黒の断罪者
『在校生の皆さんはこれで解散となります。新入生の皆さんはそのまま下まで降りて来て下さい』
男の声のアナウンスが第一体育館に響き渡る。二三年生はぞろぞろと出ていき、一年生は席を立って下に降りていく。手すりをまたいで飛び降りる者もいる。飛び降りたやつらは、なんと全員優雅に着地していた。ドシン、とか着地音がしない。
あれが、魔術とかいう人ならざる力を持つ者の特権か……。
俺は素直に階段を使って降りた。それが時間のロスだったのか、すでにガタイのいい先生――おそらく体育の先生なのだろう――が右手のバインダーを見ながら何かの説明をしていた。
「……ということだから、お前たち、くれぐれも学生証は失くさないように。もしも失くした場合、学園島東側の総合センター、いわゆる事務室だが、そこに行って再発行してもらいなさい。手間がかかって面倒だぞ。ここからは自由行動だが、身勝手な行動は慎むように。くれぐれも他人の迷惑にならないよう、学生として健全な行動をするように。明日からは授業だが、配布したプリントをよく読んでおくように。では、解散とする」
肩の力が抜けたのか、ほとんどの生徒がため息をついていた。俺はなんのこっちゃわからないので、説明をしていた先生の所に向かう。
「すみません。学生証もらってないんですけど……」
「? 名前は?」
「桐原なぎさです」
「……」
その先生はあからさまに嫌そうな顔をした。汚物でも見るかのような表情。大丈夫だ、これくらい慣れている。というか、新入生で学生証をもらっていないのはたぶん俺だけなのだから、わかるだろうに。
先生は俺に学生証を投げ渡す。そして、一瞥もくれないでさっさと行ってしまった。舌打ちも聞こえた気がする。
学生証は厚いプラスチックのカードだ。表の左側に写真が印刷されていて、その右側に名前が書いてある。その下に小さく、『F』と記されていた。Fランクの魔術師、つまり無能力者ということだ。
そう。俺はこの世界では当たり前の力、『魔術』が使えない。生まれながらにして、無能の烙印を押された人間なのだ。昔のことなんて覚えていないけど、俺は一度だけ実の親から捨てられかけたらしい。『魔術』を使えない人間が生まれると困るのだ。どれだけ優秀な魔術師の家系であっても、無能が生まれた時点でその地位は地のどん底まで落ちる。だから、出産に立ち会った医師たちの記憶から無能の子供の記憶を抹消し、さらにその存在も消す。そこまでする世の中なのだ。俺はそんなことは全く覚えていないのだが。
それでも生きている無能力者はたいてい人身売買されたり、男は人体実験、女は慰み者にされたりする。まず俺のような無能力者には人権なんてないに等しいのだ。それでも自由に生きていられるのは雪乃たちのおかげだ。だからこそ、俺は変わらなきゃいけない。いつまでも頼ってばかりではいけないのだ。
「なぎさ。もうみんな行っちゃったけど?」
「え!?」
雪乃がいつの間にか俺の正面にいた。というか顔が近い。
「ほらこれ。先生が配ってたプリント。どうせもらえなかったんでしょ?」
と言って雪乃が差し出してきたのは灰色の表紙の冊子だった。シンプルに『新入生案内』と真ん中にゴシック体で印刷されているだけ。
「サンキュー! これないとどうなってたことか。で、何が書いてあるんだ? 要約求む」
雪乃はため息をついて面倒くさそうに説明を始めた。
「魔導文字で書かれてるんじゃないんだからこのくらい読みなさいよ。新入生全員のクラスと明日から一週間分の時間割、あと必要なもの。自分の寮がどこなのかも書いてある。ちなみに全部名前じゃなくで学生番号で書いてあるから。学生番号は学生証に書いてあるわよ。学生証が部屋の鍵になっているから失くすなよってことね。あと常に持ち歩くこと。オートロック式だから締め出されるわよ? ああそれから、寮は二重ロックだから。学生証を読み込ませた後にパスワード入力ね。最初に自分が入力した英数字がパスワードになるからそれも忘れないようにね」
「は~い」
「聞いてんの!?」
「聞いてるって。男子寮と女子寮って違うんだよな? やっぱり」
「そりゃそうでしょ」
雪乃はまたため息をついた。そして俺の手を取ってさっさと歩きだす。
「ほら。途中まで一緒に行くわよ」
「おい! 自分で歩くって」
俺は雪乃の手を放して並んで歩く。雪乃は離された自分の手を眺めて、またため息をついた。雪乃、ため息多いな。
少しの間無言で歩き続ける俺たち二人。俺の耳に入ってくるのは周りの喧騒だけ。左右にはいろいろな店が並んでいた。大通りとも言えるくらいの幅の歩道。それにそってたくさんのチェーン店が並んでいる。かつての無人島のおもかげを感じない、俗にいう都会のようなものだ。
ガヤガヤとした喧騒の中に、何か違うものを感じたのは、大通りの終盤にさしかかった頃のことだ。向こう側には巨大なショッピングモール。
大通りの出口付近で誰かが騒いでいた。
「てめえ! 一年のくせに調子に乗ってるんじゃねえぞ!!」
怒鳴りつけているのは上級生だろう。中心に立っているのがリーダー格で左右の二人はその取り巻き。
「何かあったのかしら?」
雪乃が興味ありげに遠目からそれを見る。やじ馬かお前は。
真新しいブレザーに身を包む少年は、新入生だろう。その新入生はすでに上着のボタンをはずしていた。風にネクタイを靡かせて無言を貫いている。
つんつんしたショートの黒髪の少年。はたから見れば、分が悪いのは少年の方だろう。だけど、なぜか俺には、一番危険なのはあの上級生のような気がした。それは雪乃にもわかったのだろう。彼女は険しい顔になって呟いた。
「やばいわね。あいつら、早く逃げないと」
当然のことながら、その声は彼らには届かない。いや、届いたところで聞く耳持たないだろう。彼らの怒りは最高潮に達しているようだ。
「すかしてんじゃねえぞ!? くそガキが!! 痛い目見なきゃわかんねえのか!?」
「おいおい、なんとか言えよ!!」
「しゃべれねえのか!?」
リーダー格の茶髪のロン毛が前に出る。まるでかませ犬のような風貌だ。
「しゃあねえなあ。この学校での生き方ってやつを教えてやる。ちょっと早いが社会勉強だ。なあに、医療班でも治せるくらいの怪我にしといてやるよ」
ロン毛は右手を振り上げる。ニヤリと笑って、その右手を振り下ろす。舗装された地面に右手の掌を思い切りあてて叫んだ。
「お前らは下がってろ! すぐに終わらせてやるからよ!!」
瞬間、大きく地面が脈動した。そして地面はロン毛を中心に波打ち、いびつに割れ始めた。勢いよく地面が裂け、そこから現れたのは――。
「龍……?」
俺は静かに呟いた。真っ黒な太く長い体をくねくねと波打たせる姿。赤い双眸、白く鋭い牙。その姿は空想上の生物『龍』であった。どうして地面から龍が現れるのだろうか。この世には、普通の科学では証明できない現象を引き起こす不思議な力がある。
それを人は、悪魔の力――魔術と呼ぶ。
「行け! 土龍!! そこのくそ野郎を喰いちぎれ!!」
鼓膜が破れるほどの咆哮が響き渡る。それは、あの黒色の土龍と呼ばれるものからの声だった。
騒ぎに気付いた店の従業員があわてて外に出てくるのが見えた。全ての従業員が同じように店の前で両手を前に出す。自分の店に向けて。そして――。
「な、なんだ。何してんだ」
俺が慌てて雪乃に問うた。雪乃は何でもないかのように説明をする。
「自分の店に防護結界を張ったのよ。ちょっとやそっとの魔術じゃあ破れないやつをね。簡易防御結界よりは強力だから、こういう魔術師同士の喧嘩が始まった時に使われたりすんのよ。自分の家とか店とかを守るためにね」
「う~ん。いろいろとわからん用語が出てきたなあ」
「またいつかね」
雪乃は目の前の喧嘩に目を向ける。俺もそちらを見ると、土龍がすでに大口を開いて少年に噛みつこうとしていた。ロン毛はニヤリと笑ったまま。勝った、と思っているのだろう。確かに、少年は反撃のそぶりを見せない。あのままでは、いくら少年が強かろうと大きな痛手となる。
しかし、次の瞬間に起こったこと。俺は目を見張った。
少年が右足でトンと静かに地面を叩いた。それだけで、漆黒の一本の剣山が目にもとまらぬ速さで出現し、土龍の大きく開かれた口を貫いた。
次に少年は一切表情も崩さず、黒い野球ボールのような球体を右手に出現させ、それを苦悶してうねっている土龍の開かれたままの口に放り込んだ。黒い球体は土龍の中で無数の針を、まるでフグのように出現させた。
それだけで、土龍は力尽きたのか砂のようにサラサラと尻尾のほうから消えていった。
「ちっ――!!」
ロン毛は今度は両の掌を地面にたたきつけた。すると、地面が大きく割れて五体の土龍が勢いよく飛び出した。全ての土龍が咆哮を上げて少年を襲おうとする。
少年は動じなかった。まるで何でもないかのように、その右手を前方に突き出している。少年の手が何かおかしかった。真っ黒だ。手だけではなく、ブレザーごと肘のあたりまで漆黒に染まっている。さらさらと、黒い霧も立ち上っている。ブレザーは紺色なのだが、それでもはっきりとわかるくらい、それは漆黒だった。
「……悪魔の、右手……?」
となりの雪乃が愕然とした表情になる。彼女から漏れた言葉、『悪魔の右手』とはなんなのだろうか。彼女は知っているのだろうか、あの少年の黒い右手について。
「まさか、でも、どうして……?」
雪乃が驚いているうちに、土龍たちは目にもとまらぬ速さで少年に迫っていた。そこで初めて、少年は動きらしい動きを見せた。彼は体勢を低くして、左足を後方に下げ、右手を引く。そして――。
「ふ――っ!!」
地面を爆発させて、少年は瞬間的に飛び出した。それこそ、文字通り俺の目にはとまらなかった。本当に一瞬の出来事だった。
少年は五体の土龍の隙間を縫って一直線に進んだだけのはずなのに、全ての土龍は爆発して消滅したのだ。
少年はロン毛のすぐ目の前にたった。というより、着地した位置がそこだったのだ。
「ひっ」
という情けない声がロン毛の口から漏れる。それもそのはず。おそらくあれがロン毛の全力だ。それを涼しい顔で一蹴されたのだから、恐怖の一つでも覚えるだろう。そして、少年は全く本気じゃない。面倒臭いから、魔術の一つを使ってやっただけだ。
取り巻きの残り二人は、全く動けずにいた。動いたらいけない、動いたら狙われるのは自分たちだ。そう頭の中で理解しているのだろう。そして、自分たちでは少年に到底かなわないということも。
「へ……へへへへ」
ロン毛は冷や汗を流したまま、薄く笑っていた。何か策があるのだろうか。
「わざわざわかりやすくする必要もねえんだよ、タコ!! もう死んじまえや!!」
静かに、音もなく少年の後ろの地面が割れて、音もなく土龍が飛び出した。そして、音もなく、優れた暗殺者のように少年に喰らいついた。いや、喰らいつこうとした。けれど、できなかった。土龍の大きく開かれた口は空中で止まっていた。別に少年が受け止めているわけでもなんでもない。少年の後方十センチくらいのところに、水色に光る何かがある。直径二メートル級の円形、複雑な模様が刻み込まれていて、複雑奇怪な文字が円周に沿って刻み込まれている。厚さのないその円形の物体は――。
「簡易防御結界〈悪魔級〉――!?」
雪乃がまた不審な単語を発する。いや、これは俺も、魔道の授業で聞いたことがある。
簡易防御結界。少年が出しているような魔方陣を用いた防御法だ。簡易防御結界には〈兵器級〉があることは知っていた。〈兵器級〉というのは、現代最強の科学兵器でも破れない防御結界だ。だから、〈兵器級〉を破るためにはその最強兵器の攻撃力を一ポイントでも越えればよい。しかし、簡易防御結界というのは魔術師の戦闘では普通使われないと聞いたことがある。なぜなら、魔術師の攻撃力は簡易防御結界〈兵器級〉は紙のように破れる程のものらしいからだ。使うだけ無駄ということだ。
しかし、〈悪魔級〉とはいったい……?
そう考えている間に、少年は振り返って土龍に右手をあてていた。あの漆黒の右手だ。すると、右手から直径一メートル大の漆黒の魔方陣が出現した。
そして、爆音が炸裂する。魔方陣から巨大な漆黒の光線が飛び出したのだ。それが土龍の体を貫き、一瞬で消滅させた。
しかし、ロン毛は止まらなかった。少年が土龍に気を取られているすきに、ポケットからサバイバルナイフを取り出し、そこに水色のオーラをまとわせている。俺は無能力者で魔術は使えないが、あれはわかる。魔力を高密度でまとわせているのだ。あれだけでも簡易防御結界〈兵器級〉を破る力がある。
それを振り上げ、少年の後頭部を貫こうと振り下ろした。いや、振り下ろせなかった。
なぜなら、ロン毛にはナイフを持っていたはずの右手が肩口からなくなっていたからだ。ロン毛がそれに気づいたとき、ポトリという音が静寂の空間に響いた。ロン毛の足元にはナイフをつかんだ右腕が落ちていた。それに気づいて、ロン毛は叫び声をあげた。
「あ、ああ、ああああああああ!!」
俺は見ていた。少年が気付いていたかのように一瞬で振り返り、その右手でロン毛の腕を斬りとっていたことを。
切り裂かれた肩口から鮮血がびゅうびゅうと溢れ出す。ロン毛の目には涙まで浮かんでいた。
「ああああああああああ!! 腕が、俺の腕がああああ!! な、なんで、なんでこんなガキに……なんで!! 俺、俺は、Bランクの、び、Bランクの魔術師なんだぞ!? なんで、なんで、なんで――!!」
そんなロン毛の姿を、感情のこもらない冷ややかな目で少年は見下ろす。
「……そんなに肩書が大切か?」
「ひいっっ!!」
「じゃあ俺も教えといてやるよ。俺はAランクの魔術師だ」
そこで、ロン毛の目がさらに開かれた。悟ったのだろう。相手にしてはならない者を相手にしてしまったと。上位ランクの者を相手にしていた自分が馬鹿だったのだと。
さらに、少年は片方の唇を吊り上げて薄く笑った。
「あと、俺は黒の断罪者だ。ま、覚えなくてもいいさ。……それから、こいつをさっさと医療班のところに持って行け。綺麗に切っておいたから、後も残さずに修復してくれるだろうさ」
少年は取り巻きだった二人にそういうと、その横を通り過ぎて行った。
また、わからない単語が現れた。黒の断罪者とは、いったいなんなのだろうか。
俺は雪乃のほうを見た。雪乃は視線だけであの少年の背中を追っていた。険しい表情をしている。そして、雪乃は小さくつぶやいだ。
「岸田、悠誠……」
キシダ、ユウセイ? それが、あの少年の名前なのだろうか。
よくわからないことが立て続けに起こる。そして、目の前で起こった戦闘。あれが、魔術師の戦い。今回は一方的な戦いではあったが、それでもあんなにピリピリとしたものなのか。常に緊張を緩められない。いつ殺されてもおかしくない。俺は、この世界でやっていけるだろうか。
そんな思いに苛まれていると、
〝なぎさ〟
という呼びかけるような声が聞こえた。
「? なんか呼んだか? 雪乃」
「はあ? 呼んでないけど」
雪乃は困ったような顔をする。一番困りたいのは俺だ。あの声は、いったいなんなんだ。もうずっと前から聞こえる声だ。中学校に上がったあたりからたまに聞こえる謎の女の子の声。
俺はまだ知らなかった。これから先の戦いの事、この声の事。魔術師の世界に入るということは、俺の日常のすべてを無慈悲に破壊していくということを。