安息のとき
俺は学生証を取り出して部屋の扉のノブの上にある機械に通す。電子辞書くらいのサイズの機械が縦に取り付けてある。その左側に縦一直線に彫られた溝があり、そこで学生証を滑らせるだけ。あとは機械中央の、カラーのディスプレイに表示されている〇から九の番号から自分の作ったパスワードを入力する。学生証には自分の魔術師ランクが表示されているため、それを見られないようにする。幸い、後ろに立っている瑠璃はどこかそわそわしているため気付かれる心配はない。
パスワードを入力し終えると、ガチャという音が聞こえた。鍵が開いた音だ。俺はノブを回して部屋の扉を開ける。
「ほら、開いたぞ。早く入らないと、寮監に見られたら一発アウトだからな」
「あ、はい。すみません」
俺が隣人にばれない様に小声で言うと、瑠璃もつられて小声になった。本当に素直な子だな。
「お、おじゃまします」
誰もいない部屋に向かってぺこりと頭を下げる瑠璃。俺はその様を見ながら扉を閉めて鍵をかける。中からは簡単に鍵がかかるようになっている。ノブの上の方にある長方形に近い小さな突起をひねるだけ。こういうところは原始的だ。
「まあ、上がれって」
俺がそう言うと、瑠璃は急いで靴を脱ぐ。綺麗に靴を整えてから瑠璃は部屋に上がった。フローリングの廊下を渡る。数歩歩くとまたドアがあり、それを開くとリビングに到着である。
「わあ。やっぱり、きれいですね」
「やっぱり?」
「はい。わたしが倒れていたとき、なぎさ君がここに連れてきてくれたんですよね? その時にもちょっと思ったんです。変わらず、整った部屋です」
「特に何も置いていないだけだと思うけどな。必要最低限のものが置いてあるだけ。こういうのを殺風景っていうんだよ」
部屋はリビングだけしかないが、一人で住むには快適な環境と言える。キッチンもついているしテレビもあるしインターネットもつながる。キッチンを除いて十畳の部屋だ。さすがにこれ以上部屋に対して贅沢は言えない。
「どっか適当に座ってろよ。なんか飲み物用意してくるから」
そう言って、俺はキッチンの方に向かう。途中背中の方から「失礼します」という声が聞こえた。本当に律儀な奴だ。俺は苦笑しつつも冷蔵庫からお茶を取り出す。二リットルペットボトルの緑茶である。台所の上の棚から透明な円筒形のコップを取り出してリビングに戻る。
瑠璃はこたつ机の横に正座していた。なぜ正座。もっと崩せばいいのに。しかし、正座をしたためか、瑠璃のスカートは丈が足りず、太ももが半分くらい見えていた。これはいろいろとヤバい。
「ああ、ほれ。お茶しかなくて悪いな。あとお菓子もきれてる」
「いえ。ありがとうございます」
俺はコップに薄緑色をした緑茶を注ぎ、それを瑠璃の前に持って行く。俺の分のコップにも注ぎ、一口飲む。キンキンに冷えていたのでなかなか旨かった。瑠璃は片手でコップの真ん中を持ち、片手でコップの底を持ってお茶を飲む。上品だな、ただのペットボトルのお茶なのに。
「おいしいですね、これ」
「ははは、その辺で売ってるようなやつだよ」
「あはは、そうですね」
瑠璃の曇りのない笑顔に、なんだか少し癒された気分だ。嫌な気持ちも吹き飛んでいくというものだ。
「ていうか、なんで俺ん家に来たいなんて言い出したんだよ。わざわざ危険まで冒して」
寮は基本異性禁制だ。男子寮に女子が入るようなら停学処分、男子が。女子は反省文、四百字詰めの原稿用紙十枚。女子寮に男子が入るようならなぜか退学処分、なぜか男子が。どういうわけか女子はおとがめなし。
ものすごい男女差別である。このようになるかもしれないという危険を冒してまでどうして瑠璃は俺の部屋なんかに。
「えっと……もう一度、来てみたくなった、から?」
そこで疑問形で言われても知らねえよ。
「雪乃さんは、よくここに来るの?」
俯き加減で瑠璃が尋ねる。
「なんで雪乃? まあ、そんなに来ることはないけどな。ほら、処罰がヤバいし。でもまあ、たまには来るぞ」
「そうなんだ。えっと、何しに?」
「何しにって、駄弁りに来る。あとご飯も作ってくれたりする」
そこで、瑠璃は小さくため息をついた。
「本当に、仲良いんだね。二人とも」
しょんぼりしたような声音で言う。いったいどうしたというのだろう。
「まあなあ。なんてったって、産まれた病院も一緒なんだもんなあ。そこからずっと幼馴染やってる。雪乃とは幼稚園も一緒で小学校も中学校もずっと同じクラス。なんの因果が働いたのかはわからないけどな」
「本当にずっと一緒なんですね。ちょっと、うらやましいです」
「なんで? 確かに俺は雪乃と一緒にいて結構助かってるけど、喧嘩もしょっちゅうしてたしなあ」
「それでも二人とも仲がとても良いじゃないですか。それってやっぱり、二人が信頼し合っているからなんだと思います。だから心置きなく喧嘩できるんですよね。わたしにも、そういう友達がほしいです。喧嘩しても、仲良しでいてくれるような」
俺も、そういう友達がほしいよ。でも、それが出来ずにいる。
「瑠璃ならすぐに見つかるだろう? 雪乃もいるしな」
「雪乃さん、ですか?」
「ああ。あいつ、怒ったら鬼みたいな怖さだけど信頼できるいい奴だよ。なんか偉そうだな、俺」
ははは、と笑っておく。瑠璃もつられて笑った。
「うん。やっぱ瑠璃は笑った方がかわいいぞ」
「――!?」
瑠璃は案の定顔を真っ赤にしてまた俯いた。こういう表情の変化が少しおもしろい。もうちょっといじりたくなってきたが、これ以上はかわいそうなのでやめておく。
「うう。ひどいです。そうやっておちょくって……」
「ははは、ごめんごめん。でも可愛いのは本当だし」
また瑠璃の顔が、というより耳が赤くなった。これ以上は本当に爆発してしまいそうなので本当にやめておこう。
瑠璃はコップのお茶をやはり上品に持つ。そして一気にのどに流し込んだ。それで体の熱は冷めたのか、仕切り直しとでも言うかのような表情で俺を見つめる。
「では、もう一つ質問良いですか?」
「な、なに?」
「雪乃さんのことは好きですか?」
「――!?」
俺は口に含んだお茶を吐き出した。正面を向いたままだと瑠璃に当たるので横を向いて噴射した。
「はあ!? 雪乃のこと!? いや、まあそりゃあ今まで苦労かけて色々世話焼いてくれたしで感謝してるし……好きだけど」
「違います」
「ええ……」
さっぱりと切り捨てられた。何が違うというのかこのお嬢さんは。
「それは友達としてです。わたしは異性としてどうなのかと聞いているんです」
「異性として……」
俺はどう思っているのだろう。雪乃は小さいころから俺の事を助けてくれた。親身になって相談にも乗ってくれたし、俺は感謝している。いや、感謝してもし足りないくらいだ。身の回りの世話も俺に文句を言いながら手を抜かずにやってくれた。一緒に笑って、泣いて、喧嘩して……。そんな雪乃の事を、俺はどう思っているのだろう。確かに俺は雪乃の事が好きだ。でも、これは果たして異性として、と呼べるものなのだろうか。正直に言うと、わからない。
「まだ、わかりませんか……?」
瑠璃が優しく言った。俺は正直に頷いた。
「わかりました。ならちょっと安心です」
「……安心?」
「はい。わたしにも戦う余地はあるんですね。今はまだつぼみみたいなものですけど、この気持ちがいつか開くかもしれない。その時になったら、戦わせてくださいね」
えっと、何のことを言っているのかわからないのは俺だけなのだろうか。つぼみ? 戦う? 何と? 魔術師道場破りの話なのか? さっぱりわからない。
「ふふふ。なぎさ君は、そのままでいいと思いますよ」
「はい?」
「おはは、本当に、なぎさ君って面白いですね」
「…………」
俺は、馬鹿にされているのだろうか。さっきの仕返しなのか、これは。
それから一時間くらい、俺たちは他愛もない話をしたり宿題をしたりした。ちょっとずつではあるけれど、瑠璃との距離は縮まったかなと思う。縮まるにつれて、俺の中では恐怖心も芽生え始めた。この非日常の終わりが来ることが、たまらなく怖い。こんな気持ちになったのは初めてだ。中学校の時なんかは結構冷めていたと思う。どうせ、という気持ちがあった。だけど、今は怖いと思う。その終わりを迎えるまでは楽しもうと思った。でもやっぱり終わってしまうのは嫌だ。
どうすれば、俺はこの世界に認めてもらえるのだろうか。かなりの低い確率で産まれてくる受容体と呼ばれる特殊細胞を持たない赤ん坊。その細胞がないゆえに魔術が使えないと宣告され、その瞬間から無能力者の烙印を押される。産まれてくる赤ん坊は全てEランクからスタートするのに、俺はその時からFランクだった。
どうしようとも認められない人間。でも、俺はそれを変えたくてこの高校に入った。状況は違うが、瑠璃も同じ。自分を変えるため。
果たして、変わることができるだろうか。
〝なぎさ――〟
また、声が聞こえた。変わらず、優しく呼んでくれる少女の声。中学校の初めのころにはすでに聞こえていた声。いつまでこの声は俺を呼ぶのだろうか。俺は一度として応えたことはない。幻聴と思ってずっと無視してきた。もしも、この声に応えたらどうなるのだろう。知らない世界に引きずり込まれるとか? それとも単純に死んでしまうとか?
でも、声の質からしてそんなに恐ろしいものでもないと思う。たぶんの話だが。
「なぎさ君? どうかしましたか?」
瑠璃に声をかけられて俺は我に返った。
「ああいや、何でもない。どうした?」
「あの、そろそろ帰ろうかと思いまして。わたしの住んでる寮って、すごく門限に厳しいから」
この学園島にある寮は六つある。男子寮が一から三、女子寮が一から三だ。それぞれルールが一緒なのではなく、寮によって変わる。つまり、寮監によって厳しさが変わるのだ。俺の住む第二男子寮は比較的緩い。寮監がテキトーだからだ。どうやら瑠璃の住む第二女子寮は厳しいところらしい。もう七時だ。門限はまさか八時だったりするのだろうか。
「はい。門限八時なんです」
やっぱりか。普通の高校生にしてはとてつもなく厳しい時間である。もっと外で遊びたいだろうに。
「じゃあ、バス停まで送ろうか」
「あ、いえ、いいですよ。お気遣いなく――!」
瑠璃が立ち上がった瞬間、彼女はいきなり体勢を崩した。ずっと正座をしていたから足がしびれたのだろうか。そんなことよりも、フローリングの床に頭を打ったら大ごとだ。俺は素早く立ち上がって瑠璃を引っ張り起こそうとしたが、
「いった!」
こたつ机に脛をしたたかに打ち付けてしまった。しかも俺はそれでバランスを崩し、勢いで瑠璃に方に飛んでしまっていた。とりあえず瑠璃の後頭部に自分の腕をすべり込ませて衝撃を柔らかくしようと考えた。
そして、二人分の床に着地する音。鈍い音がした。しかし、俺の腕は瑠璃の後頭部と床の間意味ごとに入っていたので一大事は免れた。
俺は腕をそっと引き抜く。
「危なかった~。おい、瑠璃。大丈夫か?」
俺は下にいる瑠璃を見る。が、瑠璃は顔を真っ赤にして視線を逸らした。どうしたというのだろうか。と、俺は自分の体勢に気が付いた。
瑠璃が俺の下で、腕を頭上に広げている。万歳をするような格好だ。で、俺は瑠璃の上で四つん這いになっている。これではまるで俺が瑠璃を押し倒しているように見えなくもない。ていうかそうとしか見えない。
「うわわ! ご、ごめん!」
俺は急いで瑠璃から離れる。そして彼女の手をつかんで起き上がらせる。
「いえ、あの、助かりました。あ、ありがとうございます」
やっぱり視線を逸らしたまま顔を赤くしている。不可抗力、というのは言い訳になるのだろうか。でもこれだけ言っておきたい。不可抗力だ。
〝なぎさ――〟
また声が聞こえた。今度はどことなく楽しそうな声だった。もしかして、今の状況を面白がっていたのだろうか。
もしもこの声を出している奴がいるのならちょっとぶっ飛ばしてやりたくなった。