第12話 結成①
凛が姿を見せなくなってから、初めての週末がやってこようとしていた。 退部という衝撃の言葉が教室に波紋を広げた火曜日から、その間もずっと彼女の席は空いたままだった。
金曜日の放課後。終礼が終わると、担任の大城が教卓から泉翔を指差した。
「川神、ちょっといいかしら」
呼び止められて教壇へ向かうと、大城は束になった紙をトントンと机で揃えながら、無造作にそれを差し出してきた。
「蓮見さんと一番仲良かったわよね。あなた、どうせ暇でしょ?」
「……いや。別に一番じゃないと思いますけど。あと、暇じゃないです」
泉翔は反射的にそう返したが、大城はその言葉を全く聞いていない様子で、プリントをさらにぐいと押し付けてきた。
「はいこれ、今週配ったプリント。これを蓮見さんの家まで届けてきてちょうだい」
「……なんで俺なんですか。他に誰かいるでしょ」
「あいにくみんな忙しいのよ」
「で、でも……」
「お願い」
大城に真剣な眼差しで見つめられ、泉翔は言葉に詰まった。冗談を言っている雰囲気ではないその瞳に、反論する気力を削がれて無言になる。
「……じゃあ、よろしくお願いね」
大城はそれだけ言い残すと、高いヒールの音を響かせて教室を去っていった。手元に残されたのは、ずっしりと重い今週分のプリントの束。まさかこんな形で、避けていた場所へ行くための「口実」を渡されるとは思わなかった。
「……んだよ、これ。あいつの家、知らないっての」
泉翔は独り言のように呟き、プリントをカバンに押し込んだ。プリントを届けるだけだ。先生に頼まれたから仕方なく行く。自分にそう言い聞かせてはみるものの、カバンを握る手には、無意識に力がこもっていた。
泉翔はスマホを取り出し、未だ既読にならないメッセージの履歴を一度だけ眺めた。渋々といった手つきで、新規のメッセージを打ち込む。
『今週分のプリント渡されたから、家に届ける。住所教えて』
送信してしばらくの間、画面を見つめていた。すると、意外にもすぐに震動が伝わってくる。画面には、ただ住所だけが記された短いメッセージが届いていた。
「泉翔、帰ろうー」
タイミングを見計らったように斗希がやってきたが、泉翔は視線をスマホに向けたまま小さく首を振った。
「あっ、ごめん……予定ある」
「行くのか? 凛ちゃんの家」
斗希は何かを察したように、ニカッと笑って聞いてきた。図星を突かれた泉翔は、スマホを握りしめて静かに頷く。
「……そう。いまさっき、住所だけ返信がきた」
泉翔の言葉に、斗希は「凛ちゃんらしいな」と小さく笑った。斗希の言葉には、呆れたような、けれどどこか安心したような響きがあった。その明るい声に背中を押されるように、泉翔はカバンを肩にかけ直した。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ。来週は学校に来いよって伝えておいて。じゃあーまた来週」
斗希はそれだけ言うと、手をひらひらと振ってそのまま教室を出て行った。
一人残された泉翔は、メッセージに載っている住所をマップアプリに打ち込んだ。
「……意外と近いんだな、家」
ぼそっと呟き、校舎を後にする。道中、どんな顔で会えばいいのか、どんな声をかけたらいいのかを何度も考えたが、結局何も思い浮かばなかった。
凛と練習したあの公園を通り過ぎ、いつも二人で別れていた道に差し掛かる。自分の家の方角へ進むのではなく、今度は凛の家の方へと足を向けた。この道を歩いたこと自体はあったが、目的があって曲がるのは初めてだった。見慣れたはずの街並みが、どこか新鮮な景色のように感じられた。
マップのナビが示した場所に立っていたのは、周囲の住宅街に溶け込みつつも、どこか圧倒的な存在感を放つマンションだった。高層ではないが、一つひとつの部屋が大きく作られているせいか、建物全体が重厚な石造りの壁に守られているように見える。
泉翔は場違いな場所に来てしまったような気がして、思わず足を止めた。壁に設置されたインターフォンのパネルを前に、指先が強張る。プリントを届けるという名目があるとはいえ、いざ凛の生活圏内に踏み込むとなると、心臓が嫌な速さで脈打ち始めた。逃げ出したくなるような衝動を抑え込み、震える指先で部屋番号を打ち込む。
呼び出し音が静かなロビーに響き渡り、数回のコールの後、スピーカー越しに声が返ってきた。
「はーい」
聞き覚えのない、けれどどこか凛の面影を感じさせる明るい女性の声。凛が出るものだとばかり思い込んでいた泉翔は、咄嗟に肩を跳ねさせた。相手は恐らく、彼女の母親だろう。泉翔は急いで姿勢を正し、喉の奥に張り付いた声を絞り出した。
「……あ、えっと。同じクラスの、川神と言います。あの、蓮見さんに大城先生からプリントを預かってきたんですけど……」
慣れない敬語のせいで、舌がうまく回らない。泉翔は、顔も見えないインターフォンのカメラに対して、必要以上に深く頭を下げてしまった。
「あら! 凛のお友達? ご丁寧にありがとう。今開けるわね」
スピーカー越しに、翼の明るい声が響く。と、その奥から遠くに凛の声が混じった。
「だれ?」
「あなたの友達の川神くん。わざわざプリント持ってきてくれたって」
「えっ? 川神……!」
凛の弾んだ声が聞こえた直後、通話が切れるブツッという音がし、続いてガチャンとオートロックが解錠される重い音が響いた。泉翔は一度深呼吸をして、エントランスの自動ドアを抜ける。
目の前には、天井のない吹き抜けになった中庭が広がっていた。コンクリートの壁に囲まれた空間には丁寧に整えられた植栽が施され、中央にある水場から静かな水音だけが響いている。外の喧騒は一切届かず、あまりの静寂に、自分のスニーカーが床を叩く音が妙に高く反響した。
エレベーターに乗り込み、彼女のいる階へと上がっていく。どんな顔をして彼女がドアを開けるのか、自分は最初に何を言うべきなのか。結局、答えは見つからないまま、エレベーターは静かに目的の階で停止した。
中庭を囲む回廊を歩き、目的地である凛の部屋を目指す。どの扉も驚くほど大きく、隣の部屋との距離も遠い。誰ともすれ違うことのない無機質な廊下を歩いていると、まるで自分だけが世界から切り離されたような、不思議な錯覚に陥りそうになる。
ようやく辿り着いたその場所には、吸い込まれるような深い艶を湛えた、黒塗りの重厚なドアが構えていた。無駄のない意匠が施されたその扉は、まるで背後の静かな生活を固く守る門番のようにも見える。鈍い輝きを放つ金属製のレバーハンドルに、泉翔は気圧されるような感覚を覚えた。
その横にある重厚なプレートには、間違いなく彼女の苗字が刻まれていた。
泉翔は深呼吸を一つして、ドアベルのボタンに指をかけた。耳慣れた音がドアの向こうで鳴る。
「はーい、ちょっと待っててね」
スピーカー越しではない、柔らかな声が響く。
「……りーん、お友達が来てくれたわよ!」
奥へと向けられたその呼び声に、泉翔は背筋を伸ばし、カバンの中のプリントをもう一度確認した。今週ずっと休んでいた凛のことだ。憔悴した姿か、あるいは不機嫌そうにドアを開ける彼女を想像して身構える。
重厚なロックが解除される音がして、大きな黒いドアがゆっくりと内側に開いた。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、あの子、川神くんが来た途端に部屋に入っちゃって」
そこに立っていた女性を見て、泉翔は呼吸を忘れた。
「……え、いや……」
整った顔立ちに、どこか凛と通じる意志の強い瞳。けれど、凛よりもずっと大人びた、圧倒的な華がある。テレビのスポーツニュースや雑誌の表紙で何度も目にしてきた、日本女子バスケを震撼させた「星名翼」がそこにいた。
あまりの衝撃に、泉翔は言葉を失って固まってしまう。目の前にいるのは、紛れもなく自分たちが憧れ、遠い世界の住人だと思っていたトップアスリートその人だった。
「……あ、お構いなく。プリント持ってきただけなので。……こちらです」
泉翔はパニックになりそうな頭を必死に抑え、震える手でカバンからプリントの束を取り出した。憧れの存在を前にして、視線をどこに置いていいのかすら分からなくなる。
「あら、ご丁寧にありがとうね」
翼は柔らかい笑みを浮かべてプリントを受け取ったが、次の瞬間、その表情が一変した。
「凛! いい加減にしなさい! いつまで部屋にこもってるの!」
家の中に響き渡るような、容赦のない怒声。泉翔はあまりの剣幕に肩を震わせ、目を丸くした。そこには、日本を熱狂させた「星名翼」の面影よりも、反抗期の娘に手を焼く「母親」としての顔が強く滲み出ていた。
翼は泉翔に向き直り、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさいね。ちょっと待ってて」
そう言い残すと、翼は廊下の奥にある凛の部屋だと思われるドアを、容赦なく乱暴に開け放った。静かだった高級マンションの廊下に、ドアが壁にぶつかる乾いた音が響く。
「あら、あなた着替えて何してるのよ」
「ちょっと! いきなり開けないでよ、ばか!」
部屋の中から、焦ったような凛の鋭い声が返ってきた。しかし、翼は怯むどころか、さらに声を張り上げる。
「母親に向かって、馬鹿とか何よ。返事ぐらいしなさい!」
「う、うるさい! 早く閉めて!」
親子の遠慮のない応酬を、泉翔は呆然と立ち尽くしたまま見守ることしかできなかった。すると、部屋のドアが一度閉まり、再びわずかに隙間が開いた。
「川神、ごめん。少し待ってて。今日来るって思ってなかったから」
「う、うん……」
そういえば、今日届けるとは伝えていなかった。後になって自分の配慮不足を思い出し、泉翔は小さく動揺する。
さっきまで寝っ転がっていたのだろうか、少し髪がぼさついた凛が、ドアの隙間から顔だけを出してこちらを覗き込む。
その表情は、泉翔が心配していたよりもずっと明るく、どこか柔らかい。どの会えばいいのか考え、身構えていたのが拍子抜けするほど、彼女の瞳には生気が宿っていた。だが同時に、母親に無理やりプライバシーを侵害されたことへの苛立ちも隠しきれずにいた。凛は母親をひと睨みすると、そのままバタンと音を立ててドアを閉めると翼は平然とした様子で泉翔へと振り返った。
「はぁ…あの子ったら川神くん、せっかくだから上がっていって。さあ、どうぞ」
「は、はい……。では、お言葉に甘えて、お邪魔します……」
泉翔は圧倒されながらも、促されるままに一歩を踏み出した。少し遠慮気味に、けれど好奇心と緊張が混ざり合った足取りで、日本を震撼させた元選手と、その娘が暮らす「蓮見家」の内側へと足を踏み入れるのだった。
翼に促されるまま足を踏み入れた先には、新築特有の匂いが漂う広々としたリビングが広がっていた。大きな窓からはエントランスで見た中庭がわずかに覗き、その開放感に圧倒される。
「適当に座ってて。今、お茶淹れるわね」
「あ、はい」
翼がキッチンへと消え、リビングには静寂が落ちた。手入れの行き届いた家具の隙間には、まだ解かれていない段ボールがいくつか残されている。泉翔はダイニングテーブルの椅子に浅く腰を下ろしたが、背筋は伸びきり、膝の上の拳には力が入ったままだ。
ふと視界に入った戸棚には、ユニフォーム姿でトロフィーを掲げる現役時代の翼の写真が飾られていた。その隣には、幼い凛が必死にボールを追いかける姿や、誇らしげにメダルを首に下げている家族写真が並んでいた。
やがて、小気味よい音を立てて、翼がカップを運んできた。
「はい、どうぞ。麦茶でよかったかしら」
「あ、ありがとうございます……! いただきます」
差し出されたグラスを両手で受け取る。冷たいはずの麦茶が、緊張で乾ききった喉を通り抜けていく。そこへ、廊下の方から控えめな足音が近づいてきた。
「ごめん川神……お待たせ」
寝癖を直し、少しだけ身なりを整えた凛が姿を現した。部屋着姿ではあるが、先ほどのような刺々しさは消えている。彼女は、泉翔と対面する位置へ腰を下ろした。
「凛、川神くんわざわざ届けてくれたんだから、ちゃんとお礼言ったの?」
「……わかってるって。……川神、わざわざありがとう……」
翼の鋭いツッコミに、凛は決まり悪そうに視線を逸らして、短く言葉を返した。
「……あ、いや。別に……」
泉翔は曖昧に言葉を濁すと、少しの間を置いてから、気になっていたことを口にした。
「……体調は、大丈夫なのか?」
「……うーん。まあ、体調はね。なんとか大丈夫かな」
凛は視線を泳がせながら、生返事のような言葉を返す。そこへ、隣にいた翼が追い打ちをかけるように口を開いた。
「この子、この間の練習試合で無理したんでしょ?」
「無理なんかしてない!」
すかさず凛が食ってかかった。先ほどまでの消え入りそうな声が嘘のように、激しくまくしたてる。
「二日間も寝込んでおいてよく言うわよ」
「してない!」
「ちょっと! なんであんたがさっきから答えるのよ、私が川神くんに聞いてるのに」
「う、うるさい! てかなんで話に入ってくるのよ。お母さんはあっち行っててよ!」
「いいじゃない、あんたの友達と話すなんて珍しいんだから」
目の前で繰り広げられる、遠慮のない親子のやり取り。泉翔はただそれを見守るしかなかったが、どこか不思議な感覚に包まれていた。自分の知らない蓮見凛を見ている。家族といる時はこんな風に話すのかと思うと、彼女の輪郭が少しだけ身近に感じられた。
顔を真っ赤にして怒る凛の姿は、学校で見せるクールな姿とは正反対で、年相応の少女そのものだった。
元気そうな凛の姿を目の当たりにして、泉翔の胸には静かな安堵が広がった。自分の心配は思い過ごしだったのかもしれない。そう思うと同時に、普段は見られない凛の家族とのやり取りがどこか微笑ましく、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。泉翔は思わず、遠慮がちに小さく笑い声を漏らした。
「ねぇ! 川神に笑われてる! 恥ずかしいからもうやめて!」
「何この子、うちではいつもこんな感じじゃない……。川神くん、もしかしてうちの子、学校では猫被ってるの?」
翼が驚いたように目を丸くして、泉翔に問いかける。思わぬ問いかけに、泉翔は少し戸惑いながらも答えた。
「あ、いえ……。猫被ってないと……思います」
「本当に?」
「川神、そこはきっぱり否定してよ!最悪なんだけど」
恥ずかしさのあまり、凛は八つ当たり気味に声を荒らげた。顔を真っ赤にして地団駄を踏む娘の姿を、翼は面白そうに、それでいて慈しむような眼差しで見つめている。
「……もう、そんなに怒らなくてもいいじゃない。相変わらず余裕がないわねぇ」
翼は小さく肩をすくめると、手元にあった空のグラスをまとめて持ち上げた。そして、嵐が去るのを待つかのように一呼吸置いてから、優しく二人へ告げた。
「はいはい、お邪魔虫は退散するわね。二人でゆっくり話しなさいな」
翼は楽しそうに笑いながら、そのままキッチンへと消えていった。リビングに残されたのは、気まずそうに視線を泳がせる凛と、ようやく一息ついた泉翔の二人だけになった。先ほどまでの喧騒が嘘のように、部屋に穏やかな静寂が広がる。
「……ごめん。うちの親、いつもあんな感じで」
「ううん、仲が良さそうでいいなと思った」
それから、ふっつりと会話が途切れた。
広く清潔なリビングに、キッチンの奥から聞こえる微かな水の音だけが響く。泉翔は手持ち無沙汰に自分の膝を見つめ、凛はテーブルの端を指先でなぞっている。何か言わなければと思うほど、言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。
「あのさ.....体調はもう本当に大丈夫なのか?一週間まるまる休んでいたから」
泉翔は視線を落としたまま、沈黙を押し戻すように言葉を紡いだ。一週間、彼女のいない隣の席を眺め続けていた時間が、今の問いかけに重い実感を持たせる。練習試合で見た、あの痛々しいほどに力尽きた彼女の姿が脳裏をよぎり、言葉の端々に隠しきれない懸念が滲んだ。
「うん…もう大丈夫。連絡全然できなくてごめん…連絡は来てたのはわかってんだけど…その…」
凛は気まずそうに視線を泳がせ、テーブルの木目をじっと見つめた。その声はいつもより小さく、どこか申し訳なそうに震えている。スマホの画面越しに幾度となく通知を受け取っていたはずの彼女は、そのたびに何を思い、指を止めていたのだろうか。
「いいんだ。気にしてないから」
泉翔は遮るように、短く、けれど穏やかに返した。責めるつもりなど毛頭なかった。ただ、彼女がこうして自分の前で言葉を発しているという事実だけで、胸の奥に澱んでいた不安が少しずつ解けていくのを感じていた。
「…うん。なんか気づいた時返信できればよかったんだけど…気づいたらだいぶ日が経ってて返信しずらくなった」
凛はそこまで一気に言うと、縋るように泉翔の反応を伺った。 泉翔は何も言わず、ただ穏やかに先を促すように頷く。 その沈黙に背中を押されるように、彼女はさらに言葉を重ねた。
「二日間ぐらいさ、ちょっとふらつくような足取りになってたから休んでて、耳鼻科に行って耳の調子とか補聴器の調整とかしてたら一週間休んでた…」
「そっか…でも元気そうで安心したよ…俺もそうだけど斗希も心配してた」
「そう…ごめんね」
凛は自嘲気味に眉を下げ、ようやく泉翔と視線を合わせた。彼女の瞳には、体調への不安以上に、関係が途絶えてしまうことへの戸惑いと、不器用な自分に対する苛立ちが混ざり合っている。その素直な吐露は、学校で見せる凛とした姿よりもずっと、等身大の少女らしい脆さを孕んでいた。
「あとさ…詩季先輩から聞いた」
泉翔は意を決して、喉元まで出かかっていた言葉を口にした。 「詩季先輩」という名が出た瞬間、リビングの柔らかな空気が一変し、凛の肩が僅かに跳ねるのを彼は見逃さなかった。
「…何を?」
「…部活のこと…本当なのか?」
凛は弾かれたように視線をそらし、ソファの上で片膝を抱えて黙り込んだ。 少し大きめのTシャツの裾を、ハーフパンツの上からぎゅっと握りしめる。静寂の中にキッチンの水の音だけが響き、問いかけた泉翔の胸にも、後悔に近い痛みが走った。
「ここで、その話をしたくない...まだお母さんに話してないから」
やっとの思いで絞り出した彼女の声は、驚くほど細く、震えていた。 隣のキッチンにいる母親に、自分の「挫折」を知られたくないという切実な拒絶。泉翔は、彼女が背負っているものの重さを改めて突きつけられた気がして、慌てて声を落とす。
「あっごめん...」
「ううん...気になるよね。私から話すべきだった」
凛は自嘲気味に呟くと、顔を覆っていた髪を耳にかけた。 再び訪れた気まずい沈黙。その重苦しい空気を振り払うように、次に向こうから口を開いたのは凛の方だった。
「お母さん!私たち部屋にいくね!」
キッチンにいる翼に向けて、凛が明るい声を張り上げた。 奥からは「わかったわー!あとで、お菓子持っていくからね」と、屈託のない返事が戻ってくる。
「はーい!...行こう川神」
凛はそう告げると、迷いを断ち切るように席を立った。泉翔は促されるままに、彼女の背中を追うように立ち上がる。
リビングを後にし、玄関まで続く廊下を静かに歩いた。一番突き当たりにある、まだ新しさの残る白いドア。そこが凛の部屋だった。
「ここ...入っていいよ」
凛はドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けて泉翔を招き入れた。
「お邪魔します...」
一歩踏み出した泉翔は、思わず視線を泳がせた。 凛の部屋は驚くほどシンプルで、机とベッド、そして収納棚という必要最低限の家具だけが整然と置かれていた。棚には、いくつかのバスケットボールと、手入れの行き届いたバッシュのコレクションが飾られており、彼女のこれまで歩みを物語っている。
ふと視線をベッドへ向けると、そこには女の子らしくお気に入りのぬいぐるみが並んでいた。中でも中央に居座る特大のぬいぐるみは、凛のベッドのサイズには収まりきらないほどの迫力で、そのギャップが彼女の年相応の素顔を覗かせているようで、泉翔の目を釘付けにした。
部屋の中央には小さなテーブルが置かれていて、泉翔は促されるままその近くに腰を下ろした。 凛は自分のベッドの端に浅く腰掛けると、傍らにあった大きなぬいぐるみを引き寄せ、抱え込むようにして膝の上に乗せた。その仕草は、何かから身を守ろうとしているようにも、溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいるようにも見えた。
また暫しの沈黙が流れる。 窓から差し込む夕日は既に赤みを増し、部屋の隅々に長い影を落としていた。凛は視線を泳がせ、一度肺の空気をすべて入れ替えるような重たい溜息を吐くと、意を決して話を切り出した。
「詩季先輩には、まだ退部のこと直接話してなくて...連絡しただけ。はっきりと辞めたいとは伝えてない」
「そうなんだ...」
「だけど退部したいという意思は、伝えている感じ」
泉翔は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を待った。 「伝えている感じ」という曖昧な表現に、彼女の迷いと、けれど引き返せないところまで自分を追い込もうとしている頑なさが滲んでいる。
「川神…ごめんね。たくさん練習を付き合ってもらったのに...」
「仕方ないさ…蓮見が決心したことだろう?」
「うん、そうだなんけど...なんか散々付き合ってもらったのに申し訳ないと思ってる」
凛はぬいぐるみの柔らかな毛並みに指を沈ませ、視線を落とした。 謝る必要なんてないと言いたかったが、今の彼女にとって「申し訳ない」という言葉は、自分を繋ぎ止めていた未練を断ち切るための、唯一の免罪符なのかもしれなかった。
「...理由は聞いてもいいのか?」
「…察しつくと思うんだけど...体の事と部活の雰囲気かな」
「...そっか」
「1クォーターもプレイできなかったことが、割と精神的に来ちゃったのと、私がレギュラーになることでチームの雰囲気が悪くなることが嫌だ…そんな感じの理由」
凛の声は淡々としていたが、その内容はあまりに重く、鋭かった。 たった八分。アスリートとして、戦力として数えられない自分への絶望。そして、耳の障害や自分の存在が、平穏だったチームに不協和音を生んでしまうことへの恐怖。彼女は、誰よりもバスケを好きだからからこそ、その場所を壊したくないと願って、去ることを選ぼうとしていた。
「でもいいのか?...バスケをもう一度したいから学校を転校してまで来たんだろう?」
泉翔は、彼女がこの学校へやってきた本当の理由を突きつけた。 再起をかけて、すべてを捨てて飛び込んできたはずの場所。それを手放そうとする彼女の横顔を、彼はいたたまれない気持ちで見つめる。
「……うーん。転校してきた理由は、他にもあるんだけどね。でも、そうだね……バスケも、その理由の一つだったのは間違いないよ」
凛は自嘲気味に微笑を浮かべると、視線を泳がせた。
「……けど、私が思っていた以上にダメだったみたい。どうしても昔の……耳が聴こえていた頃のプレイスタイルが身体に染み付いてて。それがもう、限られた時間でしかできないって突きつけられるのが、思っていた以上にメンタルに来てる。だからもう、バスケ部は……辞めようかなって」
ぬいぐるみを抱きしめる腕に、さらに力がこもる。 かつてコートを支配していた「天才・蓮見凛」の残像が、今の彼女を最も苦しめていた。全力を出せば出すほど、命を削るように残り時間が削られていく矛盾。その限界に、彼女の心は既に折れかかっていた。
かつての栄光が、今の彼女にとっては自分を締め上げる鎖になっている。 震える声で紡がれたその言葉には、積み上げてきた努力を自ら否定しなければならない、耐え難いほどの拒絶反応が混じっていた。
「...そうか。何か悔しいなそれ...せっかく頑張ったのにな」
「...そうだね...悔しいけど。もう仕方ないことだから...でもさ、部活でできなくてもストリートでしてる人もいるから、その人たちに混ざってできる。私はそんな感じでバスケはしていくよ」
自らに言い聞かせるような彼女の言葉に、泉翔は奥歯を噛み締めた。 ストリートで楽しむのが悪いわけではない。けれど、彼女が本来立つべき場所は、もっと高く、眩しいステージのはずだった。
黙り込む泉翔に対して、凛は淀みのない声で続けた。
「川神はさ……もう私の事、色々知ってるよね?」
「うん……中学時代バスケ界のホープとか言われてたこととか、お母さんの星名翼さんの娘さんということで期待されてる選手だってこととか。色々騒がれてたのは、最近だけど知った」
「そう……」
「まあ、ほとんどは斗希が情報源だけどな」
「あいつめ……」
「……正直半信半疑だったけど、さっきお母さんを見て、確信に変わったよ」
「……だからね、あんまりうちのお母さんに会わせたくなかったんだよね」
凛はそう言って、膝の上のぬいぐるみに顔を埋めるようにして視線を落とした。 「星名翼の娘」というレッテルが、どれほど彼女の人生に影を落としてきたのか。その一端が、彼女の短い言葉から静かに漏れ出していた。
「親が有名な選手だと、やっぱりそうだよな」
「まあ……ね。昔さ、『星名翼の娘がバスケ界に革新をもたらす』とか、特に活躍もしてない頃からホラ吹きみたいな記事を書いてた記者もいてね。私のことなんて何も知らないくせに、まるで全部知ってるみたいな顔して……。でも、私が突然バスケ界から消えた途端、手のひらを返したように叩き始めた」
一度切れた言葉の後に、彼女は喉の奥で震えるような息を吐き出した。
「私さあの頃適当な記事を書いてた記者に、蓮見凛がもう一度活躍する、みたいな記事を嫌でも書かせてやろうとか勝手に妄想しててさ...。一泡吹かせようと思ってたんだけど……結局、それもダメだったみたい」
そう言って、彼女は最後、力なく一笑した。
その笑みには、期待を裏切ってしまった自分への軽蔑と、どうしようもない運命を無理やり飲み込もうとする、悲しいほどの諦めが滲んでいた。
「記事は一部だけど見たよ。期待度が高い記事から、試合に負けた時の記事……あれは特にひどい内容で書かれてた。中学時代の、全国大会の試合かな」
泉翔が記憶を辿りながら静かに告げると、凛は自嘲的な吐息を漏らした。
「そう……。世間が勝手に持ち上げて、周囲に期待を持たせて……応えられなかったら叩く。そんな記者は嫌い。実際、負けたのは私のせいでもあるんだけど……」
何とも言えずに、泉翔は黙り込んでしまう。 彼女が背負わされてきたのは、単なる勝敗の責任だけではなかった。大人たちの勝手な思惑や、無責任な熱狂のすべてを、当時まだ中学生だった彼女が一身に受け止めていたのだ。
凛は抱えていたぬいぐるみで、逃げ込むように顔を覆った。 わずかに震える肩が、彼女が必死に堪えている感情の激しさを物語っている。
「……世間の期待に応えるのは、疲れる。もう少し、自由にバスケしたかった……」
覆われたぬいぐるみの奥から、震える声が漏れ出す。 それは「天才」や「二世」という看板を剥ぎ取った、一人の少女としての切実な悲鳴だった。
泉翔は、いたたまれない気持ちに胸を締め付けられた。 常に世間のプレッシャーと戦い、傷だらけになりながらコートに立ち続けてきた彼女。そんな彼女に、どんな言葉をかければいいのか、どんな言葉なら届くのか。正解が分からず、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んでは消す。
自然とできた沈黙が重く、部屋に響く時計の秒針の音だけが、妙に耳に残った。
何を言っても、無責任な綺麗事に聞こえてしまう気がした。 「頑張れ」も「辞めるな」も、今の彼女にとっては新しい「期待」という枷になってしまうのではないか。泉翔は開こうとした口を閉じ、ただじっと、膝の上の自分の手を見つめた。
自分も一度、バスケを捨てた人間だ。 だからこそ、彼女が今、どれほど暗い淵に立っているかが痛いほど分かる。今は言葉ではなく、ただ彼女が一人ではないことを示すことしか、自分にはできない。
時計の針が刻む音だけが、無情に時間を進めていく。 凛がぬいぐるみで顔を隠したまま、小さく鼻をすする音が聞こえた。泉翔はその音から耳を逸らさず、逃げ出すこともせず、彼女の感情が凪ぐのを静かに待ち続けた。
夕闇が部屋の隅から忍び寄り、二人の影を長く、淡く溶かしていく。 どれほど時間が経っただろうか。やがて、凛を包んでいた強張った空気が、微かな溜息と共に解けていくのが分かった。
廊下の向こうでは、翼がドアに手をかけようとして止まっていた。 お菓子と紅茶を載せたトレイの重みが、今は妙に生々しく感じられる。ドアの隙間から漏れ聞こえてきたのは、今まで一度も聞いたことのない、娘の、凛の「悲鳴」だった。
自分が思う以上に、凛は「星名翼の娘」であろうと必死に戦っていた。 大好きで始めたはずのバスケが、いつの間にか、周囲の顔色を伺い、期待に応えるための「義務」に成り果てていた。その果てにあるのが、今の、ボロボロになった娘の姿だった。
翼は力なく、廊下の壁に背を預けた。 ずるずると崩れ落ちそうになる体を、冷たい壁が辛うじて支えている。
ガタガタと、トレイの上のグラスが震えた。自分の手が、今は娘の苦しみを前にして、無力さと後悔で無様に震え続けていた。
翼は震える指先を隠すようにもう一度トレイを強く握りしめ、溢れそうになる感情を飲み込む。母親として何をすべきか、何ができるのか。正解の見えない問いが、胸の奥を重く締め付けていた。
だが、凛の心の悲鳴を聞いてもなお、何事もなかったかのように気丈に振る舞おうと、彼女はゆっくりと歩き出す。
静寂を破るように、ドアを叩く控えめな音が響いた。 翼は一度、廊下で大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えてから、ゆっくりと指を曲げる。いきなり中へは入らず、娘が心を整えるための「間」を置いた。
鼻をすする微かな音の後、掠れた声が返ってくる。
「……はーい」
翼はドアノブには手をかけず、あえてドア越しに声をかけた。
「凛、ごめん。手が塞がってるから、開けてくれる?」
少しの沈黙の後、ゆっくりとドアが開いた。 そこには、赤くなった目元を隠すように俯く娘が立っていた。翼はそれには触れず、トレイに乗せたものを差し出した。
「これ、紅茶とクッキーね」
「……ありがとう」
凛はトレイを受け取ったが、なかなか下がらない翼を不思議そうに見つめた。 翼の瞳には微かに涙が浮かんでおり、そこには言葉にできない深い後悔と慈しみが揺れている。
「どうしたの? お母さん……」
「……ううん。なんでもないわ」
翼は小さく首を振り、自分を誤魔化すように微笑んだ。 そして、部屋の奥に座る少年に視線を向ける。
「ゆっくりしていってね、川神くん」
「ありがとうございます。いただきます」
泉翔は立ち上がり、背筋を伸ばして丁寧に一礼した。 翼は一転していつものような笑顔を見せ、そのまま静かにドアを閉めた。
歩き出しながら、翼の口から重たい吐息が漏れた。 初めて耳にした、愛する娘の心の悲鳴に、やるせない気持ちが胸を埋め尽くしていた。
静まり返ったリビングに戻ると、翼は力なくソファーに身を沈めた。先ほどまでの凛とした佇まいは影を潜め、深く吐き出された溜息が、重い静寂に溶けていく。
「バカね……」
小さく漏れた呟きは、部屋の隅で膝を抱える娘に向けられたものではない。彼女の悲鳴を察していながら、それが成長に必要な痛みだと信じて、ただ突き放すように見守ることしかできなかった不器用な自分自身への、痛切な皮肉だった。
「……あんな顔、させて」
翼は目元を片手で覆い、天井を仰いだ。自身の現役時代の影が、知らぬ間に娘を追い詰め、その心を縛り付けていた。逃れようのないその事実に、ただ母親としてのやるせない切なさが胸の奥に深く、重く澱んでいた。
翼が去った後、部屋には紅茶の温かい湯気と、クッキーの甘い香りが漂った。 泉翔と凛は、トレイに乗せられたクッキーを一つ手に取り、同時に口へ運んだ。
「……おいしい」
サクサクとした食感と共に広がるバターの香りに、泉翔は素直な感想を漏らした。
「でしょう?……うちのお母さん、そのクッキーよく焼くんだよね。昔さ、クッキーで喧嘩したことあってね……」
紅茶のカップを両手で包みながら、凛は懐かしむように目を細めた。
「デパートで買った、結構高いクッキーだったと思うんだけど。楽しみにしていた最後の一個をお母さんに食べられちゃったの。それで私はめっちゃ泣いて……しばらくお母さんと会話もしなかった」
「……それで?」
「そうしたらさ、お母さんがいきなりクッキーを焼いてきてね。それまで一度もお菓子作りなんてしたこと見たこともなかったんだけど。不機嫌な私に『クッキー焼いたから食べなさい!』って逆ギレしてきたの」
その時の光景を思い出したのか、凛は悪戯っぽく視線を上げた。
「食べた時さ……味、どうだったと思う?」
「おいしかったとか?」
「ううん、全然おいしくなかった」
凛は声を立てて、屈託のない笑顔を見せた。
「それでさ、もっと私不機嫌になっちゃって。でもね……それから定期的にお母さん、クッキーを焼くようになって。こうして持ってきてくれるたびに、いつの間にか私が味を審査するようになってね。今では、私が好きな味を完璧に焼いてくれるようになった。これが、その完成形」
「……すごいな。そういうやり取り、うちの親とはないな。仲いいんだな、やっぱり。そういうの、少し羨ましいかも」
泉翔は手元のクッキーを見つめ、少しだけ目を細めた。
「そうなんだ……。川神のお母さんは、どんな人なの?」
「どんな人か……。うーん」
泉翔は天井を仰ぎ、しばらく考え込んだ。
「怖い……かな」
「なにそれ」
凛が堪えきれずに吹き出す。
「いや、本当に怖いんだ。でも……いつも俺のことを尊重してくれる気がする。自分で考えて行動しなさい、って常に教えられてきたかな」
昔を思い出すように、泉翔は静かに言葉を続けた。
「バスケ辞めた時さ……特に理由も言わずに、辞めたって話したんだ。そしたら『あなたがそう決めたんだから、いいんじゃない?』って言われた。絶対怒られると思ってたんだけど、その時だけ妙に優しくてさ。心につっかえていたものが、少しだけ無くなるのを感じたんだ」
「そっか。川神のお母さん……素敵なお母さんだね」
「いつもはガミガミ怒ってばかりだけどな。でも、迷った時とか、俺が決断したことに関しては何も聞かずに尊重してくれてるのかな」
「……川神も、色々悩んでた時期があったんだね」
「蓮見……ほどじゃないかもしれないけどな」
泉翔が自嘲気味に笑うと、凛は真剣な眼差しを彼に向けた。
「人の悩みの重さは……量れないと思うよ。私には私、川神には川神の悩みがある」
「……そうだな」
不意に投げかけられた凛の言葉に、泉翔は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「あのさ……また今度、昔話聞かせてよ」
「そんな面白い話、ないと思うけど」
「ううん、いいの。こういう風に話すの……すごい久々、ここ最近私ずっとバスケ漬けだったし……」
ふと、凛は言葉を切り、膝の上に乗せた特大のぬいぐるみの毛並みを、所在なげに指先でなぞった。 逃げ場のない期待と規律の中にいた彼女にとって、この何気ない沈黙さえも、どこか非現実的な安らぎに感じられているようだった。長い睫毛を伏せ、少しだけ恥ずかしそうに視線を落とす。
「なんか川神と話すの……楽しい」
「っ……」
不意打ちのような言葉に、泉翔は顔に熱が集まるのを感じた。 紅茶の熱さのせいではない。胸の奥を直接指先で弾かれたような、逃げ場のない気恥ずかしさが全身を駆け巡る。赤くなった顔を隠すように、彼は慌ててカップを口に運び、熱い液体を飲み込んだ。
「何顔赤くしてるの? もしかして照れてる?」
顔を覗き込むようにして笑う凛の瞳には、さっきまでの絶望の影はなく、悪戯な光が宿っている。
「う、うるさい……」
「川神はわかりやすい……嘘つけないタイプだ」
「そうだよ……悪かったな……」
泉翔はぶっきらぼうに返し、視線を泳がせた。 彼女の真っ直ぐな言葉を正面から受け止めるには、今の彼の心の準備はあまりに不十分だった。
紅茶を飲み終わり、凛はベッドの縁に浅く座ったまま、背後の壁にゆっくりと背中を預けた。 重たい鎧を脱ぎ捨てたかのように、ふっと肩の力が抜ける。彼女はそのまま首を傾け、天井の一点を見つめながらぽつりと呟いた。
「本当にバスケ漬けだったな……。これから何しようかな」
その声には、自由を手に入れた解放感よりも、進むべき地図を失ったことへの、空虚な不安が滲んでいた。
「……落ち着いたら、色々またやりたいこと探せばいいと思う」
泉翔は、自分の足元に落ちる影を見つめながら答えた。 かつて自分も同じ景色を見ていたはずなのに、今の彼女にかけるべき「正解」が見つからないもどかしさが、胸をチリチリと焼く。
「川神はさ……バスケ辞めてから何したの?」
壁に頭をもたれさせたまま、凛の視線が泉翔へと向けられる。
「俺は……何してたかな……」
泉翔は、うーんと考える。 バスケットボールという軸を失ったあの日からの、色彩を欠いた日々。
「最初は引きこもりがちだった気がする。……だけど外に出かけてピアス開けたりとか髪の毛染めたりとか、今までしてこなかったこと衝動的にした感じがする」
それは新しい自分を見つけるためというより、これまでの自分を壊して、誰かに「俺はもうバスケをしない」と証明したかっただけなのかもしれない。そんな自嘲気味な思いを胸に秘めたまま、言葉を続けた。
「……そっか」
「……友達と遊ぶとかはどうだ?」
泉翔の提案に、凛は少しだけ寂しげな、乾いた笑みを漏らした。彼女は手元のぬいぐるみの腕を、自分の細い指先で弄んだ。その仕草には、誰かとの繋がりを確かめようとして、結局掴みきれないようなもどかしさが溢れている。
「うーん……みんなバスケしてると思うし……。それに、今はもう結構疎遠かな。片耳が聞こえなくなって、みんなと距離が空いちゃってね。……わたしも連絡、全然しなかったから」
繋がっていた絆が、自分の沈黙によって一つずつ解けていく。それを止める勇気も、理由も見つけられなかった。
「そっか……。また連絡してみたらどうだ? 蓮見から連絡きたら嬉しいと思うけど……」
「そうだね……。いつか、連絡してみようかな……」
凛はそう言って、遠い目をする。 窓の外、暮れていく空の向こう側に、かつて共に笑っていた仲間たちの幻影を探しているかのような、ひどく儚い横顔だった。
それからしばらく、二人は他愛のない話を続けた。クラスの誰がどうだとか、最近の流行りだとか、本当にどうでもいいことばかりを、ただ脳を空っぽにして言葉にしていた。けれど、そんな何気ないやり取りの一つひとつが、これまで重い看板を背負わされてきた凛の心を、静かに、確実に解きほぐしていく。
肩から余計な力が抜け、部屋の空気が少しずつ穏やかなものへと変わっていくのを感じていた。ふと、窓の外に目をやると、街を包む夕闇が一段と濃くなっていた。
「……俺、そろそろ帰るわ」
腰を上げ、空になったカップをテーブルの端へ寄せる。名残惜しさが胸の端をかすめたが、それを悟られないよう、あえてぶっきらぼうに告げた。
「……うん。ありがとう、川神」
凛の声は、少しだけ低く響いた。泉翔はカバンを肩にかけ、出口へと向かう。
「来週、ちゃんと学校来いよ」
「……うん」
その短く素直な返事に、泉翔は少しだけ驚き、胸の奥がくすぐったくなった。どこか遠くに感じていた彼女との距離が、今は手の届くところまで近づいているような気がした。泉翔はそのまま、部屋の白いドアノブに手をかけようとした。しかし、その指が冷たい金属に触れる直前。
「ねぇ……川神」
背後から、衣擦れの音と共に、シャツの背中をクイと優しく引っ張られた。指先で少しだけためらうように引かれたその感触に、思わず足が止まる。振り返ろうとしたが、背中に感じる微かな抵抗がそれを許さない。見えない背後に、彼女の気配が濃密に迫っていた。
「ん? どうした?」
努めて冷静に問いかけるが、静まり返った部屋では、自分の声が妙に上ずって聞こえた。
「明日……予定、ある?」
凛の声は、これまで聞いたことがないほど小さく、どこか自信なさげに震えていた。背中の布地を介して伝わる指先の微かな震えが、泉翔の動悸を速めていく。
「……特にないかな」
「そうなんだ……。あのさ……ちょっと付き合ってほしいところ、あるから……その」
「……うん」
予期せぬ言葉に、心臓が跳ねた。今度こそ顔を見て確かめようと、泉翔が振り返ろうとする。
「ねぇ……振り返らずに聞いて」
凛の切実な声に、泉翔は再び硬直した。彼女の顔が見えない分、空気の震えや、隠しきれない熱っぽさが肌に直接伝わってくる。部屋の隅で鳴り続ける時計の音が、秒を刻むたびに心拍数を押し上げていった。
「明日、12時ごろさ……駅で待ってるから、来て」
「……わかった」
絞り出すように答えると、ドアノブを掴んでいた泉翔の手の上に、凛の細い手がそっと重なった。不意に触れた彼女の肌は驚くほど熱く、指先から伝わる脈動が、彼女の緊張をそのまま泉翔の掌へと流し込んでくるようだった。凛の手はそのまま、ドアを開けるのを促すように泉翔の手の上に重なり続け、静かに力を込める。二人の手が重なったままゆっくりとノブが下り、扉が開いた。重なった手の熱が、泉翔の腕を伝って全身に広がっていくようだった。
ドアが開くと、泉翔は浮き足立った、ぎこちない足取りで廊下を進んだ。その後ろを、凛が少し俯き加減でついてくる。玄関までの短い距離が、今は永遠のように長く感じられた。
「お母さん! 川神、帰るって」
凛の声に反応して、奥から翼が急ぎ足でやってきた。慈愛に満ちた表情で向かってくるその姿を見て、泉翔はまだ収まらない動悸をなんとかやり過ごしながら一礼した。
「お邪魔しました。……あの、クッキー美味しかったです」
「またいらっしゃい。これ、よかったら食べて」
翼から手渡されたのは、丁寧にラッピングされたクッキーの包みだった。それを受け取る指先も、まだ彼女の手の熱を覚えているようで、うまく力が入らない。
「……ありがとうございます」
泉翔は逃げるように玄関のドアを開けた。最後にもう一度、凛の方を向いた。
「じゃあ、またな」
「うん, またね……」
ドアが開いた瞬間、沈みかけた夕日が差し込み、オレンジ色の光が視界を白く焼き尽くした。ゆっくりと閉じていくドアの隙間。最後に一瞬だけ、凛と目が合った。そこには、夕日のせいだけではない、赤く染まった顔で小さく手を振る彼女の姿があった。
「……あらあら、随分と名残惜しそうね?」
ガチャン、とドアが閉まった直後、背後から飛んできた翼の楽しげな声に、凛の肩がビクリと跳ねた。
「……な、何が」
「顔、真っ赤よ? そんな顔で手を振られたら、彼も帰るのが大変だったでしょうね」
「……っ! 別に、そんなんじゃないから!」
凛は、翼の含みのある笑いから逃げるように、赤くなった顔を両手で隠して自分の部屋へと駆け込んだ。バタンと乱暴に閉まったドアの向こう側で、いまだに収まらない顔の熱を冷まそうと、彼女は特大のぬいぐるみに顔を埋めた。
一方、マンションを後にした泉翔は、夜風に火照った頬を撫でていた。帰り際に告げられた突然の約束と、手に残る熱。カバンを握る彼の心臓は、静かな夜の住宅街で、いつまでも不格好に高鳴り続けていた。
第12話 結成①をここまで読んでくださりありがとうございました。
凜の心のうちを吐露する場面を執筆しました。ずっと期待され重なるプレッシャーの中で戦ってきたのですが、とうとう心に来てしまいました。でもここで泉翔の優しさで無理に強いらず、ただそばにいてくれるだけでも弱った時ありがたいですよね。お互い少しだけ意識していた揺れ動きが見え始めてきた章でもあるので、今後の関係にどきどきですね
今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。
それでは次回エピソードでお会いしましょう。




