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第3話 出会い③

それからというものの泉翔と凛の間に特別な会話はなかった。バスケから離れたことに後悔はないと言い聞かせていたが、凛に「綺麗な回転のパス」と褒められたあの日から、その言葉がどうしても心の棘のように引っかかっていた。


綺麗な回転のパス――。凛が残したその言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。思えば、必死にボールを追いかけていたあの日々の中で、自分のパスを誰かに肯定されたことなんて、ここのバスケ部に入部して一度もなかった。


パスという単語は、泉翔にとって辛い記憶の引き金だった。かつて所属していたバスケ部で、泉翔はポイントガードという役割に心血を注いでいた。しかし、上級生との確執が深まるにつれ、泉翔の放つパスは誰にも受け取ってもらえなくなった。意図的に見送られ、虚しくコートを転がるボール。チームと噛み合わなくなった自分の理想。気づけば逃げるようにコートを去っていた。その時の絶望感は、今も胸の奥におりのように溜まっている。


放課後、昼休みの会話を思い出し、泉翔は導かれるように体育館へと足を運んでいた。あまり開けたくなかったその戸をゆっくりと開けると、肺を焼くような熱気が体を突き抜ける。活気に満ちた体育館。その中に、ひたむきにシュートを繰り返す凛の姿が、すぐに目に飛び込んできた。


もともと綺麗なフォームだとは思っていたが、その正確さは群を抜いていた。そして何より、あの日見た時よりも力強く、ただひたすらにバスケを愛おしむような純粋さが宿っている。その眩しさに、泉翔は惹きつけられた。


凛の動きを追うと、上手な選手だということがわかる。しかし、時折見せるわずかなぎこちなさや、ほんの一瞬の反応の遅れは、まだチームに馴染めていないせいなのか、それとも聴覚によるものなのか、泉翔には判断がつかなかった。


だが、片耳が聞こえないことを感じさせまいと、視覚を巧みに使って周囲を観察し、合図を読み取ってパスを繋ぐ彼女の姿は、あまりにも真っ直ぐだった。


しばらくその光景を見守っていた泉翔の背後から、男子バスケ部員の明が声をかけてきた。


「久しぶり……泉翔、どうしたんだ。こんなところで」


声をかけられ、泉翔は心臓が跳ねるのを感じた。気まずさを隠すように、咄嗟に視線を逸らす。


「明……。いや、なんでもない。もう帰るところだ」


凛のことを見に来ただけだ。そう心の中で言い訳を重ねるが、目の前の男からは逃げられない。明は中学時代からの戦友だった。一緒に全国制覇をしようと約束し、同じ高校の門を叩いた。だが今、明はレギュラーとしてコートを支配し、泉翔は外からそれを眺めるだけの「部外者」だ。あの日交わした約束は、今ではもう、叶えることのできない残酷な幻想に成り下がっていた。


「そうか。……てっきり、戻ってくる気になったのかと思ったよ」


少しだけ期待を含んだ明の声。それが今の泉翔には何よりも痛い。


「いや、違う。……ちょっと、気になる奴がいて見に来ただけだ」


「気になる奴? 誰だよ、それ」


「気にするなよ。……詮索はなしだ」


答えを濁す泉翔に、明はそれ以上踏み込もうとはしなかった。昔から、明はこういう時にだけは余計なことを言わない。その信頼の形が、余計に胸をざわつかせる。


「泉翔…。本当にもう、戻る気はないのか?」


「どうしだんた急に…」


「あれからバスケ部の雰囲気を変わったし、今なら昔ようなことは起きらないと思う。…だから!」


明の瞳が、真っ直ぐに泉翔を射抜いた。 長い沈黙が流れる。耳の奥で、バッシュが床を鳴らす音だけが鳴り響いていた。喉まで出かかった言葉を飲み込み、精一杯の強がりで、未練という名の鎖を断ち切るように声を絞り出した。


「……ないかな、もう戻らないって決めたことだから」


迷いはない。そう自分に言い聞かせたせいで、言葉に不自然な力がこもった。 その瞬間、明がふっと眉を下げて、酷く残念そうに視線を落とした。


「……そっか。……だよな、悪かった」


無理に作ったような明の苦笑いが、泉翔の胸を鋭くえぐる。 その表情をこれ以上見ていられなくて、泉翔は逃げるように視線を足元へ落とした。ただの勧誘なら、冷たくあしらえた。けれど、明が今も自分との約束を捨てきれずにいたこと、そして自分の拒絶が親友を傷つけたという事実が、重苦しい沈黙となって足元にまとわりつく。


ここでもし「ごめん」なんて言えば、せっかく固めたはずの決意が、砂の城みたいに脆く崩れてしまいそうだった。


「……休憩終わるから、また明日な」


「邪魔したな。……頑張れよ」


明は力なく手を振り、いつもの明るさを取り繕うようにしてコートへ戻っていく。泉翔は、その背中をただ見送ることしかできなかった。


視線をコートに戻せば、熱を分け合い、共に汗を流す仲間たちの輪の中に明が溶け込んでいくのが見える。バッシュが床を噛む鋭い音、激しい呼吸、弾むボールの振動。 そのすべてが、今の泉翔にとっては、ガラスの破片を突き立てられるような痛みを伴っていた。


――もう辞めたんだ。二度と、あんな場所には戻らない。


そう決めたはずなのに。ここに来れば、あの熱狂を、あの手のひらに残るボールの重みを、親友と笑い合っていたあの頃の自分を、簡単に思い出してしまう。


強く、強く、瞼を閉じた。 奥歯が軋むほどに食いしばっても、胸の奥からせり上がるどろりとした激情を抑え込めない。 やり場のない熱量が、行き場を失って右拳に集まる。気づけば、泉翔はコンクリートの冷たい壁を思い切り殴りつけていた。


鈍い衝撃が走り、拳の皮が裂ける。ジリジリとした熱い痛みが走るが、それさえも心の中の荒れ狂う嵐を静めるには程遠かった。


「……いってぇ」


吐き出した声とともに、泉翔は振り返ることなく走り出した。 体育館の扉を抜け、夕闇が降りてきた校庭を、さらにその先の、光の届かない場所へ。


全力で走ったのは、あの日部活を飛び出して以来だった。 肺が焼け、足が鉛のように重くなる。それでも止まれなかった。 走って、走って、心臓の激しい鼓動が、頭の中に響き続けるバスケの残響をかき消してくれるまで。


理屈なんてなかった。ただ、このまま足を止めれば、自分が自分ではなくなってしまいそうな気がして。 泉翔は泥臭く、沈みゆく夕日を背に、夜の底へ向かって逃げ続けた。


そして――気がつけば、辿り着いていたのは、自分がバスケを始めたあの公園だった。 まだ幼稚園の頃、友達に誘われて初めてボールを手にした場所。下手くそなドリブルを笑われて、悔しくて毎日のように通い詰めたバスケットコート。夕暮れまでシュートを繰り返し、汗と泥にまみれながら夢中で走り回った記憶が、鮮明に蘇る。


西の空は朱に染まり、沈みかけた太陽がゴールの鉄枠を血のような赤に照らしていた。長く伸びた影が地面に落ち、揺れる木々の間を風が抜けていく。


遠くで子どもたちの笑い声が聞こえるが、このリングの前だけは、不思議なほど静まり返っていた。かつては未来への入り口のように輝いていた場所が、今の自分には、手の届かない遠い過去の遺物のように見えた。


泉翔は荒い呼吸を整えようとしながら、その場に立ち尽くした。握りしめた拳に残る鈍い痛みと、胸のざわめきがまだ収まらない。


逃げ場を失ったまま、泉翔はベンチに深く腰を下ろし、熱い息を吐き出した。 背もたれに身を預け、視界をオレンジ色に染め上げる夕陽を見つめる。その美しさが、世界から取り残されたような疎外感をかえって際立たせ、吹き抜ける風が切なく胸を締めつけた。


疲労に抗えず、泉翔はそのままベンチに横になり、瞼を閉じた。


「はぁ……はぁ…………ふぅー……」


乱れていた呼吸が落ち着くとともに、頬を伝う汗が冷えていく。それがまるで涙の跡のように思えて、泉翔はさらに強く目を閉じた。


抗えない眠気が静かに襲いかかる。意識が遠のく境界線で、泉翔は胸の奥に消えない痛みだけを抱えたまま、深い眠りに落ちていった。


……どれだけ眠っていたのだろうか。 遠くから響いてくる、規則的なバスケットボールの音で、泉翔は意識を引き戻された。


タッ、タッ、タッ……。 コンクリートを叩く、乾いたドリブルの音。


重たい体を起こし、目元を擦りながらぼんやりと前方を見やる。 夕闇が迫るコートの中央、街灯に照らされて、一人の少女がボールを追っていた。


「……蓮見?」


思わず、その名が口を突いて出た。 重たい体を起こし、ぼんやりと前を見やると、そこには息を切らして立ち尽くす凛の姿があった。


「おはよう、川神くん」


凛が先に、迷いのない声で挨拶を投げた。意識がまだ夢の境界を彷徨っていた泉翔は、自分の状況もうまく掴めないまま、ひどく間の抜けた声を返す。


「……あ、……おはよう」


自分の声があまりに抜けていたことに気づき、泉翔はすぐに猛烈な恥ずかしさに襲われた。言い直すこともできず、泉翔はいたたまれなくなって慌ててそっぽを向く。


だが、凛はその失態を茶化すこともなく、ただ自然に受け流した。彼女はそのまま足元のボールを拾い上げると、何事もなかったかのようにゴールを見据えた。


軽く膝を沈め、しなやかなスナップで放たれたボールは、綺麗な弧を描いて夜の静寂を切り裂く。それはそのまま吸い込まれるように、リングの中央を射抜いた。


バサッ、というネットの揺れる音だけが静かに響く。その淀みのない一連の動作に、泉翔はそっぽを向いたまま、つい横目でその美しさに見惚れてしまった。


凛は転がったボールを追って、ゆっくりとゴールの下まで歩いていく。泉翔はその小さな背中に向けて、ふと疑問に思っていたことを投げかけた。


「部活は……?」


凛はボールを拾い上げると、歩みを止めずに、ただ軽く肩をすくめて見せた。


「もう終わってる。今、何時だと思ってるの?」


泉翔はポケットからスマホを取り出し、画面を覗き込んだ。 時刻は午後七時を回っている。先ほどまで朱色に染まっていたはずの空は、既に深い闇に飲み込まれ、街灯の白い光が公園の輪郭を浮き上がらせていた。


「……ってことは、二時間近く寝てたのか」 呟くと、猛烈な気恥ずかしさが込み上げてくる。


凛は脇にボールを抱え、少し呆れたように泉翔を見下ろした。


「……ふつーこんなところで寝る?風邪ひくよ」


泉翔は言葉に詰まった。 「走り疲れて」と言うべきか。それとも「逃げてきた」と言うべきか。気の利いた言い訳の一つも思いつかず、夜の静寂が二人の間に居座る。


しばらくの間、二人は無言で向かい合った。 気まずさに耐えかねて泉翔が視線を落とすと、凛がふっと短く息を吐いた。


その沈黙を破るように、凛が抱えていたバスケットボールを泉翔の胸元へ放った。


「……起きたなら、ちょっと付き合って」


不意を突かれた泉翔だったが、体が勝手に反応した。


「……え?」 不意を突かれた泉翔は、少し面食らったように目を見開いた。


凛は笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに泉翔を見つめている。


「この間のパス、出してよ」


泉翔は手の中のボールをぼんやりと見つめた。 触れたくない。投げたくない。一度は捨てたはずの、あの指先の感覚を呼び覚ますのが怖かった。 逃げるように視線を外そうとしたが、そこには、あの日と同じ——嘘のない、真っ直ぐな凛の瞳があった。 言葉を待つような、静かな眼差し。 それを向けられては、もう「嫌だ」とはねつけることはできなかった。


「……たく、勝手だな」


小さく吐き出し、泉翔は仕方なさそうに、だが重い腰を上げた。 右拳はまだズキズキと熱を帯びていたが、いざボールを構えれば、指先が勝手に「最適」な位置を記憶から引き出していく。


手首のスナップを利かせ、凛の胸元をめがけてボールを放った。 まっすぐに伸びる軌道。指先でかけた鋭い逆回転が、街灯の下でボールの縫い目を一本の線に見せる。ゆっくりと、だが確実に、凛の手元へと吸い込まれていった。


「……綺麗なパス」


受け取った凛が、その感触を確かめるように小さく呟いた。 そして、にっこりと笑って泉翔を見る。


「ねぇ、もう一度」


泉翔は呆れたように眉を寄せつつも、すぐにボールを待ち構える。 二人の間で、ボールが行き交い始めた。 最初はゆっくり、慎重に。互いの呼吸と、パスのタイミングを探るように――。


でも、何度かやり取りを繰り返すうちに、体が思考を追い越して反応し始めた。 泉翔が凛の「欲しい場所」へ寸分違わずパスを送り、凛がそれを淀みなくシュートへと繋げる。言葉などいらなかった。互いの視線と呼吸が、吸い込まれるように重なっていく。


最初はゆったりとしていたリズムは、回数を重ねるごとに熱を帯び、鋭さを増していく。 突き刺さるようなパスを柔らかく受け止め、泉翔は無意識に力を抜いて次の軌道を描く。凛はそのリズムを全身で享受し、しなやかにシュートを放った。 出会って間もない二人のはずなのに、まるで長年同じコートで戦ってきた相棒のように、その呼吸は完璧に噛み合っていた。


泉翔の胸の中に、押し殺していたはずの感覚が濁流のように蘇る。 手のひらを叩くボールの衝撃、指先に残る革の質感、そして誰かと深くリンクする高揚感。 辞めたはずのバスケが、凛の存在を通して、泉翔の凍りついていた心を溶かしていく。


凛がゴール前へと一気に加速する。 泉翔は彼女の踏み切るタイミングを完璧に見極め、空中の「一点」をめがけてボールを放り上げた。 指先でかけた美しい回転は、放物線の頂点で凛の両手に吸い込まれる。彼女はまるで重力から解き放たれたように宙へ舞い、最高到達点でボールをリングへと送り届けた。


乾いたネットの音が、夜の公園に響く。 泉翔は思わず息を呑んだ。


「……綺麗に決めるもんだな」


着地した凛が、肩で息をしながら振り返る。その顔には、今までで一番眩しい笑顔が浮かんでいた。


「……こんなに気持ちよく決まったのは、いつ以来だろう」


泉翔も、気づけばつられるように口角を上げていた。 遊びの延長のようなパス交換。けれど、そこには間違いなく、ボールを通した魂の一体感があった。 二人の間に流れる空気は、さっきまでの気まずさが嘘のように、心地よい熱を帯びていた。


凛は転がったボールを拾い上げ、静かなリズムでドリブルをしながらゆっくりと近づいてきた。


「私さ、片方が聞こえないから……常に周りの様子を伺ってから動くことが多いし。でも、それだとどうしてもワンテンポ遅れちゃうから。頭の中にあるイメージに、体が追いつかないっていうか……」


凛は少しうつむき、街灯の影がその横顔に複雑な陰影を落とした。


「でも、川神くんのパスは違う。出す瞬間を凝視してなくても、私の欲しいところに勝手にボールが来る感じ。……すごく、合わせやすい」


直球の肯定に、泉翔は喉の奥が熱くなるのを感じた。咄嗟に視線を逸らし、耳元まで赤くなるのを誤魔化すように後頭部をかく。


「……そうか?蓮見さんこそ、パスを受けてからシュートまでの予備動作がないから、出し甲斐があるよ」


泉翔は本心を口にした。凛の迷いのない動きは、どれほどの反復練習が積み上げられたものなのか。その技術の高さに感服しながらも、同時に、泉翔の胸にはある疑念が澱のように溜まっていた。


先ほど、パスを出す直前に呼んだ時、凛の反応が一瞬だけ遅れた気がしていた。


「……あのさ。片耳が聞こえづらい状態でバスケをするのは……怖くないのか?」


「え?」


不意に投げかけられた言葉に、凛は動きを止めた。泉翔は言い淀みながらも、胸の内にあった違和感を無理やり言葉に変えていく。


「その……補聴器をつけているからといって、はっきり音が聞き取れるわけじゃないんだろ? 体育館は色んな音が反響するし、パスの合図だって……。ふいにボールが飛んできたりしたら、怖くないのか?」


泉翔の問いに、凛は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。けれど次の瞬間、彼女は「ははっ」と短く、楽しそうに声を上げて笑った。頭上の街灯がひとつ、瞬きをしてから鈍い光を放ち始める。落ちてきた頼りない光が、彼女の睫毛の影を頬に長く落としていた。


「……すごいね。質問責めっていうか、バスケの話になると急に饒舌になるんだね、川神くん」


「っ……あ、いや……。そういうわけじゃ……」


指摘され、泉翔は息を詰まらせた。それまで頑なに蓋をしてきたはずの熱量が、凛の前では簡単に溢れ出してしまう。そんな自分自身の無防備さに、誰よりも泉翔自身が驚き、激しく戸惑っていた。


「でも、そうだね。急にボールが飛んできたりすると、確かに怖いよ。音が反響して、どこから来てるのかわからなくなるし。練習中は壊れるのが怖くて補聴器は外してるから、なおさらかな。本当は、外しちゃだめなんだけどね。昔、実際に壊しちゃったこともあって……ちょっとトラウマなの」


一度視線を落としてから、凛は淡々と続けた。それは彼女にとっての「日常」であり、同情を誘うような響きは微塵も含まれていない。


「だから今は、アイコンタクトとか味方の肩の入れ方とか。そういう視覚的な情報に頼ることが多いかな。補聴器を外してると、ポイントガードとの連携なんて本当に難しいんだけどね」


泉翔は絶句した。怒号のような歓声とバッシュの摩擦音が激しく反響するコートの中で、凛は常に不安定な均衡の中に立っている。左から流れ込む断片的な音情報と、右側に広がる深い静寂。その歪な世界で、彼女は情報の欠損を必死に五感で埋めようとしていた。あの体育館で見せたぎこちなさは、技術不足などではない。五感を研ぎ澄ませて戦い続けてきた証だった。突きつけられたその事実に、泉翔は胸の奥を鋭く刺されたような痛みを覚える。


「……今まで、どうやってチームと……特にポイントガードと連携してたんだ?」


その問いに、凛は少しだけ答えにくそうに視線を泳がせた。夜の静寂が二人の間に降り立ち、街灯の灯りがジジッ、と小さな音を立てる。


「……私ね、中学三年生からなの。片方の耳が聞こえなくなったの」


「そうなのか……? ごめん、余計なこと聞いたよな」


無遠慮に踏み込んでしまった自分を恥じ、泉翔は即座に謝罪を口にした。詮索しすぎた後悔で顔を伏せ、気まずさに耐えかねていたその時、不意に視界の端で何かが動く。凛が手元のボールを、泉翔の胸元へ向かって軽く放り投げていた。


「いいよ別に。……そうだね、聞こえなくなるまでは、普通にプレイしてた。必要以上に目を頼るようにしたのは、本当につい最近かな」


慌てて受け取ったボールの感触を確かめながら、泉翔は震える呼吸を整える。凛は中学時代の自分を思い返すように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「中学三年の秋だった。ある日突然、片方の耳が聞こえにくいと感じて。最初は疲れか何かだと思ってたんだけど、どんどん音が遠のいていった。めまいも酷くて、立っているのがやっとで……。それまで当たり前にできていたプレイが、何一つできなくなった。試合も、最後までコートに立っていられなくなって……」


凛の視線が、街灯の届かない遠くの暗闇へと向けられる。語られる言葉は淡々としているが、その背後にあるはずの絶望が、冷ややかな空気となって伝わってくるようだった。


「中学三年の秋……」


泉翔は言葉を失った。引退を控えた最も大切な時期に、積み上げてきたすべてを奪われた彼女の喪失感。それは、自らバスケを捨てた自分の挫折とは質が違う、あまりにも残酷な断絶だった。


「そこからずっと、バスケは辞めてた。かれこれ1年近くかな…バスケから離れてた。なんかねバスケするのが怖くなったんだよね。ずっとボールにもさ、触れない感じだった。…本当はね、高校では、部活に入るつもりはなかった」


凛は自嘲気味に少しだけ笑い、そして泉翔を真っ直ぐに見上げた。闇に沈みかけた彼女の瞳には、かつて公園で見せたあの強固な光が、より鋭く宿っている。


「前いた高校は、人生初めての帰宅部になってさ。でも、ずっともやもやしてた…。で、親に無理いって転校して新しい環境でがんばりたいって伝えて。……もう一度だけ、あがいてみたくなったの」


静かな言葉の奥には、一度底まで沈んだ者特有の、鋭く尖った覚悟が潜んでいた。


泉翔は何も言い返せなかった。理不尽な不幸から逃げずに戻ってきた凛と、先輩との確執を理由にコートから逃げ出した自分。突きつけられたその対比に、胸の奥が焼けるように熱くなる。彼女の不自由さを哀れむどころか、その強さに、自分の方が圧倒されていた。


「……そっか。……強いな、蓮見さんは」


「そう?…ゆくゆくはレギュラーとして、みんなとプレイしたいけど……いきなりは、難しいと思ってる。だから昼休みとか時間あるときは、少しずつだけど練習してる。でも結構休んでたからね…ブランクもあるし、昔みたくパスも取れないから」


凛は少し照れくさそうに、けれどその瞳には消えない芯の強さを宿して続けた。


「今日もうまくパスが取れなかったし……。だから部活が終わった後、ここで練習しようと思って来たんだけど。……そしたら、ベンチで見慣れた人が寝ているから」


「っ……」


泉翔は思わず顔を熱くした。自分の無防備な寝顔を、よりによって凛にずっと見られていたのか。その事実がどうしようもなく恥ずかしくて、泉翔は喉まで出かかった言葉を飲み込み、そのまま黙り込んでしまった。


「ねぇ……たまにでいいからさ、ここで練習、付き合ってよ」


凛が少し照れたような、震える声で言う。その言葉は、泉翔の胸の奥底へ真っ直ぐに届いた。


「えっ?」


予想もしなかった頼みに、泉翔は驚きのあまり声を漏らした。


「だめ…かな?」


微かに頬を赤らめた凛が、期待と不安の入り混じった瞳で泉翔を見つめる。 泉翔はその真っ直ぐな視線から目を逸らすことができず、ただ沈黙の中に立ち尽くした。心の中で、かつての挫折と決意が激しく渦を巻く。しかし、凛の切実な瞳が、厚く硬い泉翔の心を揺さぶる。


「……だめじゃないけど。俺、もうバスケとは関わらないつもりだったから」


「そっか……。そうだよね……ごめん、変なこと言って」


凛が力なく俯き、寂しそうな声で呟く。その瞬間、泉翔の胸が締め付けられるような痛みを覚えた。凛の表情を見ると自然と自分が思っていたこととは対照的な言葉を発した。


「……たまになら」


「え?」 凛が弾かれたように顔を上げる。


「たまになら。……気が向いた時だけでもいいか?」


泉翔は照れ隠しに視線を逸らしたが、その胸中は、自分でも驚くほど穏やかな光に満たされていた。


「本当? ありがとう……!」 小さく、けれど心底嬉しそうに弾む凛の声。彼女の屈託のない笑顔を見ているだけで、背負い続けてきた重たい感情が、少しずつ溶けて消えていくような気がした。


「よろしくね、川神」


突然の苗字呼び――それも、呼び捨てだった。 不意打ちを食らった泉翔の心臓が、ドクリと大きく跳ねる。


「……急に呼び捨てかよ」


「いいじゃない、別に」


「あぁ…そうだな。よろしく、蓮見」


つられて泉翔も、自然と笑みを浮かべていた。 「クラスメイト」から、名前を呼び合う「練習仲間」へ。二人の間に、新しい関係が芽生えたことを確信した。


凛からパスを受け取ると、泉翔は吸い寄せられるようにゴールを見上げ、シュートを放った。 バスケットボールが指先を離れる乾いた感触。高く跳ねる鼓動。 それらは、泉翔が忘れていたはずの熱を、一瞬にして呼び覚ました。


ボールは夜空に綺麗な弧を描き、吸い込まれるようにネットを揺らした。 その光景は、遠い昔の記憶のように美しく、そしてこれからの未来を予感させるように、鮮やかに泉翔の心を彩っていった。

第3話 出会い③をここまで読んでくださりありがとうございました。

今回主人公の昔の出来事にふれる感じがありましたね。高校生の頃少しのきっかけで落ち込みや感情の揺れ動きがあったなと懐かしい思いで執筆しました。

皆さまの高校生のころこんなことあったなぁなど体験談もお待ちしております(笑)

今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。


それでは次回エピソードでお会いしましょう。

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