第13話 結成②
自室の鏡の前で、泉翔は何度目か分からない溜息を吐いた。
凛の家からの帰り際、玄関先で不意に投げかけられた「明日、空いてる?」という言葉。それが単なる練習の誘いではなく、明確に「遊びに行こう」という提案だったと理解した瞬間から、心臓の鼓動は一度も正常なリズムに戻っていない。
凛とは、バスケの練習で二人きりの時間を過ごすことには慣れてきたつもりだった。けれど「デート」という目的で会うのは、人生で初めての経験だった。
結局その日は、いくら目を閉じても意識が冴え渡り、ベッドの中で悶々とした時間を過ごすことになった。もしかしたら、都合のいい聞き間違いだったのではないか。そんな不安が頭をよぎり、幾度か確認のメッセージを送ろうとして、そのたびに指が止まった。もし「そんな約束はしていない」と返事が来たら、今後どんな顔をして会えばいいのか分からない。それならいっそ、待ち合わせの駅に行って、もし彼女が来なかったら「ほら、やっぱり聞き間違いだったんだ」と自分を納得させる方が、まだ傷は浅くて済むはずだ。そんな卑屈な結論に辿り着くほど、余裕がなかった。
泉翔は思い返せば、女の子と二人きりで出かける経験なんて、この年齢になるまで一度もなかった。中学の頃に、男女のグループでなんとなく集まって遊んだことがある程度だ。エスコートなんて、どうやればいいのか見当もつかない。ネットで検索した浅い知識を必死に繋ぎ合わせ、頭の中でデートプランを組み立てては壊す作業を繰り返す。結局、これといった名案も浮かばないまま、部屋のカーテン越しに朝の光が差し込んできた。
ほとんど一睡もできないまま迎えた朝。鏡に映る自分の顔は、目の下に薄く隈が浮き、お世辞にも「デート日和」とは言えない、ひどいありさまだった。
焦れば焦るほど、鏡の中の自分はどんどん強張っていく。 覚えたての髪型をセットし、眉を整える。そこには普段の自分とは別の自分が写っていた。しかしどこか緊張気味で、表情が硬い。気楽にと思えば思うほど、表情はさらに硬くなっていった。
最近流行りの服装に身なりを整え、最後に香水を一振り。 不安になりながらも再度自分の姿をチェックする。たぶん大丈夫と言い聞かせ、逃げるように部屋を出た。 玄関で靴を履いていると、背後から声を掛けられた。
「あら? 泉翔。出かけるの?」
そこに立っていたのは、泉翔の母だった。
「うん、友達と遊びに行ってくる」
「珍しいわね、あなたが出かけるなんて」
「いや、出かけるのは珍しくないだろう」
「そんなおしゃれして出かけるのが珍しいって言ってるのよ」
母の言葉に、思わず動きが止まった。
「ん……まぁ今日は……特別なんだ」
あまりに歯切れが悪い回答だった。その様子を見て、母がにやにやしながら聞いてくる。
「デート?」
的確に真意をつかれ、驚く。心臓が跳ね、喉の奥が急に乾くのを感じた。 内心どきっとした感情を必死におさえるあまり、回答が遅れた。やっと出た言葉は、自分でも驚くほど勢いのある否定だった。
「ち、ちがう! ただ友達と遊びに行くだけだって」
「ただの友達と遊びに行くなら」
母はわざとらしく言葉を区切り、泉翔の首筋を指さした。
「そんなにいい匂い、させていかないんじゃない?」
母の指摘に、泉翔は顔が熱くなるのを抑えられなかった。 自分なりに必死に隠したつもりだった下心に近い期待を、いとも簡単に暴かれたような気まずさ。恥ずかしそうに黙り込み、逃げるように靴を履いて家を出ようとしたその時、背後から鋭い声が飛んだ。
「あっ! 泉翔! 待ちなさい」
今度は何だと、少しいら立ちながら振り返る。図星を突かれた気恥ずかしさを、尖った態度で誤魔化すことしかできなかった。
「……今度はなに?」
母は泉翔に歩み寄ると、その襟元に手を伸ばした。 鏡の前であんなに時間をかけて、完璧だと思い込んでいたはずの自分。けれど母の目は、その背伸びが生んだ小さな綻びを瞬時に見つけ出してしまう。
「ここ服がよれてる。それに、もう少しラフな方があなたには合ってるわ」
手際よく服装を整えられ、泉翔は毒気を抜かれたように立ち尽くす。不自然に着飾っていたのを、身の丈に合った自分に戻されていくような感覚だった。
「……あっ、ありがとう」
服を直しながら、母はふと、独り言のように呟いた。
「...それとあなたがこの頃、楽しそうにしてるから少しホッとしてるわ」
その言葉が、泉翔の胸の奥を刺した。 泉翔はバスケを辞めてから母とまともに目を合わせて会話することすら自然と避けていた。
「バスケを辞めてからずっと、ゾンビみたいな顔になってたから……。いい友達ができたみたいね」
母は優しく、けれどどこか安心したように笑った。 その顔を見た瞬間、泉翔は悟った。自分がバスケを辞めて落ち込んでいた時、母はずっとその背中を見ていた。腫れ物に触れるような静けさは、無関心ではなかったと悟った。
「ほら、できたわ。いってらっしゃい! 気を付けてね」
「ありがとう……母さん。いってきます」
母の温かな掌に背中を押されるようにして、泉翔は家を後にした。 玄関を出ると、夏の終わりの少し熱を帯びた風が頬を撫でる。 母が言ってくれた「いい友達」という言葉を反芻する。凛という存在が、自分を変えてくれたのかもしれないと改めて思う。
泉翔は駅へと続く坂道を、昨日より少しだけ確かな足取りで踏みしめた。
一歩踏み出すごとに、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりついた。春の柔らかな日差しはいつの間にか影を潜め、季節は確実に、容赦のない夏へと移り変わろうとしている。
道端の木々からは、まだ声こそ聞こえないものの、今にも蝉が鳴き出しそうなほどに緑が濃く、重苦しい熱を孕んでいた。
ニュースでは「年々、平均気温が上がっている」と繰り返されているが、今、自分を包んでいるこの異常な熱気は、決して気候のせいだけではない。
「……あつい」
誰に聞かせるでもなく独り言が漏れる。 坂道を下るにつれ、じわじわと額に汗が滲んできた。せっかくセットした髪型が崩れていないか不安になり、道沿いのショーウィンドウに映る自分を何度も盗み見る。
緊張している。 ただ凛と会うだけだ、と自分に言い聞かせても、心臓の鼓動は早まる一方で、体の芯から熱が放出されているような感覚だった。
駅に近づくにつれ、人の数が増えていく。休日の喧騒と、アスファルトから立ち上る陽炎。 泉翔は何度も乾いた喉を鳴らしながら、待ち合わせ場所である改札口へと、重い足取りを進めた。
駅の改札口は、休日を謳歌する人々でごった返していた。 待ち合わせの目印に決めていた柱の陰に立ち、泉翔は周囲を必死に見渡すが、そこに凛の姿はない。
スマートフォンの画面を点灯させ、時間を確認する。約束の十五分前だった。不自然にもスマートフォンに表示されている時刻を見つめる。
もし、ここに来なかったら。 もし、昨日言ったことが、ただの社交辞令だったとしたらとそんなネガティブな思考が頭をもたげそうになり、泉翔は慌てて首を振った。 一度考え出すと、改札から吐き出される見ず知らずの人々の群れが、自分の場違いさを嘲笑っているような錯覚に陥る。
「……落ち着け。まだ時間はある」
自分に言い聞かせる声が、周囲の喧騒に飲み込まれていく。 手のひらの汗をズボンで拭い、何度も改札から出てくる人々へ視線を送る。 期待と不安が交互に押し寄せ、まるで試合前のコートに立っている時のような、逃げ出したくなるほどの緊張感に支配されていた。
改札機が吸い込む切符の音や、ICカードが触れる電子音が、今の泉翔にはひどく耳障りなカウントダウンのように聞こえていた。
再びスマートフォンの画面を点灯させる。 そこには無情にも、約束の時刻まであと一分を切った数字が並んでいた。
時間がぎりぎりになるにつれて、胸の奥で奇妙な焦りと、それ以上に身勝手な安心感が湧き上がってきた。
やはり聞き間違いだったのだと、どこかで確信している自分がいた。 そう結論づけてしまえば、この逃げ出したくなるような緊張からも解放される。
自分を納得させるための言い訳を頭の中で必死に組み立て、泉翔は諦めを含んだ溜息を吐き、視線を足元のタイルへと落とした。
その時、流れる人の波の向こうに、見慣れた姿がふと目に留まった。
凛は、いつもより急ぎ足で、そしてスマートフォンを鏡にし乱れる前髪を直しながら歩いてきた。 なにかと自分の満足がいかないのか、眉間に少し皺を寄せ、険しい顔をしている。
コートの上で見せるあの凛然とした顔つきとは違い、どこか幼さの残る執着。 指先で何度も毛先を撥ねさせるその仕草に、泉翔は今まで見たことのない彼女の日常を垣間見た気がして、心臓の鼓動が一段と早くなるのを感じた。
直し終えると、視線を上げて歩いてくる。 泉翔が既に駅に着いているのを見つけると、弾かれたように顔を輝かせ、駆け足で近づいてくる。
そこには、普段練習しているときとは、まるで別人のような凛がいた。
「ごめん、川神! 待った?」
手を合わせて謝る凛。
「……あっいや、全然待ってない」
実際には約束の十分以上前からこの場所にいたが、そんな事実は今の泉翔の喉元にはこれっぽっちも浮かんではこなかった。
じっと見る泉翔に、凛が少し顔を覗き込んできた。
「……え? 何、変?」
慌てて泉翔は否定する。
「あっいや……普段、私服見たことなかったから……」
「確かに……いつも練習着か、ラフな格好だったよね」とおどけたように言って、凛が柔らかく笑う。
彼女が身に纏っていたのは、ダボついたシルエットのワイドカーゴパンツに、ウエストが覗く短い丈のクロップドトップス。 その上から黒のフェイクレザージャケットを羽織り、足元には厚底のチャンキーシューズを選んでいた。
もともと高い身長がさらに強調され、その立ち姿は凛とした強さを感じさせる。 可愛いという言葉より、圧倒的に「かっこいい」という言葉が似合う佇まいだった。
ふと周囲に目を向けると、駅を行き交う人々が、すれ違いざまに次々と彼女へ視線を送っていることに気づいた。 その場を制圧するような美しさと、研ぎ澄まされたようなかっこよさ。 圧倒的な存在感を放つ彼女の姿は、流れる人の波の中でそこだけ時間が止まっているかのように際立っていた。
「……見すぎ。ちょっと恥ずかしいから、なんか言ってよ」
我に返った泉翔の顔を、凛が少し下から覗き込んでくる。 期待と不安を混ぜたような瞳が、真っ直ぐに泉翔を射抜いた。
至近距離で捉えたその顔は、普段の練習で見ているものとは決定的に違っていた。 元々大きかった目元は、淡い色味のメイクでより一層その意志の強さと華やかさを強調されている。 潤いを帯びた唇も、自然でありながらどこか艶やかな色を纏っており、泉翔はそれらが今日のために整えられたものであることを悟った。
自分の反応を待っている彼女の近さに、泉翔は熱くなった顔を隠すように、半ば強引に言葉を絞り出した。
「え……あーうん、似合ってる」
本心から出た言葉は、自分でも驚くほど掠れた声になった。
「本当?」
満足げに笑う彼女は、泉翔のその短い一言で、心底安心したように目を細めた。
知っているはずの相手なのに、全く知らない女の子を前にしているような感覚。 あまりの変貌ぶりに、泉翔の理屈はとうに限界を超えていた。
「……似合いすぎてて、見惚れた」
熱くなった顔を隠すように、泉翔は気恥ずかしさに耐えかねてふいと視線を逸らした。 落ち着かない手つきで、熱を持ったままの自分の頬をぽりぽりと掻く。
「なんだそれ」
泉翔の口から漏れた、あまりに真っ直ぐすぎるその言葉は、凛にとっても完全に予想外だったらしい。 彼女は一瞬、弾かれたように目を丸くして泉翔を見つめる。普段の練習中には見せない、年相応の少女のような戸惑いがその瞳に走った。 けれどすぐに、その驚きを誤魔化すように、凛は口元を緩めてくすりと笑った。
「……じゃあ、行こっか。川神」
凛はそう言って、泉翔の返事を待たずに駅の入り口へと歩き出す。 その足取りはどこか軽やかで、隣を歩く泉翔との間に流れる空気は、これまでとは少しだけ違う色を帯びていた。
駅の入り口の人混みを抜け、少しだけ道が開けたところで泉翔が問いかけた。
「そういえば、どこ行くんだ?」
「今日は買い物がメインになるのかな?……ここ、行きたいんだよね」
凛が歩きながら自分のスマートフォンを取り出し、画面を泉翔に向けた。 表示されていたのは、独特なフォルムをしたキャラクターの公式サイトだった。どうやら、そのキャラクターの期間限定イベントが開催されているらしく、画面には開催場所や限定グッズの告知が踊っている。
そこに映し出されていたのは、お世辞にも「可愛い」とは言い難い、二足歩行のブタのキャラクターだった。 離れすぎた点のような目に、不自然に強調された鼻の穴。 『ぶーたれ』という文字の横で、そのブタは腕を組み、絶妙に不機嫌そうな顔で虚空を見つめている。 「納得いかないぶー……」という力抜けたセリフと共に、腹を突き出してふてぶてしく立つその姿は、一度見たら脳裏に焼き付くような異様なインパクトを放っていた。
「そのキャラ好きなんだな……部屋にもあったし」
「そう、好きなんだよね。なんかこう……」
少しだけ言葉を選ぶように視線を上げたあと、凛は楽しげに目を細めた。
「少し不細工なところがいい」
「お、おう……」
予想外のポイントを挙げられ、泉翔の生返事が冬の空気に溶ける。
「何、その曖昧な返事。……もしかしておかしいとか思ってない?」
じろりと隣から覗き込まれ、泉翔は慌てて視線を正面に戻した。
「いや……素敵な価値観ですこと」
「片言やめろ」
間髪入れずに鋭いツッコミが飛んできた。 凛は可笑しそうに口角を上げると、そのままスマートフォンをポケットに滑り込ませた。
駅へと近づくにつれ、休日の余暇を楽しむ人々の群れが密度を増していく。溢れかえる足音、無数の話し声、駅のアナウンス。多種多様な環境音が不規則に交差し、一つの大きな塊となって押し寄せてくる。切符売り場や電光掲示板の周辺には人だかりが絶えず、二人の間を割るようにして何度も通行人が通り抜けていった。そのたびに凛の肩がびくりと跳ね、泉翔との距離がわずかに開く。情報の濁流に飲み込まれそうになりながら、凛の視線は縋るように泉翔の姿を追っていた。
改札口を通り抜けたところで、凛が足を止めて声を掛けてきた。
「ねぇ川神……あのさ、お願いあるんだけど」
「どうした?」
「腕……貸してほしい」
「腕?」
予想外の言葉に、泉翔は思わず聞き返した。
「うん……街中ってさ、色々な音が飛び交うから川神の声聞き取りにくい時あるかもだし……もしはぐれたら、探すの時間かかるから」
少しだけ視線を伏せて、凛が言葉を続ける。
「いつも家族と出かける時さ。バッグとか服のどっかをつまんで歩いたりしてるんだ……昔一人になって、ちょっと怖くなった時あって……」
その声は駅の喧騒に紛れてしまいそうなほど、どこか頼りなく響いた。
「ダメ?」
自分を伺う彼女の瞳を見て、泉翔は胸を突かれるような思いがした。普段あまりに自然に言葉を交わしていたから、今の今まで失念していた。彼女が聴覚にハンディキャップを抱え、絶えず周囲の音に神経を尖らせているという事実を、この場所に立たされてようやく、改めて認識させられた。
「いや、全然大丈夫……むしろ気付けなくてごめん……」
「私こんなんだから……迷惑かけてごめん」
凛が小さく肩をすぼめてそう言った。 泉翔は一度天を仰ぎ、肺の中の空気をすべて吐き出すように、ふーっと長く息を吐いた。 自分に対する不甲斐なさをその息と一緒に追い出し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ直す。
「蓮見……聴覚のことで謝るのは今後なしにしよう。俺は迷惑とか思ってないから……もう少し、人に頼れよ」
泉翔が真っ直ぐにそう告げると、凛は少しだけ驚いたように瞬きを繰り返した。 普段、誰よりも強くあろうとする彼女が、その瞬間だけは守られるべき一人の少女の顔を覗かせる。
「……わかった。お言葉に甘えて……」
凛は控えめに手を伸ばすと、泉翔が羽織っているマウンテンパーカーの袖を、指先で少しだけ掴んだ。 ハリのあるナイロン生地越しでも、彼女の指先が迷うように微かに震えているのがわかる。 自分に遠慮し、どこか一線を引こうとするその指先が、泉翔には無性に歯痒かった。
「そうじゃなくて……」
泉翔は自分の袖を掴んでいた凛の手を、そのまま包み込むように握った。
「こっちのほうが……はぐれないだろ」
一瞬、彼女の身体が跳ねるように強張ったのが伝わってきて、泉翔も自分の心臓が大きく跳ねたのを自覚する。 直接重なる熱。 自分よりも一回り小さくて、驚くほど柔らかい手の感触が、泉翔の脳内を真っ白に塗りつぶしていく。 無理に言葉を繋ごうとしても、自分の心拍音が耳の奥でうるさく鳴り響いて、何も浮かんでこない。
「……う、うん。ありがとう……」
俯き加減になった彼女の耳元が、メイクで乗せた赤みとは違う、もっと深い朱色に染まっていくのを泉翔は見逃さなかった。 握られた手から伝わってくる微かな震えが、次第に自分と同じような速い鼓動の熱へと変わっていく。
そのまま電車に乗っても、二人が繋いだ手を離すことはなかった。 車内は適度に混み合っていたが、二人の周りだけが真空地帯になったかのような錯覚に陥る。
お互いに緊張しすぎて、いつも通りの軽口はどこへやら、言葉数は極端に少なくなった。 何か話さなければと思うのに、脳裏を占めるのは掌から伝わってくる凛の体温のことばかりだ。 時折、視線が迷子になって窓の外を流れる景色を眺めるが、どんな会話をしたのか後で思い出そうとしても、霞がかかったように記憶に残らない。
ガタンゴトンと鳴り響く走行音や、周囲の乗客の話し声。 凛の聴覚を気にして大きな声を出すにはあまりにもふさわしくないし、お互いいつも以上に緊張してしまっているせいで口を開けば、自分たちの声が緊張で震えていることが露呈してしまう。 そんな予感もあって、二人はただ沈黙を選んだ。 繋いだ手のひらがじっとりと汗ばんでいくのを感じて、それが余計に泉翔の焦りを煽った。
目的の駅へ到着することを告げる車内アナウンスが流れる。 ふいに肩を叩かれ、泉翔が顔を上げると、凛が「降りよう」と促すように出口を指さしてジェスチャーを送ってきた。 騒音に抗って言葉を交わすよりも、その方がずっと自然だった。
駅のホームに降り立つと、そこには普段以上の、押し流されるような人混みが溢れていた。 駅周辺の期間限定のイベントの影響か、あるいは休日特有の賑わいか。 改札へと向かう人の波は、容赦なく二人の間に割って入ろうとしてくる。
泉翔は、人波に呑まれそうになる凛の存在を背中で感じ、握る手にぐっと力を込めた。けれど、改札を抜けて駅前のロータリーに出た瞬間、それまで泉翔の後ろを大人しくついてきていた凛の足取りが変わった。
「どこだ、イベント会場?」
泉翔が周囲を見渡しながら問いかけると、凛は空いた方の手で手際よくスマートフォンを操作した。
「ここの、ショッピングモールの真ん中あたりかな」
凛がそう言って、スマートフォンの画面に映し出されたマップを表示して見せてくる。 現在地を示す青い点が、迷路のようなモールの中央を指していた。 画面を覗き込もうとして、二人の距離がさらに近くなる。 ふわりと、凛の髪から石鹸のような清潔な香りがして、泉翔は一瞬だけ息を止めた。
あまりの近さに硬直してしまった泉翔に気づいたのか、凛が不思議そうに首を傾げた。
「……? なに、川神?」
「っ……いや、なんでもない。道、わかったから行こう」
慌てて視線をスマートフォンに戻し、誤魔化すように歩き出す。 心臓の鼓動が耳の奥まで響いている。彼女はあんなに平然としているのに、自分だけが過剰に意識している事実が、無性に気恥ずかしかった。
凛に引かれるまま歩き出すと、周囲の光景は記憶にあるものとはまるで別物になっていた。 数年前までは至る所にクレーンが立ち並び、無機質な鉄骨が剥き出しの建設途中だったはずの場所には、今や眩いほどのガラス張りの建造物が堂々とそびえ立っている。
軒を連ねる流行のファッションショップや、色鮮やかな小物が並ぶ雑貨店。オープンデッキの飲食店からは香ばしい匂いが漂い、5月の柔らかな日差しを浴びながらテラス席で食事を楽しむ人々の笑い声が溢れていた。 かつての殺風景な景色を塗りつぶすように、街はすっかり洗練された活気で満たされている。
「あ、あそこ! ぶーたれ!」
新しく整備されたタイルの上を駆け出すように、凛が前方を指差した。 今度は逆に彼女が泉翔の手を力強く引き、迷いのない足取りで進んでいく。 人混みを縫うように進む彼女の背中からは、先ほどまでの緊張が嘘のような、子供のような高揚感が伝わってきた。
「ちょっと、そんなに急がなくても……」
泉翔が声をかけるが、今の凛には目的地の入り口に飾られた巨大なキャラクターの看板しか見えていないらしい。 結局、泉翔は彼女に引きずられるようにして、雑踏を駆け抜けることになった。
ようやく辿り着いたイベント会場の入り口。 そこには色とりどりの装飾が施され、凛が言っていた「少し不細工な」キャラクターたちが、どこか抜けた表情で二人を迎え入れていた。
立ち止まり、ようやく人心地ついたところで、泉翔はふと自分たちの手元に目を落とした。 目的地に着いた今も、凛は泉翔の手をしっかりと握ったままだ。 それどころか、先ほどよりも強く、離すまいとするかのように力がこもっている。
凛の横顔を盗み見ると、彼女は入り口のパネルをキラキラとした瞳で見つめていたが、その耳たぶはまだ熱を持ったように赤らんでいた。
「……着いたな」
「うん。……ねえ、これ見て。やっぱり実物はもっと不細工!」
彼女がパネルの不細工なキャラを指差して笑う。 その瞳は一点の曇りもなく輝いていて、この「不細工さ」こそが彼女にとっての至高であることは明白だった。
看板の中の『ぶーたれ』は、実物大になるとそのふてぶてしさがさらに増していた。 「納得いかないぶー……」という脱力感あふれるセリフの吹き出しが、まるで今のこの賑やかな状況すべてに文句を言っているかのようで、シュールな笑いを誘う。
「これが可愛いんだけど」
「……うん、そうだな」
泉翔は苦笑いを浮かべながら、曖昧に頷いた。 正直なところ、そのキャラクターの魅力はまだ完全には理解できていない。けれど、それを嬉しそうに語る彼女の表情があまりに眩しくて、今は不細工なキャラすらも、どこか愛嬌のあるものに見えてくるから不思議だ。
泉翔の適当な返事を見透かしたのか、凛が繋いだ手をぐいと引いた。
「わかってないでしょ。ほら、中入るよ!」
一歩足を踏み入れると、そこはまさに『ぶーたれ』のシュールな世界観に埋め尽くされていた。 会場内には、このキャラクターの脱力感に魅了された若者たちだけでなく、意外にも小さな子供を連れた家族連れの姿も多い。
「ほら、見て! あの着ぐるみ、絶妙に足が短くて最高じゃない?」
凛が指差した先では、巨大な『ぶーたれ』の着ぐるみが、子供たちに囲まれてふてぶてしく立っていた。 頭を撫でようとする子供を「納得いかないぶー……」というプラカードで軽くあしらうその姿は、およそサービス精神とは程遠い。 けれど、そのやる気のない動きが逆に観客の笑いを誘い、会場は温かな熱気に包まれていた。
「……あんなにふてぶてしいのに、人気あるんだな」
「そこがいいの。媚びてない感じが、あのキャラの魅力」
凛は一つひとつのキャラの展示の前で立ち止まり、「この絶妙な鼻の穴の角度!」と熱心に解説を加えていく。 彼女の語る言葉はどれも新鮮で、泉翔もいつの間にか、そのシュールな造形の中に不思議な愛嬌を見出し始めていた。
やがて辿り着いたグッズコーナーは、さらに凄まじい混雑だった。 色とりどりのアイテムが並ぶ棚を、凛は宝探しでもするかのような真剣な眼差しで吟味していく。 そして、ふと一つの棚の前で足を止めると、二つのキーホルダーを手に取ってニヤリと笑った。
「ねえ川神、これ見て。この表情、さっきの川神にそっくりだよ」
差し出されたのは、不機嫌そうに頬を膨らませた、絶妙に腹の立つ顔をしたマスコットだった。
「……どこがだよ。誰がこんな常に口尖らせてるんだよ」
「えー、でもこの『自分、納得いかないぶー』って感じのオーラ、そっくり」
凛はそう言って、手に持ったキーホルダーを泉翔の顔のすぐ横まで持ち上げ、じっと見比べた。
「え? ……おい」
「ほら、やっぱりそっくり」
確信を得たように凛が楽しげに笑う。至近距離で弾けるような笑顔を向けられ、泉翔は毒気を抜かれたように息を吐いた。
「……蓮見がそういうことするから、似てくるんだろ」
「どういう理屈それ」
凛は可笑しそうに肩を揺らすと、泉翔の抗議を軽く聞き流し、再び商品棚へと向き直った。
そこには同じ『ぶーたれ』でも、微妙に表情やポーズが異なるマスコットが山のように積まれている。 凛はその中から「これだ」という一つを見つけ出すため、宝探しをする子供のような真剣さで、一つひとつを手に取っては吟味し始めた。
マスコット以外にも、会場には物欲を刺激するアイテムが溢れていた。 凛は「納得いかないぶー……」という文字がデカデカとプリントされたシュールなTシャツを広げては、「これ、川神のパジャマにいいよ」と笑い、スマートフォンケースに貼るためのキラキラしたホログラムステッカーを真剣に選んでいる。
「見て、このステッカー。角度によって鼻の穴が光るんだよ。凄くない?」
「……凄いのか、それは」
泉翔のツッコミなど耳に入っていない様子で、凛は棚を二周、三周と巡る。 そしてついに、マスコットが山積みになったワゴンの中で彼女の指が止まった。
「……あった。これだ」
凛が掲げたのは、他の個体よりもわずかに頬の膨らみが大きく、より一層「ふてぶてしさ」が極まった一体だった。 絶妙な個体差を執念で見つけ出した彼女は、満足げにそれを胸に抱き寄せた。
「よし、決まり。川神、お会計してくるからここで待ってて」
凛は軽やかな足取りでレジの列へと消えていった。
「あっ、蓮見……!」
繋いでいた手のひらに、急に冷たい空気が入り込む。 彼女はそのまま人混みの向こうへ進んでしまい、泉翔は伸ばしかけた手を所在なげに下ろした。 しばらく壁際で待っていたが、レジの列はスムーズに流れているはずなのに、凛の姿がなかなか戻ってこない。
人混みの隙間からレジの様子を伺うと、凛の背中がどこか強張っているように見えた。嫌な予感に背中を押されるようにして、泉翔は彼女の元へと足を進めた。
数台あるレジの一つに、背の高い凛の姿を見つける。凛は店員と向き合っていたが、その表情には先ほどまでの笑顔がなく、何度も聞き返すように身を乗り出していた。
「……すみません、もう一度……」
店員の口元を凝視しながら、凛が困惑したように眉を寄せる。 周囲ではレジの打鍵音や他の客の話し声、会場BGMが重なり合い、彼女にとって必要な情報はノイズの中に埋もれてしまっているようだった。
泉翔は人混みをかき分け、低く、だが通る声で「……すみません」と言いながら、並んでいる客の間を割って凛の隣に立った。後ろからは「なんだよ、割り込みかよ」という苛立ちの混じった声が聞こえてくる。
「蓮見、どうした」
泉翔が横から声をかけると、凛は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、店員の言葉が掴みきれないもどかしさと、列を止めてしまっていることへの焦りが滲んでいる。
「川神……。遅くなってごめん、店員さんの言ってること、上手く聞き取れなくて……」
レジのトレイには、さっき厳選したマスコットと、追加で選んだらしい二つのキーホルダーが並んでいる。店員は困ったような顔で「ですから、こちらの二点をプレゼント用にラッピングしますか、と……」と同じセリフを繰り返した。
背後からの「まだかよ」「ちっ、早くしろよ……」という舌打ちを交えた野次は、いっそう凛を不安にさせる。隣で強張っている彼女の様子を感じ取った泉翔は、守るように一歩前へ出ると、店員の視線を自分の方へと引き寄せた。
泉翔は店員の言葉を凛に伝えるように、ゆっくりと、けれどはっきりと首を振って工程を代行した。 マスコットだけでなく、追加したキーホルダーもプレゼント用にするかどうかの細かな確認。 それらを泉翔が一つずつ整理して伝えると、凛は「あ、うん。お願い……」と、ようやくこわばっていた顔を緩めた。
無事に会計が終わり、丁寧に包まれた袋を受け取って凛の元へ戻る。 彼女は申し訳なさそうに視線を伏せていた。
凛の指先が所在なげに服の裾をいじっている。その元気のない様子に、泉翔は足を止めて顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「……買い物、上手くできなかったなぁ」
ぽつりと、自分自身を責めるような呟きが漏れた。さっきまであんなに楽しそうに『ぶーたれ』を厳選していた凛の面影はなく、ただ自分の不甲斐なさに肩を落としている。
凛にとっては、これが日常の延長線上にある。しかし世間は当然のように求め、自分たちの当たり前を押し付ける。そこから少しでも外れる者には容赦なく苛立ちをぶつける。さっきの心無い野次、そして店員の困惑した顔。聴覚のせいで望まぬ摩擦が生まれ、そのたびに幾度、どれほど自分が他の人と違うと思わせられてきたのか。それを突きつけられたようで、泉翔の胸の奥がひりひりと痛んだ。
「……気にするなよ。そういう時もある」
「……うん。そうだね」
短く返ってきた言葉に、まだ深く沈んだままの落ち込みを感じて、泉翔は凛から離れていた手を再び取った。
「……だから、少しは頼れって言っただろ」
その言葉に、凛が驚いたように顔を上げる。泉翔はあえて視線を合わさず、凛の手を引いてそのままイベント会場の出口へと歩き出した。
騒がしい人混みを抜け、少しずつ周囲の音が落ち着いていく。背後からついてくる凛の足取りが、次第にいつものリズムを取り戻していくのが伝わってきた。
そんな喧騒の終わり際、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな声が、泉翔の背中に届いた。
「……ありがとう」
その一言に、泉翔は繋いだ手にほんの少しだけ力を込めることで応えた。
会場の外へ出ると、駅直結の広場には心地よい風が吹き抜けていた。泉翔はまだどこか表情の硬い蓮見を気遣うように、歩調を緩めて声をかける。
「……そろそろお腹空かないか?」
「……あ。うん、そうだね」
「何がいい? 蓮見の食べたいものに合わせる」
泉翔が問いかけると、蓮見は少しだけ視線を泳がせながら、周囲の看板を眺め始めた。
「うーん……何がいいかな。ここ何でもあるから迷う」
困ったように笑う蓮見と並んで歩いていると、広場に面した一角に、少し高級感のあるハンバーガーショップが目に入った。店先にはジューシーな肉厚パティが挟まったランチメニューのポスターが飾られ、香ばしい匂いが漂っている。
「あそこなんてどうだ。美味そうだけど」
泉翔が指差すと、蓮見の瞳がぱっと明るくなった。
「ハンバーガー……! いいね、ナイスだよ川神」
先ほどまでの沈んだ様子が嘘のように、凛の足取りが軽くなる。
ハンバーガーショップの重厚な木の扉を開けると、カウベルが軽やかな音を立てた。 店内は、使い込まれた革のソファやヴィンテージ風のポスターが飾られた、どこか懐かしいアメリカンレトロな雰囲気に満ちている。
案内された窓際のボックス席に腰を下ろすと、凛はメニュー表を広げた。
「川神、見て。ハンバーガーの種類すごい。……これなんて、焼きリンゴとシナモンが入ってる。甘じょっぱいのかな?」
凛が指差した先には、フルーツを使った挑戦的なメニューが並んでいる。他にも、溢れんばかりのブルーチーズソースがかかったものや、厚切りのスモークベーコンが舌のように飛び出しているものなど、どれも個性が強そうな印象を与えるメニューだった。
「そうだな……これなんかパティが三枚も入ってる」
「確かに…すごそう」
泉翔が指したのは、店の看板メニューらしい肉厚なパティを大胆に三枚挟んだハンバーガーだった。積み上げられた肉の壁は、写真からもその凶悪なまでの重量感が伝わってくる。
「いや、これ一口で食えないだろ。でも……挑戦してみたい感もある……」
「私は……大人しくアボカドバーガーにするよ。川神は?」
凛が選んだのは、比較的ヘルシーで野菜が多めなアボカドハンバーガーセットだった。
「いや、これいってみる」
泉翔が選んだのは、先程看板メニューとしてあった三枚パティを挟んだ凶悪なハンバーガーだった。
「食べられなくても知らないよ」
「その時は、蓮見も食べろ」
「え……それは絶対にいやだ」
凛は眉間に深くしわを寄せ、嫌そうな顔で即答した。そんな彼女の反応が面白くて、泉翔は思わず小さく笑う。呼び出しベルを押し、手際よく注文を済ませる。 店員が去り、テーブルに冷たいドリンクが運ばれてくると、店内の賑やかなBGMが二人の間の空気を心地よく埋めてくれた。
泉翔は、ふとさっき凛が買い物をしていたものを思い出す。
「そういえば、さっきキーホルダー二個買ってたよな。誰かにあげるのか?」
「……あ、そうなの」
「中学の友達とかにか?」
「う、うん」
図星を突かれた、というのとは少し違う、何かが喉に詰まったような短い返辞。凛の視線が泳ぎ、持っていたストローの袋を無意識に指先で弄りはじめる。
「そういえば中々連絡ができてなかったとか言ってたもんな」
「これきっかけに連絡してみようかなって思って買った感じ」
「お? いいんじゃないか。きっかけになるといいな」
「うん、ありがとう」
凛は少し照れくさそうに笑いながら、大切そうにショップの袋を椅子の隣に置き直した。その横顔には、さっきまでの不甲斐なさに沈んでいた影はなく、どこか言いたいことを飲み込んだような、不自然なほど静かな微苦笑が浮かんでいる。
「……?」
泉翔はその僅かなぎこちなさに、小さく首を傾げた。納得したような返事とは裏腹に、彼女の視線が手元の袋に何度も吸い寄せられているのが気にかかる。何か言いかけたような唇の動きに声をかけようとしたその時、「お待たせいたしました」という店員の威勢のいい声とともに、テーブルに料理が運ばれてきた。
「うわ、すごい……!」
凛が目を丸くして声を上げる。彼女の前に置かれたアボカドバーガーも十分なボリュームだが、泉翔の前に置かれたそれは、もはや「食べ物」というより「肉の塔」だった。三枚のパティから溢れ出した肉汁がチェダーチーズと混ざり合い、暴力的なまでの香りを放っている。
「……おい、これ写真よりデカくないか?」
「無理だよ川神、それどうやって食べるの」
泉翔は一度、自分の顎の可動域を確認するように口を開けてみたが、どう考えても一段分すら収まりそうにない。彼は苦笑しながら、手付かずのバーガーを凛の方へと少し寄せた。
「……蓮見、これ半分……いや、一段食べるか?」
「えっ、絶対にいや。私は自分のを平和に食べるから、川神がんばって」
凛は全力で首を横に振り、楽しそうに笑いながら自分のアボカドバーガーを手に取った。先ほどまでのどこか影のある空気は、この巨大な「肉の壁」を前にして、すっかり賑やかなものへと塗り替えられていた。
泉翔は意を決してハンバーガーを掴み、一気に口を大きく開けてみた。だが、どう角度を変えても顎の可動域を超えている。無理に押し込もうとする情けない顔を見て、凛が堪えきれずに吹き出した。
観念した泉翔は、テーブルの隅に置かれていたナイフとフォークを手に取る。
「川神……それ、使えるの?」
「使えると思う……笑うな」
凛のニヤニヤとした視線を無視し、泉翔は真剣な表情で巨大なパティの塊にナイフを立てた。だが、慣れない手つきで力加減が上手くいかず、フォークを持つ手もどこかぎこちない。その不器用な格闘ぶりに、凛の笑い声はさらに大きくなった。
格闘すること数分、ようやく切り分けることには成功したものの、目の前に広がっていたのは原型を留めない肉とバンズの残骸だった。
「……これ、真ん中に串を刺したまま切れば、崩れなかったと思うよ」
「それを早く言えよ」
泉翔が恨めしそうに視線を向けると、凛は「ごめんごめん」と言いながらも、今日一番の明るい笑顔を見せた。沈んでいた彼女の表情が嘘のように晴れたのを見て、泉翔の胸に温かいものが広がる。
「……これ、食うか?」
泉翔は、一番肉厚なパティの一部を凛の方へ差し出した。凛は「え、いいよ」と最初は遠慮する素振りを見せたが、泉翔が再度促すと、小さく口を開けて受け取った。
「……ん、肉汁すごい。おいしい」
見た目はもはやハンバーガーではなかったが、味のポテンシャルは一級品だった。結局、あれほど拒んでいた凛も、その後は泉翔が切り分けるたびに「あ、そこも食べたい」と追加で手を伸ばし始めた。
「食べないって言ってなかったか?」
「これは別腹なの。私流の理論だと、川神が切り分けた時点でこれはもうシェア用に変わったから」
「なんだよその理論」
屁理屈を並べる凛に、泉翔は呆れながらも笑いを返した。テーブルを囲む二人の間に、柔らかな笑い声が絶え間なく響いていた。
結局、凛は食べないと言い張っていたにもかかわらず、追加で二口ほどパティを口に運んだ。そのたびに「おいしい」と零しては、今日一番の明るい笑顔を見せていた。
食事を終え、トレイを片付けて店を出る。エスカレーターを下りながら、泉翔は隣を歩く凛に問いかけた。
「次、どこ行く?」
「うーん、少しこのあたり歩いてもいい?」
「わかった」
泉翔は歩き出しながら、「んっ」と何気なく彼女の方へ手を差し出した。深い意味はなく、人混みで逸れないようにという、ごく自然な動作のつもりだった。だが、凛はその手をすぐには握ろうとしない。不審に思った泉翔が足を止め、凛の顔を覗き込む。
「どうした?」
「……なんでもない」
凛はふいっと顔を背けたまま、無言で差し出された手を握った。少し強張ったようなその感触に、泉翔は不思議そうな表情を浮かべたが、耳の付け根まで赤く染めている彼女の羞恥には気づかなかった。
直後、凛の手から突如として強い力が加わる。不意を突かれた泉翔は思わず声を上げた。
「いてて……」
握りつぶされそうな勢いにたじろぐと、すぐに力は弱まった。泉翔はしびれる手のひらをさすりながら、彼女を問い詰める。
「なんだよ、急に」
「……別に。バカ」
凛は素っ気なく、吐き捨てるように呟いた。だがその頬は、先ほどよりもさらに赤みを増している。彼女は逃げるように足早に歩き出した。泉翔は「なんだよそれ」と苦笑しながらも、繋がれた手から伝わる彼女の微かな熱を、不思議な感覚で受け止めていた。
ふと、ショーウィンドウに映る自分たちの姿を眺めていた凛が、視線を落としたまま小さく口を開いた。
「ねぇ……私たちって、周りからどういう関係に見えるのかな?」
唐突な問いに、泉翔は一瞬言葉を詰まらせた。改めて隣を歩く彼女との距離を意識し、少しの沈黙のあと、努めて冷静に答える。
「……まあ、普通にカップルとかに見えるんじゃないか?」
「……やっぱり、そうだよね。そう思うと、なんだか急に恥ずかしくなってきた」
「それは、自滅」
「う、うっさい…」
凛は繋いでいない方の手で自分の頬を抑え、熱を逃がすように視線を泳がせた。泉翔もまた、彼女の素直な反応に胸の鼓動が速まるのを感じ、誤魔化すように空いている方の手で後頭部を掻いた。二人はそれ以上言葉を重ねることはなかったが、握りしめた手の力は、先ほどよりも少しだけ強くなっていた。
だが、そんな甘い沈黙を紛らわすように、凛は通路沿いの店を通るたびに熱心に足を止め始めた。最新のファッションや化粧品に目を輝かせては、泉翔に「これ知ってる?」と次々に話題を振ってくる。コートの上の凛々しさとは別の、年相応の女の子らしさを全開にする彼女に、泉翔は圧倒されつつも、その無邪気な様子に救われる思いだった。
アクセサリーショップの前では、泉翔のピアスに触れつつ「補聴器があるから、なかなか合うのがない」と少し寂しげに笑う一幕もあった。凛が本当はチェーンのついた華やかなものに憧れていること、それでも実用的なスタッドタイプを選ばざるを得ないこと。恥ずかしさを誤魔化すようなお喋りの中で、彼女の小さくも切実な好みを、泉翔は一つずつ丁寧に拾い上げていった。
やがてモールの喧騒を抜けると、いつの間にか川沿いまで歩いてきていた。駅からはだいぶ離れ、辺りには穏やかな風が吹き抜けている。
川沿いには、かつてはなかった新しい公園やテニスコート、さらには小さな野球場やバスケットコートまで設備されていた。休日のせいか、家族連れや地元のクラブチームの子供たちが熱心に練習する姿が遠くに見える。かつての自分たちの姿を重ねるようなその光景に、泉翔はどこか懐かしく、それでいて少しだけ胸の奥が騒ぐのを感じた。
「こういうところ、作られたんだな」
「そうだね……私もこんなに変わってるなんて思ってなかった」
凛は、フェンスの向こうでボールを追う子供たちを眩しそうに見つめている。その瞳には、自分の原点である場所を慈しむような、温かな色が宿っていた。
「私も小さいときはクラブチームに入って、あんな風に毎日練習してたな。川神は?」
「俺も似たようなもんだよ。小学校のミニバスに入って、そこで明と会ってからはずっとバスケ漬けだったな」
ふと思い出した記憶の欠片に、泉翔の目元がわずかに緩む。その柔らかな変化を見逃さず、凛が「明って?」と首を傾げた。
「ああ……今、うちの男子バスケ部のレギュラーで頑張ってるやつだよ」
「じゃあ、その人と一緒に同じ高校に入学して、これまでずっと頑張ってきたんだ。いいな…青春じゃん」
凛は屈託のない笑顔を向けた。だが、その無邪気な一言が、泉翔の胸の奥に眠っていた澱を鋭く突き刺す。彼の表情は一瞬にして凍りつき、冗談を返す余裕さえ奪われたように、強張った緊張感に支配された。
泉翔のあまりの変貌ぶりに、凛の笑みが次第に引いていく。流れていた穏やかな空気が、一気に重く、冷たいものへと塗り替えられていく。
「……川神?」
「……そうだな」
泉翔の声は、喉の奥にこびりついた何かを無理やり絞り出したような、低く湿った響きを帯びていた。凛はそこで初めて、自分が無意識に、彼が最も守ろうとしていた聖域に土足で踏み込んでしまったことを悟った。
だが、ここで目を逸らしてはいけない。凛はそう直感したのか、震える指先を隠すように握りこみ、真っ直ぐに核心へ踏み込んだ。
「川神……バスケ、なんで辞めたの?」
その問いが投げかけられた瞬間、泉翔の足がぴたりと止まった。不意に繋いでいた手の力が抜け、二人の間にわずかな距離が生まれる。数歩先で立ち止まった凛がゆっくりと振り返ると、泉翔は視線を地面に落としたまま、石像のように動かずにいた。
流れていた川のせせらぎが、鼓膜を打つほど大きく聞こえる。永遠にも思える沈黙の後、泉翔は重い口を開いた。
「……俺が入部した時ってさ、上下関係が異常に厳しかったんだ。そのギスギスした空気が仇となったのかはわからないけど、一昨年の大会中に暴行事件があったみたいでさ。その年の大会は無効試合になって、一時的に出場停止処分を受けてたらしい」
吐き出された言葉は、どこか自分事ではないような、ひどく乾いた響きを帯びていた。他人の噂話でもするように装わなければ、自分の心が壊れてしまいそうな危うさがそこにはあった。
「らしい……?」
「詳しくは知らないんだ。部内でもその話をするのはタブーになってたから。……腫れ物に触れるみたいに、みんなが話をしなかった」
「そうなんだ……」
「去年、三年生だけのチームで大会に出る予定だったんだけど、俺が一年生のくせにレギュラー候補になっちゃってさ」
「それって、すごいことじゃない」
「うーん、まあ補欠だったよ。それでも、自分の努力を認めてもらえたんだと思って、その時は素直に嬉しかった」
そこまで語り、泉翔は一度言葉を切った。当時の高揚感を思い出したのか、わずかに動いた喉仏が、直後に苦い沈黙を飲み込む。
「だけど、顧問が俺をレギュラーのポイントガードとして使う方針にしたら、当時の三年生は気に入らなかったみたいで。連携も指揮もうまくいかなくなった。……昨日までパスが通っていた場所に、誰も走ってくれなくなった」
淡々と、けれど確実に熱を失っていく彼の声に、凛は息を呑んだ。ただ一点、地面を見つめ続ける泉翔の肩が、微かに震えている。
「どんどん追い込まれていって……結局、大会で大きなミスをして負けた」
「そう、だったんだ……」
「ミスの原因はいろいろ重なってたんだけど、当時は全部俺が悪いみたいな空気になってさ。バスケ部に居づらくなって辞めた。……簡単に言えば、そんな感じだよ」
語り終えた泉翔は、ふう、と深く長い息を吐き出した。それは、長年胸の奥に溜まっていた澱を、無理やり絞り出したかのようだった。凛は胸が締め付けられるような思いで彼を見つめた。自分の問いが、彼の古傷を抉ってしまったことを悔やむように。
「……辛いね。嫌なこと思い出させてごめん」
「いや、いいよ。いつか聞かれたら話そうと思ってたから。ちょうどよかった」
泉翔は鼻の頭を指で掻き、無理に作ったような苦笑いを浮かべた。その表情が、凛には何よりも痛々しく映っていた。
泉翔はそのまま凛の横を通り過ぎるようにして、ゆっくりとバスケットコートの方へ歩き出した。重い空気を振り払うような、それでいて何かに引き寄せられるような足取りに、凛も無言でその後を追う。
やがて、一番近くのコートの前に辿り着いた。フェンス越しに、歓声を上げながらボールを追いかける子供たちを眺め、泉翔がぽつりと零した。
「あんな風に純粋に頑張れた時があったけど……今は悩んで挫折して、こうなるとは想像してなかった」
その声には、自分自身への失望と、二度と戻れない時間への切なさが混じっていた。凛もまた、泉翔の隣に並び、夕暮れに伸びる子供たちの弾む影を静かに見つめた。
「私もそうだよ……」
凛の呟きは、風にさらわれてしまいそうなほど微かだった。けれど、その響きには泉翔と同じ、あるいはそれ以上に深い痛みが刻まれているように感じられた。
「私も何も考えず、バスケットできてたらと思う時期あったけど……。常に自分の母親と比べられ、世間から注目され、楽しかったバスケが枷のように感じるのが常だった」
吐き出された言葉は重く、凛が背負ってきた看板の大きさを物語っていた。泉翔は、隣で俯く彼女の横顔に、自分とはまた違う種類の孤独を見た気がした。
「そうか……」
「……うん」
二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに目の前の光景を見つめた。暫く子供たちのバスケを眺めていると、指導者の鋭いホイッスルが響き、練習の終わりを告げた。散り散りに帰路へつく子供たち。だが、その中で一人だけコートに残り、練習を続ける女の子がいた。指導者の一人が長く残らないようにと声をかけると、彼女は小さく頷き、再びボールに向き直る。
女の子はドリブルからシュートへと動作を繰り返すが、自分のイメージ通りにいかないのか、何度も不満そうな表情を浮かべては首を振っている。凛はその様子をじっと見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「昔の私と一緒……」
「そうなのか?」
「私は本当、バスケ下手だったよ」
その言葉を、泉翔は信じられなかった。日本を代表する選手の娘として生まれ、あんなにも美しいシュートを打つ彼女が「下手」だったなんて、到底想像もつかない。かつての凛も、今の目の前の少女のように、届かない理想に一人もがいていたのだろうか。
「がんばれー……」
凛が小さく、祈るように応援の声をこぼした。その直後、女の子が突いたドリブルが自身の足に当たり、ボールは不規則な回転を上げながら泉翔と凛の方へと転がってきた。
凛はフェンスの扉を静かに開け、コートの中へと足を踏み入れる。そして、足元まで届いたボールをそっと拾い上げた。
「はい、どうぞ」
凛は柔らかい微笑みを浮かべ、拾い上げたボールを差し出した。女の子は少し驚いたように、けれど丁寧にそれを受け取る。
「あ、ありがとう」
「上手くシュートできないの?」
凛が屈んで目線を合わせ、優しく問いかける。その眼差しは、先ほどまでの重い過去を語っていた時とは違い、どこか澄んでいた。
「うん」
「レイアップが上手くできないのかな?」
「うん、歩幅が合わないの……」
女の子が俯き加減に答える。凛は納得したように一度頷くと、太陽のような明るい顔で提案した。
「お姉ちゃんが教えてあげようか?」
「ほんとう?」
その一言で、女の子の顔がパッと輝いた。
「ボール借りるね。お姉ちゃんがシュートするから見てて」
凛はボールを預かると、その場でドリブルを始めた。
「うん!」
勢いよく頷く女の子の横で、凛の空気が一変する。それまでコートに響いていた単調なドリブルのリズムが、彼女の手に渡った瞬間から、命を吹き込まれたかのように速度を増していく。相変わらず無駄のない、流麗なフォーム。
左右にボールを切り替えるフロントチェンジ。バッシュではない私服のブーツであるにもかかわらず、その緩急は以前泉翔が試合で見た動きと寸分違わぬ鋭さを持っていた。
ゴールまで勢い良く地面を蹴る。ペイントエリアに入ると左足で再び地面を強く蹴り、凛の身体が宙に浮く。まるで重力から解き放たれたかのような浮遊感。高く掲げられた腕から放たれたボールは、バックボードに優しく触れると、吸い込まれるようにネットの中へと消えていった。
「どう? ちゃんと見てた?」
着地した凛が息を弾ませて振り返る。女の子は興奮を隠せない様子で、小走りに彼女へ駆け寄った。
「すごい! どうすればお姉ちゃんみたいなシュートができるの?」
「そうだね...急にはできないから、まず教えること一個ずつクリアしていこうか」
「うん!」
女の子は期待に満ちた表情で勢いよく頷いた。凛はその熱意を優しく受け止めるように微笑み、まずはボールを持たずに自分の隣へ並ぶよう促した。
「歩幅が合わないのは、教えられた歩幅を守って跳んでるからだよ。だから、自分に合った歩幅で跳ぼうか。まずは、ゴールの一歩手前から『一、二』で跳ぶ練習をしよう。右、左、の順番だよ」
凛はゆっくりとした動作で、一歩ずつ地面を踏みしめて見せる。女の子は凛の足元を食い入るように見つめながら、そのリズムを真似して「右、左」と口ずさみながら跳ねた。
「そうそう、上手! じゃあ次は、ボールを持ってるつもりで右手を高く上げてごらん。リンゴを木の実から取るみたいに、そっと置く感じ」
凛の指導は、専門的な用語を使わず、子供の目線に降り立ったものだった。何度もステップを繰り返し、ようやく形になってくると、凛は女の子にボールを渡した。
「じゃあ、一回やってみようか。入らなくても大丈夫」
女の子は緊張した面持ちで走り出し、教わった通りに「右、左」とステップを刻む。高く跳び上がった小さな体から放たれたボールは、リングに嫌われたものの、先ほどまでとは見違えるほどスムーズな動きだった。
「惜しい! 今のステップ、完璧だったよ」
凛がパチパチと拍手を送ると、女の子は顔を赤らめながらも、達成感に満ちた笑顔を見せた。フェンス越しにその光景を眺めていた泉翔は、凛の教え方の巧みさと、その表情に宿る慈愛に目を奪われていた。
「川神、ボール取って!」
不意に凛から声をかけられ、泉翔は我に返った。足元へ転がってきたボールを見つめた瞬間、初めて公園で彼女に出会った時の記憶がフラッシュバックする。あの頃の凛は、何かに追い詰められたような、悲痛なほどに真剣な表情をしていた。けれど今は、沈む夕日を背に、心からの明るい笑顔を浮かべている。
泉翔は導かれるようにフェンスの扉を開け、コートの中へと足を踏み入れた。落ちていたボールを拾い上げると、無意識に指先が動く。出会った頃とは違う、軽やかなリズムでボールハンドリングを披露しながら凛たちの元へ近づき、「はい」と女の子にボールを差し出した。
「お兄ちゃん! もう一回、今のやって!」
女の子に目を輝かせてせがまれ、泉翔は思わずたじろいだ。その様子を見て、凛が楽しそうにくすくすと肩を揺らす。
「なに、子供苦手?」
「な、違う……」
「お兄ちゃん! もう一回今のやって!」
再度身を乗り出してくる女の子の勢いに押され、泉翔は観念したように息を吐いた。手の中のボールをふわりと空中に投げ上げると、手の甲や肘を巧みに使い、まるでボールに意思があるかのように空中ではじませ、コントロールしてみせる。仕上げに指先の一点でボールを乗せると、そのまま高速で回転させた。
「すごーい!」
「川神って、本当にハンドリング上手だよね」
「……これが取り柄なもんで」
照れ隠しに鼻の頭を掻きながら、泉翔は女の子にボールを返した。女の子は大事そうにボールを抱え、二人を交互に見上げながら満面の笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、すごいね! プロ選手みたい!」
無邪気な賞賛を浴び、二人は顔を見合わせて照れくさそうに笑った。その空気は、先ほどまでの重苦しさが嘘のように温かく、柔らかなものに変わっていた。
「プロだってよ、蓮見選手」
「プロらしいですね、川神選手」
冗談めかして呼び合いながら、二人は自然と肩の力が抜けていくのを感じていた。
「最後、もう少し練習しようか」
凛が促すと、女の子は教えられたステップを意識しながら練習を再開した。何度も繰り返すうちに、迷いのあった足運びは劇的に改善され、やがて放たれたボールは綺麗な放物線を描いてリングを通過するようになる。
そのたびに凛と女の子はハイタッチを交わし、「すごーい! 上手!」という凛の弾んだ声がコートに響いた。誰かを励ますその声は、同時に凛自身の心をも解きほぐしているように泉翔には見えた。
「唯奈! そろそろ行くよー!」
不意にコートの脇から、柔らかな、けれどどこか急かすような女性の声が響いた。見れば、女の子——唯奈を迎えにきた母親らしき女性が、申し訳なさそうにこちらへ手を振っている。
「あ、ママ! 見てて、お姉ちゃんに教えてもらったんだよ!」
唯奈は教えてもらったレイアップを披露する。ドリブルから助走をつけ綺麗に小さく飛び、ボールを空中に放る。放たれたボールは、一度はリングに嫌われるものの最後空中へ浮かび、リングを通る。
「上手になったね! 唯奈」
「うん! あのお姉ちゃんに教えてもらったの!」
ボールを拾うと、唯奈が弾んだ声で母親に駆け寄る。母親は驚いたように凛と泉翔を見て、それから丁寧に頭を下げた。
「すみません、うちの子が無理を言って……。教えてくださって、本当にありがとうございます」
「いえ、そんな……。私も、楽しかったですから」
凛は少し照れくさそうに、けれど先ほどまでよりもずっと晴れやかな表情で答えた。母親は微笑んで、唯奈の手を引く。
「ほら、お姉ちゃんにお礼言わなきゃ」
「お姉ちゃん、ありがとう! またここで会えるかな?」
「うん……。たぶん、ね」
凛の少し曖昧な返事にも、唯奈は満面の笑みで応えた。
「ほんと!?… あたしね、チームの中で小さいほうなの……。みんな試合に出てるんだけど、なかなか選ばれなくて……」
唯奈が視線を落とす。その小さな肩に、かつての自分を重ねたのだろう。凛は優しく、けれど諭すような強さを持って言葉を継いだ。
「……大丈夫。背が小さくたって、関係ないよ。私も最初背が小さくてバスケット下手だったよ。でも諦めずにがんばろーって思ってずっと練習したから…。唯奈ちゃんも諦めずにがんばって!」
「お姉ちゃん……」
凛が真っ直ぐに見つめて言い切ると、唯奈は凛の言葉を反芻するように一度頷き、パッと顔を輝かせてその手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、約束だよ!あたしもがんばるから、次は試合でお姉ちゃんのカッコいいところたくさん見せてね!」
「え……?」
「お姉ちゃんのシュート、世界で一番かっこいいもん! 絶対だよ!」
「本当? ……でも困ったなぁ」
「どうして?」
「お姉ちゃんね……バスケット辞めちゃったから」
凛は唇を噛みしめる。
「なんで?」
「体がよくなくてね……長い時間バスケットできないんだ」
「そうなんだ……体がいつ治るの?」
「うーん……どうかな。私にも分かんないんだよね」
答えに詰まり、ふっと表情を曇らせた凛の様子を見て、母親が慌てて割って入る。
「唯奈……お姉ちゃん困ってるから。それくらいにね……。すみません、うちの子が……」
「い、いえ。お気になさらず……」
「えー! でも、お姉ちゃんのバスケットしている姿もっと見たいよ! 本当にかっこいいの!」
「唯奈……無理言わないの」
「……じゃあ、お姉ちゃんもまたがんばってみようかな!」
「本当に! 絶対試合するとき呼んでね! 絶対だよ!」
「わかった、約束ね」
二人は小指を絡め、静かな夜のコートで指切りを交わした。最後に凜は唯奈の母と名前と連絡先を交換して、唯奈は何度も振り返り、その都度千切れんばかりに手を振って去っていった。凛もまた、その小さな背中が見えなくなるまで、名残惜しそうに笑顔で手を振り返し続けていた。
「楽しかった……」
ぽつりと、凛が小さく呟く。その声は、重いプレッシャーの中で戦っていた頃のそれとは、まるで違っていた。ただ純粋にボールと戯れ、笑顔を交わす。そんな当たり前の喜びに、凛の心は今、かつてないほどの充実感で満たされていた。
「うん、そうだな。……上手くなろうって、あんな風に必死になってた時期があったな」
泉翔が感慨深げに隣で言うと、凛は前を向いたまま小さく笑った。
「それはみんなそうだよ」
「確かに……。それよりいいのか? 唯奈ちゃんとバスケット続けるような約束しただろう」
「うーん……。どうしようね」
「……おいー」
「でもいいの。後のことは後から考えればいい……。今あの子からもらった勇気を大切にしたい」
「そうか、ならいいんじゃないか。蓮見がそう思っているなら」
「うん……。他人から背中を押されることはないと思ってたけど、唯奈ちゃんの頑張ってる姿を見たら、もう一度頑張ろうって思えた」
そう言って笑う凛の表情に、泉翔は思わず見惚れた。
「そうだな、また頑張ろう……。練習ならまた付き合うよ」
「本当? それは感謝」
「そういえば、さっき話してたけど。蓮見がバスケ下手だったっていうのは本当にびっくりした。あんなに綺麗なシュートを打つのに」
「そう? 最初から上手い人なんていないでしょ。自分がどれだけ努力するかと、あとは自分にある才能をどう活かすかに気づくだけじゃない?」
凛は少し誇らしげに、けれど淡々と答えた。その言葉の裏には、彼女が積み上げてきた気が遠くなるような時間の重みが滲んでいた。
凛は夕闇が迫るコートを見渡し、自らの内面を見つめるように静かに続けた。
「私は、自分にある才能をどう活かすかを、他の人より早い段階で気づいてそこを伸ばしただけだよ」
「……なんか、蓮見に言われると説得力あるな」
「なんだそれ」
凛は可笑しそうに笑い、二人は自然と並んで歩き出してコートを出る。夕暮れの風が、やり切った後の心地よい疲労感を運んできた。
「私は、お母さんからバスケについて何も教えてもらってないよ」
並んで歩き出した凛が、ふいに前を見据えたまま告げた。その言葉は、世間が勝手に作り上げた「天才親子」という幻想を、静かに、けれど明確に切り裂くような響きを持っていた。
「そうなのか? てっきり、親子二人三脚でやってるのかと思ってたけど……」
「ううん、全然そんなことない。練習に付き合ってもらったことはあるけど、特別にコーチをしてもらったり、技術的なことを手取り足取り教えてもらったことは一度もないよ」
凛は、遠い日の昔を思い出すように目を細めた。そこにあるのは、英才教育という名の特訓ではなく、もっと別の、根源的な教えだった。
「唯一教えられたのは『常に自分の頭で考えなさい』。そして『自分が思うがままにイメージして、それを反復しなさい』。それだけだったの」
「……考え深い教えだな、それ」
泉翔は、その教えの重みを自分の中で咀嚼するように呟いた。型にはめるのではなく、本質を掴み取るための「思考」を委ねる。それは、教える側にとっても、教わる側にとっても、気の遠くなるような忍耐と向き合い続ける日々の連続だったはず。
「そうだね。当時はもっと具体的に教えてよって思ったこともあったけど……でも、その教えがあったから、今の私がいるんだって思ってるよ」
凛は少し照れくさそうに話すが、けれどどこか誇らしげでかつての自分と同じように小さかった、先ほどの女の子の背中を追っているようだった。
「……身体も小さかったしね。ミニバスの頃なんて、140cmもなかったんだよ?」
「140cm? それはまた、ずいぶんと……」
「でしょ? 結果として中学でかなり伸びたんだけどね」
「それはすごいな。今、何cmなんだ?」
「今? 174cmぐらいだったはず……」
「当時と比べてかなり伸びたな」
泉翔が思わず笑うと、凛もつられて声を上げて笑った。今の彼女のすらりとした長身からは、そんな小さな時代があったとは到底想像がつかなかった。
「そそ、伸びすぎて成長痛もひどかったんだから。……だけど、今はこれくらいよ」
凛は可笑しそうに目を細めると、いたずらっ子のような表情で泉翔の頭の上に手を伸ばした。
「あれ? なんか届きそう……。川神、もしかして縮んだ?」
「縮まねーよ……。靴だろ、靴!」
泉翔は、自分の頭上を彷徨う彼女の手を、照れ隠しに軽く振り払った。わずかに触れた指先から、凛の確かな体温が伝わってくる。触れられた場所が熱を帯び、ドクンと鼓動が早まるのを感じ、泉翔は慌てて視線を前方に逸らした。
「確かに……。私、今は靴の分で身長ブースト掛かってるかも。背伸びしたら、川神を超えそうじゃない?」
凛はそう言うと、ふわりと背筋を伸ばし、つま先立ちになった。すらりと伸びた彼女の目線が一段階上がり、一瞬だけ泉翔の視線を追い越そうとする。
「いや、まだ抜けないね」
意地を張って、泉翔もすぐさまつま先立ちで応戦する。ほんの数センチの意地を懸けた競り合いに、二人の顔が不自然なほど近くで重なり合った。
「なっ、川神!」
泉翔の大人げない抵抗に、凛は顔を赤らめながら、彼の胸元を少しだけこづくようにして押し返した。不意に触れた手のひらの熱が、薄いシャツ越しに泉翔の胸に伝わる。
「……あぶね」
よろけた泉翔が着地すると、凛もまた地面に踵を下ろした。お互いに顔を赤くし、凛は弾かれるように背を向けた。沈み始めた夕日のせいだけではない熱が、二人の間に漂う。
「……帰ろ」
背を向けたまま、凛が逃げるように歩き始める。泉翔は一拍置いて、その少し早まった背中を追うように歩き出した。
気恥ずかしい雰囲気のまま、お互い少し距離をあけつつも、その絶妙な間隔を維持して歩き続ける。遠のく喧騒を耳にしながら、凛は今何を考えているのだろうと泉翔は思った。先ほど触れた手のひらの熱がまだ残っているようで、意識せずにはいられなかった。
だいぶショッピングモール近くまで歩いてくると、先ほどの子ども向けのバスケットコートとは別に、大きな大人向けのコートが見えてきた。そこには、照明に照らされながらプレイする多くの人だかりができていた。
「蓮見!」
「どうしたの?」
「あれ」
泉翔は、人が群がっているコートを指さした。
「なんだろうね、行ってみる?」
「……そうだな。少し寄ってもいいか」
「うん」
二人がフェンス越しに覗き込んだ光景は、先ほどまでの穏やかな公園の空気とは一線を画していた。激しく響くバッシュの摩擦音と、荒い息遣い。コートでは6人の選手による白熱した「3on3」が繰り広げられていた。試合はもう大詰めで、ゴールのアナウンスが鳴る度に観客は熱狂していた。
試合内容は一方的で、特に金髪で長髪の選手がいるチームが圧倒していた。
「すごいな……。あの金髪の男の人。ドリブルとキレが半端ない」
「えっ? 川神……。あの子は女の子だよ」
「凄いキレのプレイをしてるけど、背格好は女の子だよ。それに、ほら」
凛は指をさした。そこには『ストリートバスケ 3on3大会』の看板があり、ミックス形式と書かれていた。
「ミックス形式なら、最低一人は女の子が入ってるから。相手チームにもいるし、あの子も女の子だよ」
「……よく見てなくて、すみません」
「そうだね……」
凛は笑いを堪えながら、再び試合を見る。
金髪の子にボールが渡ると、観客の熱狂は一段と高まった。軽く華麗なステップで大柄な男性を抜き去り、鮮やかなレイアップシュートを決めていく。性別の差を感じさせないほどタイトなディフェンスと、一瞬の隙を突く鋭いドライブ。ミックスならではの、体格差を技術と連携で補うハイレベルな攻防が、観客の視線を釘付けにしていた。
「……あの子のプレイ、どこか蓮見に似てるな」
隣で呟いた泉翔の声に、凛は言葉を返さなかった。ただ、フェンスを掴む指先に力がこもり、その瞳は吸い寄せられるように金髪の少女を追い続けている。
それは単なる観戦ではなく、自身の動きを確認し、かつての自分自身の姿を必死に追っているような眼差しだった。
試合終了間際、金髪の少女がトップでボールをキープする。一瞬の静寂の後、彼女は再び爆発的な加速を見せた。翻弄されるディフェンスを嘲笑うかのように、最後は空中で体をひねり、ブロックをかわしてゴールへとボールを沈める。
直後、試合終了を告げる無機質なホイッスルが、郊外の広い空に低く鳴り響いた。遮る屋根のない野外コートでは、その音はどこまでも遠くへ吸い込まれていく。圧倒的な点差と、それ以上に圧倒的な「個」の力を見せつけられた観客たちは、一瞬の静寂の後、爆発するような歓声に包まれた。
沸き立つ観客の声の中で、金髪の少女はチームメイトと軽快にハイタッチを交わした。その直後、ふとした拍子に少女と凛の視線が真っ向からぶつかり合う。
数秒の静寂。何かを確かめ合うような視線の交差の後、金髪の少女はチームメイトに声をかけられ、促されるようにベンチの奥へと姿を消した。
「……知り合いか?」
「ううん……全然知らない」
凛は不思議そうに首を振った。自分と似たプレイスタイルを持つ見知らぬ少女。その眩しすぎる残像に、今はただ思考を奪われていた。
勝利した金髪の少女のチームがコートを去ると熱狂の余韻を残したまま、フェンスの外を囲んでいた観客たちが散り散りになり始めた。
「……行こうか」
泉翔が声をかけると、凛は小さく頷き、出口の方へとゆっくり歩き出した。少しずつ夜の気配が混じり始めた風が、今の二人にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
コートの敷地を抜けようとした、その時だった。不意に、聞き覚えのある声が二人を呼び止めた。
「あれ? お二人さん、ここで何してんの?」
「と、斗希……っ!」
背後から現れた意外な人物に、二人は同時に驚きの声を上げた。
「なんでここにいるの?」
「なんでって……ストリートバスケの大会を見に来たんだけど。俺から言わせれば、なんでお二人さんが一緒にいるの?」
斗希は二人を交互に見つめ、沈黙する彼らの様子を観察するようにニヤついた。
「……デート?」
「な、ちがっ!」
声を揃えて否定したものの、そのシンクロ具合が逆効果だった。斗希は「待ってました」と言わんばかりに、意地の悪い笑みをさらに深くした。
「否定のタイミングまで一緒かよ。で、本当のところはどうなわけ?」
「……今日、ここでイベントがあるって聞いたから見に来ただけ。ね、川神」
凛が同意を求めるように視線を送ると、泉翔も不自然なほど力強く頷いた。しかし、二人の視線は泳ぎ、どことなく落ち着きがない。
「へぇ、イベントかぁ。わざわざ二人で……。それ、普通にデートじゃん」
泉翔は言い返そうとして口を噤んだ。これ以上何を言っても墓穴を掘る気がしたからだ。凛もまた、バッグのストラップをぎゅっと握りしめ、視線を足元に落としてしまう。
図星を突かれたわけではない——はずなのに。斗希に言葉にされた途端、先ほどまでの「ただ並んで歩いていた時間」が急に特別な意味を持ち始めたようで、二人は互いに顔を合わせることもできなくなった。
「……それより、さっきの金髪の子」
いたたまれなくなった凛が、無理やり話題をコートの方へ向けた。
「あの子、どういうプレイヤーか知ってる? 私とプレイスタイルが似てて、気になった」
凛の問いに、斗希は「ん?……あー、たぶんだけど玲於那ちゃんだったかな」とすぐに真面目な顔をして、少女が消えていった方向へ目を向けた。
「れおな?」
「うん、確か何度かそう呼ばれてるの聞いたことある。さっき試合していたのが『EZ Grains』ってチームなんだけど。ここらへんだとかなり強くて有名で、ほとんどの小規模の大会は優勝するくらい。さっきも優勝してたし…その子はかなり有名人」
斗希の言葉に、凛はどこか上の空で「ふーん……そうなんだ」とだけ返した。
「なに? 気になるの?」
「いや別に……どっかで見たことあったかなって思っただけ。名前を聞いたら何か思い出すかなって思ったけど……何も」
歯切れ悪く答える凛の横顔を、泉翔は静かに見守る。
「いいの……ちょっと気になっただけだから。泉翔、帰ろう」
「いいのか?」
「……うん」
促す凛に頷き、歩き出そうとした二人を、斗希が鋭く引き留めた。
「ちょっと待って」
「……え? なに」
足を止めた凛に、斗希は少し気まずそうに視線を泳がせ、意を決したように切り出した。
「……凛ちゃんさ。ここで聞くことじゃないとは思うんだけど……退部するんだって?」
「っ……どうしてそれを。泉翔しか知らないはず……」
凛の瞳に鋭い光が宿る。
「姉貴が詰め寄ってきてさ、何か知らないかって。俺は知らないからそう答えたけど、必死だったよ、姉貴」
「あぁ……詩季先輩。そっか……ごめんね、迷惑かけちゃった」
申し訳なさに肩を落とす凛に、斗希は畳み掛けるように続けた。
「いや、それはいいんだけど。なんかさ……勿体なくね? 当事者じゃないから正直よくわからないけど、部活を辞めるほどのことじゃないだろって思ってる」
「それは、斗希には関係ない」
「そりゃ…そうだけどさ。なぁ…泉翔もそう思うだろ?」
「なんで俺に振るんだよ」
「実際どうなんだよ、泉翔は」
斗希からの真っ直ぐな問いに、泉翔は一度、黙って凛を見つめた。泉翔はゆっくりと話し始めた。
「俺は……そうだな。斗希の言う通り、話を聞いた時は半分は勿体ないと思った。でも、もう半分は蓮見の気持ちを優先したいと思ってた。だけど……」
泉翔は言葉を区切り、凛の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「さっき、あの子にバスケを教えてるのを見てて伝わってきたんだ。蓮見が、本当にバスケを好きなんだって。……それに、俺は一度完全に手放した身だけど、蓮見とバスケをしていて、俺ももう一度頑張りたいって気持ちが日に日に強くなってさ。……上手くは言えないけど、俺は、蓮見と一緒にこれからもバスケをしたいと思ってる」
「……なにそれ、どういうこと?」
「うーん…まぁつまりだ」
驚きに目を見開く凛。その動揺を飲み込むように、泉翔は斗希へ向き直った。
「斗希……あの時の誘いは、まだ有効か?」
「……泉翔、もしかして」
「あぁ。三人で、ストリートバスケットのチームを組まないか?」
「ええっ……」
引き気味の凛に対し、斗希は顔を輝かせた。
「いいね! それ!」
「どうせ部活を辞めるなら、新しいことを一から作る方がいいだろ」
いたずらっぽく笑う泉翔に、凛は顔を赤くして抗議する。
「もう! 強引すぎない!?」
「バスケットは続けるけど、バスケ部はやめるんだろう?」
「まぁ…そうだけど…」
「それに……唯奈ちゃんとの約束、どうするんだよ。このままじゃ、見せる試合すらないだろ?」
「はぁ……それ、今持ち出す?最悪なんだけど」
不機嫌そうに顔を背けた凛は、二人から逃げるように少し歩き出し、コートのフェンスを強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、凛の掌に現実を突きつける。凛の小さな背中が微かに震えていた。けれど、泉翔の言葉と、唯奈と交わした小指の温もりが、凛の足元を力強く支え直した。
「わかった……やるからには、半端な気持ちではやらないよ」
「……え、なんて?」
斗希が聞き返すと、凛は勢いよく振り返り、声を張り上げた。その瞳には、先ほどまでの迷いを焼き尽くすような、鮮烈な闘志が宿っていた。
「直近で大会あるんだよね!?」
「ん?そうだけど…」と斗希が凛に圧倒されながら答える。
「やるからには、優勝する! その大会で!」
凛とした声が、夜のコートに響き渡る。予想外の宣言に、泉翔と斗希は呆気に取られ、思わず目を丸くして立ち尽くした。
「……あぁ、そうだな」
「いいね! 凛ちゃん、やる気満々じゃん!」
感嘆の声を漏らす二人の前で、凛は「ふん……」と小さく鼻を鳴らした。照れ隠しをするように、けれどその足取りは先ほどよりもずっと確かな重さを持って、再び前を向いて歩き出した。
泉翔と斗希も、顔を見合わせて笑うと、その後を追うように歩調を速める。凛の隣に追いつくと、斗希が弾んだ声で切り出した。
「まずはチーム名決めないとな!」
「チーム名?」
泉翔が聞き返すと、斗希は真面目な顔で頷いた。
「エントリーするなら絶対に必要だからな。それに、実はもう申し込みの締め切りがギリギリなんだよ……早く決めないと間に合わなくなる」
「……もうそんな話?」
呆れたように言う凛だったが、その瞳からは先ほどまでの刺々しさは消えていた。急かす斗希を横目に、泉翔も「何がいいかな」と考え始めた、その時だった。
「……案があるんだけど」
凛が、ポツリと口を開いた。
「どんなのだ?」
泉翔が尋ねると、凛は夜の風に髪をなびかせながら、はっきりとした口調でその名を告げた。
「Riddle:R!DOM」
「Riddle:R!DOM……?」
聞き慣れない響きに、二人が声を合わせる。
「意味は?」
斗希の問いに、凛は少しだけ照れくさそうに、けれど誇らしげに答えた。
「再始動……って意味。一度止まってしまったものが、もう一度動き出すっていう願いを込めて」
束の間の沈黙が流れた。 夜の静寂の中に、その名前の響きがしっくりと溶け込んでいく。一度はバスケを手放した泉翔と、部活を辞めて新しい道を行こうとする凛。今の自分たちに、これ以上の言葉はなかった。
「……なに? 変?」
不安そうに顔を覗き込んできた凛に、斗希が破顔した。
「いんじゃね? 俺らにぴったりだ。なぁ、泉翔!」
「あぁ……。そうだな、ぴったりだ」
泉翔が深く頷くと、凛は安心したように小さく息を吐いた。
「後々になって却下なしだよ……二人ともセンスなさそうだし」
悪戯っぽく笑う凛に、「なんだと……っ!」と斗希が食いつく。その様子を微笑みながら見守る泉翔。
三人はこれから挑むことになる大会のことや、練習の場所を話す。とりとめもない会話を交わし、時折夜の静寂を揺らすように笑い合いながら、家路を歩んでいく。少し前までそこにあった重苦しい空気は、夜風がすべて攫っていったかのように、今はただ心地よい高揚感だけが三人の間を巡っていた。
街灯に照らされた三つの影は、アスファルトの上で一つに重なってはまた離れ、どこまでも長く伸びていた。
この日、この場所で産声を上げた小さなチームが、やがて人々の記憶に刻まれる生涯最高の試合をいくつも魅せていくことは、この時はまだ知らない。
第13話 結成②をここまで読んでくださりありがとうございました。
ここではデート会でありますが、凛の趣味や普段見せない姿を見せる章になりましたね。当初は私服について女の子っぽい感じにしようかなと考えていましたが、あえて今回はかっこよさよりのボーイッシュの服装です。今回もここまで長くする予定はなかったのですが、二人のどきどき感とぎこちなさが読者様にお伝えできればと同時に、やっとストリートバスケのチームが結成できたのでここから物語が大きく動く章でもありますので、ぜひお楽しみお待ちください。
今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。
それでは次回エピソードでお会いしましょう。




