第5話 練習②
泉翔は放課後、人通りの少ない時間を見計らって体育館に足を運んだ。重い扉の隙間からは、女子バスケ部の活気ある声とバッシュが床を鳴らす音が漏れ聞こえてくる。
二階の観客席の隅に身を潜め、泉翔は静かにコートを見つめた。 ランニングをする部員たちの中に、凛の姿がある。昼休みの秘密の練習で見せる屈託のない笑顔はそこにはなく、その表情はどこか張り詰めたように硬い。
試合形式のパス回しが始まると、泉翔の視線は自然と彼女を追った。 凛は懸命だった。誰よりも声を出し、泥臭く足を動かしてボールを呼び込んでいる。しかし、彼女の周囲だけ、パスの流れが不自然に滞っていた。
特に、ポイントガードである莉子との連携は惨憺たるものだった。 凛がトップスピードに乗った瞬間にわざと足元へ放たれるパス。あるいは、彼女が急停止した瞬間に、はるか頭上を越えていくような放物線。
その度に、凛はハッと顔を上げ、一瞬だけ困惑した表情を浮かべる。だが、すぐに何事もなかったかのように動きを再開する。
泉翔の心に冷たい怒りが宿る。 自分との練習では、凛は一度もキャッチミスなどしなかった。彼女はパスの意図を汲み取るのに長けている。それなのに、今の莉子は「凛の良さ」を消すためだけに、あえて最も受け取りにくいコースを選んで放っている。
莉子の無機質な表情は、ミスを悔やんでいる人間のそれではない。凛が音を拾いにくい右側――その死角にばかり、あえて鋭いボールを叩き込んでいる。
何度もこぼれたボールを拾いに走り、周囲に頭を下げる凛の姿。文句も言わず、ただひたむきに「次」を信じて駆け出す彼女の健気さが、泉翔の胸を締め付けた。
そんな中、再び莉子の指先からボールが放たれた。凛はパスコースを予測して鋭く踏み込んだが、放たれたのは予測を嘲笑うような、顔面を一直線に狙う強烈な直線軌道だった。
「痛っ……!」
鈍い衝撃音と共に、凛がその場にうずくまり、顔を手で覆う。「大丈夫!?」「蓮見さん!」と部員たちが駆け寄る中、莉子だけが数歩離れた場所で、冷めた声を発した。
「ごめん。手が滑っちゃった」
一切の感情がこもっていない、棒読みの謝罪。
「大丈夫。私がもっと、ちゃんとキャッチしないと……っ」
顔を伏せたまま、凛は震える声で答えた。けれど、その指の間から、鮮やかな赤が床へとぽたぽたと滴り落ちる。
「蓮見さん、鼻血出てる!」
部員の一人が叫び、体育館に動揺が広がる。凛は自分の掌に溜まった赤を見て、驚いたように目を見開いた。
「保健室、行った方がいい。篝さん、付き添ってあげて」
顧問の声に、千佳が心配そうな顔で駆け寄る。莉子は一歩後ろに下がり、その様子を他人事のように眺めていた。一瞬だけ動揺したようにも見えたが、すぐに元の無機質な表情に戻る。
「……大丈夫、これくらい。すぐ止まるから」
凛はそう言って、ジャージの袖で強引に顔を拭おうとした。自分への悪意を認めれば、チームが壊れる。それを分かっているからこその、痛々しい拒絶だった。だが、千佳がその細い腕をしっかりと掴む。
「だめだよ。ちゃんと手当てしないと。……行こう?」
凛は少しだけ躊躇したが、千佳の真っ直ぐな瞳に押され、小さく頷いた。肩を貸す千佳に支えられ、凛は力なく体育館を後にする。
泉翔は、去っていく二人の背中を、奥歯を噛み締めて見送った。 そして、再び視線をコートに戻したとき、莉子と目が合った。
彼女は周囲にバレないよう、泉翔がいる観客席の方へ向けて、口元を歪めてニヤリと笑った。 「邪魔者が消えた」とでも言いたげな、醜い優越感。その表情は一瞬だったが、泉翔にはそれで十分だった。
泉翔は猛然と体育館を後にした。握りしめた拳は、怒りで白く震えている。 廊下を駆け抜け、勢いよく保健室の扉を開け放った。
「あ、川神くん。どうしてここに……」
手当てを終えたばかりの千佳が驚いて声をかけたが、泉翔はそれを無視し、まっすぐ凛のもとへ歩み寄った。彼女の目の前で腰を落とし、傷ついたその顔を必死に覗き込む。
「蓮見……! 大丈夫か」
「え、あ、……うん。川神、どうしてここに」
凛は突然の乱入と、見たこともない泉翔の必死な形相に目を丸くした。頬に貼られた真っ白なガーゼが、痛々しく視界に刺さる。
「……鼻血は止まったのか。他は?」
「う、うん、もう大丈夫。篝さんがすぐ手当てしてくれたから」
凛は泉翔をなだめるように、恥ずかしそうに笑う。その健気さが、今の泉翔には何より辛かった。安堵の息を漏らす横で、千佳が射抜くような視線を向けてくる。
「……全部、見てたんでしょう?」
隠すつもりもなかった。泉翔は視線を凛に固定したまま、重く、一度だけ頷いた。
「最近、莉子の当たりがやけにきつくて……」
千佳の言葉に、凛は逃げるように視線を落とし、悲しげな笑みを浮かべた。
「私が……風見さんの声が聞こえてなくて反応できない時があるから、風見さんをイライラさせちゃうんだと思う。パスも、私がもっと上手く合わせられればいいんだけど……」
泉翔は、凛の言葉に喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
「きっと、私の方が悪いんだよ。私が足を引っ張っちゃってるから」
俯き、自分自身を責める凛。その姿は、頬の傷跡以上に泉翔の胸を鋭く締め付けた。千佳が淡々とした声で、部内の内情を告げる。内容は奪われそうになっている先輩のポジション、顧問からのレギュラー交代の打診それに対する莉子の嫉妬だった。
「……だからって、やっていいことと悪いことがあるだろう」
絞り出すような泉翔の声。しかし、凛は静かに首を振った。
「もうやめて、川神。……私のことだから。川神には関係ないでしょ」
凛の真っ直ぐな、けれどどこか寂しげな拒絶に、泉翔は言葉を失った。
「……だけど」
「関係ない」というその言葉。それはかつて泉翔がバスケを辞めた時に周囲に放った言葉と同じくらい、重く、そして悲しい響きを持っていた。 ただ心配で踏み込んだつもりが、凛にとっては「余計な干渉」でしかない。それとも、これ以上踏み込まれたくないほどの傷を隠しているのかわからない。
凛はもう一度、静かに首を振った。
「本当に、大丈夫だから。……もう行かないと、心配してくれてありがとう」
その言葉の裏に隠された孤独を、泉翔は必死に探っていた。
「蓮見さん、バッグ持ってくるね。今日はもう上がりにしておきなよ」
「…うん、わかった」
空気を読んだのか、千佳がそう言い置いて保健室を出て行った。 扉が閉まり、静まり返った部屋に二人きりになる。 隣に座る凛の横顔は、ガーゼの白さが際立って痛々しい。
「……最近、ずっとオーバーワーク気味に練習してたのも、これと関係あるのか?」
泉翔の問いに、凛は一瞬だけ顔を上げた。しかし、すぐに視線を膝の上へ逃がす。
「そういうわけじゃない……。ただ、パスがまともに取れないのは、私がまだ実力不足でブランクあるからだと思ってる。チームの連携についていけてないのは、私の努力が足りないせいだから……」
凛は俯いたまま、消え入りそうな声で答えた。
泉翔は、その言葉に静かな、けれど激しい怒りを覚えた。莉子の悪意も、自分との練習では一度もミスをしなかった凛の実力も、誰より知っている。自分を責めることでしか居場所を守れない彼女の震える肩を見て、泉翔は奥歯を噛み締めた。
「今日、上から見てた。……そんな感じはしなかった。明らかに、風見のパスがおかしい」
元司令塔である彼にしか出せない重みのある言葉に、凛は何も言わず、ただ黙ったまま俯いた。その横顔には、自分の苦しみを理解されたことへの安堵と、それ以上の深い悲しみが混ざり合っていた。
保健室の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。凛も泉翔も、次の言葉が見つからないまま、静止した時間の中にいた。
やがて扉が開き、千佳が凛のバッグを持って戻ってきた。
「はい、蓮見さん。持ってきたよ」
「……うん。ありがとう」 凛は小さく頷き、バッグを受け取ると、泉翔を一瞥して「川神も、ありがとう」と呟くように言って保健室を出ていった。
泉翔もそれに続く。すれ違いざま、千佳に「蓮見さんのこと、よろしくね」と声をかけられたが、今の自分に何ができるのか分からず、「……ああ」と短く返すのが精一杯だった。
帰り道、二人の間に会話はなかった。吹き抜ける夜風が、言葉の代わりに寂しく通り過ぎていく。気づけば、足は自然といつものコートへ向かっていた。コートの中央で立ち止まると、凛はバッグから使い古されたバスケットボールを取り出した。その手つきは、壊れやすい宝物を扱うかのように、慈しみに満ちている。
「……川神、バッグ」
凛はそう言って、自分のバッグを泉翔に預けた。泉翔がそれを受け取ると、凛はゆっくりとボールを床へ落とした。
静まり返ったコートに、乾いたドリブルの音が響き始める。最初は一歩ずつ確かめるような緩やかなリズムだった。けれど、それは次第に鋭く、激しい音へと変わっていく。街灯の光の下で激しく動く凛の表情は、昼休みの笑顔でも、保健室で見せた泣きそうな顔でもない。ただひたすらにボールと向き合う、一人の「選手」の顔だった。
凛は姿勢を低くすると、一気にリングへ向かって鋭く踏み込んだ。だが、直前で身体を反転させ、相手から距離を置くように後方へ跳ぶ。 空中で描かれた完璧な放物線。放たれたボールは、一切の迷いなくリングの中央を射抜いた。
見惚れるほどに美しいフェイダウェイシュート。けれど、着地した凛の肩は、激しく上下していた。
「……なんで、一人でやるときは、あんなにイメージ通りにいくのに」
転がっていくボールを追おうともせず、凛は絞り出すような声を漏らした。
「チームですると、どうして……あんなに、上手くいかないんだろう」
吐き出された悔しさが、夜のコートに冷たく響く。その震える声は、隣に立つ泉翔の胸に、深々と突き刺さった。
第5話 練習②をここまで読んでくださりありがとうございました。
凛についての悩みや抱えている聴覚のことについて少しずつ掘り下げていこうと思います。以外と強くみせようと立ち振る舞っていても繊細な女の子と読者様にお伝えできていたらうれしいです。
今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。
それでは次回エピソードでお会いしましょう。




