あの日のこと
龍ちゃんの店を出て、白石さんは言った。
「お茶でも飲みに行きませんか?」
そいつは助かる。
さっきの地獄激辛ラーメンのおかげで、口の中が火事になっている。
罪なのは、恐ろしく辛いくせに、途中でやめられないほどうまいというところだ。
さすがにスープ全部を飲み干すことはできなかったが、完食してしまった。
ここは、甘いミルクティーでも飲みたいと思っていたところだ。
白石さんがどこでもいいと言ったので、一番近い喫茶店へ。
それぞれオーダーし、店員がカウンターに戻ったタイミングで、白石さんが話し始めた。
「実は、枝草さんにきちんとお礼を言わなくてはいけないことがありまして……」
……全くお礼を言われる覚えがない。
「枝草さんはお忘れになったかもしれませんが、私の入社初日のことなんです」
……一年以上前の話なのね。絶対に思い出す自信がない。
「会社のエレベーターに乗ったのですが、三階のボタンを押してしまったのです」
「総務は六階だよね?」
「未だに時々しちゃうんです。私。家のマンションが三階なので……。それで、その時は、慌てて六階のボタンを押したのですが、三階のボタンは点灯したままで……」
良く思い出せないがそんなことがあったんだな……。
「あの時、私、どうしようかってすごく焦っていたんです。その時枝草さんが、三階のボタンを二度押しして消してくださったんです」
「え?」
思わず聞き返した。
「何を言い出すかと思ったら、そんな小さなこと?」
白石さんに言った。
「私にとっては、とても大きいことだったんです。社会人初日が失敗で始まるところを救ってもらったわけですから」
「そんな大げさな……」
「あの時は本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
「でも……」
「でも?」
「あの時にどうして三階では誰も降りないと判断できたのですか? エレベーターには私を含めて6~7人乗っていましたよね?」
「はっきりとは思い出せないけど、多分三階の人が乗っていなかったんじゃないかな」
「乗っていた人、全員把握されていたのですか?」
「いや、逆かな。三階の人を知っているから」
「確か別の会社が入っていましたよね?」
「うん、女の人ばかりの化粧品とかの会社。エレベーターに女性は白石さんだけだったし、今まで三階に男の人が降りていくのを見たことなかったし」
「あの一瞬で、それに気付かれたのですか?」
「それもあるけど……、そうそう、白石さん、神妙な顔つきで『閉』ボタンに指乗せてスタンバっていなかったっけ?」
「ええっ!? 私そんな顔してました? 恥ずかしい……」
「でも、エレベーターの押し間違いなんてよくあることだし、豆知識として覚えておくと便利だよ。二度押し。ただし、メーカーによって一度押しでも消える場合もあるよ」
「そうなんですか……。さっきも言いましたが、未だに時々やってしまうので、便利に使わせて頂いています。本当に枝草さん、尊敬してしまいます」
「いや、そんなつまらないことで尊敬しなくていいから」
「この間、黒川さんが押し間違えたときにこの技を使ったら、すごく褒められちゃいました。これも枝草さんのお陰です」
とりあえず、そんなに褒めちぎられても出てくるものはないし、適当にまとめにはいるとするか。
「まあ、役に立てたのであれば、なによりだよ。これからもお互いよろしくね」
……こんな感じか?
「あと……」
まだ何かあったか?
「実は、私、枝草さんをこの辺で見かけるのは初めてではないんです」
何見られていたんだろ……、まずいことは……していないはず。
「でも、今まで面識がなかったので、声をかけられずに一年以上も……。だから、昨日の飲み会が私にとって大きなチャンスだったんです」
「これまたそんな大げさな……」
「昨日の飲み会で、ようやくお話ができるようになって、こうやってやっとお礼も言えて……。本当は昨日言いたかったんですけど、タイミングが見つからなくって……」
まあな、昨日は先輩三人がグイグイ引っ張る形だったしな。
新人二人も黒川さんと白石さんにべったりだったし。
「ということは、この辺に住んでいるの?」
聞いてみた。
「いえ、この近所にさっきの弟が一人暮らししているんです。実家が遠いものですから、私が時々様子を見に来るように親に言われてまして……。毎回それはそれは大変なことになっていますよ」
そう言って白石さんは笑った。普段でもめちゃくちゃ可愛いが、笑うと辺りがぱぁってお花畑になるくらい可愛い。
「今日も大変なことに?」
「ええ、それはもう……、私、あの子の部屋に土足で入ろうかと思いましたから。洗い物も洗濯物も先週からためっぱなしで……」
「洗い物が週一回?」
「ええ、食器がカップとお皿が七つずつありましたから……。でも、それでもまだましになったほうなんですよ。その前まではシンクに水を張って中に洗剤をいれて『つけ置き洗い』とか言って、あの部屋にあるすべての食器が沈んでいましたよ」
「使う時はどうするの?」
ちょっと興味ある。
「洗剤水の中から使う食器を出して、軽く水ですすいでそのまま……」
思い出すのも嫌な表情で言った。
「拭かないの?」
「ええ、濡れたままお皿にパンを乗せて、塗れたままのカップにコーヒーを入れて。『汚水に浸けた食器が綺麗になるはずない』って言ったら、上から流した水で、シンクの洗剤水は更新されているとか訳のわからないことを言っていました。最後、さすがに叱りましたけどね」
……ある意味達人だな。イケメン弟さん。
「紙コップとか紙皿とかの方が衛生的かも……」
「それは私も提案したことがあるのですが、『味気ない』って却下されて……。そう言うことには、こだわるんですよね」
多分、お姉ちゃんに叱られながらも世話を焼いてもらうのが嬉しいのかもな。イケメン&シスコン弟くん。
「あ、でも紙食器については、同じこと言っていた友人がいたな。でも、洗い物はしたくないからって、食器にラップしいてから、ご飯をよそって使ってた。食事が終わるとラップだけ捨てて……。残るとそのまま包んで冷蔵庫へ入れてたっけ。食器も洗わなくていいし、一石二鳥とか自慢していたな」
「へぇ……。でも、それはちょっとしたアイデアかも。肉料理の下ごしらえするときとかいいかも、です」
あれ、食いついた……。本当にナイスアイデアだったんだ……。
「部屋を掃除してくれる彼女とかはいないの? 彼、イケメンだし」
「いないみたいです。私も早く解放されたいのですが……。でも、弟の部屋じゃなくって、好きな人の部屋だったら楽しいかも、です。それと、あの子イケメンなんですか? 私は全然思いませんが。私から見たら枝草さんの方がずっとイケメンだと思うのですが」
いやいやいや、完全に負けているって!
違う動物くらい負けてます。自分で言うのも悲しいけれど。
でも、白石さんに部屋を掃除してもらえたらいいな、空気まで浄化されていそう……。ってか、好きな人……いるのかな?
「枝草さんの部屋は綺麗そうですね」
白石さんは言った。
「部屋に何にも無いから、綺麗と言えば綺麗。散らかりようがない。閑散としているとも言えるけど」
まあ、本当に何にもないから散らかりようがないだけだけど。
「やっぱり! 枝草さんのことだから、絶対に綺麗にしていると思いました!」
いや、えらい期待されているな、俺。
「大学生の時、ある女性に言われたことがあるんだよ。『要るか要らないか』ではなく、『使っているか使っていないか』を考えてみてって。で、言われたとおり整理したら、何にもなくなっちゃった。『使うかもしれない』ものって、まず使わないしね」
「ある女性って、彼女さんですか……?」
心なしか白石さんの表情が固い。
「短い付き合いだったけどね。一つ上だったから、先に卒業して、その後遠距離になったんだけど、向こうが元カレとより戻して……自然消滅」
何で俺、こんなに詳らかに話しちゃったの?
「ひどいです! その人! ……って私が口出しすることではないですよね……」
と言いつつも、白石さんは両手をグーにして怒っている。
どれだけ可愛いんだ、この人は。
「あはは、要は『今使っていない彼氏』だったのかもしれないね。その時の俺は。でも、彼女には感謝しているよ。半年くらいだったけど、さっきのことを教えてもらわなければ、ゴミに埋もれて死んじゃっていたかもしれない」
「そうなったら、私が掃除に行きます! って、訳分かりませんね……」
二人顔を見合わせて笑ってしまった。
そんな他愛のない話を続け、気がつくと夕方になっていた。
「あ、私、そろそろ帰ります」
「長い間引き止めてごめんね」
「いえ、とても楽しかったです。また誘って下さい。枝草さんのお誘いなら最優先ですから」
……おいおい、積極的だな。最優先とはうれしい響き。
そして、お互い向かう方向が逆だということで、店の前で白石さんと別れた。
例のエンジェルスマイルでぺこりとお辞儀をして彼女は去っていった。
そして俺も歩き出した。
そうか……。ここしばらくやたらと白石さんが話しかけてくる機会が多かったのは、この話をしたかったからだったのか。
ちょっと期待してしまった……。
冷静がウリの俺のはずが。
……あっ! スーパーヤスヤスで買った冷凍食品、全部玄関に置いたままだ!
俺は急いで家に帰った。
アパートの階段で、大家さんのおじいちゃんに出会った。
「あ、枝草さん、こんばんわ」
「あ、どうも」
今日も、スエット上下に革のベルトを巻いている。
ベルト意味ないと思うんだけど……。介護とかで使うのかな?
これは撃墜の対象外だな……。
休みの日だし、撃墜もお休みってことで。