【プロローグ】〜【第一章】幼馴染と恋
【プロローグ】
「あんたとはもう終わりよ、さよなら」
二年前の放課後。夕暮れの教室でおおよそこの場で放たれるものとは思えない言葉が耳に響いた。
このシチュエーションなら愛の告白の方がマストだろうに。
「…そうかよ」
当時の俺はどうも自分を高く評価し過ぎてた。
恋というものを客観的に見過ぎていた。
彼女のことなんて、一寸足りとも考えていなかった。
別れても女は星の数ほどいるのだと、本気でそう思っていた。
「ちなみに理由は?」
「他に好きな男ができた、それだけよ」
「そうか…」
「何、今さら未練でもあるの?」
「いや、別に」
あるはずがない。
俺とコイツとの関係は上辺だけ。
会話をしても愛想笑い、デートに行っても全く足並みすら揃わなかった。
今だって困惑の感情も、ましては浮気をした彼女に対して怒りすらも湧いていない。
互いにもう冷めていた。
それだけの話なのだ。
「もう一つだけ聞かせてくれ。お前は俺のことが、“本当に好きだった”のか?」
元恋人とは思えない、質問の内容すら意味不明。
だが彼女は悪びれもなく、軽い笑みを浮かべる。
「好きなわけないでしょ。ただ顔が良かったから、カーストが高かったから付き合っただけ。結局はそれだけの関係よ」
「…」
「話は以上よ、じゃあね」
口は開かない、目から涙すら溢れない。
彼女の心無い告白すら、ショックとは言い難い感情が頭を埋め尽くしていた。
ただ一つだけ確かなのは、俺は恋というものを美化し過ぎていたこと。
いや、恋というものに希望を抱き過ぎていたのかもしれない。
恋は盲目とはあるいは、こういった場合に使う言葉なのかもしれない。
結論から言えば当時から高校二年生に至る今までこの考えが揺らいだことはないし、実際彼女とはそれ以降話せていない。
いや、話すことすら許されなかった。
それどころか“もっと酷い経験”もした。
だが、それでいい。
自分は異性と恋仲になる必要なんてない。
恋ができる俺、クラスの中心人物の幣原颯希はもう捨てた。
“僕”は、“恋ができない”。それでいいのだ。
【第一章】
◇恋のない幼馴染◇
「颯希、一緒に帰ろうよ」
放課後の教室。まだ他の生徒が談笑を続けている中、それを割くような無邪気な声が僕に向けられた。
「うるせえよ真衣。別に誘わなくてもいつも一緒に帰ってるだろ」
「えぇ、そうだった?」
いたずらに笑う彼女は“来田真衣”。
美しく整えられたショートカットの青髪に、サファイアのように輝く青い瞳。
そして何より可愛らしい童顔が特徴的な少女。
そんな美少女と僕は、幼稚園の頃から関わりがある幼馴染…いや、腐れ縁の方が正しいか。
クラスで人気者の陽キャのクセに、何故か俺に付きまとってくるおかしな奴である。
「それか何、誰かと予定でもあるの?」
「いや、別にないが」
「だろうね、だって颯希だもん」
「…お前、人をなんだと思ってる?」
「え?ちょっと面がいいだけの陰キャでしょ」
「…心外だ」
…複雑、この一言がこれ以上似合う場面もなかなかないだろう。
まあ今の僕が陰キャと評価されるのは、ある種“狙い通りでもある”のだが。
「それで、こんな根暗陰キャに付き纏う目的は?」
「帰るついでにスタバのコーヒーでもと…」
「つまり財布になれと?」
「ピンポーン。大正解!」
「…やっぱ今日一人で帰るわ」
「ごめんって。割り勘でいいから付き合ってよー」
腹の立つ顔から一変、真衣は縋るような顔で肩を揺らしてくる。
コーヒーなんてもの一人で飲めばいいものを。
まったく、何故流行りなど分からぬ僕を誘ってくるのだろうか。
「まあいいよ。どうせ帰りの道中だし行こうか」
「うん、ありがと」
先ほどの泣き出しそうな顔はどこへやら。もう満面の笑みをこちらに向けている。
やれ、手のかかる幼馴染だ。
「ちなみにそのコーヒーの値段は?」
「一杯500円から1000円ぐらいだよ」
「…やっぱり行くのやめようかな」
形も残らない飲料水に金をかけるとは、現代人恐るべし。
ーーーーー
「それで、颯希はいつまでその臭い演技を続けるわけ?」
帰路に立ち寄った珈琲店スタバ。真衣は怪訝そうに尋ねる。
「演技とは?」
「しらばっくれないで。その陰キャのフリをやめろって言ってるの」
「無理。というかお前は事情を知ってるだろ」
「そうだけど…、やっぱり颯希には前みたいに自分に素直に生きてほしいの」
「その結果が今だよ。何もかも失って、今ではあのトラウマが蘇ってまともに女とも話せない。もう戻るには遅すぎるんだ」
「颯希…」
僕は中学二年のあのときから女を意図的に避けた。
恋を捨てるために、周囲の誘惑を消した。
今ではまともに話せるのは真衣だけだ。
「それでも私は、颯希には幸せになってほしいよ」
「それは幼馴染だから?それとも単なる哀れみか?」
「前者はともかく、後者は絶対にない」
「何故?」
「私は好きなだけなんだよ。誰よりも無邪気で、でも理知的で、誰よりも優しかった颯希が」
「…買い被りすぎだ」
「そんなことないよ。いつもそばにいた私が一番知ってるもん」
「…その言葉、そのままお前にお返しするよ」
涙ぐむ真衣のその顔は、まさしく前の特徴に合致する。
誰よりも無邪気で優しいのは真衣の方だ。
頭の出来だけは少しばかり悪いがな。
「…なんか変なこと考えてない?」
「いや、何でもない」
そのくせ勘だけは凄くいい。
やれ、扱いにくいことこの上ない。
「まあなんだ。僕は別に現状に満足してるんだ。だからお前気に病む必要はないよ」
「…わかった。今はそれで納得してあげる」
唇を噛みしめながら、そう意を示す彼女。
青い瞳には気泡が入ったかのように、薄く涙が滲んでいた。
感情が理性より先走るのは、前から変わらないらしい。
「それと真衣、やはり学校では僕と少し距離を置いてくれないか?」
「は、何で?」
「そのな…、最近周りから僕たちが夫婦って呼ばれてるんだが」
「ああ、それね。別に良いじゃん」
「良かねえわ!」
周りからは夫婦と噂され、さっきの会話すら夫婦漫才と言われていたあの状況。
流石にメスを入れるべきだろうに。
「お前は知らないかもしれないけどな、男ってのは女が思っている以上に嫉妬深い奴もいるんだよ」
「具体的には?」
「ほら…その…、周りの妬み陰キャとか…」
「誰それキモ」
「火力高えなおい」
最近の若者は口が悪くていかん。
平気で致死級の罵倒をしやがる。
「だから、真衣には自分の価値を下げてほしくないんだよ。俺なんかといるよりお前は…」
「…だったら颯希も自分の価値を下げないでよ」
「…それはどういう意味で?」
「…いや、何でもない。今のは忘れて」
どこか寂しそうな声色。
だがその理由はわからない。
「じゃあ、私は先に帰るね。また明日…」
机にお札を置き静かに立ち上がった真衣。
瞳の決壊した気泡の雫を後向きで隠している。
でもその理由を聞けるほど俺は強くなかった。
放浪するように立ち去る真衣を、ただ呆然と見送ることしかできなかった…。
◇絵画微笑◇
翌日、真衣は珍しく学校を欠席していた。
周りの連中は馴れ馴れしく僕に理由を問うが、それを軽くあしらう。
いや、本当にわからないから聞かれても仕方ないのだが。
昨日の口論が理由かもしれないが、それを説明できるわけもない。
そんな少しばかりの非日常を乗り越え、終礼が校舎に響く時刻になった。
いつもなら真衣と軽口を叩き帰路を共にするが、生憎今日は久しぶりの一人身だ。
何、ただ早く帰って溜め込んだゲームを消化するだけだ。
実に有意義。独身貴族の良さを身にしみて感じてしまうな。
「ああそうだ幣原、お前たまには部活に顔出せよ。幽霊部員は印象悪いだろ」
…突然、有意義な気分に黄色信号が灯る。
担任である天野登の鋭い眼光が、まっすぐ向けられていた。
「いやぁ天野先生、また今度顔出しますよ」
「ほざけ、そのセリフは二ヶ月前に聞いたんだよ」
「痛っ」
やや不機嫌な天野が出席簿で頭を叩く。
痛くはないが、時代じゃパワハラだぞこりゃ。
「それで、いつ行くんだ?流石に顔出しとかなきゃ退部になっちまうぞ」
「…わかりました。今から顔出してきますよ」
「ああ、それでいい」
ニヤリと笑う天野の顔は手玉にとられたようで腹が立つが、落ち度は自分にある。
今は昭和じみた教師の言いなりになってやる。
それに活動内容なんてたかが知れてる。
「それじゃあ俺は仕事に戻るよ。演者気取りはほどほどにな」
「…何のことですか?」
「いや、気にするな。俺は来田ほどお前に興味はない」
天野は気だるそうな目を向けて続ける。
「お前の中学時代のことはよく知ってるがよ、てめぇのホントに大事なもんだけは見誤るなよ」
「…だから何の話ですか?」
「さあね。答えはその三文芝居をやめたら教えてやるよ。ほら、さっさと失せろ」
…教師は学びへ導く存在だというが、天野の場合は悩みへいざなう存在なのだろう。
いや、人が迷走する過程を楽しんでいるともいえるか。
…だが僕は役者でもなければ、ストイックに成長を求める少年漫画の主人公でもない。
だから今日もほどほどに生きるし、レールに外れた生き方はしない。
僕はさっさと癪に障る顔に背を向け、まだ西日に染まっていない教室を後にした。
少し足を進めた四階の角部屋。もはや物置と化した部室にかかる掛札。
“EC部”
名前からどんな最先端な部活かと妄想を膨らませるかもしれないが、これは単なる英語コミュニケーション部の略。
しかも部員数五人の学校一の不人気部活動である。
その部活のうち僕を含めた四人は幽霊部員なのが、この事実に拍車をかけている。
何?残り一人は何をしているか?
それは簡単な話だ。答えは扉を空けた先にある。
少しばかり錆びれた取っ手に手をかけ、レールとの接触の悪いドアを媚び開けるとそこには。
「あなたは誰?今は部活中なのだけれど」
美しく整えられた黒い長髪に、キリッと鋭く、凛々しく輝く赤い瞳。
そんな絶世の美少女が、数える数しかない椅子に腰を掛けながら、小難しそうな本を片手にしていた。
その姿はまるで絵画のようで、後ろの光景すら引き立て役に転じている。
「いや、一応僕も部員なんだけど」
「幽霊部員は部員とは呼ばないわ」
「…君も英語でコミュニケーションしてるようには見えないが?」
「来ないよりはましじゃない?」
「…幽霊部員にも色々あるんだよ」
…どうやら性格までは作り物のように綺麗ではないらしい。
何を言おうが反発される未来が見える。
「それで、あなたは何故今日生霊になりに来たの?」
「まだ死んでないし、生命を得ようともしてない。ただ天野に言われて来ただけだよ」
「天野に?あいつも顧問のクセに顔出さないじゃない」
「そいつは僕も同感だ」
こんな捻くれ美少女にも文句を垂れられる天野が不憫だとも思ったが、自業自得だと勝手に納得する。
というか深く同情できるほど尊敬していない。
「でも定期的に顔を出さないと退部になりそうなのも事実だろ」
「…確かにそうね。幽霊部員なのに幽霊のままではいられないなんて、ずいぶん皮肉だけど」
「皮肉で結構だよ。どのみち誰かが幽霊ですらなくなったら、この部は廃部なんだから。それで困るのは君、“男嫌い”の“五十嵐恋華”さんの方だろ」
五十嵐恋華は美少女ゆえに学校で有名だが、ある異名の方でも悪目立ちしていた。
それは“男嫌いの冷笑美少女”。
彼女が学友と絡んでいる姿はあまり見かけないが、別に社交性がないわけではない。
だが相手が男子になると一変し、冷たい態度を連発。数多くの色男を撃沈させてきたらしい。
だが天野は孤立している彼女のために居場所を作ることにした。それがEC部である。
ただ部活を立ち上げるためには部員が最低五人必要なため、僕や真衣を含めた四人が名前を貸した。
結果として英語もコミュニケーションもない部活にはなってしまったが、五十嵐の居場所としては確率していった。
「それに僕だって女性が苦手だ。できれば君とも話くない」
「あら、それは初耳ね。まあ見た目通りだから驚かないけれど」
おいコラ。誰が根暗陰キャだ。
冷笑美少女じゃなくて毒舌悪女の方が正しいだろ。
「だから僕はこれで御暇するよ。やることもなさそうだし」
「それがいいわ。早く可愛い彼女のお見舞いにでも行ってあなげなさい」
「ああ…ん?」
今聞き慣れない言葉が聞こえたような気が…。
「おい、彼女っていったい誰のことだ?」
僕は当然の問いをしただけのはずなのに、五十嵐は何故か呆れたような顔をした。
「そんなの来田真衣さんに決まってるじゃない。いつも一緒にいるでしょう」
「ああ、真衣か。あいつは彼女でもないし、なんなら昨日喧嘩したばっかりだよ」
事実を並べただけだ。
なのに何故「はあ」という大きなため息が部屋中に響いているのだろう。
と、考える暇がないまま五十嵐は僕に問い詰めてくる。
「あなたもしかして、真衣の気持ちに気づいてないの?」
「は…、気持ち?」
「いつも真衣が構ってきてるでしょ?」
「物好きだよな。こんな陰キャに」
「いつも一緒に帰ってるでしょ?」
「帰り道が途中まで一緒だしな」
「あなた、真衣のことどう思ってる?」
「うーん…、信用できる友達かな」
僕が言い張ると五十嵐は「はあ」と今日一番のため息をつく。
いや、何故呆れられているのかまったく見当がつかない。
「…こりゃ真衣が可哀想だわ」
「ん、何か言ったか?」
「何でもない。でもあなたがとんでもない鈍感の腐れ野郎なのはわかったわ」
「…心外だ」
…あまり使わない単語を二日連続で使わせないでくれ。
「仕方ないわ。今から女性が苦手なあなたに、純情な女の子の扱い方を教えてあげる」
「…結構だ」
「ちなみに拒否権はない」
「…理不尽にもほどがあるだろ。それに男が苦手なお前が言えたことか?」
「うるさいわよ。私はあなたに正直になってほしいだけよ。自分の本能。そして、恋心をね…」
…またそれかよ。
僕にとっては今が正直。己の本心なんてとうに見えなくなっちまったのに。
「まずはあなたの捻くれた性格の原点を探るわ。あなたのことを出来る限り教えてくれる?」
「…嫌だ。話したくない」
「…これは天野の指示とも思ってくれていいわ。別に馬鹿にはしないわ。話しなさい」
「…」
封印した過去、封印した自分、そして恋。
気持ち悪い。自分と向き合うみたいで。
怖い。元カノを思い出すことが。
でも…、変わりたいと思っているのは本心なのか?
「ここはEC部。あなたを馬鹿にする人はいないし、聞くのは私だけよ」
男嫌いの彼女が、冷笑美少女の五十嵐恋華がここまで僕に付き合う理由。
わからない。知る由もない…が。
同じシンパシーを感じた彼女になら…。
「俺は昔、彼女に浮気をされたんだ」
◇恋ができない少年の過去◇
当時の俺は、何でもできる自分に酔っていた。
優等生で、学力優秀、スポーツ万能。
二兎も三兎も追っていた。
そんな人生で最もスポットライトを浴びていた頃。
「颯希くんが好きです。私と付き合ってください」
夕暮れの校舎裏。ありきたりの告白がそこにはあった。
相手は中川愛美という女。
スクールカーストは上位、クラスの一軍女子の中心人物だった。
人気なだけあって顔は良かったし、断る理由も特になかった。
初めての恋人、初めての恋愛。
ただモテる自分を過大評価し、周りの奴らを見下した。
そのクセ知識はないから、互いにぎこちなくダサい己を見せないために、取り繕っていた。
天野から演者と呼ばれたのはなるほど、このときから癖がついていたからなのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、俺たちの仲に愛はなかったということだ。
次第に俺たちは自分自身のことに精一杯になり、そのまま…だ。
別れたことは必然だったと思うし、後悔はしていない。
…だが、問題はその後に生まれた。
愛美の浮気が原因で別れた俺たちだったが、翌日登校するとそこには。
「おい、あいつだよ。愛美がいるのに他の女に手だした奴だよ」
「サイテー。男のクズ」
「結局は顔だけの性格ブスかよ」
破局の原因は“幣原颯希の浮気”ということになっていた。
“色欲の限り動く性欲の亡者”。
“下半身でしか行動できない猿”
根も葉もない噂は一人歩きし、日に日にエスカレートしていく。
ありとあらゆる暴言が俺を襲い、気づけば俺の居場所なんてなくなっていた。
「なあ勇斗、お前なら信じてくれるよな…」
「…話しかけてくんな、この浮気野郎がっ」
俺は当時の親友を失った。
「なあ礼子、お前たちなら…」
「女の敵が来るよ。早く行こ」
俺は友達を、頼れる人間を失った。
「先生、俺はやってなくて…」
「生徒同士の恋愛にあまり口は出さないが、今回ばかりはお前が悪い。反省しなさい」
先生さえも話すら聞いてくれなかった。
…いや、聞かれはしたが俺が悪いと断定したような会話しかされなかった。
「父さん、母さん、俺…」
「若いうちに経験しておけとは言ったが、ちょっと度が過ぎたな」
「ちゃんと相手方には謝罪しなさいよ」
唯一の味方である肉親の信用を失った。
だから俺は、恋を捨てた。
輝いていた自分を捨てた。
何もしなければ、何も失わないで済む。
それを見て嘲笑う愛美の顔は、もはや人間とは思えなかった。
すべてを奪われた。すべてを壊された。
やり場のない感情は何に向ければいい?
どうすればいい…。
「颯希は絶対そんなことしない!私は颯希を信じる!」
ああ、そういえば唯一俺から離れなかった奴がいたな。
「馬鹿言うな。俺を庇ってたらお前にまで被害が出る」
「そんなの関係ない。私は、私だけは颯希の味方だよ」
ただがむしゃらに、そう訴えかけた馬鹿がいた。
ただ俺が流す涙を一緒に抱えてるくれた奴がいた。
悪評は消えることはない。
罵詈雑言は常に胸を襲った。
でも彼女がいる。それが当時の俺…いや、僕のすべてだった。
「なあ真衣。僕、中学を卒業したら県外の高校に行こうと思うんだ」
「えっ…」
すべてを捨てたかった。
俺を奪った、俺の存在を殺した。
俺を僕にしたもののすべてを。
「だっ…、だったら私も行く」
「正気か?かなりの進学校だぞ」
「舐めないでよ!私だって成績は200番くらいをキープしてるんだから!」
「…うちの学年って210人くらいじゃなかったっけ?」
胸を叩く彼女の顔が青ざめたのを、今でもよく覚えている。
まあ誰だって無理だと思っていた。
だが火事場の馬鹿力とはこういう場面で使う言葉なのだろう。
「受かった…受かったよ!」
「そうか…」
すべてを捨てられなかった。
いや、捨てさせてもらえなかった。
彼女はいつだってそうだった。
ただ後ろについてくるだけの子分から、周りを蹴散らす闘牛へと姿を変えて、意思を貫いた。
僕にもこれだけの力があればあるいは…いや、これは彼女だけの特別な力なのかもしれない。
そして…、僕にとって大切な存在なのかもしれない…。
◇暗闇の幼馴染◇
「そんなことがあったのね…。無理やり聞いて申し訳なかったわ」
「いや、良いんだ。僕も少し気分が軽くなった」
それに五十嵐にしおらしい姿は似合わない、と昔だったら言ってたのかもしれないな。
「それにしてもあなた、真衣に助けられてばかりじゃない」
「そうだな。物好きというイメージはあまり変わらないけどな」
「…そう」
五十嵐は少し曇った顔を浮かべるが、それを隠すように続ける。
「それで、あなたは話してみて感じることはなかった?」
「いや、山ほどあるな。怒りと苦しみ、後悔それと…」
失えなかった。いや、失いたくなかった。
誰よりも輝くあの無邪気な笑顔を…。
夕暮れの空に闇が薄く見える。
僕は荷物の入ったバッグを持ち、五十嵐に背を向ける。
「悪い、僕は器用じゃないからな。この最悪の感情を今すぐにでも捨ててきていいか?」
「ええ、構わないわ」
「ありがとよ。いろいろ…な」
「…真衣をよろしくね」
気づけば走り出していた。
教室の電気は消え、廊下の微かな電灯と部室の薄暗さで照らされた床を、そして道を踏みしめた。
運動していないブランクはある。
でも不思議と疲れない。今はただ…あいつに…。
格安のアパートの一角、古びたインターホンを震えながら押す。
ベタな音は鳴らない。“ジー”っという重低音が響き、無駄に重いドアが徐々に開く。
「颯希…なんで来たの」
「決まってんだろ。真衣と話をしに来た」
「…」
真衣はわかりやすく顔が引きつっていた。
いつものような覇気はないし、愛空笑いもまるでできていない。
「真衣、僕は今まで自分が傷つくことが怖かった。また大切なものがこぼれ落ちるのが怖かったんだ」
そう。今も昔も変わらない自分本位の考え。
「だから僕は、お前が言う演技を、陰キャのフリをした。恋という自分を着飾るものを筆頭に、欲望を切り捨てた」
天野の言う、三文芝居の先の答えはまだわからない。
でも、僕が確かだと思うことは貫き通す。
「俺はお前を…」
あのときの、無鉄砲でも無敵でもあった彼女のように。
「大切な幼馴染だと思ってる。真衣がいなけりゃ俺は今だって孤独だった。あのときの絶望を乗り越えられたのも、真衣がいたからだ」
「颯希…」
「だからっ」
涙越に期待の眼差しを向ける青髪の少女。
その雫を震わすくらいの声を、彼女にぶつける。
「真衣、俺と親友になってくれないか!?」
「はぃっ…は?」
あれだけのムードだったのに、青く透明な瞳は軽蔑の目へと変貌を果たした。
「今さら…?」
「だって俺たち、幼馴染ってだけでまだ親友にはなれてないだろ」
「この流れで?」
「今しかないと思った」
おかしい、おかしいぞ。
あれだけ涙なしではいられない空気だったのに。
「ふふっ、普通このシチュエーションなら告白だと思うでしょ」
「はあ?もっと夕暮れ時あたりがいいだろ。今はかなり薄暗いぞ」
「暗いくらいがいいんだよ。…顔を見られなくて済むしさ」
「顔を見られる…?」
「わからないならいいよ。それにそれぐらい鈍感の方が颯希らしいよ」
「…馬鹿にしてないか」
「いや、懐かしく思ってるだけだよ」
部室にいたときはまだ輝きを放っていた太陽は、もう力を失ったかのように闇にのまれた。
でもすべてを失ったわけではない。
太陽の力を借りた月や、負けんと輝く星々がいる限り照らされ続ける。
「なあ真衣…、ありがとうな」
「え、何が?」
「何でもだよ」
あの頃太陽だった俺は、夜の闇に呑まれて僕として生きていた。
でも月は、真衣はいつでもそばにいてくれた。
昨日ぶりのはずなのに、随分久しぶりな気がするいたずらな顔を、幼馴染兼親友の笑顔だけは失わない。
そう“恋ができない僕”は誓った。




