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聖戦開始

  2 / 14 / 07:02 / Akira Natsume


 バレンタインデー当日。乙女隊は朝の七時に集まって行動を開始していた。

 九つの小隊が、それぞれ予め与えられた任務をこなしていく。

 朝の主要任務は、トラップの設置である。義理チョコを渡す方法は手渡しに限られていない。多くの男子に義理チョコを渡すための、より効率的な方法がトラップだ。

 アキラ達第一戦闘部隊も、特別任務遂行に向けトラップを仕掛けにかかる。

 まずはじめは下駄箱だ。

 アキラは目当ての下駄箱のネームプレートを人差し指でなぞり、読み上げる。

「豊田、祐司」

「特別任務って、その人に義理チョコを渡すことなんですよね? いったいどんな人なんですか?」

 隊員の一人がアキラの脇からネームプレートを覗き込み、首を傾げた。セーラー服のスカーフの色は、彼女が一年生であることを示している。

「そうか。一年生なら、知らないのも無理はないな」

「えっと、先輩達の中では有名なんですか?」

「ああ。なんたって、乙女隊はこいつ、豊田祐司が一年生の頃から特別視しているからな」

 一年生はなおさら不思議がって、首が一回転してしまいそうになっている。アキラは任務が本格化する前に、彼女以外の一年生も混ぜて祐司の説明をすることにした。

「特別任務のターゲットは豊田祐司、三年一組出席番号三十番だ。ところで、こいつの苗字に聞き覚えは無いか?」

「そういえば……。あっ、車の」

「そう、某自動車メーカーと同一だ。さらにはこいつの実家だが、板金工場を営んでいる。ここまで言えばもうわかるだろう?」

 一年生は皆、理解したようだ。

「えっと、要はターゲットの家はお金持ちだから、義理チョコのお返しもすごいのを期待できるということですね」

「ご名答」

 義理チョコを渡せる量は、「渡された者が十倍にして返すことのできる、常識的な額の範疇であること」という暗黙の了解が存在する。普通の学生であれば、渡せるのはせいぜい千円分といったところ。しかし、祐司の家が某自動車メーカーの親戚筋だと考えれば、その上限は大きく跳ね上がる。是が非でも義理チョコを渡したい相手なのだ。

「それじゃあ、早くトラップを仕掛けましょうよ」

「まあ、そう慌てるな。……ちっ、ここは駄目か」

 アキラの視線の先、祐司の下駄箱では二つの南京錠が鈍い光を返していた。おそらく、ピッキング対策で二つとも種類が違っているはずだ。そもそも、アキラはピッキングの技術なんて持ち合わせていない。

「ど、どうするんですか?」

「なに、心配はいらない。既に他の場所にも隊員を送っている」

 トラップを仕掛ける場所は主に三ヶ所。下駄箱、ロッカー、そして教室の机の中だ。

 ケータイが震え、ロッカーに向かった仲間からの連絡を知らせる。

 予想はしていたが、ロッカーにもやはり複数のカギがかけられているようだった。そうなると残りは机の中。

「敵もバカではないか。教室に向かうぞ」

 アキラはブラウスの上に羽織った、学校指定のジャージを翻して駆ける。

 正直なところ、アキラは教室に向かうことも無駄に終わるだろうと感じていた。本来、机には下駄箱やロッカーのように施錠することはできないから、トラップを仕掛けることは容易なのだ。実際、全男子の三割にはそれで義理チョコを渡すことができる。しかし祐司に限っては、机こそ最も強固な守りを誇る。過去二年間、祐司は板金工場の息子としての腕を見せ、机に鉄板を溶接したのだ。文字通り、鉄壁の守り。乙女隊はその他多数の奇抜な作戦に翻弄され、未だ一つたりとも祐司に義理チョコを渡すことに成功していない。祐司を狙うのは見返りの高さもあるが、それ以上に乙女隊の意地という面も大きかった。

「今年こそは、何がなんでもアタシ達が勝つ!」

 階段を上り三階へ。階段のすぐ脇の教室が、祐司の在籍する三年一組だ。開けっ放しの戸からアキラが中に入ると、先行していた隊員達が教室の真ん中に固まっていた。彼女達が囲んでいるのは祐司の机。

「どうした? なぜ連絡もよこさない?」

 アキラの問いに、隊員達が振り向く。どうしてか全員、顔を耳まで赤く染めて、指をいじいじしている。

「あ、隊長……、その……」

「もう義理チョコはしかけたか? それとも、やはり鉄壁が」

「いえ、今年は『鉄壁による』守りはありませんでした」

「なに!?」

 隊員の答えでアキラが目を向ければ、確かに机には何も細工がされていない。これを好機と言わず、なんと言おうか。

「机の封鎖を忘れるとは、やはりあいつも人の子。今年はなんともあっけない終わりだったな。さあ、はやく義理チョコを仕掛けるんだ」

 アキラの命令に、赤面している隊員達は全員首を振って答えた。

「できません」

「はあ? 何を言っている。奴の机は無防備じゃないか」

「いえ、これまでで一番の守りです。私達には到底崩せません」

 アキラは隊員の奇妙な言葉にもう一度机を見た。鉄板が溶接されているわけでも、上に花が置かれているわけでも、ましてや椅子に画鋲が並べられているわけでもない。いたって普通の机だ。よく見れば中にはぎっしりと本が詰まっているが、これで封鎖など片腹痛い。外に出してしまえばいいだけだ。

「お前らができぬと言うなら、アタシがやるまで」

 アキラはポケットから、チョコの入った二つの包みを出した。片方は対祐司特殊任務を任された第一戦闘部隊にのみ支給された武器。三ヶ月前から予約しなければ手に入らない、一粒五百円もするフランス仕込みのボンボンショコラ(補給部隊によりF500と命名された)。このF500を六粒も入れた包みを机に入れた瞬間に、ミッションコンプリート。乙女隊の大勝利だ。

 そしてもう片方は――。

 アキラは隙間無く詰められた本を、数冊まとめて抜き出す。

「や、やめてください隊長!」

「たかが本に何を臆す、る……」

 本を半分抜き出したところでアキラの動きが止まった。赤面していた隊員は不自然に目を逸らし、それ以外の隊員にも石化現象が広がっていく。

「あ、ああ、い、やあ……」

 言葉が出ない。

 顔が熱い。

 アキラは、どうして先行した隊員達がもじもじしていたのか理解した。自分が右手で掴んでいる本の表紙では、体の凹凸の主張が激しい金髪の女性が、全裸で大きく股を開き微笑んでいた。女性の口元からは吹き出しが伸び、横文字が並んでいる。

 そう、


「Yeahaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa(イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー)!!!!!!!!!!」と。


 本を机に押し戻し、教室から駆け出る。

 祐司の机に詰まっていた本。それはエロ本だった。

 乙女隊とは、読んで字のごとく「乙女」の集まる隊。

 机の中に義理チョコを入れるためには、エロ本を外に出さなければならない。この後学校に来た男子達は、机の上に出されたエロ本と、中に入っている義理チョコを見てどう思うだろう。

「あいつら、エロ本見たんだ」

 そう思うに違いない。

 乙女として、それは耐え難い恥辱である。

「な、なんて破廉恥な策を……」

 第一戦闘部隊は誰が言うでもなく、トラップを諦めて一時撤退した。その際、数人がトイレに向かったことを、アキラは見なかったことにした。



  2 / 14 / 7:40 / Sayo Kasumi


 沙世は小さな背中を門柱に預けて立っていた。手に提げている鞄の中には、何度も材料を、器具を、調理方法を確認しながら作ったチョコレートケーキが入っている。

 正門で待ち伏せて、先輩が来たら渡すつもりだ。

 風が吹き、肌を刺すような冷たさが体を撫でる。口元で手を重ねて息を吹き掛ける。その手はいつの間にか真っ赤になっていた。先輩が何時に登校するのかわからなかった沙世は、寒風吹きすさぶ中、もう三十分以上待っていた。

「早く、来すぎちゃったかな……」

 これだけ待っても、登校時間まではさらに三十分以上ある。正門を通る者もまだ少ない。沙世自身、いつもならまだ家を出てすらいない時間だ。ただ、今日は少しでも早くく先輩にチョコを渡したくて、はやる気持ちを抑え切れなかった。

 早く先輩にチョコを渡して、喜んでくれる顔を見たい。

 先輩のことを考えたら、心が温かくなってほんの少し寒さが紛れた気がした。

 だから、まだ待っていられる。

 無意識に顔がほころんで、待っている時間が楽しく感じられる。

 左右に首を回して、先輩が来ないか確認する。正門前を横に走る道路には、女子生徒が三人歩いているだけ。

「あれ、そういえば」

 沙世は奇妙なことに気が付いた。

 正門を通る数少ない生徒には、ある共通点があった。

 全員が女子なのだ。

 ここに立ってから、まだ一人も男子を見かけていない。ときどき校舎から聞こえてくる声も女子のもの。

 こんなに早く来たのは初めてで、もしかしたらいつものことなのかもしれない。それでも沙世には不思議で、同時に新鮮だった。

 背中から伝わる門柱の感触も新鮮。

 人通りの少ない正門も新鮮。

 犬の散歩で通りがかったおばさんと挨拶を交わすのも新鮮。

 何より、好きな人を待つなんて経験は一番新鮮。

 こんな気持ちにさせてくれるのだから、先輩を好きになって本当に良かったと沙世は思い、ますます先輩が好きになった。

「先輩、喜んでくれるといいなあ……」

 喜んでくれるとしたら、どんな風にだろう。

 ありがとうって言ってくれるかもしれないし、照れるかもしれない。さっき校舎の方から聞こえた声みたく外人のように驚いたら、どうしようか悩んでしまう。

 沙世は緩んだ口元をマフラーに埋めながら、先輩が来るのを待ち続ける。



  2 / 14 / 8:00 / Hayato Saeki


 嫌だと言っても時は過ぎる。

 とうとうこの日になってしまった。

 隼人はため息をつきながら、学校へ向かう。風邪でもひかないものかと、椅子に座ったまま寝てみたりもしたが、目覚めたのはベッドの上だった。

 風邪をひけば祖父達に迷惑をかけてしまうと考えれば、健康なのは良いことだ。そう思うしかない。

 結局はチョコを見る覚悟を決めて、いつも通りに家を出た。

「バレンタインデーなんて、製菓会社の陰謀だって話じゃないか。なんだってみんな、そんなものに振り回されるんだ」

 駅のホームも、電車の中吊り広告も、途中で寄ったコンビニも、どこもかしこもバレンタインチョコバレンタインチョコ。

 鬱々と歩いている内に、危うく正門を通り過ぎそうになってしまう。いつもは何かを考えながらでも、前を歩く生徒についていけば間違えることは無いのに、今日に限ってはその生徒の数が異様に少ない。いつもの半分にも満たないのではないだろうか。しかも、女子ばかりであるため、背の高い隼人の視界には入りにくい。

「ん?」

 そこでようやく隼人は、通学路の様子がおかしなことに気付いた。

 男子が一人もいない。

「どういうことだ?」

 正門を通り抜けた先の校庭にも、女子しかいない。

 毎朝、この時間は陸上部が朝練をしているはずなのに、それすらも無い。

 一瞬、隼人は来る学校を間違えたのではないかと考えた。しかし目前に立つ校舎は、確かに隼人が通う県立宝條高校のもの。

 校内はいつもに比べてずっと静かで、まるで嵐の前のようだった。

 校庭を横切り、校舎の中に入る。

「なんだこれは? 流行ってるのか?」

 南京錠のかけられた下駄箱が並んでいる。昨日、隼人が帰る時までは、こんなもの無かったはずだ。つまり、帰宅部の隼人が帰った後から、今までの間にかけられたことになる。

 いったい、何のために?

 普通に考えれば防犯のため。

 僅か一日に満たない時間で、生徒達の防犯意識が変わるだろうか。

 それに、よく見れば錠が下がっているのは男子の下駄箱だけである。

 全く男子の姿が見えないことと、何か関係がありそうだ。

「何の関係だ?」

 隼人は訝しみながらも、上履きに履き替えて教室に向かう。宝條高校の教室は、学年に合わせた階が割り当てられている。一年生である隼人の教室は、一階の一番奥にある。

「ん?」

 目指していた教室の戸が開き、中から女子が出てきた。隼人のクラスの女子ではない。スカーフの色で先輩であることを確認する。

「先輩が来るなんてめずらし、い、な!?」

 教室から出てきたのは先輩一人だけではなかった。その後に続くように、ぞろぞろと女子が出てくる。十人以上の女子が列を組んで、隼人に迫ってきた。手に持っているのは、スーパーやコンビニで売っている徳用チョコレートと書かれた袋。

 隼人は背筋が急速に冷えていくのを感じた。

 母親の笑顔が脳裏を掠める。

 壁に手を突き、体を支える。

 胃が痙攣し、息が詰まる。

 女子の隊列が迫り、隼人は無意識に鞄の取っ手を強く握っていた。

 そして、

「……!」

 硬直した隼人を見向きもせずに、女子達は通り過ぎていった。

 詰まっていた息を吐き出し、浅い呼吸を繰り返す。

 鞄を握る手は、力を込めすぎて色を失っている。

「な、なんなんだ?」

 誰もいない廊下では、答えは返って来なかった。



  2 / 14 / 08:25 / Sayo Kasumi


 先輩はまだやって来ない。

 一時間以上も待っていたから、体がすっかり冷え切って震えが止まらない。

「今日は、お、お休み、なのかな……?」

 感覚の無い手で腕を擦る。

 ほとんどの男子もまだ来ていないし、風邪が流行っているのかもしれない。こんなに寒いのだから無理もない。

 沙世は門柱から背を離した。

 そろそろ行かないと、遅刻してしまう。

 最後にもう一度だけ左右を見回し、目当ての姿が無いのを確認してから、沙世は下を向いて校舎へと歩き出した。

「チョコ、どうしよう……」

 もし先輩が学校を休むのなら、チョコを渡すことができなくなってしまう。喜ぶ顔も見られない。お見舞いに行こうかとも思い浮かんだが、どこに住んでいるのかわからなかった。知っていたとしても、自分が行って迷惑にはならないだろうか。それに、風邪をひいた人へのお見舞いの品に、チョコを渡すのはおかしい気もする。

「渡せない、のかな」

 そう思うと胸が苦しくなって、目が潤んだ。これからすぐに授業が始まってしまうから必死に我慢しようとしても、こみ上げてくるものが抑えられない。

 溢れる、という寸前だった。

 沙世の耳に、何かけたたましい音が届いた。遠くの方から聞こえるそれは、音というよりむしろ地響きに近いような。どんどんと学校に近づいてきている。

 沙世は一滴だけこぼれてしまった涙を指で拭い、耳を澄ませた。地響きは正門前の道の両側から迫っている。正門まで戻って道に顔を出し、沙世は目を見開いた。

 地響きの正体。それは足音だった。

 道幅いっぱいに広がった男子の群れが、両側から全力疾走でこっちへ向かって来る。

「な、何!?」

 二つの群れは土煙を上げながら互いを引き合い、合流して正門に流れ込んだ。

 沙世は圧倒されて、正門脇に尻餅をつく。

 目の前を走り去っていく男子男子男子男子男子男子。

 その異様な光景に、沙世は開いた口が塞がらなかった。

「あ!」

 呆然と男子の濁流を眺めていた沙世は、ずっと待ち続けていた姿を見つけた。先輩は鞄を胸に抱えて、他の男子と肩をぶつけながら走っている。沙世は急いで立ち上がり、先輩に呼びかけた。

「せ、先輩……! 待って!」

 必死になって叫ぶ。

 しかし沙世の細い声は。百を遥かに超える足音にかき消され、先輩の耳には届かない。沙世には見向きもせず、先輩は濁流の一部となって行ってしまう。

「お願いです、待ってください!」

 遠ざかっていく先輩の背中が、巻き上げられた土煙で霞む。

「先輩……!」

 沙世も走って追いかけるが、冷え切った体は思ったように動かない。群れは容赦なく沙世を追い越していった。

「待って、あ!」

 遂には、沙世は石に躓いて転んでしまう。チョコだけは守ろうとして、肩を地面に強かに打ち付けた。その甲斐あって、チョコを包んだラッピングには傷一つ付いていない。ほっと息を吐き顔を上げると、もう先輩の姿は見えなかった。

 校庭に倒れる沙世を、誰一人気に留めない。

 群れの最後の一人が正門を抜けるのと同時に、チャイムが鳴った。

 一人残された沙世は、倒れたまましばらく動けなかった。



  2 / 14 / 8:28/ Yuji Toyota


 バレンタインには、いくつかの暗黙の了解が存在する。

 代表的なものは、『義理チョコを渡せるのは校内のみとする』と、『既に本命チョコを貰った者、イケメン、ゲイの三者には義理チョコを渡してはならない』の二つだ。つまり、イケメンでもゲイでもなく、ましてや本命チョコなど貰う当ての無いほとんどの男子は、今日一日、校内にいる間中ずっと義理チョコから身を守らなければならないのだ。

 男子の群れが、始業時間ギリギリの校内に流れ込む。この集団登校は、生き抜くための知恵である。遅刻覚悟でギリギリ登校するのは、少しでも校内にいる時間を短くするため。群れを作るのは、サバンナのシマウマやヌーと同じで、敵に襲われにくくするためだ。

 そしてその敵は下駄箱の前で隊列を組み、不敵に笑っていた。

「乙女隊……!」

 祐司は気持ちが昂ぶるのを感じた。ぎらつく捕食者達の目を真っ向から睨み返す。幾対もの眼光の中、一際鋭く祐司を射抜かんとするものがあった。

 棗アキラだ。

 一年の頃から執拗に祐司を狙い続ける乙女隊隊員。毎年、彼女によって祐司は窮地に立たされていた。一昨年は後三十秒、去年は後三秒正門から出る時間が遅ければ、間違いなくやられていた。

 アキラがブラウスの上に羽織っている、学校指定の青いジャージの左腕には、桜色の腕章が付いている。それは、乙女隊の小隊長の証。

「ずいぶん偉くなったもんだ」

 祐司は一つ息を吐き、気を引き締めた。それから紐を緩めに結んでおいたスニーカーを脱ぐ。乙女隊に臆してここに留まっていては、授業に遅刻してしまう。祐司は保育園の頃から無遅刻無欠席を守り通している。鬼気迫る状況であっても、皆勤賞を失うわけにはいかないのだ。

 祐司はスニーカーを手に取り、鞄を開ける。ここは下駄箱だが、今日に限っては使うことは無い。横目でアキラを窺う。アキラは両腕を高く上げ、祐司の下駄箱を睨めつけている。手の中には、腕章と同じく桜色のリボンの付いた小袋。

 祐司は、下駄箱を開けた瞬間に、アキラが義理チョコを下駄箱に投げ入れるつもりなのだと推測した。常人ならば考え付きもしない無謀な策。アキラから祐司の下駄箱までの距離は五メートルほどだが、その間には男子の壁が存在する。一般人ならば、チョコを投げ入れるのは不可能だ。

 しかし、祐司にはアキラがそれを実行できるだけの能力を持っていることを知っていた。アキラは、つい半年前までソフト部のエースだったのだ。それも県の代表選手に選ばれるほどの実力。針の穴を通すような繊細なボールコントロールが持ち味だと、学校新聞にも書かれていた。

 従って、祐司は下駄箱を空けることができない。

「ま、そんなのは予想済みだけどな」

 祐司がそう言って鞄から出したのは、すっかりくたびれた上履き。昨日帰る時に、上履きは家に持ち帰っていた。さらにビニール袋も出して、スニーカーを鞄にしまう。

 それを見たアキラは一瞬顔をしかめるが、すぐに表情を取り繕い、隊員達に指示を出し始めた。アキラだって、こんなに早く決着が着くとは思っていないのだろう。

 祐司は上履きに履き替え、同じクラスの男子の準備が完了するのを待つ。一人で動けば、あっという間に囲まれて終わってしまう。クラスへの移動も、集団で行うのが最善策だ。

 皆、遅刻の危機から急いで靴を履き替えている。

 そんな中、祐司の隣にいるクラスメートの山畠だけが、下駄箱を開けたまま動かなかった。

「何をしている。時間が無いんだ、早くしろ!」

「あ、あああぁぁあ……ち、ち」

 山畠は錆びたブリキの人形のようなぎこちない動きで、祐司に顔を向ける。

「チョコが……」

「な!」

 祐司が山畠の下駄箱を覗くと、そこには地獄が広がっていた。

 板チョコ、麦チョコ、アーモンドチョコ、ミルク、ビター、イチゴ。味と形を問わず、多種多様なチョコが山を築いている。上靴の中にまで徳用チョコが詰め込まれていた。

「山畠、カギはかけなかったのか!?」

 山畠は大きく首を振る。受け入れ難い現実を振り払おうとするように。

「か、かけた。昨日、確かにかけたんだよ! しっかり、二つ!」

「それじゃあ、どうして……」

「わ、わからない。でも今見たら二つとも外されていて」

 そう言って山畠は、下駄箱にかけていたのだろうカギを見せた。そして、祐司は何が原因かを悟った。

「バカ野郎! どうしてダイヤル式のカギなんてかけたんだ!」

 山畠の手の上で光るカギは、どちらも百円均一で買えるような、ダイヤルでナンバーを合わせるタイプのものだった。このタイプは、錠を外すためのカギを持ち歩かなくてもよいという便利さがある。しかし、ことバレンタインにおいては、それがネックとなる。

 他人の錠を無断で外すというのは、言わずもがな犯罪行為である。その錠に守られていた下駄箱に義理チョコが入っていたとなれば、それは乙女隊が犯人であることは明白。警察沙汰とまではいかなくとも、学校から厳しい処罰が下るだろう。

 ただ、これは錠がカギを持つ者にしか外せないという前提から成り立つ。

 ダイヤル式にはカギが無いため、ナンバーを知らなくともゼロから地道に試していけば必ず外れる。誰にでも簡単に外せてしまうのだ。

 つまり、下駄箱の中に義理チョコを仕掛けておいても、はじめから錠は外れていた、きっと誰かがいたずらで外したのだ。けして乙女隊が外したのではないと言い逃れができるということ。

 保守性など皆無である。

 その場に崩れ落ちる山畠。

 渡された義理チョコの額は、おそらく千円ほど。バレンタインルールにより、山畠はこれを十倍で返さなければならない。

「嫌だ……。嫌だあああああああああっ! 一ヶ月すうどん生活なんて耐えられない!」

 山畠の悲痛な叫びが、朝の校舎にむなしく響く。

 乙女隊に義理チョコを渡された者は、ホワイトデーまでの一ヶ月間、極度の節約が強いられる。ほとんどの義理チョコ被害者がその結果、昼食を学食で一番安いメニュー、すうどん(一杯百三十円)で済ませるようになる。

 当然、雑誌もCDも、ゲームだって買えない。

 娯楽の無い生活など、学生にとっては死にも等しい。

「くそ……、この大バカ野郎が」

 祐司は下唇を噛み、拳を握った。

 もし昨日の時点で隣のロッカーが危機に晒されていることに気付いていれば、助けられたかもしれなかった。そう思うと悔しかった。

 仲間の死は、群れに不安と恐怖の波紋を広げた。誰一人として教室へ向かおうとしない。動揺は乙女隊をベルリンの壁のごとく高く、厚く、強固なものにしていた。

 このままでは遅刻だ。

 皆を落ち着かせなければならない。そうは思うが、状況は悪くなる一方だった。

 下学年の方からも悲鳴とざわめきが聞こえた。山畠同様、ミスを犯してやられたのだろう。

 もはや最悪としか言えない状況。

 例年通りなら、ここまで酷くはならなかった。今年に限って違うもの、それは山畠の、三年生のミスだ。本来ならば混乱する下級生のために、経験豊富な三年生が先陣を切って乙女隊に向かわなければならないところ。

 三年生のミスなど、前代未聞だった。

 山畠の死により、他の三年生までが恐怖に絡め取られて動けない。

 乙女隊はじりじりと包囲網を狭め、無力な男子達を皆殺しにしようとしていた。

「こんな早くに、終わってたまるかよ……!」

 祐司は忙しく首を視線を巡らせ、突破口を探す。

 前には乙女隊。

 後ろに下がれば、祐司の皆勤賞が水の泡となる。

 考えている間も、乙女隊の前進は止まらない。アキラの表情は、勝利を確信したように喜色を湛えていた。

「もう、駄目なのか」

 諦めかけた、その時だった。

 祐司の目に勝利のカギが飛び込んできた。

 アキラの後ろに立つ一年生。

 彼女の視線は男子達ではなく、壁にかけられた時計に注がれていた。

「これだ!」

 祐司は自分達男子側のみが追い詰められていると思ってしまっていたが、それは大きな間違いだった。死と隣り合わせの切羽詰った状況のせいで、視野が狭まっていた。

 よく考えれば簡単なことだったのだ。


 追い詰められているのは、乙女隊も同じ。


 なぜなら、彼女達がいかに優れた兵隊だろうと、所詮はこの学校の生徒に過ぎないからだ。遅刻の危機に、彼女達も等しく追い詰められていた。

 そうとわかってからの祐司の行動は速かった。

「やばい、『黄鬼』がやってきたぞ!」

 乙女隊の背後を指差し、周囲のざわめきに負けないよう、力の限り叫ぶ。

 祐司の声が届いた瞬間、喧騒は消え去り、その場にいる全員が祐司が指す方を向いた。

 『黄鬼』とは、宝條高校の生徒指導、鬼怒川玄介の渾名である。その由来は、いつも黄色いプラスチックバット(黄バットと呼ばれる)を持ち歩いているから。なぜそんなものを持ち歩いているかといえば、なんと生徒をぶっ叩くためである。生活態度の悪い者を見つけたならば、問答無用で生徒指導室に連行し、黄バットで叩きながら一時間以上も説教をする。史上最恐の教師だ。

 授業開始間近のこの時間に、教室に向かう素振りもないこの状況を見つけたなら、黄鬼は黄バットが壊れるまで暴れまわるだろう。その恐れは、乙女隊をも飲み込んだ。

「今だ、みんな俺に続けっ!」

 祐司は掛け声と同時に駆け出した。乙女隊の作る壁の僅かな隙間に体をねじ込み、教室を目指す。本当は黄鬼など来てはいない。祐司の策にはまった乙女隊が、自分達が騙されたのだと悟った時にはもう遅い。

 男子達は、祐司が通った隙間に一斉に流れ込んだ。陣形を崩された乙女隊は狼狽し、統制の取れた動きを失う。なんとか義理チョコを渡そうとしても、その手はいとも簡単に振り払われた。

 祐司を先頭とした楔は、十秒にも満たない時間で壁に穴を開けた。

 その先に男子達を遮るものは無い。

 祐司は時間を確認する手間も惜しんで、教室へ続く階段を駆け上がった。



  2 / 14 / 08:31/ Hayato Saeki


 今日は風邪か何かで学級閉鎖になるのではないかと、隼人は大いに期待していた。授業開始の三十秒前まで、教室には十人もいなかったからだ。しかし、廊下が騒々しくなったかと思うと、急に男子達が雪崩れ込み、すぐさま女子達もそれに続いてきた。チャイムが鳴る頃には、隼人の右斜め前の席一つを除いて全て埋まっていた。

さっきの女子の集団といい、隼人には何がなんだかさっぱりわからなかった。

 席に着いた男子達は、真っ先に自分の机を覗き込む。その表情は鬼気迫り、唾を飲み込む音まで聞こえてきた。

 すると突然、隼人の前の男子が額を机にぶつけるように突っ伏した。

 隼人がそれに驚いていると、教室のあちこちで机に倒れ伏す者が出始めた。

 皆、口々に「すうどん、だと……!」と漏らす。

「すうどんって、いったい何のことだ?」

 気になった隼人は伏せる男子に問いかけるが、ただの屍のように返事が無い。

 さらに不思議だったのは、男子が倒れる度に、女子達が手を取り合って喜んでいることだ。どうして心配してやらないのか。隼人は非情なクラスメート達に憤りさえ感じていた。

 その怒りを訴えるために隼人が立ち上がろうとした時、肩を叩かれた。

 隣の席の尾賀だ。

 尾賀は突っ伏す男子達を見渡してから、隼人に首を振った。

「冴木は今、女子が男子を嘲笑う光景に怒りを感じてるだろ? そういう性格だもんな。でも、お前はこの状況に何も言っちゃいけない」

「どうしてだ? いったい、なにが起こっている?」

「やっぱり、何も伝わってなかったか」

「だから、何がだ!?」

「いいから落ち着けって」

 尾賀は手の平を隼人に向け、制止をかける。それからきっちりと前に向き直った。いつの間にか、一時限目の現国の教師が入ってきている。

 隼人も教師に顔を向けるが、尾賀の話が気になって仕方ない。

 自分には、何が伝わっていなかったのか。

 教師さえも、突っ伏す男子達を無視して授業を始める。

 再び肩が叩かれ、尾賀がノートを渡してきた。端の方に文字が書かれている。

『今日が何の日かくらいは知ってる?』

 隼人もノートに文字を書き、尾賀に返す。

『バレンタインだろ?』

『そう。じゃあさ、義理チョコについては?』

『普段世話になっている人や、友人に渡したりするチョコ』

『まあ、間違っちゃいないんだけど、五十点』

『なにが足りないんだ?』

『義理チョコを渡す相手に、制限は無いんだ。クラスメートでも、廊下ですれ違っただけの奴でも、赤の他人だって構わない』

『そんな奴に配ってどうする』

『……ホワイトデーを知らないの?』

『そういえば、聞いたことがあるような』

 隼人は母の死というトラウマから、チョコに関わることはずっと避け続けていた。

『ええ!? それでも日本人かよ。まあ、知らないんなら俺が教えてやる。いいか、ホワイトデーっていうのは、バレンタインにチョコを受け取った男子が、チョコをくれた女子にお返しをする日なんだ』

『ああ、男女平等を目指す日本らしいイベントだな』

 これに対する尾賀の返事は早かった。

『男女平等!? ふざけるなよ!』

『俺、なにか悪いこと書いたか?』

『ごめん。感情を抑え切れなかった。お前は何も知らないんだから、平等だと思っても仕方ないよな』

『いや、こっちこそ悪かった。すると、平等じゃないのか?』

『そんなのとは程遠い』

『どれくらいの比率なんだ?』

『十倍』

「なっ!」

 隼人は思わず叫びそうになって、慌てて手で口を塞いだ。

『暴利じゃないか! もしかして、今倒れている奴はみんな……』

『もしかしなくてもそう。こいつらは机の中に入れられていた義理チョコで負債を抱えた。ホワイトデーの三月十四日まで、一切の娯楽を断ち、昼飯をすうどんだけで済ませ、耳を揃えて返さなきゃならないんだ』

 あの女子の集団は、机の中にチョコを入れていたのか。隼人の中で、今朝見た謎の女子集団に合点がいった。

『そんなもの、どうして受け取る。断れないのか?』

『断れたらどれほど良いか。この学校では、それは許されてないんだよ』

『何かあるのか?』

『ここ宝條高校には、義理チョコのお返し目当ての女子によって結成された、「乙女隊」っていうのが存在する。奴らは集団の力を振るって、男子に義理チョコを押し付けるんだ。一度受け取ってしまったが最後、もし渡されたチョコを返したり、ホワイトデーのお返しをしないなんてことをすれば……』

『すれば?』

 返ってきた尾賀の字は小刻みに震えていた。

『在学中、女子に総スカンを食らう。体育祭で二人三脚をすることも、文化祭の後夜祭でフォークダンスをすることも、修学旅行の自由時間に一緒にグループから抜け出すことも、卒業式に校舎裏に呼び出されて後輩に告白されることも無くなる。そんな高校生活を送るなんて、できるはずがない!』

『そ、そうか……』

 尾賀の妄想に圧倒されながらも、隼人は学校中で何が起きているのかようやく知ることができてすっきりしていた。しかし、一つ疑問が残る。

『以上がバレンタインについての説明』

『ありがとう、よくわかった。ただ、義理チョコのお返しが目当てというなら、一人でも多くの男子に配った方が良いだろ? それなのに、どうして俺にはチョコを渡しに来ないんだ?』

 チョコ嫌いな隼人としては大助かりだが、不思議ではある。今朝女子の列とすれ違った時なんて、隼人は隙だらけだった。それなのに彼女らは見向きもしなかった。

『ああ、それはな』

『それは?』

『冴木はイケメンだからだ』

『は?』

 何の脈絡もない言葉に、隼人は面食らった。

『さっき義理チョコを渡す相手に制限は無いって書いたけど、例外があるんだ。この学校でのその例外は、本命チョコを貰った者、ゲイ、そしてイケメン。これらには義理チョコを渡すべからずっていう決まりになってる。そしてお前は、俺ら男子でも認めるくらいのイケメンだ。誰も義理チョコなんて渡さないよ。だからさっき、もしもお前が怒りのままに喋ってたら、突っ伏してる奴らからリンチにされてたぞ』

 何気なく書かれている言葉に鳥肌が立った。隼人は心の中でもう一度、尾賀に礼を言う。

 それにしても、自分がイケメンだなんて思われていたのは意外だった。しかし、この際チョコを貰わずに済むなら、どんな理由でも構わない。正直、気分の悪いことでもない。

 尾賀の言うことによれば、今日一日は騒々しいだろうが、隼人には何も関係ないということだった。隼人は安堵の息をつく。

『助かった。差し出がましいだろうが、お前の無事を祈らせてくれ』

 最後にそう書いて、隼人は授業に集中することにした。

 今日は教室内の私語が無く、教師の声がよく聞こえた。現国の教師というのは、どうしてみんな声が小さいのだろう。

 そうして九時を回った頃、教室の戸が開いた。

「すみません、遅れました……」

 頭を下げて入ってきたのは、未だ誰も座っていなかった席の主、香住沙世だった。

「あー、遊ぶのもほどほどにしておくように。早く席に着きなさい」

「はい」

 教師の物言いは、バレンタインのことを知っている風だ。だからこそ、男子が机に伏せっていても注意しないのだろう。

 沙世はなぜか土に塗れたコートを脱ぎ、椅子にかけてから席に着く。そしてはじめにしたことは、小さなため息をつくこと。周囲の活き活きとした女子とは、雰囲気がまるで違う。むしろ敗れた男子達のように、悲嘆に暮れていた。

 沙世の席は、隼人の右斜め前。教室は左手側が窓で、隼人はその窓際の列の一番後ろである。板書を写そうとすると、沙世が必ず目に入る。

 その後も五分おきにため息をつくのを見せられては、授業になんて集中しようが無かった。

 沙世の右隣の女子は机の下でずっと携帯電話をいじっているし、尾賀も義理チョコを警戒してか、沙世に険しい目を向けている。

 ため息が聞こえる度に、隼人は自分が関わっているわけでもないのに良心が痛むのを感じた。

 一日中沙世にこんな状態でいられたら勉強にならないし、胃に穴が開きそうだ。

 隼人は額を手の平で覆い、首を振る。

 沙世のため息の原因が、チョコとは関係ないことを祈った。

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