五時限目
2 / 14 / 13:09 / Hayato Saeki
隼人は壁に手をつきながら、這々の体で教室にたどり着いた。膝蹴りを叩き込まれた股間は、まだ内蔵を抉るような痛みを発している。
「本当に容赦してくれなかったな……」
同じ男として、先輩だってこの苦しみは知っているはずだ。それなのに、何の躊躇いも無く攻撃してきた。いったいどれだけ切羽詰っているんだろうか。
ホワイトデーの十倍返し。
そのための一ヶ月すうどん生活。
これらが絡むから大事になっているが、バレンタインデーの本質は女子が男子にチョコを渡す、ただそれだけだ。
たかがチョコで体を張るなんて馬鹿げている。
「やはりチョコなんて、ろくなものじゃないな……」
隼人は席に着くと、すぐさま机に突っ伏した。もう授業どころではない。股間の痛みから来る吐き気を堪えるので精一杯だ。
大量の足音が教室に駆け込んできて、チャイムが鳴る。
沙世は上手くいっただろうか。
目を瞑ったまま、隼人はそう考えた。息子の命まで懸けたのだから、チョコを渡すだけでなくそれ以上にまで繋がっていてほしいところだ。
少し遅れて教室の戸が開く。落ち着いた足音から、おそらく教師。
日直の号令にも隼人は立ち上がらず、前の席の男子同様、ただの屍状態を続けた。
「えー、それじゃあ授業を始めるぞ……って、香住はどうした?」
先生の声に、隼人は頭を跳ね上げた。見れば、朝と同じで沙世の席だけが空いている。
教室内を見回すが、当然沙世の姿はどこにも無い。
「香住さん……?」
隼人は股間を押さえて地面に転がっていたから、沙世を送り出して、それからのことはわからない。しかし、教室にいないとはどういうことだろう。乙女隊も男子も、ギリギリの戦いをしながら、それでも必ず授業には出席している。たぶん先輩も、本命チョコを受け取ったとしても授業には出るはずだ。なら、沙世だって戻ってこないとおかしい。
まさかあまりの嬉しさに、その場で固まってしまっているのか。
「……それとも」
隼人は、朝の沙世の様子を思い出した。沙世が遅刻してきた理由は、おそらく事故みたいなものだろうが、先輩にシカトされたからだった。もしかすると、また何か沙世にとって良くないことがあったのかもしれない。
股間の痛みが非難を訴える。
もしそうであるなら、俺は何のために体を張ったんだと。
隼人は手を上げて席を立った。
「先生、トイレに行ってきます」
「ん? ああ。そういうのは、休み時間の内に済ませておけよ」
すみませんと頭を下げ、教室を出る。
誰もいない廊下には、あちこちから教師の声が漏れ聞こえてくるが、休み時間とは比べ物にならないくらい静かだ。逃げる男子も、それを追う乙女隊もいない。
どこに沙世がいるのか見当もつかないため、とりあえず気の向くままに歩を進める。
2 / 14 / 13:10 / Yuji Toyota
「どうする、俺」
祐司は冷えたコンクリートに直に座り、頭を抱えていた。
チャイムが鳴り響く中、体を寒風に晒し喉の奥から唸りを上げる。
乙女隊は振り切った。
絶対に祐司を追いかけてくることはできない。
屋上はカギがかかっているため、ここへ来る方法は祐司のように雨樋を登ることだけだからだ。
それに、チャイムが鳴ったから今は授業時間。バレンタインも一時休戦だ。
祐司はすうどん生活の危機を、そして命の危機を乗り越えた。
しかし、代わりに新たな危機を迎えていた。
立ち上がり、屋上の柵から身を乗り出す。
「うわあ……」
祐司が登った特別教室棟は五階建てであり、その屋上から見た地面は現実感が湧かない程遠かった。意識が重力に引かれて下へ下へと向かう。その時、身を乗り出しすぎたせいで片足が浮き、慌てて柵から飛び退いた。
「あ、危ねえ!」
心臓が口から飛び出そうだ。
祐司に訪れた新たな危機。
それは、屋上から降りられなくなってしまったことだった。
皆勤賞を目指す祐司にとってチャイムが鳴った今、残された時間は教師が教室に入るまでのボーナスタイムのみ。
次の授業の教師は、いつも来るのが遅い古典の佐世保であるのがせめてもの救いだ。普段通りならば、チャイムから五分は時間があるはず。その間に打開策を考えればなければならない。
「打開策っていうと、まずは……ロープとか?」
命綱があれば、多少は恐怖心が薄まるかもしれない。祐司は早速ロープ、またはそれに似たものを探した。
そして、
「そんなものあるわけねえ!」
すぐさま現実の厳しさに打ちひしがれた。
ここは屋上だ。あるものといえば、溝に詰まっている大量の枯葉と、なぜか転がっている空気の抜けたサッカーボールくらい。命綱になりそうなものは影も形も無かった。
「なにかなにかなにかなにかなにかなにかなにかなにかなにかなにかなにかなにか」
腕を組んで首を捻り呪詛のように呟きながら、時計の秒針のごとく屋上をぐるぐると回る。こうしている間にも刻一刻と教師は教室に近づいているだろう。
「くそっ、いっそ飛び降りられたら……」
時間を節約できるし、恐怖を感じるのも一瞬で済む。だが、もしそんなことをすれば教室に戻るどころではなくなる。潰れたトマトに転生だ。
「せめてパラシュートでもあれば話は別なんだけどな。……あ!」
祐司はあることを思い出して、両手を打ち鳴らした。
「そういえば、漫画とかだと着ている服をパラシュート代わりに使ってたりするな」
もしかすると真似できるかもしれない。祐司は制服である学ランとワイシャツを脱ぎ、袖を結び合わせて一枚の布にする。
「できた! よし、これで」
布の四隅を掴んで背中に回す。それから、柵に向かって駆けた。
「っしゃあ、行くぞ! ……って無理!」
柵の一歩手前で急ブレーキ。即席パラシュートを屋上に叩き付けた。
「はい無理! 無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理! 何このほら、あれ、学ランとワイシャツを合体させたやつ!? こんなんでパラシュート代わりになるわけねえ! 馬鹿なの俺? 死ぬの俺?」
危うく、テンションに任せてこの世とオサラバするところだった。安全に下りる方法を模索していたはずなのに、なんで天国まっしぐらな方法が浮かんでしまうのか。押し迫る時間のプレッシャーのせいで、頭がどうかしている。
「うわっ、寒!」
インナー一枚の祐司に、冬の冷風が容赦なく吹きつける。急いで服の結び目を解いて羽織った。
「こんな所にいたら、遅刻どころか凍えちまう。は、早くなんとかしねえと」
足踏みをして体を擦るが、熱と時間が奪われていくばかり。ケータイで時間を確認すると、もう時間はほとんど残されていなかった。
「ああああああああああなんなんだよ、チクショウ! なんでカギなんてかかってるんだよ!頼む、開けてくれ! 誰か開けてくれええええええ!」
祐司は階段室の扉に縋り付き、ドアノブをやけになって力任せに捻る。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ、バキンッ!
「ん!?」
破壊音と共に、祐司の手にかかる感触が軽くなった。恐る恐る手を離すと、ドアノブは自分のあるべき場所を見失い、万有引力に従って屋上に転がった。
「ちょ、待っ! えっ!」
ドアとノブを何度も見比べるが、自然に元通りになったりはしない。祐司はドアノブがあった位置に、握手のように手を差し出して捻った。
「エアノブ」
屋上を吹き抜ける風は、一層冷たさを増した。
「ってこんなことしてる場合じゃねええ! どうすんのこれ!? ドアノブ無しで、どうやって開けんの」
ドアノブを拾って元々挿さっていた穴に戻そうとする。しかしドアノブは年頃の少女のごとく、反抗ばかりしてその中に収まろうとしない。
「なああああああああ!」
腹が立った祐司は、ドアノブを全力で放り投げた。
「ノブなんぞ知るか! 他にも扉を開く方法ならある。アブラカタブラ、開けえゴマ! アバカム! テクマクマヤコンテクマクマヤコン! バルス! 出でよ、シェンローーーーーーーーーーーーーーーーーン!」
オーーーーーーン。
オーーーン。
オーン。
祐司の天に届かんばかりの叫び声が木霊する。
もしも誰かがこの様子を見ていたなら、きっと祐司に雷が落ちるのさえ幻視できたことだろう。
しかし、屋上と校舎内を隔てる鉄製の扉はびくともしなかった。
祐司は額を扉に押し付ける。
「なんで開かねえんだよお……。今のは開くところだろうがよお……。全く、空気読めよ扉よお……」
穴に指を突っ込んでいじける。指先だけは校舎の中に入っている。厚さ三センチにも満たない扉が恨めしくて仕方ない。
「あーーーー……」
指を穴に差し入れたまま、体重を後ろに傾ける。脚と腕に体重を預け、さなぎのようにぶら下がった。
「もう知―らない。なにばれんたいんって? なにかいきんしょーって? 解禁ショー? すごくエロいんですけどおぉ。あははは、あははは……あははははあああっ!?」
体をぶらぶらと揺らしていると、いきなり支えが動いて祐司は尻餅をついた。
「な、なんだ? うお!」
祐司は目の前に広がる光景に、口をあんぐりと開けた。
扉が、祐司の口のように開いていたのだ。
「ど、どうして?」
すぐさま立ち上がって、カギを確かめる。するとカギは指で簡単に動かせるくらいに緩んでいた。どうやらドアノブを壊した時に、一緒に破壊していたらしい。
祐司の前に広がる、薄暗い階段部屋。その中に一歩踏み込む。
「えっと……、俺、中に入れたんだな……?」
腕を組んで頷く。
「ってことは……急げ!」
祐司は別にエロくもなんともない皆勤賞を守るべく、教室へ向けて駆け出した。
2 / 14 / 13:14 / Hayato Saeki
「シェンローーーーーーーーーーーーーーーーーン!」
「なんだ、いったい?」
突然降ってきた奇妙な声に、隼人は空を見上げた。雲の無い空はまるで遠近感が無い。のっぺりとした青色がどこまでも広がっている。日差しの割に風が冷たく、春の訪れはまだまだ遠くに感じられた。
隼人は沙世を探して、昼休みに先輩が駆けて行った特別教室棟沿いを歩いていた。
「今のは、香住さんの声ではないな。全く、どこにいるんだ?」
早く見つけて、教室に帰らなければならない。それは勉強のためにはもちろん、もう一つ重要なことがある。
「もしも『黄鬼』に見つかったら一大事だ」
宝條高校の生ける伝説、『黄鬼』。高校で生徒指導をしているというのが冗談にしか聞こえない巨体を持ち、プラスチック製の黄色いバットを常に装備している狂人だ。帰宅部で上級生との繋がりが無い隼人にも、数々の逸話が伝わっている。
『黄鬼』はこの地に封印されていた本物の鬼で、校長が封印を解いたものである。
『黄鬼』のプラスチックバットの中には金棒が仕込まれている。
『黄鬼』の指導を受けて、生きて帰って来た者はいない。
『黄鬼』を倒すと、異界への扉が開かれる。
大袈裟なものがほとんどだが、通じて『黄鬼』は恐ろしいということを物語っている。小動物のような沙世が見つかれば、ひとたまりもないだろう。
特別教室棟を回り、中庭に出る。中庭は芝生が敷かれ、生徒達の憩いの場になっている。いつもの昼休みならば沢山の生徒が昼食に訪れるのだが、今はベンチに一人座っているだけだ。
「ここにいたのか」
隼人は俯く沙世の前に立った。沙世からの返事は無く、細い肩は小刻みに震えている。腿の上で握った手には水滴が付いていて、どうやら泣いているようだった。
「その様子だと、チョコは渡せなかったんだな」
よく見ていないとわからないくらい、本当に小さく沙世は頷いた。隼人は手の平で額を覆い息を吐く。股間の痛みは、何の成果にも結びつかなかった。せっかく忘れかけていた痛みが、意識したことで蘇ってくる。
しかし、沙世を責める気にはなれなかった。
自分よりも、もっと痛そうだからだ。
ハンカチを出して沙世の顔に押し付ける。
「わぷっ!」
「少し、じっとしていろ」
涙やらその他の汁やらを拭ってやると、ハンカチはたちまちぐしょぐしょになった。一瞬躊躇うが、隼人はそれをポケットに戻して手を差し出す。
「立てるか? とりあえず、教室に戻らないと」
隼人の言葉に沙世も手を伸ばすが、隼人の手に届く前に落下した。力無くうな垂れた沙世は、まるで立ち上がろうとしない。
「……ない」
「え?」
小川のせせらぎよりも小さな声は聞き取れず、隼人は聞き返した。
「授業、出たく、ない……」
「な、なに言ってるんだ。サボろうって言うのか」
沙世は今度ははっきりと頷いた。
「今日は、もう帰る」
「おい待て。まだチョコを渡せていないんだろう。それなのに帰るって」
「チョコは、渡さない」
「はあ? どうしてだ?」
隼人がそう聞いた途端、沙世の体がびくりと跳ねた。
「いったい何があったのか話してくれないか。急に帰りたいだなんて、よほどのことがあったんだろ?」
「……」
「なあ?」
「……」
沙世は何も喋らない。隼人は手持ち無沙汰で、行き場を失ってしまった手を引き、頭を掻いた。お手上げだ。状況が把握できていないから、なんと声をかけていいのかわからない。だいたい、隼人の言葉で沙世の気を晴らせるのかも怪しい。数時間一緒に行動していたことで錯覚してしまっていたが、沙世にとって隼人はクラスメート。何を苦しんでいるのか話せない、弱みを見せることのできない、ただのクラスメートに過ぎないのだ。
互いの目的のために、利用しあっていただけ。
どこかにぶつけたわけでもないのに、胸が痛んだ。
隼人は胸に手を当てるが、痛みを和らげることもできない。
本当に痛いのは、胸のさらに奥。手では触れられない場所だ。
痛みを嫌うのは人間の本能。
だから、これからすることは仕方ないことなのだ。
隼人は自分に言い訳をする。
そして、口を開いた。
「俺、短い時間でも香住さんの手伝いをしていて、少しくらいは親しくなれたと思っていたんだけどな……」
ため息をついて、沙世の隣に座る。
卑怯な手だ。
沙世が息を呑むのが聞こえる。
気の弱さに付け込んだ、最低な手段。
だが、そうまでしてでも、沙世に一歩踏み込みたかった。
はじめは女子からチョコを受け取らないようにするための、単なる盾代わりのつもりだった。それがいつの間にか、隼人は真剣に沙世に協力していた。
沙世に想いを伝えさせたい。
どうしてか、それが自分のためにも必要なことであるような、そんな気がするのだ。
中庭に吹き込む風は校舎で行き場を失い、迷い、同じところを回り続ける。溜まった空気に押し上げられて、枯葉が屋上へと消えた。
その時、沙世が隼人の袖を掴んだ。
「話してくれる気になった?」
「……うん」
そして、沙世は隼人と離れてから何があったのかを、言葉に詰まりながら話した。
何度も待ってと叫んだのに、先輩は全然聞かずに逃げていったこと。
途中から、先輩を追う人の数がすごく増えたこと。
挟み撃ちにされた先輩が、校舎の壁を駆け登って屋上に逃げたこと。
「それでね……先輩が登っていく時にも、私……待ってって言うことしかできなくて……、そしたら……」
沙世の、袖を握る力が強くなった。隼人は沙世の心の準備ができるまで、何も言わずに待つ。
「しつこい、さっさと消えろって……」
「先輩が? 本当にそう言ったのか?」
思わず聞き返して失敗したと隼人は思うが、もう遅い。沙世は再び涙を流し始めた。奥歯を噛み締めて、隼人は拳を固く握る。手の平に爪が食い込むが、自責の念はその程度では晴れない。
傷口を広げるような言い方をしてどうするのか。
自分の無神経さに腹が立った。
本当に言いたいことは言えないくせに、余計なことは意識しなくても滑り出てくる。
おそらく、先輩の言葉だってそうだ。義理チョコを渡されるかもしれないという恐怖心が、口を勝手に動かしてしまったのだろう。先輩は逃げている最中、沙世には世話になったからお礼をしたいと言っていた。それが急に、そんな言葉を吐くなんて考えられない。先輩の言葉は、あくまでも義理チョコに向けてのものに違いなかった。
そうなると、問題は沙世の方だ。
自らの思い違いで傷を作っている。
沙世は鼻を啜り、小さくこぼした。
「先輩、私のこと、嫌いになっちゃったのかな……」
隼人は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。鈍痛が記憶の奥へ奥へと侵食していき、既に忘れてしまっていた過去をほじくり出す。
隼人は頭を振り、懸命にそれを阻止しようとする。
思い出したくない。
しかし、脳は回顧をやめない。やがて出てきたのは、ベッドの上で三角座りをした小さな隼人だった。
顔を膝に埋め、体を震わせている。
彼は嗚咽と共に言葉を漏らした。
お母さんは、僕のことを嫌いになったのかな……。
喉が引き絞られて、呼吸ができなくなる。
汗が噴き出し、体を伝い落ちる。寒さに自分で自分をきつく抱きしめた。
隼人が思い出したのは、母が一人でショコラティエの修行をするために、フランスに行くことを告げた日のことだった。
父をものごころつく前に亡くした隼人は、とにかく母にべったりと甘えて育った。いきなりこれからは祖父母と暮らすようにと言われても、簡単にわかったなんて受け入れられるはずがなかった。仕事をする母の邪魔にならぬよう、部屋に籠もって泣いた。
どうしてお母さんはそんなに遠くへ行くの。
どうして僕を置いていくの。
「どうして」ばかりが、頭の中をぐるぐる巡る。
いくら涙を流しても、寂しさや苦しさは外に排出されず、むしろ水分が減ることで濃縮されていった。
お母さんは僕を嫌いになったんだ。
僕よりもチョコの方が好きだから、一人でフランスに行ってしまうんだ。
お母さんを、チョコに取られた。
「チョコなんて……、チョコなんて……」
「冴木君? 大丈夫!?」
沙世の声で、隼人は現実に引き戻された。心配そうに覗き込む沙世。
「あ、ああ……。悪いな、少し昔のことを思い出していただけだ。大丈夫」
「本当に? すごく顔色が悪いし、汗だって……。それに、呼吸も……」
「とにかく、大丈夫だから」
とりあえず汗を拭こうとハンカチを出すが、色々な汁に塗れていて使えそうにない。それを見て、沙世はピンクのハンカチを出して隼人のハンカチと交換する。
「ごめんなさい……。あの、よかったら、使って……」
「ありがとう」
額にハンカチを当て、深く息を吸い込む。それからゆっくりと吐き出し、目を閉じる。
まぶたの裏にはあの日の自分がいる。
一人で泣き暮れた、あまりにも幼かった自分。
その姿に沙世が重なった。
隼人がいつの間にか本気で沙世に協力していたわけ。
それは過去の自分と沙世が、よく似ているからかもしれなかった。
そしてそれに気が付いた瞬間、隼人に一つの疑問が生まれた。
沙世は勘違いによって自分を傷つけ苦悶している。
もしかしたら、自分もそうなのではないだろうか。
母が自分を嫌ったというのは、勘違いなのではないだろうか。
幼かった自分には、人との関係を表す言葉は「好き」と「嫌い」の二つしかなかった。好きだからこそ一緒にいるし、嫌いならば離れていく。母は自分を置いて遠くへ行ってしまうから、それは嫌いの意思表示なのだと、子供の価値観で決め付けてしまっただけなのではないだろうか。
母の、本当の気持ちも聞かずに。
隼人は腹の底から湧き上がる怒りを感じた。
チョコにでも、ましてや母にでもない。
それは、自分への怒りだ。
一人ベッドの上で涙に溺れていた時から溜め込んでいた怒り。
母は自分が嫌いだと決め付けてはいたが、それでも期待はしていたのだ。
母が自分を嫌いなわけがないがないと。
何度も何度も涙を拭って、母の下へ行こうとした。
本当は自分のことをどう思っているのかを聞こうとした。
しかし、ベッドの上から降りることができなかった。
母は自分のことが世界で一番好きなのだという期待を裏切られるかもしれないと思うと、どうしても体が石のように固まって動けなかった。
傷が広がるのを恐れたのだ。
臆病な自分に腹が立った。
結局、何もできないままに母を失い、残ったのはもはや解消する術のない自己嫌悪。
「香住さん」
「なに……?」
「絶対に先輩にチョコを渡そう」
「え!」
沙世の目が見開かれる。溜まっていた涙が零れ落ちた。
「でも……先輩は、私のこと、嫌いだから……」
「もう、先輩の気持ちなんて関係ない」
「……どういうこと?」
「本当に大事なのは、香住さんの気持ちだ」
2 / 14 / 13:14 / Sayo Kasumi
「私の、気持ち……?」
沙世を正面から見据える隼人は、寂しそうな顔をしているのに、どうしてか怒っているような気がした。
「先輩が香住さんをどう思っていたって、香住さんが先輩を好きだっていうのは変わらないだろ」
一瞬、息が止まった。
胸が大きく、ドクンと跳ねた。
「なら、それはしっかりと伝えるべきだ」
「でも……」
嫌いな人間から好意を伝えられても、先輩は迷惑に感じるだろう。それに、もし気持ちを伝えたら、先輩の本心が返ってくる。
また先輩に跳ね除けられると思うと、もう足が地面に縫い付けられたように動かないのだ。
「怖い……、怖いの!」
何かに縋り付きたくて、隼人の胸に飛び込んだ。
隼人は沙世の肩を掴んで引き剥がす。
「甘えるな!」
隼人が肩を掴む力は強くて、肌に食い込んで熱い痛みを生んでいる。だが、沙世はそれを訴えることができなかった。
痛いのも苦しいのも自分なのに、隼人が泣いていた。
子供のようにぼろぼろと大粒の涙を落としながら、それを拭いもせずに言葉を続ける。
「好きな人に拒絶されるのは怖いだろう。痛くて、苦しくて、寂しくて、自分の周りのものが全て敵になったような気がする。傷口を広げたくなくて、必死になって外の刺激から隠したくなる」
肩に乗った震える指先から、隼人の心が激しく昂ぶっているのを感じる。
「だけど、それじゃあ駄目なんだ。想いは伝えないといつまでも心に留まって、伝えられなかった後悔や、伝えられなかった自分自身を憎む気持ちとぐちゃぐちゃに混じる。それは膿になって心を苛み続けるんだ。溜まった膿を外に出さないと、傷口はいつまでも塞がらないんだよ!」
「冴木君……? 何の、話……?」
隼人の目は確かに沙世に向いているのに、何か違うものを見ているようだ。涙声の言葉も、まるで自分に言い聞かせているように感じる。
しかし、その言葉は沙世の胸にも深く突き刺さっていく。
目を逸らそうとする沙世に、隼人はそれを許さない。
「香住さんは今、自分から先輩に嫌われているのだと思い込んで、先輩の本心を聞くことから逃げている」
「思い……込み?」
「ああ、思い込みだ」
「だって、しつこいって……、消えろって言われたんだよ!」
沙世は自分に向けられた拒絶の言葉を、鮮明に覚えている。記憶は鋭利な刃物となって沙世の傷口に突き立ち、肉の繊維を断ち切っていく。
これが、思い込みだというのか。
この痛みが、自傷だというのか。
隼人は声音を変え、優しく沙世に語り掛けた。
「今、香住さんを傷つけているのは思い込みだ。だが、それが真実の可能性もある」
「やっぱり、先輩は私のこと……」
「そうだな、嫌いかもしれない」
「冴木君の言ってること、わからないよ! 違うって言ったり、そうだって言ったり」
「だから言っただろう。先輩の気持ちなんてどうだっていいんだ」
「もっとわからない!」
沙世は隼人の手を払い、立ち上がる。もうこれ以上、傷に触れてほしくなかった。
逃げようとする沙世は、隼人に腕を掴まれ引き止められる。腕を振って抵抗するが、男子相手では敵うはずもない。強引に隼人の方へと向き直させられた。隼人もベンチから立ち、目線を沙世に合わせて口を開く。
「俺が言いたいのは、先輩の気持ちがどちらにしろ、確かめられるのは今しかないってことだ。先輩はいつまでも、香住さんの手の届く場所にいるわけじゃない」
その言葉は、重かった。
ナイフのような尖った痛みではなく、バットで殴られたような、内臓に響く痛み。じわじわと脳に浸透していく。
先輩が自分の前からいなくなる。
当然だ。自分は一年生で、先輩は三年生なのだから。
卒業式が来たら、もう会えなくなってしまう。
今までにも、何度となく考えたことだった。
そして、考える度に頭から追い出してきたことだった。
「このままじゃあ、香住さんは先輩の本心を知ることなく別れることになる。それでもいいのか?」
「やめて……」
「自分の想いも、先輩には伝わらないままだ」
「お願い……」
「先輩との最後が、思い込みに塗れた偽物でもいいのか?」
「もうこれ以上、私を傷つけないで!」
沙世は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「ひどいよ冴木君……。どうして、こんなことするの? もう私のことなんて、放っておいてよ……」
「それはできない」
「どうして……?」
「俺みたく、なってほしくない」
隼人は胸に手を当てて深呼吸をする。それから、子供が親に悪いことを報告する時に似た顔をした。
「俺は母さんの本心を知ることができなかった」
「冴木君の、お母さん……?」
「俺が小さかった頃、母さんは突然ショコラティエ――チョコ専門のパティシエになるためにフランスに行くと言い出した。それも、一人でだ。どうして母さんは俺を置いていくのか、わからなくてひたすら泣いた。そして、俺は思ってしまった。母さんは俺が嫌いだから置いていくんだ。そうに違いないって、思い込んだんだ」
思い込み。隼人が沙世に言ったことだ。
「何度も母さんに、俺のことをどう思っているのか確かめようとした。嫌いなわけない。誰よりも好きだと言ってほしかった。だが、もしも本当に嫌いだと言われたら。そう思うと、怖くて何も聞けなかった」
同じだ。
沙世だって本当は聞きたい。
先輩が自分のことをどう思っているのかを。
しかし、怖いのだ。
「それで、冴木君はどうしたの……」
沙世の問いに、隼人は眉尻を下げた。
「それっきりだ。何もしてない。今となっては、何もできない」
「どういうこと?」
「母さんはフランスに行く途中に、飛行機事故で死んだ」
「死ん……!」
「俺にはもう、母さんの気持ちを知る術がない。本心がわからないからもやもやしていて、それが膿になって溜まっているから、傷口が塞がることもない。いつまでも、痛いんだ」
隼人はここでようやく涙を拭った。
「だから、俺と似ている香住さんを放ってはおけない。先輩に気持ちを伝えよう。そうすれば、先輩の本心がわかる。結果がどちらであっても、後悔せずに済む」
沙世はこのまま逃げ続けたら、胸を焦がす先輩への想いはどこへ行くのかを考えた。
答えは、「どこにもない」だ。
きっと隼人の言うように膿となって、この傷口を化膿させ苛み続ける。
膿を出すには、さらに傷をつけて搾り出さなければならない。
沙世が逃げているのは、その痛みだ。
大きな痛みを避けて永遠に続く痛みに苛まれるか、死ぬほどの痛みを我慢して傷を治すか。
沙世に与えられた選択肢は、この二つしかない。
どちらかの痛みを選ばなければならない。
痛みへの恐怖に、脚が震える。
いつの間にか止まっていた涙が、また潮が満ちるように競りあがってきていた。
先輩……!
その時、沙世はある日の出来事を思い出した。
部活上がりの体育館。先輩は数人のバスケ部員達と言い争っていた。どうやら、先輩が何かしようとしているのを、周りが止めているようだった。その中で、先輩はこう言った。
「いいか、人生にはやるかやらないかを決断する時が必ず来る。そんな時、俺なら迷わずやる方を選ぶ。絶対に後悔したくないからな」
それを聞いた途端、先輩を止めていた部員達は手を離した。
そうだ、私も。
「冴木君、私、やってみる……。怖いけど、やってみる」