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二時限目終了より

  2 / 14 / 10:20 / Yuji Toyota


 二時限目の休み時間も、祐司は理科準備室を目指して駆けた。先のパンツ無双により追っ手の数を減らしたためか、今度は比較的楽に到着することができた。

「ふう」

 額の汗を拭う。二月とはいえ、さすがに朝から全力疾走を繰り返しているのだ。汗をかくくらいには体が熱い。氷のように冷たい床が、今はとても心地良い。輝く埃はダイヤモンドダストを思わせ、この理科準備室を神々しく飾っている。祐司にとって、ここは確かに学校で唯一息をつける聖域なのだった。

 祐司は鞄を開けて、扇風機の電池を入れ替える。これは女子のスカートを捲るため、百円均一で買った物に改造を施している。それ故に強力な風を起こせる半面、電池の消費量も通常の倍以上なのだ。もしこれが電池切れで使用不能になろうものなら、教室から出ることも敵わずにチョコの集中砲火を受けることだろう。

 電池カバーをはめて動作を確認する。光を纏った粒子が風に煽られて乱舞した。

 我ながら良い出来だと祐司は頷く。実家の仕事柄、こういった機械いじりには慣れている。

「ただなあ……」

 祐司は苦い顔をする。

 そもそも、実家のせいでこんな目に遭っているのだ。

 祐司の実家は板金工場を営んでいる。

 その名も豊田板金工場。

 あの世界的自動車メーカーの名前を冠している。冠してしまっている。

 義理チョコを渡せる量は、「その者が十倍にして返せるだろう程度」という暗黙の了解があるが、あの自動車メーカー関連の人間であれば、その上限は通常をはるかに超える。

 だから乙女隊は、高額のお返しを狙って祐司を特別視しているのだ。

 しかし、ここに大きな間違いがある。

 祐司のフルネームは豊田祐司。

 実家は豊田板金工場。

 確かに、自動車の修理を請け負ったりもする。

「でも全然、関係ねえんだよなあ……」

 全ては乙女隊の勘違いだった。

 祐司の実家は工場とは名ばかりの、従業員僅か四人の小さな町工場である。車を専門にしていけるほど仕事が来るわけでもなく、屋根の修理から店頭に置くオブジェの製造など、何でも屋的なことまでしている。

 もちろん、近年の町工場が金持ちなわけが無い。むしろ不況の荒波を、隣県の仕事まで請け負うことでなんとか持ちこたえているような状態である。

 祐司の小遣いだって、実家の手伝いをすることでようやく月並み。

 義理チョコを受け取ろうものなら、親から小遣いを前借りしなければならず、すうどん生活は一ヶ月では済まない。

 誤解だと言うのならば、正直にそう言えばいい。当然、祐司だってそうした。一年の頃、目を『¥』にして追いかけてくる乙女隊に向かって、自分がいかに価値の無い人間であるかを、あまりの情けなさに泣きそうになりながら訴えた。しかし、欲は人の目を眩ませ、まともな判断を下せなくする。

「チョコを受け取りたくないからって嘘をつくな」

 そう言って、誰一人として祐司の声を聞き入れなかったのだ。

 乙女隊は、肉を前にした獅子と同じ。

 話など通じない。

 祐司に残された手段は、なにがなんでも義理チョコを受け取らない。ただそれだけだった。

 鞄からノートを出して読み返す。祐司が生き残るために、日々学校や女子の動きを観察して書き続けてきたものだ。中にはこの理科準備室のことや、祐司が逃亡のために準備した数々の仕掛け、乙女隊の要注意人物についての調査書などがしたためられている。

 特によく調べられていたのはアキラについてだ。祐司を追い詰める者がいるとすれば、今年もそれはアキラに違いない。

 アキラのページを見ていると、さっきのはためく布を思い出した。一秒にも満たない時間だが、目の前にはっきりと姿を現した三角地帯。

 祐司はペンを出して、アキラのページに新たな項目を加えた。

「桜色っと……」



  2 / 14 / 10:20 / Sayo Kasumi


「冴木君、私がんばるね」

「ああ」

 向かうは先輩の教室がある三階。沙世は勢い込んで教室を出た。と言っても、気持ちの上だけである。階段を上る足の動きはカタツムリのように緩慢で、一段飛ばしで駆け上がっていく女子達にどんどん抜かれる。

 体が上へ上へと上がるのにつれて、鼓動の速さもべき乗関数のごとく急上昇していく。心臓が喉から飛び出しそうだ。

 それでも、沙世はけして歩みを止めない。

 先輩にチョコを渡したい。

 童話の亀がどれほどゆっくりでもゴールしたように、沙世も先輩のクラスにたどり着いた。胸が爆発しそうなくらい暴れまわっている。

「し、失礼、します……」

 消え入りそうな声で挨拶をして教室に入る。生徒が駆け回る廊下とは対照的に、教室の中は静まり返っていた。沙世のクラス同様に男子が机に伏せっているのに加え、女子までも両手で顔を覆って席に着いている。誰も動かない空間に、沙世は蝋人形の館みたいだと思った。

 はっきり言って、かなり不気味である。

 沙世は表札を確認するが、確かにここは目指していた先輩のクラス。いったい何があったのだろう。

 しかし、ここで気圧されて引き下がるわけにはいかない。

 沙世は気を引き締め、一歩を踏み出した。

 そして、

「あれ?」

 やっぱり止まった。

 先輩にチョコを渡したい。そればかりで頭がいっぱいだったせいで、肝心なことを忘れていた。

 沙世は、先輩の机の位置を知らなかったのだ。

「先輩……」

 そう口にしてみても、教室に先輩の姿は無い。そもそも先輩がいたら、わざわざチョコを机に入れる必要が無い。

「ど、どうしよう?」

 教室の入り口でおろおろする沙世。教室内の蝋人形化した生徒は微動だにしない。誰も来てくれないのなら、自分から行くしかなく、沙世は先輩の机を聞くために、一番近くにいる男子に声をかけた。

「あ、あの……」

 反応が無い。ただの屍のようだ。

「すみません……」

 反応が無い。ただの屍のようだ。

「聞きたいことがあるんですけど……」

 反応が無い。ただの屍のようだ。

「んぅ……」

 いくら話しかけても、男子は一体化した机と額を離そうとしない。返事も無ければ、もはや呼吸しているのかも怪しかった。

 沙世は諦めて、今度は近くの女子の下へ行く。

「あの……」

「はい、なにかしら」

 今度は返事があった。ただ、手の平は未だ顔を覆ったまま。声がこもっていて、まるでプライバシー保護のために、声にモザイクをかけているようだ。それでも、返事があったことに沙世は安心する。

「聞きたいことがあるんですけど……」

 そう切り出して、沙世は先輩の席の位置を聞いた。するとその瞬間、

「ひっ!」

 女子は喉を引き攣らせたかと思うと、両手でスカートを力いっぱい押さえつけた。そうして現れた顔はほんのり桜色。

「あ……、ううっ、……ん」

 口をもごもごとさせ、沙世から目を逸らす女子。沙世は首を傾げながらも、「どうしたんですか?」と聞いてみるが、その女子はもう何も喋ってはくれなかった。

 それからも沙世は教室中の人に聞いてみるが、男子は屍、女子は挙動不審になって一向に先輩の机がわからない。

 やっぱり、先輩にチョコを渡せないかもしれない。

 今日になって、涙がこみ上げてきたのは何度目だろう。いっそ涙が枯れる泣いてしまえば楽になれるのではないか。

 そう考えた時、一人の男子が教室に入ってきた。そして沙世を見るなり身構える。

「見知らぬ女子っ! 乙女隊か!?」

「えっと、よくわからないけど、ち、違い、ます……」

「じゃあ何をしている?」

「先輩の机が、わからなくて……」

「先輩?」

 男子は警戒を解かぬまま、沙世の話を聞く。沙世が先輩の名を告げると、この男子にも反応があった。どこか尊いものを見つめる眼差しで、天を仰ぐ。

「ああ、孔明様か」

「孔明、さま?」

 沙世がチョコを渡したい先輩はそんな名前ではない。

「あのお方の机なら、ほら、教室のど真ん中だ」

「あ、ありがとうございます」

 ようやく机の位置がわかり、沙世は嬉しさでチョコを胸に抱きしめた。しかし、気になることがある。

「あの……、孔明様っていうのは?」

 男子はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、鼻の穴を大きくして語り出した。

「あのお方に付けられた字だ」

「あざな?」

「そう、字。あのお方はあらゆる秘策をもって、男子を乙女隊の義理チョコから守っている。その活躍は、まさに現代に蘇った諸葛亮孔明。さっきの休み時間には無双状態まで発動して、今まで一方的に男子を蹂躙してきた乙女隊を、戦闘不能にした英雄だ」

 男子の言っていることが、沙世には半分以上理解できなかった。とりあえず、先輩は皆から慕われているんだなあ、やっぱり先輩のこと大好きという考えに行き着いた。

 沙世は男子に礼を言って、先輩の机に向かう。それは当然、他の机と何ら変わらない、少し脚に錆が浮き、意味不明な落書きがされた机である。しかし先輩のだとわかった途端、沙世には光輝いて見えた。

「先輩、いつもここで勉強してるんだ……」

 机の上を撫でて微笑む沙世。

「本当になんなんだ君は?」

「え!? あの、その……!」

 机を教えてくれた男子の声で沙世は我に返る。こんなことをしに来たわけではないのだ。沙世はチョコを両手で持ち、深呼吸をしてから机の中に入れようとした。だが、チョコは何かに阻まれて、一ミリたりとも入らない。見れば、先輩の机には一分の隙も無く本が詰まっていた。

 このままでは、どうしたって物理的にチョコを入れることができない。沙世は悩む。

 机に入れられないからといって、上に置いておいたら皆に見られてなんだか気恥ずかしい。

 代わりに鞄の中に入れようとしても、その鞄が見当たらない。

「先輩って、帰っちゃったんですか?」

「いや、乙女隊と戦闘中だ」

「戦闘?」

「そう、戦闘」

 男子はさも当然のように答える。そう断言されると、知らないことがとても恥ずかしいことのような気がして、戦闘というのがなんなのか聞くことができなかった。とりあえず学校にはいるようなので、やっぱりチョコを置いていきたい。

「恥ずかしいけど、上に置いていくしかないのかな……」

「あー、それじゃあ駄目だよ」

「え?」

 男子は人差し指を立てて、沙世に説明する。

「君は、孔明様にチョコを渡したいんだろう?」

「はい……」

「なら、上に置いておくのは駄目。それだけじゃあ、チョコは渡されたことにならないんだ。誰かが置き忘れた可能性もあるからね。渡したいなら、しっかり中に入れないと」

「そう、なんですか。教えていただいて、ありがとうございます」

「いや、気にしないでくれ。本当に……」

 男子は語尾を濁す。しかし、沙世にはそこを聞き直す勇気は無かった。とにかく、チョコは机の中に入れないといけないことがわかっただけでもよかった。

 そうなると失礼とは思っても、中に詰まっている本を出すしかなかった。

「先輩、ごめんなさい」

 姿の無い先輩に謝り、本を一冊手に取る。厚さから考えるに、雑誌のようだ。

 先輩ってどんな本を読むんだろう。

 そう思って雑誌の表紙を見た沙世は、蝋人形の一員になった。

 表紙を飾っているのは、金髪の全裸女性。

 沙世はしばらく、その女性と見つめあった。熱くなった顔から徐々に動きを取り戻していき、腕が動くようになると、すぐさま雑誌を机の中に押し戻した。

「え、えっと、ち、違うんですよ! 私、そんなつもりじゃあっ! 先輩と、そんな! まだ早いですよ!」

 にやにやと下卑た笑みを浮かべる男子に対して、沙世は混乱してわけのわからない言い訳をする。そして、


「い、Yeahーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー)っ!」


 チョコを掴んだまま、教室を駆け出た。



 2 / 14 / 10:21 / Hayato Saeki


 沙世はため息をつくのをやめた。そして、代わりに両手を握り締めて、授業中ずっと時計を眺めていた。早く休み時間になってほしかったのだろうが、時計というのは眺めていると、より時間の進みがゆっくりに感じられるもの。さぞ長い一時間を過ごしただろう。

 そんな沙世が、頑張ると言って教室から出て行った。自分が授業に集中するためにも、ぜひ成功してほしいところだ。

 ただ、結果がどんなものであれ、今は待つしかない。隼人は机から本を出して読み始める。すると、

「えっと、地図にない島? そんなもん、太平洋上にいっぱいあるじゃん。全く、なんて本読んでんだよ」

 机の陰から、本への文句が飛んできた。隼人が目を向ければ、床に胡坐をかいた尾賀が頭を掻いている。なんでも、授業が終わると男子も乙女隊も廊下に飛び出すから、この窓際の机の陰は結構な穴場なのだと言う。

「せっかく匿ってやってるんだ、俺の趣味に文句があるなら、すぐにでも乙女隊にバラすぞ」

「私が悪うございました」

 間髪入れずに頭を下げる尾賀。実に潔い。

「でもさ、いつもそんな本ばかり読んでたら、脳が凝り固まっちゃうだろ。俺の机にも本が入ってるから、それを読んでリラックスしてみたら?」

「リラックス?」

 こちらの本の趣味に文句を付けるくらいなのだから、さぞいい本を持ってきているに違いない。そう思い、本好きな隼人は、興味のままに尾賀の机から本を抜き取った。

「なになに、『今夜は旦那さん帰らないんでしょ?』……ってなんだこれ?」

 試しに他の本も出してみるが、

『妻身食い』

『新妻ハメ殺し』

『ザ・人妻』

『ノー・ミュージック。ノー・ワイフ』

 出てきたのは全てエロ本。それも人妻モノばかりだった。

「どうだ、俺のお宝コレクションは?」

「いや、どうだって言われても……引く」

「おうっ、ストレートだな」

「趣味もそうだが、学校に机いっぱいのエロ本を持ってくるなんて、何を考えてるんだ」

 隼人はいそいそとエロ本を詰め戻していく。

「何をって、これもバレンタインを生き抜くための作戦だよ」

「はあ?」

 エロ本が作戦だなんて、意味がわからない。隼人は尾賀の額に手を当てた。

「熱は無いようだな。ということは……。すまない、精神科にツテは無いんだ」

「その反応はやめて。俺だって人なんだから傷つくんだよ」

「正気で言ってるのなら、なおさらだな」

「俺、死のうかな……って死んでたまるか」

「ほう、これがノリツッコミというやつか」

「うっさい、分析すんな。いいかよく聞け。バレンタインにおいて、一番危険なのは机の中なんだ」

 言われてみれば、確かに前の席で死んでいるクラスメートも、机の中にチョコを入れられていた。

「去年までは、男子の五割がそれによって死んでいたらしい」

「去年まで?」

「そう。今年になって遂にその対処法が考案されたんだよ」

「まさか、それが……」

 尾賀は指を鳴らして、隼人が持つ最後の一冊を指した。

「エロ本だ。乙女隊は文字通り乙女の集団だから、エロ本を堂々と触ることができない。つまり、机をエロ本でいっぱいにしてしまえば、奴ら手も足も出ないってわけだ」

「誰だよ、そんなアホなこと考えた奴」

 とりあえず相当ぶっ飛んだ奴に違いない。

「アホなんて言うなよ、失礼だろ。あの人には孔明様って字があるんだ。あ、三国志の諸葛亮孔明な」

「それはまた大袈裟な」

「いやいや、それがそうでもないんだ。孔明様は朝も、乙女隊に囲まれた俺達の道を切り開いてくれたし、さっきの休み時間には無双乱舞で乙女隊をやっつけたらしい。義理チョコに命を狙われる俺達にとっては、まさに英雄なんだよ」

 尾賀は親切に説明してくれたらしいが、余計にわからなくなってしまった。

 なんだ無双乱舞って。

 ただ、乙女隊に狙われる心配が無いらしい隼人にとっては対岸の出来事。おもしろそうな話ではあっても、わざわざ自分から進んでチョコに関わる話に首を突っ込む必要は無い。最後のエロ本を尾賀に押し付け、今度こそ読書を楽しもうとした。

 しかし本を開いた途端に、隼人はまた声をかけられた。

「冴木君、ちょっといいかな?」

 今度は女子四人組だった。隼人とは違うクラスの女子も混ざっている。

「ん? ああ」

 正直、けして良くは無かった。何かをしようとして、その出鼻を挫かれるのは良い気分ではない。それが趣味のことならなおさらだ。そうは思っても、それを素直に言ったところで誰も得をしない。結局のところ、話を聞くしかないのだ。たとえ女子が綺麗にラッピングされた箱を持っていたとしても。

「えっと、あのね……」

「私達、チョコを作ってきたの」

「よかったらなんだけど」

「受け取ってくれないかな?」

 女子達がそれぞれ形の違う箱を差し出してくる。すると、チョコの匂いが隼人の鼻を掠めた。チョコは箱に包まれているのだから、こんなにはっきりと匂いはしない。おそらく、女子達がバレンタインに合わせて、チョコレート系の香水を使っているのだろう。

 隼人は震え始めた脚を手で押さえ、突如襲いかかってきた吐き気を奥歯を噛み締めてこらえる。

「冴木君……?」

 女子の一人が心配そうに顔を覗き込んできた。一層濃くなるチョコの匂いに、隼人は空気の吸い込み方を忘れてしまったように、横隔膜が痙攣しているのを感じた。

 背中が焼かれるように熱くて、汗がとめどなく噴き出しているのに、その皮膚一枚下は氷の塊を丸呑みしたように冷え切っていた。

「大丈夫?」

「顔色悪いよ」

「保健室、行く?」

 まとわり付く女子とチョコの甘い匂いが、隼人の肺にタールのごとくこびりついていく。

 隼人は顔も上げられず、搾り出すようにして声を出した。

「心配、しなくていい。それよりも、そのチョコだけどな、俺、嫌いなんだ。受け取れない」

「じゃ、じゃあ、食べなくてもいいよ。お願い、受け取ってもらえるだけで、私達は嬉しいから」

「あ、もしかして、私達のこと乙女隊と勘違いしてる?」

「それは誤解だよ」

「これは義理じゃなくて、ほんめ」

 隼人は腕を振り上げ、机に叩き付けた。一瞬で静まり返る女子達。

 尾賀も目を丸くして隼人を見上げている。

「さっさと消えてくれ」

 隼人の低い声に、女子達は困惑の表情を見せ、おろおろするばかり。隼人は遂に理性を振り切って叫んだ。

「消えろと言ってるんだ!」

「ひっ」

「う」

「ふえ」

「ぐす」

 女子達は涙目になって隼人から離れていき、そのまま教室からも出て行った。

「っくは、はあっ、はあっ……」

 机に突っ伏して荒い呼吸を繰り返す隼人。チョコの残り香で胸がムカムカしている。尾賀は立ち上がり、隼人の背中を擦った。

「おい、いきなりどうしたんだよ。大丈夫なのか?」

 声を出すのも億劫で、隼人は首だけを縦に動かして返事をする。しばらくするとチョコの匂いが消え、それと共に体が訴えていた不快感も霧散していった。

「ありがとう、尾賀。もう楽になった」

「そうか? ほんとになんなんだよいきなり」

「あー、アレルギーみたいなもの、かな」

「チョコの?」

「ああ」

「へえ、そんなのあるのか。でもよ、あの言い方は無いと思う。俺だって怖かった」

「そう、だよな。明日になったら謝っておく」

「それがいい」

 尾賀は隼人の肩に手を置いて頷く。

「だけど、せっかくの本命チョコなのにもったいねえ。たぶんだけど、お前のことだから後二十個は貰えるはずなのに」

「な……」

 そんなに、と隼人は呻いた。二十回もこんなことを繰り返したら、きっと死んでしまう。頭を抱える隼人に、尾賀も腕を組み考えながら言う。

「アレルギーじゃなあ……。貰う度にさっきみたくなるんだったら、今日はもう帰った方がいいんじゃないか?」

 確かにそれが一番なのはわかっているが、早退なんてしたら祖父母に心配をかけてしまう。

「なにか、チョコを貰わなくて済む方法はないのか?」

「うーん、お前の場合は義理チョコじゃなくて本命だろ。俺達みたく逃げ回ると、女子からの評判が悪くなるかもしれない」

「この際、それでも構わない」

 そう言った途端、尾賀は眉間にシワを寄せて、人差し指を隼人の額に突きつけた。

「お前は女子に避けられた経験が無いからそんなことを言えるんだ。いいか、女子のいない青春ってのはお前が思ってるよりもずっと暗くて、むさくて、酸っぱいものなんだ。俺の安易な提案で友人がそんな青春を過ごすことになったら、俺は男として堂々とドキドキイベントに参加できなくなっちゃうだろ」

「そうなのか?」

「そうなんだよ!」

「そ、そうか。変なこと言って悪かったな……」

 尾賀の迫力に圧倒されながら、隼人は頭を下げた。

 しかし、逃げることができないとなると、いったいどうすればいいのか。さっきの女子達を見てわかったことだが、本命チョコというのは断るのがとても難しいようだ。受け取るだけでいいなんて、何が満足なのか。さっきみたく怒鳴らなくとも、きっとアレルギーみたいなものだからと言ってしまえば済むのだろう。ただ、あまり言いふらしたいものではない。できることなら、本命チョコを渡される機会そのものを無くしたかった。

「女子の評判も含めて、どうにかならないか?」

 バレンタイン経験ゼロの隼人には、何も良いアイデアが浮かばない。すると、頼りの尾賀は渋い顔をしながら口を開く。

「どうにかならないこともなくはなくなくない」

「……それってどっちなんだ?」

「俺自身わからない」

「おい」

「いや、あることはあるんだ。でも、実現性が……」

「どんな案だ?」

 チョコを貰わなくて済むなら、どんなに困難なものでもよかった。藁をも掴む思いで尾賀に詰め寄る。

「やること自体は簡単。一日中、女子と一緒にいればいいだけだ」

「女子と? 自分からチョコを貰いに行けっていうのか」

「なんだろう、この殺意。悪気無く言っている辺りがなおさら憎い。そうじゃなくて、お前にチョコを渡したい女子でも、乙女隊でもない。そんな女子と一緒にいればいい。そうすれば、その女子をお前の彼女と勘違いして、誰もお前にチョコを渡さなくなる」

「そんなに上手くいくのか?」

「いかない」

 尾賀ははっきりと言い切った。

「は?」

「いや、チョコを渡されないのは確かなんだけど、本当に妬ましいことにそもそもそんな女子がいない。このクラスの女子は皆、乙女隊の隊員であるか、もしくは本命でお前狙いなんだ。お前は帰宅部だから、他のクラスに知り合いの女子がいるわけでもないだろ」

「ああ」

「それじゃあこの案は実践でき」

「いたーっ!」

 教室の入り口から、突然叫び声が上がった。見れば女子の集団が隼人達に向かって指を差している。

「ちっ、見つかったか!」

 尾賀は背後の窓を開けて身を踊らせた。

「悪いな冴木。まあ、何か困ったことがあったら助けてやるから!」

 そう言い残し、上履きのまま校庭に向かって駆けていった。三人の女子が窓から飛び出して尾賀の後を追いかける。

 あっという間の出来事。取り残された隼人は、机を抱くように突っ伏した。さっきまでの沙世が乗り移ってしまったのか、長い長いため息が出た。

「女子と一緒になあ……」

 尾賀の言う通り、隼人は部活に入っていないし、付き合いがあるのはクラスメートの男子くらいで、さっきチョコを持って来た女子達ともほとんど話したことがなかった。一緒にいられる女子など、見当もつかない。

 やはり、地道に断り続けるしかないのだろうか。

 そう思うと体が重くなった。チョコは死ぬほど嫌いだ。そのせいでさっきは怒鳴ってしまったが、自分に好意を持ってくれているというのは単純に嬉しい。できることならチョコを断って、これから来るかもしれない女子達を傷つけたくはなかった。

 胃がキリキリする。

「早退とまではいかなくても、一日中保健室にでも籠もってるか……」

 せっかく授業に集中するために沙世の悩みまで聞いたのに、そんな考えが浮かんだ。

 籠もるかどうかは別にして、胃薬だけでも保健室に貰いに行こうと立ち上がった時だった。教室の入り口から、今度は戸に何かがぶつかる音がした。一拍遅れて、沙世がふらふらとした足取りで入ってくる。顔は真っ赤で、目は忙しなくぐるぐると回っている。席に着くと、俯いたまま動かなくなった。机の上には、赤い包みとピンクのリボンでラッピングされたおそらくチョコ。

 隼人は胃の痛みが増したように感じた。あの場所にチョコを置きっぱなしにされては、授業中に必ず視界に入ってしまう。隼人はすぐさま沙世の前に回りこんだ。

「どうしたんだ香住さん。なんでまだチョコがここに?」

 隼人の問いかけに、沙世はほとんど息を吐いただけのような声で答える。

「……机の中……入れられなかったの……」

「入れられなかったって、どうして?」

「……本が……いっぱいで……」

「なら、外に出せばいい」

「……だって……」

「だって?」

「……えっちな……本だったから……」

 言い終えるのと同時に、沙世の顔は爆発したように赤色を濃くして、体がぐらぐらと揺れ出した。

 隼人は尾賀の机の中を思い出す。義理チョコを防ぐための大量のエロ本。それが先輩の机にも仕込まれていたようだ。

 あーうー、と沙世は言葉さえ失ってしまっている。このままにしておいたら、本当に顔から火が出てしまうかもしれない。クラスメートを放火犯にするわけにもいかず、隼人は沙世の肩を掴んで揺すった。

「おい、帰って来るんだ。落ち着け、まずは深呼吸だ」

 隼人は子供に教えるように自らも深呼吸をしてみせる。

「すーはー」

「……すー……はー……」

 しばらく繰り返していると、赤みは残っているが、沙世は言葉を取り戻した。

「ご、ごめんなさい」

「いや、いいんだ。何があったかはよくわかったから。それより、このチョコをここに置きっぱなしにしてたら、日光で溶けるぞ」

「う、うん。そうだね」

 沙世は自分の机の中にチョコをしまう。隼人は小さく安堵の息をついた。しかし、その息はステレオになっていた。沙世が再び送風機状態になっている。

「チョコ、やっぱり渡せないのかな……」

 隼人は天井を仰いだ。

 状況が一周して、元に戻っている。隼人は遂に保健室に引きこもることを決意したが、それを沙世が引き止めた。

「冴木君、他にも良い方法はないかな?」

 沙世は上目遣いで涙を滲ませ、小動物のように震えていた。

 雨の日にダンボールに入った子犬を見つけたなら、隼人は絶対に足を止めてしまう。自分がここからいなくなった後、この犬はどうなってしまうんだろう。

 もしかしたら死んでしまうかもしれない。

 そう思ってしまい、いつまで経っても離れることができなくなる。

 結局は家に持ち帰ってしまった犬が、家には三匹もいるのだ。

 隼人は糸が切れた人形のようにがくりとうな垂れ、沙世の前の席に着いた。

「……ちょっと待て、今考える」


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