三時限目終了より
2 / 14 / 11:32 / Sayo Kasumi
三時限目が終わり、沙世は再び先輩の教室にやってきた。隣には隼人もいる。隼人がいくら考えても良いアイデアは浮かばないらしく、とりあえず動いてみることにしたのだ。
「し、失礼、します……」
「失礼します」
教室の中はやはり静かだった。蝋人形達の姿勢はさっきと変わらない。そろそろ救急車を呼んだ方がいい気がする。
「これ、大丈夫なのか?」
この状況を初めて見た隼人は沙世にそう聞くが、沙世にもそれはわからない。
「……たぶん」
「三年では女子までこんな状態なのか。そういえば、尾賀が乙女隊を倒した先輩がどうのと言っていたような……」
教室には床を這うように霧が立ち込めていて、この場の雰囲気を現実離れしたものに変えていた。霧の出所は教室の中心だ。そこには机に伏す男子や、顔を覆う女子よりもさらに異質なものがあった。
「……」
「……」
沙世が一人で来た一時間前には無かったもの。
机の上に、天井にまで届く塔が立っていた。
「なんだよ、これ」
沙世達が近づいてみると、それはポッキーを「井」の字に組み上げたものだった。塔の周りにはドライアイスが撒かれ、もうもうと白煙を上げている。
隼人は塔を見上げて聞いた。
「まさか、この机が?」
「う、うん」
「……ここまでくると、チョコっていうよりオブジェだな」
隼人が息を吐きながら「これなら、どうにか大丈夫そうだ」といったことを呟いたが、沙世には何のことかわからない。しかし沙世にとってはそんなことよりも、まずチョコを渡す方法だ。
教室に先輩の姿は無い。今の内にチョコをどうにかしたかった。
塔の前で沙世と隼人は首を傾げる。
机の中はエロ本が詰まっていて、沙世にはそれを外に出すことができない。そうなると別の、それも今日中に先輩が見つけてくれる場所にチョコをしまっておく必要がある。
「あ、鞄は……やっぱり無い……」
机の脇のフックには鞄も含めて、先輩の荷物は何もかかっていない。
「さっきも無かったし、もしかして早退しちゃったのかな……」
「それは無い」
隼人は断言した。
「尾賀の話だが、乙女隊に狙われている男子は、絶対に欠席や早退はしないんだそうだ」
「そうなの?」
「ああ、青春がかかっているとかなんとか」
最後の方はよくわからなかったが、沙世はひとまず安心した。学校にいるのなら、きっとチョコを渡す機会がある。ポケットの上からチョコに触れた。
その時、隼人は「そうだ」と手を叩く。
「何も中にこだわる必要はないんじゃないか? この塔の横にでも置いておけば」
沙世は首を振る。
「ううん、それじゃあ駄目なんだって。別の先輩に聞いたんだけど、ちゃんと中に入れないと渡したことにならないらしいの……」
「なんだそれ。じゃあこの塔も、まだ先輩のものじゃないのか?」
「うん、たぶんだけど……」
「だとしたら、ずいぶん手の込んだ嫌がらせだな」
隼人は苦笑する。
確かに、これがただの嫌がらせなら笑うしかない。
「やっぱり机の中に入れるしかないな」
「でも、その……えっちな、本が……」
「それなら大丈夫だ」
隼人はそう言って、先輩の机の椅子を引く。
「俺が出せばいいだけだからな」
隼人は机の中からエロ本を抜き出し始める。机の上はポッキーとドライアイスで埋まっているため、本は椅子の上に座布団のように敷かれた。
「さあ、香住さんチョコを」
「うん……」
ドライアイスから立ち込める白煙のカーテン越しに、空っぽの机の中が見える。沙世はポケットからチョコを出し、暗闇を湛えたその中に恐る恐る入れた。
きっと、もしかしたら、渡せるかもしれない。渡したいという思いとは裏腹に、ずっとそんな消極的な考えが沙世の心にはあった。それが今、いとも簡単に実行された。
一週間前から、夜も眠れないくらいこの瞬間のことを想像していたのに、終わるのはほんの一瞬。
そのせいだろうか。
沙世は何かが違うと感じた。
チョコは渡せた。
正確にはまだ渡っていないが、休み時間が終わって先輩が戻ってきたら絶対に気付く。
先輩はどう思うだろう。
もしかしたら、はじめは義理チョコと勘違いしてがっかりするかもしれない。
それでも、チョコに添えた手紙を読んでくれれば、これが本命チョコだとわかるはずだ。
その時は……。
「喜んでくれるといいな、香住さん」
「そう、だね……」
「じゃあ、授業が始まる前に戻ろう」
隼人は踵を返して歩き出す。沙世も後に続こうとするが、後ろ髪を引かれる思いが拭えない。
自分は、何かを忘れてしまっている。
沙世は数歩進んで、立ち止まった。
忘れてしまっている何かを求めて、胸に手を当てる。
苦しい。
胸のずっと奥底が、ひどく冷たかった。
これは、ドライアイスのせいだろうか?
「香住さん?」
先を歩いていた隼人が、沙世が付いてこないことに気付いて戻ってくる。
「どうした?」
「う、ん……。私にもわからない。でも……」
でも何だというのか。
「このままじゃ、駄目な気がする……」
何が駄目だというのか。
隼人は不思議そうに沙世を見つめている。
何かを忘れているから、何かが違う。
何が違う?
朝までは覚えていたと思う。
正門で先輩を待ちながら。
体は冷え切っていたのに、心はこんなに冷たくはならなかった。
むしろ、春の日差しの中にいるような、心地良い温かさを持っていた。
「香住さんは本命チョコを渡したかったんだろ? そして、今その本命チョコは先輩の机の中だ。それで何がいけない」
「……何かが、足りない気がする……の」
「何かって言われてもな……」
隼人も指を顎に当てて考え始める。
隼人の言う通り、チョコを渡したかった。
それだけ……?
「違う」
チョコを渡して、それで終わりではない。
もっと望んでいた。
毎晩、ようやく眠りについても夢に見てしまうほど求めていた。
先輩がいて、その前には自分がいる。
沙世は何度も同じ夢を見ていた。
照れくさそうに頭を掻く先輩に、同じく照れくさそうに頬を染めた自分がチョコを渡す夢を。
そして、
「笑顔……」
「笑顔?」
沙世は何が足りないのかに気が付いた。
反転して塔がそびえる先輩の机に向かう。それから、せっかく中に入れることのできたチョコを、優しく手に取り胸に抱える。
「おいおい、なんで出すんだ」
隼人は訝しみ、目を細めた。
「やっぱり、これじゃ駄目……!」
「なぜだ?」
「私、先輩に直接渡したい」
沙世は隼人の目をまっすぐに見つめる。向かい合う隼人の瞳には、小さな沙世の瞳が映る。
それは恋する乙女の瞳だった。
誰よりも強く「欲する」瞳。
「だが、先輩にまた無視されるかもしれなくて怖いんだろう?」
沙世は頷く。
「うん。怖い」
それは変わらない。必死に呼びかけたのに見向きもされなかった寂しさは、数時間で忘れられるものではなかった。しかし、その恐怖にも勝る乙女の欲。
「怖いけど、先輩に直接渡して……、喜んでくれる顔が見たいの」
チョコを渡せても、先輩が喜んでくれる保証は無い。逆に迷惑がられる可能性だってある。それでも、自分にとって都合よく妄想するのは恋する乙女の特技だ。
絶対に先輩は喜んでくれる。
そう思い込むことで、沙世はあらゆる恐怖を打ち消した。
決心をした沙世に、隼人は腕を組んで苦い顔をする。
「まあ、香住さんがそう言うなら……」
隼人は沙世の横に並び、それから椅子の上のエロ本を片付け始めた。
「それでね、冴木君……」
「なんだ?」
「まだ、手伝ってくれる……?」
先輩はどうやら、乙女隊というものから逃げ回っているため、運動が苦手な沙世だけでは出会うことさえ難しそうだった。
「今度はその先輩を探すところからか」
隼人はエロ本をしまい終え、顎に指を当てる。
「女子と一緒にいる、か……。香住さんなら丁度いいかもしれないな……」
「冴木君?」
「あ、ああ、今のは気にしないでくれ。先輩を探す手伝いだよな。この際、乗りかかった船だ。最後まで手伝おう」
「ほ、本当! ありがとう」
「構わない。礼を言いたいのはこっちの方だからな。とにかく、そうと決まれば早速探すとしよう」
「うん。……でも、どうやって?」
「ふむ。探すと言えば、とりあえず聞き込み、かな」
隼人はすぐさま近くの生徒に話しかけた。しかし、この教室では男子は蝋人形に、女子は挙動不審になっている。無視か引き攣った声を上げるかで、まともな答えが返ってこない。それでも片端から声をかけて回っていた時だった。一際廊下が騒々しくなり、程なくして女子の集団が教室に入ってきた。
その中の、桜色の腕章をしたジャージ姿の女子が声を張り上げる。
「我々は乙女隊だ!」
2 / 14 / 11:26 / Akira Natsume
本部より伝達された、豊田祐司の強化扇風機対策を全隊員に施し、後はその本人を見つけるだけ。だというのに、それが一向に捗らなかった。先の休み時間に祐司を追跡した女子は、まだ対策をしていなかったため軒並み挙動不審になり話も聞けないし、一般生徒からの目撃情報もまるで出てこない。午前中の休み時間はもうこれで終わってしまう。時間が無かった。
「我々は乙女隊だ!」
アキラは荒業を使うことに決めた。
教室内は静かで、しかも白煙が床を覆っている。祐司を専門に狙っているのはアキラ達第一戦闘部隊だけだが、特別視しているのは他の部隊も同じだ。どこかの部隊が仕掛けたのだろうポッキーの塔を囲うドライアイスから、絶え間なく白煙が発生していた。それを掻き乱しながら進み、アキラは腕を広げる。
「今、我々は貴様らが英雄と崇める者の居場所を探している。誰か、情報は持っていないか?」
しかし、アキラの声に対する反応はほとんど無い。なぜか三年のクラスにいる一年生の男女が、目を丸くしただけだった。
その様子にもアキラは怯まず、尚も問いかける。
「ほんの些細な情報でも構わない。どうだ、いないのか?」
無言の返答。
それを受けてアキラは当惑するでもなく、むしろ薄く笑った。情報を持っているのは男子だ。当然、仲間の居場所を聞かれて、簡単に答えが返ってくるわけがない。そう、ここまではあくまで前フリに過ぎない。これから起こる出来事を想像すると、アキラは笑いを堪えられなかった。
「さあ、情報をくれないか。ははっ、もちろんただでとは言わない」
アキラはたっぷりと間を置き、それを口にした。
「奴の居場所を教えた奴は、義理チョコを回収してやろう」
その瞬間、ぴくりとも動かなかった男子が、一斉に跳ね起きた。
「ひっ……!」
一年の女子が悲鳴を上げ、隣にいる、やたらと格好いい男子の腕にしがみつく。男子はその女子を気遣ってか、組み付かせたまま教室から出て行った。
蝋人形からゾンビに転身した男子達は、我先にとアキラに群がった。
「それは本当か? 本当にチョコを!?」
「ああ、回収してやる。」情報と引き換えにな」
それから男子達は、何ら迷う素振りも無く、口々に祐司の情報を話し出した。
「あいつは東階段に向かったぞ」
「後三分もしたら教室に戻ってくる。授業が始まるからな」
「そういえば一階まで下りてった!」
「俺はさっきの休み時間まで外に逃げてたけど、あいつとは出会わなかった。だから外には出ていない」
「制服に埃が付いてたから、倉庫にいるのかもしれない」
「ああ、神からのお告げが。あいつは音楽室付近にいるはずだ。たぶん」
「じゃあ俺は悟りを開いた。あいつは屋上だ」
みるみる情報が集まり、部下がそれをノートにまとめていく。役立ちそうなものから、全く信憑性の無いものまで様々。あっという間にページは真っ黒になった。
集団で登校などしてはいるが、男子は完全なグループではない。そうした方が生存率が上がるから群れているだけ。
そう、自分が生き残るためだけに。
そんなもの、餌を一つ放り投げてやればすぐに仲間割れを起こす。
特に、ここにいる男子は既に集団から弾き出された敗者達だ。
義理チョコの回収、つまり一ヶ月すうどん生活からの解放という餌をチラつかせてやれば、容易に裏切る。
「どうだ、もっと質の高い情報を持つ奴はいないか」
すると、一人の男子が高々と手を挙げた。アキラはその男子を、どこかで見たことがあるような気がした。同じ学校に通う生徒なのだから、見たことくらいあってもおかしくない。ただ、その記憶はごく最近のもののようだ。男子はクツクツと喉の奥で笑う。
「開始早々トラップなんぞで殺されて、危うく自己嫌悪で本当に死ぬところだ。それが、こんなところで復活できるとはな」
その言葉でアキラは男子をどこで見たのか思い出した。この男子は朝、三年で唯一下駄箱のトラップで死んだ人間だ。名前は確か、山畠。
「おい、お前の情報というのは?」
「そのままずばり、祐司がどこに隠れているのか、だ」
「ほう。それは?」
「理科準備室。俺とあいつの二人で考えた隠れ場所だ」
「しかし、あそこはカギがかかっている」
「昨日の内に、上にある小窓のカギだけ外しておいたんだ」
「ちっ、姑息な手を」
「それはお互い様だろ」
アキラは部下からノートを受け取る。捲りながら、山畠の情報と照らし合わせる。
「東階段で一階まで……渡り廊下を使うためか。理科準備室は滅多に使われないから、埃も溜まっているはず。ふむ、複数の情報と一致しているな」
信憑性は一番高そうだった。
「だろ? なら」
山畠は餌を目の前にした犬のような目でアキラを見る。
「ああ、約束通り義理チョコを回収してやろう。すぐここに持って来い」
駆け足で山畠は自分の机まで行き、脇にかけてあったビニール袋を提げて戻ってきた。それから忠誠を誓う騎士のごとく跪き、大量のチョコをアキラに差し出す。アキラはそれを両手で受け取った。
「よっしゃー! 俺は自由だ! カツカレー食うぞ!」
すうどん生活の危機から脱した嬉しさのあまり、山畠は拳を高々と突き上げて吼えた。
山畠の奇跡の復活を前に、ゾンビと化した男子達はアキラに手を伸ばす。
「お、俺のチョコも回収してくれ!」
「アキラ様!」
「すうどんは嫌だ!」
「せめてカレーうどんが食べたい!」
部下が慌てて壁を作るが、力では男子に敵うはずも無い。壁の半径はじりじりと狭められていった。しかし、アキラに焦った様子は無い。
壁が決壊しそうになった時だ。
「お前ら見苦しいぞ!」
山畠がアキラを背にかばうようにして叫ぶ。
「揃いもそろって、復活、復活! 男としてのプライドは無いのか!?」
「なんだとてめえ!」
「真っ先に復活したくせに!」
「はははっ! 俺はいいんだよ。お前らと違って、俺には情報という力を持っていた。力無き者は食われ、力有るものが生き残る。それがバレンタインという聖戦の絶対的ルール!」
響き渡る山畠の哄笑。
ゾンビ達はそれを歯軋りして見ているしかなかった。
山畠の言うことは正しい。
バレンタインには暗黙の了解という形で、様々なルールが存在している。
義理チョコを渡してはいけない者。
義理チョコの贈与条件。
校内のみという戦闘エリアの限定。
多くは第三者に迷惑をかけないためのものだ。
それらとは一線を画したルール。
もはや真理とも言えるそれこそが、『弱肉強食』である。
「さあ、散れ!」
山畠が右手を大きく振るい、ゾンビ達を追い払う。
「弱き者に用は無い!」
「同感だ」
けして大きくはないけれど、凛としたアキラの声は教室を支配し、全員の注目を集めた。
アキラはビニール袋の持ち手を、まっすぐに伸ばされた山畠の腕に通す。
山畠は目を白黒させた。
「あの、アキラ様……これは?」
「もちろん義理チョコだ」
「ど、どうして俺の腕に!?」
「そんなの、お前に渡すために決まっている」
「チョコは回収すると……」
「確かに約束通りチョコは回収した。その上で、改めて渡し直しただけだ」
山畠の顔が、瞬時に憤怒で赤黒くなる。
「ふざっけんな! そんなのアリかよ!」
アキラを壁に押し付け、両腕を顔の脇に突いて逃げ道を塞ぐ。部下が悲鳴を上げるが、アキラは表情を変えず、人差し指で山畠の胸を突いた。
「じゃあ逆に聞こう。お前はどうして無しだという。もうチョコは渡さないなどとは、一言も口にしていないのに」
「ぐっ……!」
「お前が契約内容をしっかりと聞かないのが悪い」
「で、でもな」
「でも、だと? 甘ったれるな!」
アキラは女子の中では大きい方だが、それでも男子に比べれば一回り小さい。それにも関わらず、山畠は圧倒されてよろよろと後ずさった。周りを囲う男子達も、困惑の色を湛えて二人の様子を見ている。
アキラは壁から背を離して腕を組んだ。山畠を睨むのは、自らの強さを微塵も疑わない肉食獣の目。
「情報を吐いた今、お前はそこの死人どもと何ら変わらない弱者だ。弱き者は食われる。自分で言ったことだろうが!」
山畠は膝から崩れ落ちた。額を床に擦り付けて、涙を流す。
アキラはそれに背を向けて歩き出した。行く手を阻んでいた男子はアキラを避け、出口までの道が開かれる。乙女隊がその中を悠然と通り抜けても、チャイムが鳴るまで誰一人として身動きが取れなかった。