミュに言う。
何かとんでもない事をこの2人に伝える気だ。何を伝えようとしているのかは分からないけれど、私を守り続けるって、神になった私は1000年ぐらい生きるのだから、普通の方法ではないだろう。
「エストは巻き込まれただけ。コンユウだって――」
カミュならば、その条件が地獄への片道切符だったとしても、相手を納得させて受け取らせてしまう気がする。
そんな必要はないのだ。
これは私が背負う事なのだから。
『それは、貴方が決める事ではない』
ぐいっと、意識が引っ張られる。トキワさんの声ではない、女性の声が私の頭に響いた。
でも、私はエスト達には幸せになって欲しいのだ。嫌なのだ。
それはきっとこの世界の私も同じ気持ちだ。彼らに地獄を選ばれても、私は背負えない。
『そしてオクトでもない。その選択を決めていいのはエストとコンユウだけ』
そうかもしれないけれど。
でも――嫌だ。嫌なのだ。お願いだから、彼らを不幸にはしないで下さい。
しかし私の声は出ず、意識は遠のいていく。
『カミュ。辛い選択を伝えさせてごめん』
声の主が誰なのか理解する前に、私は意識を失った。