昼休み1
2 / 14 / 12:25 / Yuji Toyota
午前の授業は終了し、今は折り返しである昼休みだった。祐司はすっかり指定席になった理科準備室の戸に背中を預けて深呼吸をする。
残り時間は半分だが、気を緩めることは許されない。減ったのは時間だけではなく、男子の数もだからだ。頭数が減れば、相対的に男子一人に当たる乙女隊の数が増えてしまう。当然、逃走の難易度は上昇する。
ここからが、バレンタインの本番だった。
祐司はこれからの戦いに備えて食事にする。
「腹が減っては軍はできぬってな」
鞄からビニール袋を出す。今朝の集団登校の前にコンビニで買っておいたおにぎりだ。具は祐司の好きなツナマヨと鳥五目。食事はメンタルコントロールに大いに役立つ。好きな食べ物で士気を上げるのも作戦の一つだ。
祐司はツナマヨを取り、手順通りにまずは包装の真ん中にあるフィルムを剥がす。右端を親指と人差し指でつまんで包装を剥がそうとし、祐司は動きを止めた。
ほんの些細な違和感。その正体を探るべく、目を左から右に流していく。頭上の小窓から差し込む光を照り返す埃も、内臓の足りていない人体模型もさっきまでと同じ。
緊張からか、自分の息遣いと鼓動が大きく聞こえてくる。
額を汗が伝った。それが目に入らないように拭い取り、開きかけのツナマヨを袋にしまった。
アキラのスカートを捲る前にも感じた、背筋を貫くような怖気。
「なんだ? 何があるっていうんだ……?」
祐司の問いに答えるものはいない。当然だ。ここには祐司しかいないのだから。
乙女隊がいくら探しても、ここはそう易々とは見つけられまい。
そう考えた時、祐司は違和感の正体に気が付いた。ついさっきまでは、乙女隊が祐司を探してすぐ後ろの廊下を駆け回っていた。戸に背中を付けた祐司がどうやってそれを判断していたかといえば、足音を聞くことによってだ。
一人か二人分の足音であれば、それは男子である可能性が高く、大量の足音が過ぎれば間違いなく乙女隊のものだとわかる。
しかし今この時、背後からは一つも足音が聞こえてこない。
過去二年の乙女隊は、隊員達に交代で食事休憩を与えていた。いくら昼飯時とはいえ、全員が一斉に食事をしているなんてありえないのだ。
ならば、これはどういうことなのか。
必死に頭を働かせては考える。その時、祐司を影が覆った。前にある窓の外は快晴で、空には雲一つ浮かんでいない。
祐司は唾を飲み込む。それからゆっくりと首を逸らして、頭上を見上げた。
「あ……っ!」
祐司に影を落としていたもの。
それは少女だった。
窓から上半身を乗り出し、祐司を見ている。逆さまに映る顔は笑っていた。
「みぃーつーけたー」
祐司はすぐさま戸から背を離して少女と距離を取った。
「なんなんだお前は!」
「ふふふふふふ」
少女は薄気味悪く笑うと、さらに身を乗り出した。
「お、おい、来るな! 来るんじゃない」
「ふふふふふふ」
「それ以上来ると」
「ふふふ……って、きゃあっ!」
少女は重力に従い、頭から床に落下した。鈍い音が祐司にまで届き、全身に鳥肌が立つ。
「だから、来るなって言ったんだ……」
祐司が心配して見つめる中、落下した少女は頭を押さえて起き上がる。さっきまでは垂れ下がる髪の毛に邪魔されて見えなかったスカーフが顕になり、彼女が一年生であることがわかった。
見ず知らずの一年生が祐司の下を訪れる理由は一つしかない。少女は制服に付いた埃を払うと、準備室の戸のカギを開けた。すぐさま勢いよく戸が開かれると、準備室前の廊下には大量の女子が集まっていた。その全員が上履きを手に持ち、靴下姿である。足音が聞こえなかったのは、そのためだったらしい。
「よくやった」
そう言って入ってきた一人の女子は、祐司の予想通り。
「棗……アキラ」
彼女は一年生の頭を撫でてから、口の端を上げて祐司を見据えた。対する祐司は舌打ちをし、ポケットから扇風機を出して構える。
「ようやく見つけたぞ、豊田祐司」
「はっ、別に探してくれとは言ってないんだけどな」
「この状況でも、まだ軽口を叩く余裕があるのか」
理科準備室の広さは教室の半分よりさらに少し小さいくらい。それに大量の教材を押し込んでいるため、まともに動けるスペースは四畳程度しかない。祐司の不利は明らかだ。ただし、それは祐司が逃げるのを前提とした場合である。
腰を落として、扇風機のスイッチを入れる。
途端に発生する風が、煌く埃を巻き込んでいく。
モータの回転音に、祐司のテンションも上がっていった。
「な! またそれか!」
「はは、もう一度桜色のパンツを拝ませてもらうとしよう!」
祐司はかつて部活で鍛えた瞬発力を活かして、瞬時にアキラの足下に入り込んだ。扇風機の生み出す風は、スカートを膨らませて捲り上げようとする。
「きゃっ」
「はあ、はあ、パンツ……」
アキラははためくスカートを両手で押さえつけた。扇風機の目的は、あくまでもこうやって相手の両手を使えなくすることにある。
隙だらけのアキラの脇をすり抜け、祐司は出口目掛けて駆けた。そこに待ち受ける女子達も、パンツ無双を発動すれば敵ではなかった。
「はははははははははははははははははははは……はっ!」
突如感じた殺気に、祐司は横に飛んだ。胸から数センチのところを、装飾された包みを持つアキラの手が通り過ぎた。床に転がって受身を取り、再び扇風機を構える。さっきまで頬を染めてスカートを押さえていたアキラが、掌底を放った格好で止まっている。
「ちっ、勘のいい奴だ」
アキラはゆらりと体を動かして、祐司と正対する。
「おい、これが目に入らねえのか。近づくとまた捲るぞ!」
祐司は威嚇するが、アキラは膝を軽く曲げて戦闘体勢に入った。もう恥らっている様子は微塵も感じられない。
どういうことなのか。
スカートを捲ると宣言しているのに、アキラは恥らうどころか、むしろ捲ってみろといわんばかりに余裕の笑みを浮かべている。
祐司の脳裏に、最悪の答えがチラつく。
「まさかお前……」
信じたくないという気持ちが、祐司の言葉を途切れさせた。もし予想通りであるなら、祐司は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「どうした? 怖気づいたのか?」
アキラの挑発に、祐司は確信した。
「お前、見せる快感に目覚めてしまったのか……」
「は?」
アキラがぽかんと口を開ける。
「スカートを捲ろうとしても動じねえし、今度は挑発までしてくるし、どう考えても露出趣味じゃねえか!」
「いやいや、何を言って」
「こんなことになるなんて考えてもなかった。まさか、一人の人生を変えてしまうなんて……」
「誤解だ! アタシはそんなもの開眼していない!」
「じゃあ、どうしてスカートを捲っても平気なんだよ?」
「それは、ほら……」
アキラは両手でスカートの裾を掴み、持ち上げようとする。それを見た瞬間、祐司は全力でアキラに駆け寄り、手首を掴んで押し留めた。
「やっぱり見せたいんじゃねえか!」
「違う! いいから見ろって!」
「嫌だ、見たくねえ! 本当はもう一回桜色パンツで花見と洒落込みたいところだけど、こんなシチュエーションは望んでねえ」
「人のパンツの色を叫ぶな! とにかく、一度話を聞いて!」
アキラは祐司の手を払って、一歩下がる。
「アタシは別に、パンツを見せようなんて思ってない」
「だってスカートをたくし上げようとしてるだろ」
「してるけど! してるけど違うの!」
「お前は何を言いたいんだ!?」
「だから……」
アキラは自分の隣で唖然としている一年生の女子のスカートを握った。そして、
「こういうこと!」
一気に捲り上げた。
祐司は慌てて目を塞いだ。しかし、男の性が無意識に指の間に隙間を作り出す。
まだまだ子供である一年生の細く白い腿が晒された。それでもまだ、スカートは捲れる。アキラの腕に合わせて上がり続け、遂には秘境に到達。
「黒……いや濃紺か? ま、まさかこれは!」
祐司の手の平は、ばっちりとパーに開かれて目隠しの役割を完全に放棄している。そんな状態では、見間違えるわけがなかった。
捲られた一年生は驚いてこそいるものの、恥らう様子は無く、両腕も体の脇に下がったままだ。だが、これは彼女が特殊な趣味の持ち主だからではない。
彼女のスカートの中。そこは、
「ブルマだと!」
宝條高校指定の体操服によって守られていた。
それは、女性解放運動家であるアメリア・ジェンクス・ブルーマーが、窮屈なコルセットから女性を解放するために考案した、由緒正しき衣服。
男子がそれを見て意図せぬ体育座りを強いられようが、夜中に思い出して息を荒くしようが関係ない。
ブルマを穿いた女性はこう語る。
「パンツじゃないから、恥ずかしくないもん」
祐司はブルマを前にして愕然とした。女子達の恥じらいが無くなってしまっては、扇風機は武器になどなりえない。これでは電池消耗が激しいポンコツ扇風機だ。
乙女隊が一人として扇風機を恐れることなく準備室に踏み込んでくる。
「くそ!」
祐司は扇風機を床に叩き付けた。
「こんな袋小路に自分から入るなんて、あんたバカじゃないの……じゃなくて、お前はとんだ馬鹿野郎だ」
興奮して素に戻っていた口調を整え、アキラは部下に指示を出した。
「敵に逃げ道は無い。かかれ!」
準備室いっぱいに乙女隊が押し入り、祐司は後退を余儀なくされる。しかし狭い準備室ではすぐに背中がぶつかってしまう。
「今年こそ、我々の勝ちだ!」
アキラは声高に勝利宣言をした。
「うるさい! 何が勝ちだ。こんなところで、終わってたまるかよ!」
祐司は乙女隊に背を向ける。諦めたのではない。祐司が奪われたのは乙女隊と戦う手段。それは、去年までは存在しなかったものだ。つまり、バレンタインの本来あるべき姿に戻っただけ。
戦えないのであれば、逃げるまで。
祐司が追い込まれたのは窓際。乙女隊の手が届く直前、窓を開いて中庭へ飛び出した。
2 / 14 / 12:29 / Akira Natsume
「なに!?」
アキラは目を丸くするが、すぐさま祐司を追いかけるべく自らも窓から身を乗り出した。
「待ってください隊長」
飛び出そうとしたアキラを部下が止める。
「なぜだ? 豊田祐司が逃げてしまうだろ」
「それはわかりますが、窓の下を見てください」
部下の言うように視線を下げると、窓の下、校舎の壁沿いには砂利が敷かれていた。足音を消して準備室に近づくため、アキラ達は靴を脱いでいる。そのまま飛び出せば、砂利で足の裏を傷つける恐れがあった。アキラはソフトボールの優秀なピッチャーであり、大学へ特待生として入学することが決まっていた。今、下手に怪我をすれば、その話がどうなるかわからない。少なくとも、大学側は良い印象は抱かないだろう。
「靴を脱いだのが仇になったか!」
慌てて靴を履きなおすが、いざ追いかけようとすると、既に祐司の姿は見えなくなっていた。
2 / 14 / 12:33 / Hayato Saeki
隼人は教室で弁当を食べていた。友人は皆学食に行くため、普段は一人で本を捲りながらの食事。しかし、今日は一緒に食べる相手がいた。
「冴木君のお弁当、すごく綺麗だね」
向かい合わせにくっつけた机では、沙世が小物入れのように小さな弁当をつついている。
「ありがとう。祖母に言ったら喜ぶと思う」
「おばあさんが作ったんだ」
「ああ。香住さんのは?」
「……一応、私が」
沙世の弁当は彩り鮮やかで、見た目にもとてもおいしそうだ。
「一応って?」
「半分はお母さんが作ったお夕飯を詰めただけだから……」
「見栄えよく詰められるのはすごいことだ」
隼人も祖父母の負担を減らそうと、高校に入ってすぐの頃に自分で弁当を詰めてみたことがあった。結果は散々。隙間だらけだし、色合いも地味。しかも詰めるのに時間をかけすぎて、危うく遅刻するところだった。
「先輩にチョコを渡せたら、次は弁当を作ったらいいんじゃないか?」
「お、お弁当!?」
「チョコを渡して上手くいけば、そういう関係になるわけだろ。もし既に先輩が義理チョコを受け取っていたら、なおさら丁度いい。すうどん生活で落ち込んでるだろうから」
「せ、先輩に、お弁当を……」
沙世が箸をくわえたまま、意識を遠く飛ばしてしまう。天井の隅を見つめて、頬を桃色にしている。隼人は口中の卵焼きを飲み込んでから、指先で机を叩いた。その音で、沙世が我に返る。
「そのためにも、まずはチョコを渡さないとな」
「う、うん」
「手渡しするんだから、先輩に会わないと話にならない。香住さんは先輩のいそうなところに心当たりはあるか?」
「えっと……」
「どんなに些細なことでもいいんだ」
「んー……」
「どこで昼飯を食べるかとか」
「……ごめん、全然わからない」
沙世は箸を置いて頭を下げた。
「先輩とは部活の時にしか会えなかったから……」
わからないともう一度呟いて、沙世は背を丸める。
「いや、別に謝る必要なんてない。顔を上げてくれ」
隼人の言葉に沙世は顔を上げるが、その目からは涙がこぼれそうになっていた。頭を下げたのは、泣きそうな顔を隠すためでもあったのかもしれない。気まずくなった隼人は、沙世に箸を握らせて、自分もご飯で口を塞ぐ。
先輩の居場所への手がかりは無し。
それでも学校にいることだけは確かなのだから、考えれば見当くらいはつくはずだ。
咀嚼行為が脳に良いという、どこかで聞いたことがあるような話を信じて、必要以上にご飯を噛みながら頭を捻る。
今ある情報は、先輩は乙女隊から逃げ回っていること。休み時間には教室にいないこと。沙世は先輩と部活の時にしか会えなかったから、普段どこにいるかはわからないこと。ご飯は噛み続けていると、すごく甘みを感じること。
最後は脱線してしまったが、とりあえずわかったことがある。それは情報が不足しているということ。これだけの情報で、どう推測しろというのか。噛みすぎたご飯は、既に食感など消え去っている。いい加減甘みにも飽き、箸休めの漬物を食べるべく完全にペースト化したご飯を飲み下した。
「あ」
その時、咀嚼行為が功を奏したのか米に含まれるブドウ糖で脳が活性化したのかはわからないが、隼人はあることを思い出した。
「香住さんってバスケ部のマネージャーだよな?」
「うん……」
「それじゃあ、尾賀の電話番号を知らないか?」
「尾賀君の?」
「あいつなら、何か知ってるかもしれない」
隼人が思い出したのは、尾賀がバスケ部の半幽霊部員であることだった。毎日練習に参加するほどまじめではないが、多少なりとも先輩とは接点があるはずだし、同じ男子ならきっと何か情報を持っている。困ったことがあれば助けてくれると言っていたし、ぜひ頼らせてもらうことにする。
「ちょっと待って……」
沙世はケータイを出して操作する。
「あったよ」
「よし、それじゃあ早速かけてくれ」
「うん」
沙世はケータイを耳に当て、数秒待つ。乙女隊から逃げている最中で、電話に出ない可能性もあったが、隼人の心配も他所に電話は三秒も待たずに繋がった。
「あ、もしもし……、尾賀君……?」
沙世は集音マイクの限界を探るような小声で話す。
「急に電話して、ごめんね……。えっと、あのね……その」
小声は囁き声に、そして遂には無言になった。ケータイからかすかに尾賀の「もしもーし」という声が聞こえてくる。
「香住さん?」
隼人が問いかけると、沙世は何も言わずにケータイを差し出してきた。わけがわからないが、とりあえず沙世の代わりに電話に出る。
『もしもーし、沙世ちゃーん。尾賀ですよー。確かに尾賀ですよー。何この無言? もしかして、告白イベントが発生してる!?』
「そのポジティブな考え方、俺は嫌いじゃない」
『うわっ声低っ! なにこれ? なんで沙世ちゃんがイケメンボイスを!?』
「落ち着け。俺は冴木だ」
『冴木? 沙世ちゃんは香住じゃなかったっけ?』
「いい加減にしろ。俺は冴木隼人だ」
『あ、お前か。でも、どうやって沙世ちゃんのケータイから?』
「お前の作戦通り、女子と一緒にいることにしたんだ。それで丁度良かったのが香住さん」
『あの作戦実行できたの? よかったじゃん。ふーん、沙世ちゃんは乙女隊じゃなかったのか』
「ああ。ただな」
『ただ?』
「無条件ではないんだ。一緒にいる代わりに、香住さんの手伝いをすることになった」
『へえ、手伝いねえ』
「それでだ、そのことでお前に聞きたいことがあって電話した」
『なに?』
「人を探しているんだ。お前はバスケ部だから知っていると思うんだが」
隼人は先輩の名前を口にする。
『あー、知ってる知ってる』
「そうか、なら話は早いなその先輩がどこにいるか知らないか? 行きそうな場所でも構わない」
「それも知ってるよ」
「どこだ!?」
「俺の真後ろ」
「は?」
「先輩なら、俺の後ろの席でおにぎりを食ってるよ」
「お前、今どこにいる!?」
「え? いつも通り学食だけど……」
「わかった、ありがとう! お前は頼れる友だ!」
「そんなこと言われたら、男なのに惚れちゃ」
隼人は尾賀の言葉最後まで聞かずに、終話ボタンを押してケータイを沙世に返す。
「香住さん、早く行こう。先輩の居所がわかった!」
「え、え?」
祖母には悪いと思いながらも、隼人はまだ残っている弁当を急いで片付けた。