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第11話 実力③

斗希はあれから一度も学校に来なかった。斗希が再び姿を消してから、数日が過ぎ 時間は土曜日へと進んだ。ついに凛のレギュラー昇格をかけた練習試合の日を迎える。


あれから、凛は泉翔とのパス練習を執拗なまでに繰り返していた。いつ、どこから放たれるかわからない泉翔の変幻自在なパスを、反射的に捉えられるように。二人の呼吸は以前よりも格段に深く重なるようになっていたが、懸念は莉子との連携だった。


部活の話を聞く限り、莉子との関係に進展はなさそうだった。顔にボールをぶつけられるような嫌がらせこそなくなったが、実戦形式で莉子からパスを受ける際、凛の動きにはどうしても一瞬の「淀み」が生じてしまう。不安要素は拭えないままだったが、それでも凛は「頑張る」と力強く言い、試合へと臨んでいった。


今回の練習試合は、地区予選の選抜メンバー選考も兼ねている。 「絶対に来ないで」と凛には釘を刺されていたが、そう言われると余計に気になってしまうのが性分だった。泉翔は誰にも告げず、こっそりと体育館へ向かった。今まで彼女がどれほどひたむきに練習してきたのか、今日でその結果がわかる。その結末をこの目で確かめたかったのだ。


体育館の入口付近まで来たとき、意外な背中が視界に入った。


「よっ、泉翔」


ひょいと手を挙げて話しかけてきたのは、斗希だった。


「……斗希。お前、あれからまた欠席して、何してたんだよ」


泉翔の声には、友人への心配と僅かな憤りが混じる。


「ごめんって。……いろいろ考えてさ。やっぱりどうしてもストリートの大会に出たくて、メンバーを探してたんだ」


「それは学校を休んでまですることか?」


「すること」 斗希は悪びれる様子もなく、涼しい顔で答えた。


「で……見つかったのかよ、そのメンバー」 泉翔が呆れたように尋ねると、斗希は少しだけ視線を落とした。


「全然。……そう簡単にいくとは思ってないさ。まあ、一番の理想は凛ちゃんと泉翔が入ってくれることなんだけどね」


そう言って笑う顔には、隠しきれない寂寥感が滲んでいた。


「……悪い。気持ちは変わらない」 泉翔がきっぱりと告げると、斗希は「だよな」と小さく呟いた。流れる気まずい沈黙を破るように、泉翔が問いを重ねる。


「そういえば、なんでここにいるんだ」


「今日、凛ちゃんの試合だろ? だから応援にさ」


「……知ってたのか?」


「まぁ……姉貴の話を盗み聞きしたんだよ」 悪い顔をして笑う斗希の返答に、泉翔は「ああ、なるほどな」とすべてを察した。


体育館に足を踏み入れると、既に両校のアップが始まっていた。むせ返るような熱気と、床を叩く無数のボールの音が泉翔の全身を包み込む。コートの隅には、凛の姿があった。彼女は周囲の喧騒を遮断するように、鋭い眼差しでストレッチに没頭している。


二人は人目につかない二階のギャラリー席へと移動した。元々、泉翔たちの高校のバスケ部は強豪として知られている。二階席には、休日だというのに既に多くの観客が詰めかけ、熱のこもった人だかりができていた。


空いたスペースに腰を下ろすと、即座に斗希が問いかけてきた。 「いつから出るんだ? 凛ちゃん」


泉翔はコートから目を離さずに答えた。 「今回の試合、フル出場はないと思う。でも、いつ呼ばれるかは本人も分からないって言ってた」


凛の纏う張り詰めた緊張感が、この二階席まで波となって伝わってくるようだった。


「……そうなんだ。頑張ってほしいね。あれからパスの練習、相当やり込んだんだろ?」


「ああ、かなり」


泉翔の返答に、斗希がニヤリと口角を上げる。


「だいぶ?」


「だいぶ…。本人が納得するまで、とことん付き合わされたよ、おかげで腕が筋肉痛」


泉翔は深い溜息を吐いた。あの真剣すぎる眼差しに当てられ、極限まで精度を求める練習に付き合うのは、想像以上に体力と精神力を削られるものだった。


「あーね。その様子だと、相当ストイックに追い込んだみたいだ」


斗希は楽しそうに笑い、再びコートへ視線を戻した。


アップ中の選手たちの中には、斗希の姉である詩季と、あの莉子の姿もあった。二人のユニフォームには既に一桁の背番号が踊っている。当然のようにスタメンなのだろう。


パワーフォワードの詩季は、インサイドでの圧倒的な得点力と統率力で他校からも一目置かれる存在だ。一方でポイントガードの莉子も、広い視野と針の穴を通すようなパスコントロールを備えた、確かな実力者だ。


同じポイントガードだった泉翔だからこそ、莉子の技術の高さは嫌というほど理解している。あのような緻密なコントロールを持つ者が、受け取りにくい場所へ不用意にボールを放るはずがない。これまで凛に向けられていた数々の「パスミス」は、その精度を逆手に取った、明確な意図を持つ悪意。泉翔はそう結論づけていた。


だが、懸念はそれだけではない。これまで幾度となく凛のパス練習に付き合ってきたが、投げれば投げるほど、彼女がボールを受け取る瞬間の動作に「何か」言いようのない違和感を抱いていた。


その正体が何なのか、今日まで突き止めることはできず、具体的なアドバイスも送れないままだ。ただの思い過ごしであってくれと泉翔は願っていた。


凛の実力そのものは、間違いなく一級品だ。得点力だけで見れば詩季に引けを取らないし、ドリブルのキレやシュートバリエーションも豊富にある。しかし、片耳のハンディキャップゆえか、パスの受給動作やチームとしての連動性には、どうしても脆さが残る。


「……基本的に一人で完結できるようにしてきたから」 以前、凛が漏らしたその言葉が耳に残っている。もしかしたら過去にも莉子のような存在がいて、彼女は独りで戦わざるを得なかったのかもしれない。


今日の試合で、あの毒気が抜けているのか、それとも相変わらずなのか。そして、抱え続けてきた違和感の正体は何なのか。


もし、今日その正体を見極めることができれば、莉子の放つ毒のあるパスさえも凛は容易に受け取れるようになるはずだ。試合の真っ只中であろうと、決定的なアドバイスを叩き込む。それが、今日この場所へ来た泉翔の大きな目的の一つでもあった。


「始まるな」


隣で斗希が静かに呟いた。 審判がコートの中央へと歩み寄り、試合開始の合図を待つ静寂が体育館を支配した。


「……そうだな」


泉翔もまた、固唾を呑んでコートを見つめた。


ホイッスルが鳴り、両チームがセンターサークルに集まって整列する。だが、その中に凛の姿はなかった。彼女はベンチの最前線に立ち、コートへ向かうメンバーへ力いっぱいのエールを送っていた。


「凛ちゃんはベンチスタートか。そういえば、凛ちゃんのポジションはどこなんだ?」 斗希の問いに、泉翔は手すりに身を乗り出しながら答えた。


「スモールフォワードだって聞いた。今出ている先輩と交代する形になると思う」


「あー、あの人と交代か」 斗希がコート上の選手の一人を指さした。


「ああ。瀬名 舞白先輩……風見が慕っている先輩らしい」


「カザミ?」


「ポイントガードだよ。お前、同じクラスだろ」 泉翔が呆れたように言うと、斗希は悪びれる様子もなく笑った。


「いや、知らないって。俺、不登校だったもん」 と堂々としたその物言いに、泉翔は言葉を失い、ただ深く肩をすくめるしかなかった。


試合開始のホイッスルが鋭く体育館に響き渡った。 ティップオフで最初にボールを支配したのは相手チームだった。落ち着いた立ち上がりで、巧みなパスワークからじっくりとこちらの隙を伺うように攻撃が始まる。


試合は序盤から、一進一退のシーソーゲームとなった。 凛のチームは、エースである詩季を攻撃の軸に据えている。詩季はインサイドで力強いポストプレーを見せたかと思えば、次の瞬間にはアウトサイドから正確なミドルシュートを沈め、相手ディフェンスを翻弄していく。内と外を自由自在に使い分けるその戦術は、相手に守備の的を絞らせない圧倒的な威圧感があった。


対する相手チームは、機動力を活かしたスピードバスケを展開していた。ボールを奪うや否や前線へ一気に走り出し、守備陣が整う前に速攻やアーリーオフェンスを仕掛けてくる。電光石火のパス回しと連携により、着実に、そして執拗に得点を積み重ねていった。


全く異なるプレースタイルが真っ向からぶつかり合い、コート上には火花が散るような激しい攻防が繰り広げられる。


「完全なシーソーゲームだな」


斗希が腕を組みながら呟いた。一歩も引かない展開に、ベンチの控えメンバーたちの応援も自然と熱を帯び、体育館のボルテージは刻一刻と高まっていく。


「そうだな……試合が動くのは中盤からかな」


泉翔は冷静に戦況を読み取っていた。両チームとも、今はまだ互いの出方を探り、相手を削り合う消耗戦を強いている。その均衡が崩れた瞬間、勝負の天秤が大きく揺れることを、彼は肌で感じていた。


「姉貴を軸に攻撃を組み立てすぎだなぁ。このままじゃ、そろそろ…確実にダブルチームで詰めてきそう」


斗希が、詩季にばかりボールが集まるチームの現状に対し、鋭い指摘を投げた。詩季の得点能力は群を抜いているが、依存しすぎれば手の内を読まれ、早々に手詰まりになるのは目に見えていると分析していた。


「まあ……圧倒的な実力者と得点源がいれば、そこにボールが集中するのは必然だよ」


泉翔はそう言って、コート上の詩季へ視線を送った。確かに、彼女の強さはそれだけで戦術として成立してしまうほど魅力的だ。


「泉翔なら、どうする?」


斗希は、隣に座る元司令塔の「眼」を試すように尋ねた。


「俺だったら……今は外が狙い目だな。来栖先輩を止めようとディフェンスが内に寄っているから、外角の攻撃手段を増やして守備を散らす」


泉翔は即座に回答を返した。詩季という巨大なおとりを活かし、他の四人をどう機能させるか。それがポイントガードとしての最適解だと見ていた。


「確かにね。……うちの高校のポイントガードは、そこまで見えてるのかな」


斗希はそう言いながら、コート上のポイントガード、莉子の方をじっと見つめた。


「さあな。どうだろう」


泉翔の返事は曖昧だった。莉子の技術は一級品だが、彼女が本当にチーム全体を見ているのか、それとも詩季という絶対的な存在に頼りすぎているのか、まだ確信が持てずにいた。


「他校からワンマンチームと思われたら……終わりだな」


斗希はそう言って、静かに腕を組んだ。その言葉は、まるで試合の結末を予見しているようだった。


それから大きな点差がないまま試合は進んだが、前半の終了間際、ついに相手チームのマークが変わる。斗希の予想通り、詩季に対して容赦のないダブルチームが仕掛けられたのだ。エースという最大の得点源を封じられ、チームの攻撃は完全に停滞する。


「ほら、そうなるわな」


斗希が冷静に言い放った。彼の予見が的中し、コートには一気に重苦しい空気が流れ始める。


しかし、ポイントガードの莉子もまた優秀だった。詩季が抑えられることを予期していたかのように、彼女は攻撃の舵を素早く切り替える。次はアウトサイドへのパス回しに変更し、外角からのシュートで着実に得点を伸ばせるよう、正確なパスを供給し始めた。


「へぇ……。莉子ちゃんだっけ、やるじゃん」


斗希が少し感心したように呟いた。


「そうだな……対応は速い」


泉翔も莉子の状況判断と対応力を認めた。チームは詩季への依存から脱却し、再び流れを取り戻しつつあった。


「だけどこっちのチームさ、ボール保持率が微妙じゃないか? 点は入れてるけど」


「たしかに」


泉翔も納得する。相手チームは明らかにディフェンスで優位に立っていた。こちらのパスコースを読まれ、スティールされる場面を多々見かける。


特に凛と交代するであろう先輩、瀬名舞白は、得点力こそそこそこあるものの、相手の激しいプレスに対するボール保持率や、アウトサイドの攻撃対応が追いついていないようだった。


残酷なようだが、総合的な実力だけで言えば、今の凛の方が明らかに上回っている。泉翔はコートを凝視しながら、その事実を冷徹なまでに確信していた。


そんな実力差とは裏腹に、瀬名舞白という人物そのものは非常に魅力的だった。彼女は誰に対しても物腰が柔らかく、おっとりとしたゆっくりな口調が特徴の人だ。その場にいるだけで周囲を和ませてくれるような明るい笑顔の持ち主で、泉翔も彼女が不機嫌な顔をしているところを見たことがない。 毛先が内側へ巻くように癖のある黒い髪は、普段は下ろしているが、今は後頭部の高い位置で一つに結ばれ、彼女の懸命な動きに合わせて小さく跳ねている。


そんな彼女の醸し出す柔らかな空気とは裏腹に、女子バスケットボール部という場所は、実力だけが唯一の正義とされる過酷な世界だった。


競争率の激しいこの部活において、彼女がようやく掴み取ったレギュラーの座。三年生が引退してから着実に努力を積み上げ、やっとコートに立てるようになった喜びも束の間、凛という圧倒的な才能を持つ転校生が現れた。 自分の居場所が今まさに奪われようとしていることを、舞白自身が誰より理解しているはずだ。それでもなお、彼女は常に笑顔を絶やさず、チームの柱の一人として走り続けている。


莉子が、あれほどまでにあの先輩を慕う理由もよくわかった。莉子と二人で日が暮れるまで練習に励む舞白の姿を、男子バスケ部に所属していた頃泉翔も何度か見かけていた。その泥臭い努力を間近で見守ってきた莉子にしてみれば、突然現れた凛に居場所を奪われようとしている今の状況は、到底気持ちのいいものではないのだろう。


結局、前半は大きな動きがないまま終了した。ハーフタイムを告げるブザーが体育館に鳴り響く。電光掲示板が示すスコアは32対37。こちらの高校が5点差を追いかける展開で、試合は運命の後半戦へと持ち越されることになった。


インターバル中、ベンチでコーチから指示を受けたのか、凛がすっと立ち上がってコートサイドでアップを始めた。


「凛ちゃん、アップ始めたね。後半から出るっぽいな」


斗希が身を乗り出して言う。泉翔は黙って頷いた。だが、その瞳は凛のわずかな異変を捉えていた。どこか動きが硬い。


「凛ちゃん、緊張してるのかな?表情が硬いな」と 斗希の問いに、泉翔は冷静に分析を返す。


「ほどよく、どころじゃないかもな。あいつ、意外と緊張しぃなんだよ。一度ミスをすると自分を追い詰める癖があるし」


凛が実力を出し切れるか。泉翔が懸念を抱いたその時、隣にいた斗希が唐突に立ち上がった。


「凛ちゃーん! がんばれー!」


静まりかけた体育館に、斗希の突き抜けるような声が響き渡る。 しかし、凛にはその声が届いていないのか、集中した様子でアップを続けていた。


「ほら、泉翔も応援しないと!」


斗希は泉翔の腕を掴み、無理やり立ち上がらせようとする。


「やめろよ、斗希!」 泉翔は声を荒らげて抵抗した。


ここにいることは凛に内緒だったのだ。大きな声を出されては台無しだ。案の定、二人の言い争いは目立ち、階下の女子バスケ部員たちが「なにあれ」と指をさし始めた。


部員の一人が凛の肩を叩き、二階席を指差して耳打ちをする。凛がハッとして見上げ、二人の姿を捉えた。一瞬、驚きに目を見開いたかと思うと、彼女は顔を真っ赤にして、勢いよく顔を背けた。


「ほら、凛ちゃんこっち見たじゃん!」 と斗希は楽しそうに笑う。


「最悪だ……。帰ったら絶対怒られる」


泉翔は本気でうんざりした声を出すが、斗希はサングラスを指で直しながら言い放った。


「案外、これで緊張が解けて最高かもよ?」


改めて凛の方を見ると、彼女は二人に向かって明らかに不機嫌そうな顔をしていた。


「……おい、斗希」 泉翔が低い声で呼ぶ。


「ん?なに?」


「蓮見のやつ、こっちに向かって中指立ててるぞ…」


「うける……最高だね」


斗希はこらえきれずに笑い声をあげた。 だが、そんなやり取りの末に、凛の強張っていた表情がわずかに柔らかくなったのを、泉翔は見逃さなかった。


後半開始の直前、コートの脇で二人の選手がすれ違った。 ベンチへ戻る舞白が、これからコートへ入る凛の肩にそっと手を置く。


「……凛ちゃん、ごめんね。あとはお願いしてもいいかな」


舞白は、いつものおっとりとした口調で、申し訳なさそうに微笑んだ。額には大粒の汗が浮かび、高い位置で結んだ黒髪も乱れている。前半を戦い抜き、事前に決まっていたことではあったが、後輩との選手交代。 一人の選手として、悔しさがまったくないわけではないはずだが、今の舞白にそんな素振りは微塵もなかった。ただ、彼女の瞳にあるのは後輩への純粋な期待だけだった。


「はい。……しっかり、繋いできます」


凛は短く答え、舞白の目を見つめ返した。


その真剣な眼差しを受け、舞白はふっと目元を緩めた。 彼女は後頭部で結んでいた髪紐を指先でするりと解いた。束縛から放たれた黒髪が肩に落ち、内側に巻いた毛先がふわりと揺れる。


「ふふ、頼もしいな」


どこまでも優しく笑い、舞白はそのままベンチへと下がっていく。やり遂げた疲労感と、後輩にすべてを託した潔さが、その背中には漂っていた。


「いよいよかぁ……。凛ちゃん、頑張れー!」


再び斗希が、二階席から身を乗り出すようにして手を振る。


先ほど二階を見上げて顔を赤くしていた様子とは打って変わり、凛の眼差しは鋭く研ぎ澄まされていた。一気にプレイへと没入していくその集中力の高さは、遠目から見ても明らかだった。


だが同時に、その張り詰めた緊張感はギャラリー席にいる泉翔にまで伝わってくるようだった。


凛は一度ミスを犯せば、その責任をすべて背負い込み、自分自身を執拗に追い詰めてしまう。舞白の優しさやあのお願いさえ、今の彼女にとっては劇薬になりかねない。


危ういバランスの上に成り立つその集中力が、どうか悪い方向へ弾けませんようにと 泉翔は祈るような心地で、一歩を踏み出した凛の背中を固唾を呑んで見守った。


後半が開始されると、莉子は徹底して詩季を中心に攻撃を組み立てた。


莉子から凛へのパスは一本も出ない。ボールが凛の手に渡るのは、リバウンドを拾った他のメンバーや、ダブルチームに苦しむ詩季から無理やりパスを回された時だけだ。


エースである詩季にマークが集中している以上、周囲を活かして守備を分散させるのは、ポイントガードとして最良の選択肢に見える。事実、チームは詩季の圧倒的な力押しによって、なんとか食らいついていた。


だが、ギャラリー席の二人は、その不自然な「最適解」に強い違和感を抱いていた。


「練習の成果は出ているみたいだな」


莉子からの供給こそないものの、他のメンバーからのパスに対し、凛は危なげなく、かつ機敏に対応していた。泉翔との特訓が、確実に彼女の動きを変えている。


「そうだな……」 泉翔は短く呟いたが、不安要素は拭いきれない。無意識のうちに、膝に置いた手に力がこもる。


「だけど……莉子って子、一度も凛ちゃんを見てないな」


斗希が腕を組み、冷ややかな声で呟いた。その指摘に、泉翔もまた確信を深める。莉子は意図的に、凛へのパスコースを自らの選択肢から完全に切り捨てているのだ。


現状、チームは五点差を追いかける劣勢にある。ここで凛との連携ミスを犯し、さらに点差を広げるわけにはいかないという、司令塔としての慎重な判断もあるのかもしれない。


しかし、それ以上に彼女を突き動かしているのは、ベンチで見守る舞白への、歪なほどに純粋な想いだった。


ここで凛を活躍させてしまえば、舞白のレギュラー降格を自らの手で決定づけることになってしまう。莉子の胸中には、チームの勝利という義務と、親愛なる先輩の居場所を守りたいという私情が激しく火花を散らしているに違いなかった。その葛藤の末に彼女が選んだのは、あえて凛を使わずに、詩季という「これまでの正解」に縋り付く道だった。


「このままじゃジリ貧になる気がする……」


泉翔は苦々しく吐き捨てた。莉子のパスには、コート全体を見渡す広い視野がありながら、凛のいる場所だけが、まるで最初から存在しないかのように白く塗り潰されていた。しかし、そんな莉子の意図的な無視を、相手チームが見逃すはずもなかった。


「蓮見を使わないの…バレたな」


泉翔が低く呟いたのとほぼ同時だった。相手のディフェンス陣が、露骨なまでに詩季と他のメンバーへのマークを強め、凛を「あえて完全にフリーにする」という策に出たのだ。


凛にボールが渡らないことを確信した相手は、実質的に四対五の状況を作り出し、詩季へのダブルチームをさらに徹底させる。パスコースを限定された莉子は、次第に自陣の深い位置で孤立し始めた。


「まずいな……。莉子ちゃんのパスの逃げ道がなくなってる」


斗希の指摘通り、莉子は完全に追い詰められていた。 凛は絶好のポジションで手を挙げ、何度もパスの合図を送っている。しかし莉子の瞳は、必死にそれ以外の道を探して泳いでいた。舞白から奪い取ったその場所に立つ凛を、チームの一員として認めたくないという意地が、司令塔としての判断を鈍らせていく。


だが、現実は残酷だった。 激しいプレスに耐えかねた莉子が放ったパスは、コースを読んだ相手のガードに弾かれ、そのまま速攻を許してしまう。


「おい、ふざけんな!」


見かねた斗希の鋭い怒号がコートに響いた。点差はさらに開き、42対51。9点差。 このまま私情を優先して意地を張り続ければ、チームの負けは確定する。


莉子の呼吸が激しく荒くなる。勝たなければならないという使命感と、舞白の居場所を死守したいという執念が、彼女の中で泥沼のように絡み合っていた。ベンチでは、交代したばかりの舞白が心配そうに自分を見つめている。その濁りのない視線こそが、今の莉子には何よりも重く、刃のように突き刺さった。


相手の包囲網がさらに狭まり、詩季へのパスコースが完全に断たれた。 もはや、逃げ場はない。莉子は唇を噛み締め、屈辱に歪む表情を隠すようにして、ついに凛の方へと右腕を振り抜いた。 だが、その瞬間は最悪だった。


莉子がマークを振り切ろうと一歩踏み出したちょうどその時、莉子の目の前には相手ディフェンスの大きな影が割り込んでいた。激しい密着マークにより、莉子の視界から凛の姿が一瞬だけ完全に消える。


出しどころを見失った莉子のパスは、コンマ数秒、決定的に遅れた。


一方で凛もまた、いつまでも自分を無視し続ける莉子からのパスを半ば諦めかけていた。その一瞬の迷いから、ボールが来ると信じきれずに視線を外してしまう。


結果として、死角から強引に放たれた弾丸のようなパスは、凛の指先を虚しくかすめ、そのままサイドラインの外へと転がっていく。


「……ッ!」


体育館に、重苦しい静寂が流れた。 最も避けるべき場面での、初歩的な連携ミス。それが意味するのは、今のこのチームに凛の居場所などどこにもないという残酷な事実の露呈だった。


「どこ見てんのよ!」


莉子が鋭い声を上げた。その顔は焦りで怒りと苛立ちに染まり、今のパスミスをすべて凛のせいにせんばかりに激しく睨みつける。ようやくパスを出したのに、なぜ取れないのか――。その瞳に浮かぶのは、舞白の代わりにコートに立った凛への憎悪に近い悔しさだった。


「……ごめんなさい。次は、次はうまく取るから……っ」


凛は消え入りそうな声で、申し訳なさそうに謝罪した。いつもの彼女なら言い返しそうなものだが、今は舞白から託された重みと、チームに馴染めていない不安が彼女を弱気にさせていた。


「……最悪」


吐き捨てるような、しかしはっきりと凛の耳に届く、低く冷めた声だった。 莉子は凛の言葉を遮り、まともに取り合おうともせず、背を向けて自陣へと戻っていく。


その一言には、ミスへの怒りだけでなく、舞白の場所を奪っておきながら足を引っ張る凛という存在そのものへの嫌悪が凝縮されていた。凛を受け入れるつもりなど微塵もないという拒絶の意思が、その背中にはっきりと張り付いている。


「……っ」


凛は言葉を失い、立ち尽くした。 謝罪さえ踏みにじられたショックと、言い返せない自分への不甲斐なさが、彼女の肩を小さく震わせる。


二階席でそれを見ていた泉翔は、無意識に手すりを握る手に力を込めていた。莉子のパスには「通そう」という意思よりも、今の苦境を凛に押し付け、彼女をチームから排除しようとする身勝手な響きがあった。


「……最悪なのは、どっちだよ」


泉翔が低く、押し殺したような声で呟いた。 隣に座る斗希もまた、いつになく不快そうに顔を歪め、低い声で吐き捨てる。


「最悪のタイミングだな。点差より先に、チームのほうが壊れそうだよ。凛ちゃん、完全に浮いてる」


斗希の言葉通り、コート上の空気は氷点下まで冷え込んでいた。チーム内の信頼関係が、今まさに音を立てて崩れ去ろうとしている。


斗希は「姉貴もなにしてる…」といまチームが崩壊しかけているのにも関わらず何も言わない詩季に苛立っていた。


相手チームはその隙を見逃さず、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。信頼の崩れたチームなど、もはや恐れるに足りないと言わんばかりだった。


点差は9点のまま、試合は再開される。だが、莉子の露骨な拒絶によって、凛はコートという名の檻に閉じ込められたかのように、さらなる窮地へと追い込まれていく。


重苦しい沈黙を切り裂くように、詩季が凛のそばへ歩み寄った。 詩季は凛の頭をぽんぽんと、小さな子供を慰めるように優しく撫でる。


「……大丈夫よ。失敗しても気にしないで。次取り返すわよ」


短く、けれど確かな体温の宿った言葉。それだけを告げると、詩季はすぐに自分のポジションへと戻っていった。その凛とした背中に押されるように、「…はい、すみません」と凛もまた小さく頷き、震える足を動かしてコートへと散っていく。


だが、エースのその配慮さえ、今のチームを救う薬にはならなかった。


試合が再開されると、莉子は追い詰められた末に、しぶしぶといった様子で凛へパスを出す。しかし、そこには味方への信頼も、シュートを打たせようという意志も欠落していた。


無理な体勢からの乱暴なパスや、相手に読まれきったタイミングでの供給。莉子がパスを出すたびに、ボールは無惨に場外へと弾け、あるいは相手チームに易々とスティールされる場面が目立ち始める。


「……まただ」


泉翔が苦々しく呟く。 莉子のパスと凛の動きが、恐ろしいほど噛み合っていない。莉子は「出してやったのに取れない方が悪い」という態度を崩さず、対する凛も、いつ来るか分からない、あるいは意地悪にさえ感じるパスに、反応が一歩ずつ遅れていく。


「気にするな」という詩季の言葉に応えたいという焦りが、凛の動きをさらに硬くさせていた。


「ダメだ。噛み合えば噛み合うほど、二人の距離が離れてるな……」


斗希の言葉通り、コート上の溝はもはや修復不可能なほどに深く、暗く広がっていた。九点あったはずの点差は、その連携ミスを突かれるたびに、少しずつ、けれど確実に開き始めていた。連携ミスを突かれた速攻、焦りからくる不用意なファウル。積み重なったミスは相手チームに絶好の機会を与え続け、ついにスコアボードの点差は二桁へと達した。


残り時間を考えれば、もはや逆転は絶望的と言ってもいい状況だった。それまで響いていた味方の応援も次第にまばらになり、体育館にはただ、虚しくバッシュがコートを叩く音と、相手チームの歓喜の声だけが響く。


凛は、悔しさのあまり顔を歪ませていた。ユニフォームの裾を強く握りしめ、必死に感情を押し殺そうとしている。しかし、噛み締めた唇は微かに震え、その瞳には自分への不甲斐なさと、拒絶され続ける孤独が滲んでいた。


ベンチで見守る舞白も、何とも言えない表情でコートを凝視していた。凛を気遣いたいという優しさと、それでもチームが負けていくことへの悲痛な思い。それらが混ざり合い、彼女の穏やかな微笑みは完全に消え去っていた。


「……もう、見てられないよ」と斗希が絞り出すように言った。


莉子は、もはや凛の方を見ようともしない。詩季だけが孤軍奮闘を続けているが、一人の力で埋められる点差ではなかった。


そんな冷え切った空気の中、凛はただ一人、まるで見えない重たい鎖に繋がれたかのような足取りでコートを彷徨っていた。


第3クォーター終盤。無残に開き続ける点差に、ついに顧問がタイムアウトを要求した。だが、その笛が鳴る直前、さらなる追い打ちが凛を襲う。


焦燥に駆られて強引にボールを奪いに行った凛が、相手選手と激しく接触したのだ。乾いた笛の音が響き、非情にも凛のファウルが告げられる。


「っ……」


凛はその場に膝をついた。激しい接触のせいか、それとも心が悲鳴を上げたのか。彼女のバッシュの靴紐が、解けた糸のように力なくコートに投げ出されている。審判によって一時的な中断が与えられ、試合が止まった。


静まり返った体育館。二階席からその光景を眺めていた斗希が、隣に座る泉翔をじっと見つめる。


「……泉翔、いいのか? このまま放っておいて」


唐突な問いかけだった。泉翔は答えない。ただ、手すりを握る拳が白くなるほどに力がこもっている。


「なぁ、泉翔ってば」


斗希が追い打ちをかけるように、その名を呼んだ。 泉翔は重く、長い沈黙の末、ふっと手すりを握っていた拳の力を抜いた。


「……蓮見から、口を挟むなって言われてるんだ」


どこか自分に言い聞かせるような、押し殺した声だった。約束を守ろうとする不器用な誠実さに、斗希は信じられないといった様子で深い溜息を吐き出した。


「お前さぁ……そんな約束と今の状況、どっちが大事だと思ってんの?」


黙り込む泉翔を見かねて、斗希は苛立たしげに髪をかき上げる。


「今の凛ちゃんに必要なのは、そんな義理立てじゃないだろ。俺はあんな状況、見過ごせないね」


そう言い捨てると、斗希は迷いなく席を立った。 そして、去り際にもう一度だけ振り返り、鋭い視線を突き刺す。


「泉翔ってば、本当にいいのか? 」


泉翔は黙ったまま席を立った。「お、おい…泉翔」 驚いて目を見開く斗希を背に、泉翔は迷いのない足取りで階段へと向かう。観客席から階下へと降り、コートサイドの柵を抜けた泉翔は、周囲のどよめきを無視して、まっすぐに自分の母校のベンチへと歩き出した。


一時的に中断されたベンチには、先ほどまでコートに立っていた面々も集まっていたが、その空気は最悪だった。


「先生、お願いです、蓮見さんを交代させてください! このままじゃ本当に負けます!」


莉子が顧問に詰め寄り、なりふり構わず捲し立てている。詩季が横から「風見、落ち着きなさい」と宥めているが、興奮状態の彼女の耳には届かない。ベンチサイドには、気まずさに目を逸らす者や顔を伏せる者が溢れ、耐えがたい重苦しさが漂っていた。


一方で、凛はファウルを犯した場所のすぐ近くで、一人膝をついていた。解けた靴紐を結び直そうとしているが、指先が震えているのか、長さが合わないのか、何度も結んでは解き、解いては結び直す動作を繰り返している。


「川神くん……? どうして」


ベンチの近くまで来た泉翔に、マネージャーの千佳がいち早く気づいて声を掛けた。


「篝……タオルあるか?」


「えっ、あ……ちょっと待って。……はい」


千佳は戸惑いながらも、ベンチから新しいタオルを一枚取って手渡した。


「これ、借りるな」


「う、うん……」


泉翔は短く応えると、それを受け取り、真っ直ぐに凛へ歩み寄った。 近づいてくる気配に気づき、凛が顔を上げる。


「川神……」


掠れた声。見上げたその瞳には驚きと、堪えきれない涙が微かに滲んでいた。泉翔は「蓮見」と一度だけ名を呼んだが、彼女と視線が合う直前でふいっと顔を逸らし、彼女の足元の靴紐に目を落とした。


「……何しに来たのよ」


強がってはいるが、その背中は小さく震えている。泉翔は何も言わず、凛の背後に立つと、持っていたタオルを彼女の頭の上にそっと被せた。


視界を塞がれた凛が、小さく息を呑む。周囲から自分の泣き顔を隠してくれるような、その不器用な優しさ。


「……大丈夫だ、蓮見」


その一言は短かったが、騒がしい体育館の中で、凛の心にだけは驚くほど静かに、深く届いた。泉翔は続けて、噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「蓮見が今日の今までどれだけ努力してきたか……俺はわかってる。だから、焦るな」


凛はゆっくりと顔を上げ、泉翔を見つめた。 ふわりとタオルの隙間から視線がぶつかる。二人の間に、放課後の公園で、共に汗を流し、何度もパスを交わしてきた日々が走馬灯のように駆け巡った。震えていた凛の肩はいつの間にか止まっていた。迷いの消えた手つきで、彼女は一気に靴紐を締め上げる。そこには、歪みのない、綺麗な左右対称の結び目が出来上がっていた。


凛は力強く立ち上がると、視線を真っ直ぐに泉翔へ向けた。凛はそう言って、泉翔にタオルを差し出した。 見開かれたその瞳は、暗い霧が晴れたかのように澄み渡り、真っ直ぐな光を宿していた。


「川神……ありがとう。最後まで、ちゃんと見ててよ」


「……ああ。行ってこい」


泉翔の手へとタオルを返す。再びコートへと背を向けて走り出す凛の姿からは、先ほどまでの怯えた影は消え、誰よりも大きく、頼もしく見えた。


凛は審判に向かって「お待たせしました」と凛とした声で告げる。 その瞬間、試合再開を告げるホイッスルが会場中に鋭く鳴り響いた。


「……凛ちゃん、大丈夫か?」


ベンチ際まで戻ってきた泉翔に、心配そうに駆け寄った斗希が声をかける。泉翔はすぐには答えず、凛から返された、まだ彼女の体温が残るタオルを一度強く握りしめた。


「……たぶん、大丈夫だ」と 短く返したその声には、先ほどまでの焦燥とは違う、確かな信頼が混じっていた。


しかし、会場を包む空気は依然として重い。二桁まで開いた点差、ボロボロになったチームワーク。誰もがこの試合の行く末に、拭いきれない不安を抱いていた。


第3クォーター、残り4分弱。試合は相手側のボールからスタートした。これ以上点数を離されれば、第4クォーターでの逆転は事実上ほぼ不可能になる。もう、一つのミスさえ許されない極限の状況だった。


「まず一本、守るわよ!」 詩季の鋭い声が飛ぶ。


相手チームは崩壊しかけたチームの隙を突こうと、ゆっくりとしたドリブルで運び始めた。慎重なパスワークを使い、左右からどう展開するか、こちらの動揺を誘うように模索しているのが伝わってくる。だが、センターラインを越えたあたりで相手チームは一転、スピードを上げて一気になだれ込んできた。


その刹那、凛が動いた。 自分の守るべきポジションを放棄するかのように、相手の真っ只中へ向かって突撃していく。


「蓮見さん……っ!?」 持ち場を離れた凛の独断に、詩季が思わず声を上げる。


だが、凛には見えていた。相手が左右の揺さぶりから放とうとした、次の一手――パスコースの軌道。凛は空中に放たれたボールを奪い取るべく、ライン上へ迷わず跳躍した。


誰もが「飛んでいる」のかと錯覚するほどの滞空時間。そして驚くべきことに、彼女はその瞬間、ボールを見てすらいなかった。それでも、彼女の右手に吸い寄せられるように、放たれたボールは吸い込まれていった。


空中でボールを奪った凛は、着地と同時にもう一度跳躍する。まだセンターライン付近という超長距離から、迷うことなくその腕を振り抜いた。


高らかに放たれたボールが、体育館の照明を背に綺麗な放物線を描く。静まり返った会場の視線が、その一点に集中した。


金属音一つ立てず、ただ柔らかなネットの摩擦音だけを残して、ボールは真下に貫通した。 揺れるネットの白さが視界に残る中、遅れて審判のホイッスルが鳴り、3点の加算が告げられる。


「…………え?」


誰の声だったか。敵も味方も、そして罵声を浴びせていた莉子さえも、今の信じられないプレイに反応できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。体育館には、異様なまでの沈黙だけが流れていた。


静まり返った体育館に、遅れてベンチから万雷の拍手と歓声が沸き起こった。観客席も一気に温度を上げ、一人の少女が起こした奇跡に沸き立っている。


だが、凛はその歓声に反応すらせず、淡々と自身のポジションへと戻っていく。称えようとするチームメイトに目もくれず、ただ次の獲物を狙う獣のように、相手チームの攻撃を待っていた。


その異様な気配に、詩季が歩み寄る。


「……蓮見さん、さっきのプレイ……」


何か言葉をかけようとした詩季だったが、凛の横顔を見て、思わず言葉を飲み込んだ。 凛は両目を見開き、口をわずかに半開きにしたまま、一点を見つめていた。それは集中という言葉では片付けられない、外部の情報を遮断し、勝利への最適解だけを演算しているような極限の集中状態だった。


「詩季先輩……」


莉子が不安げに声をかけるが、詩季はそれを手で制した。


「いいえ……いいわこのままで。このまま行くわよ」


今の凛に触れてはいけない。今、彼女の集中を乱せば、この熱量は二度と戻らない――。本能的にそう察した詩季は、莉子を宥めるように短く告げた。


詩季はベンチへタイムアウトの要求をキャンセルするジェスチャーを送る。顧問は一瞬、戸惑うように眉をひそめたが、詩季の揺るぎない眼差しに圧されるように、審判へキャンセルの合図を告げた。


高らかにホイッスルが鳴り、試合が再開される。 今度はパスを警戒した相手チームが、ドリブル主体で慎重にボールを運んできた。だが、凛は再び獲物を狩りに動く。


相手のドリブルを止めるべくコースへ入り込むと、姿勢を極限まで低くし、接触ギリギリのラインを冷徹に見極める。そしてすれ違いざま、目にも止まらぬ速さでボールを掻き出した。


「えっ……?」


驚きに体を反転させる相手選手を置き去りにし、凛はそのまま一気に駆け上がる。相手も必死に追いすがり、フォローに入って進路を塞ごうとする。 しかし、凛は止まらない。


猛スピードからの急停止、そして次の瞬間にはトップスピードへ。スピード「0」から即時に最高速へ乗る超人的な緩急に、ディフェンスの体制は無残に崩れ、その場に棒立ちのまま抜き去られた。 スピードに乗ったドリブルを維持したまま、凛は吸い込まれるようにレイアップを放つ。


放たれたボールは吸い込まれるようにネットを揺らし、再びゴールが決まった。


凛の怒濤の連続ゴールにより、絶望的だった二桁の点差は、瞬く間の一桁差へと縮まった。会場中がその衝撃に揺れる中、観客席の斗希が、コートを駆ける凛の背中を見つめながら静かに呟いた。


「さすが、星奈翼の娘さんだな」


その名に、隣にいた泉翔がわずかに眉を動かし、鋭く反応した。


「星奈翼……? 以前、女子バスケの日本代表だった、あの?」


「そうそう。お前なら当然知ってると思ってたけど……知らなかったのか?」


「……知らなかった」


「なんか面影があるなと思って、調べてみたんだよ」


泉翔の脳裏に、かつてコートを席巻した伝説的な選手の姿が浮かぶ。そんな彼に、斗希は「これだよ」と、スマホに保存してあった過去の雑誌記事を見せてきた。泉翔は差し出されたスマホを手に取ると書かれていた記事の内容を目で追う。


「中学時代、凛ちゃんは相当有名だったんだよ。バスケの月間雑誌でも特集を組まれたりしてさ。当時は『次世代のホープ』なんて、かなり騒がれてた」


スマホの画面の中には、今よりも少し髪が短く、幼さの残る凛がいた。けれど、その瞳に宿る眼光の鋭さは今以上で、コートを完全に支配する姿が鮮明に映し出されていた。


『星奈翼を継ぐ異能――奇才、蓮見凛』


見出しに躍るその文字を見つめながら、泉翔は再びコートの凛に視線を戻した。斗希は続けて語る。


「当時は星奈翼選手名を文字って変なキャッチコピーとか…ほら『天与の翼を授かったギフテッド』とか呼ばれていたみたい。もともと星奈翼選手も身体能力が凄まじいと言われていたけど、それを完璧に引き継いでいるのが凛ちゃんなんだって。…あといくつか変なキャッチコピーつけて盛り上がっていた記事が…」


斗希は「ほら」とスマホ画面をスライドさせた。 そこには、彼女の跳躍力、しなやかな身のこなし、そして一瞬で敵を置き去りにする爆発的な突破力が絶賛されていた。テクニックの粗さこそ指摘されていたが、それを補って余りある圧倒的な運動能力。天賦の才だけでねじ伏せる「怪物」の記録が書かれていた。


「だけどさ、凛ちゃん突然バスケの世界から消えたんだよ。その時も結構騒がれていたみたい。『次世代のホープが消えた』って、面白おかしく胸糞悪い記事を書かれたりしてて…確か、中3の秋ぐらいだったかな」


「中3の、秋……」


泉翔の脳裏に、以前凛がポツリと漏らした言葉が蘇った。 ――『中3の秋から、音が聞こえなくなった』。


かつての「ホープ」が表舞台から姿を消した時期と、彼女が聴覚障害を患った時期が、残酷なほど正確に一致していた。


「あれからずっと表に出てなかったけど、まさかこんなところでお目にかかるとは思わなかった」


斗希は最後にははと軽く笑い、スマホをポケットにしまった。 その膨大な知識量と、かつてのスターを隠れた高校で見つけ出した幸運に、泉翔は呆れたように口を開く。


「……俺は、斗希の情報収集力の方に驚きだよ」


「はは、これくらい基本だって。……それにしてもさ」


斗希は不敵な笑みを浮かべたまま、コート上の凛に視線を戻した。


「凛ちゃんは、もともと常人離れした身体能力を生かしたプレイをしたのは、記事でしっていたからだけど。今の今までしなかったのはわからないな。泉翔、なんか言ったんだろ?」


「い、いや……別になにも……」


核心を突かれた泉翔は、動揺を隠すように視線を泳がせた。 実際、放課後の練習を共にしていた時、凛がこれほどまでに身体能力を前面に押し出したプレイを見せたことは一度もなかった。それどころか、彼女が「次世代のホープ」とまで呼ばれた有名選手だったことすら、今の今まで知らずにいたのだ。


中三の秋、突如として表舞台から姿を消した天才少女。 もし、その時期に患った聴覚障害が原因で、かつてのプレイスタイルができなくなっていたのだとしたら、今の凛は相当な無理をしているのではないかと不安要素が強くなる。


ふと、以前チンピラと2on2をした際、彼女がふらついた時のことが脳裏をよぎる。あの異様な疲れ方は、単なるスタミナ切れなどではない。激しいプレイそのものへの負荷もさることながら、そもそも今の彼女の身体は、長時間にわたってコートに立ち続けること自体ができないはず。


そう考えると、泉翔の胸に得体の知れない不安が一気に込み上げてきた。二人の会話がちょうど途切れたその時だった。


その泉翔の危惧をよそに、コート上の空気は一変する。 相手チームの激しいプレッシャーに、司令塔の莉子は余裕を失っていた。凛が着実に結果を出していてもなお、相手のマークは依然として詩季に集中している。攻めあぐねる最悪の状況を打破できぬまま、ふと視線を振れば、またしても凛へのパスコースが空いていた。


莉子の指先が微かに震えた。無視できないほど決定的な隙。しかし、莉子は最後まで素直にパスを出すことを拒んでいた。ここで凛へ繋がなければ負ける。だが、心の中では「どうせまたキャッチミスをする」という不信感が、理屈を上回っていた。


なかなかパスを出せずにいる莉子に、焦れた詩季が声を荒らげる。


「風見!」


その鋭い一喝に弾かれるようにして、莉子はなかば悔し紛れに凛へとボールを放った。 だが、一瞬の迷いは致命的なズレを生む。パスのタイミングは遅れ、さらに相手選手の指先をかすめたことで、ボールの軌道はわずかに逸れた。誰もが「またパスミスか」と思った、その瞬間――。


凛は、側面から迫る不規則なボールを、ノールックで完璧にキャッチしてみせた。


そのまま低く沈み込むような独特のステップで、即座に相手エリアへと切り込む。淀みのない予備動作でトップスピードに乗り、カバーに入ったディフェンダーをも一歩目で鮮やかに置き去りにした。


「なっ……!? い、今のパスを取った……!?」


莉子は目を見開いた。今の今まで、自分のパスには全く対応できていなかったはずだ。それなのに、今の凛はまるで「次にボールが来る場所」を最初から知っていたかのような、迷いのない動きを見せている。


凛はそのままペイントエリアへと切り込み、相手校の優秀なセンターが壁となって立ちはだかる。凛のシュートコースを完全に塞ぎ、圧倒的な高さで叩き落とそうと長い腕を伸ばした。


だが、凛の狙いは自分での得点ではなかった。


「……詩季先輩!」


空中でセンターを十分に引きつけた瞬間、凛の視線は逆サイドを射抜く。マークが甘くなっていた詩季へ、文字通り「高速」の矢のようなパスを突き刺した。


完璧なタイミングでボールを託された詩季が、そのまま力強くゴールを揺らす。


「な……なんなのよ、今の……!」


不規則に崩れたパスを完璧に制御し、さらには自分以上の視野でパスを捌いてみせた。その背中に、莉子はこれまで感じたことのない屈辱と、得体の知れない恐怖を感じていた。


その莉子の動揺をかき消すように、コートに明るい声が響く。


「ナイスパスよ、蓮見さん!」


「はい、詩季先輩!」


得点を決めた詩季が、弾けるような笑顔で凛の手を叩く。二人の間で交わされた熱いハイタッチ。


「……っ」


その歓喜の輪のすぐ傍らで、莉子はただ一人、いたたまれない気持ちで立ち尽くしていた。 自分が否定し、排除しようとしていた存在が、今や自分以上の精度でチームの心臓として機能している。


会場の熱狂が遠くの方で鳴り響く中、莉子だけが、自分だけがこの場所から取り残されてしまったような、冷たい孤独感に打ちのめされていた。


「いい感じじゃん、凛ちゃん」 斗希は満足げに目を細め、軽やかな声で言った。莉子の悪意あるパスを圧倒的な技術で「正解」へと書き換えてみせた凛。その姿は、かつてのホープがようやく目を覚ましたことを告げているようだった。


「……そうだな」 泉翔は短く応じた。莉子に代わって凛がチームの軸になりつつある現状は、作戦としてはこれ以上ない成功だった。だが、間近で見る凛の肩の激しい上下は、泉翔の目には限界を知らせるカウントダウンのように映っている。


――ビーッ!


そこで第3クォーター終了のブザーが体育館に鳴り響いた。一時は絶望的だった点差は、凛の鬼神のごとき活躍によって、ついに一桁――わずか6点差まで詰め寄られていた。


片耳の聴力を失い、一度は挫折した天才。だが彼女は今、自らの意志で再び立ち上がり、かつての場所へ舞い戻ろうとしていた。


コートから戻ってくる凛の足取りは、先ほどまでの迷いなど微塵も感じさせないほど力強い。だが、その表情は周囲を撥ね退けるような冷徹な集中状態を保ったままだ。


静かにベンチへ戻る凛を、莉子が、顧問が、そしてチームメイトさえもが、言葉を失ったまま見つめていた。


凛はベンチに腰を下ろすと、肺の底から深い溜息を吐き出した。普段とは明らかに違う、人を寄せ付けない鋭い覇気に、他の部員たちは声をかけることすら躊躇っている。


「蓮見さん、これ……」 マネージャーの篝が、恐る恐る新しいタオルを差し出した。凛はそれを受け取ると、一瞬だけ柔らかく微笑んで「ありがとう」と返す。だが、そのままタオルを深く頭から被ると、再び外界を遮断するように己の世界へと沈み込んだ。


その態度が、莉子の逆なでされたプライドに火をつけた。


「蓮見さん! あんたさっきから勝手なことしないでくれる!?」


苛立ちを隠さず詰め寄る莉子。不意に凛が顔を上げた。その眼差しは、ミスをする度におどおどしていた以前の彼女とは似ても似つかない。射抜くような強く真っ直ぐな瞳が、莉子を正面から捉える。


「え?……なに?」と 掠れた低い、けれど芯の通った声。


「もう少し、チームの連携を考えてプレイしてって言ってるの!」


莉子は一瞬その迫力にたじろぎながらも、負けじと言葉をぶつけた。


「うん……わかった」凛は短くそれだけを返すと、すぐに視線を外し、再び極度の集中状態へと戻る。


「ちょっと、まだ話は終わってな……!」


食い下がろうとした莉子の前に、割って入ったのは詩季だった。


「落ち着きなさい、風見。あなたにも日頃から非はあるわ。少し状況を考えなさい」


「でも…詩季先輩」


「でも?」


「な、なんでもないです…」


キャプテンの冷徹な制止に、莉子はそれ以上何も言えず、唇を噛みしめながら凛から逃げるように距離を置いて腰を下ろした。


「おーこわ……」と その光景を見ていた斗希が茶化すように言うと、泉翔は「……やめろ」と小突く。


泉翔の視線の先で、凛は一人、第3クォーターのプレイを脳内で反芻していた。 今のスティールの角度、あと数ミリ早ければもっと楽に奪えていたはずだ。着地の時の左足も、少しだけ重心が外側にぶれていた。凛は小さく息を吐きながら、膝の上で指先をピアノを弾くように細かく動かす。まるで脳内の映像をスローモーションで再生し、一つ一つの動作のバグを書き換えていくかのように。彼女の唇からは、周囲には聞き取れない微かな呟きが漏れ、修正された理想の動きが彼女の神経を再び研ぎ澄ませていった。


インターバルが終わり、試合開始のホイッスルが響く。他のメンバーが続々とコートへ向かうなか、凛だけはまだ動かなかった。ベンチに座り、膝の上で指先を動かし続ける彼女の姿は、まるで彫像のように静謐で、どこか近寄りがたい拒絶感すら漂わせている。


千佳が不安げに寄り添い、その肩にそっと手を伸ばした。


「……蓮見さん…蓮見さん!」


声が聞こえていないのか、どうしようと困った顔をする千佳だったが、見かねた泉翔が、ベンチに置いてあったドリンクボトルを手に取る。


「篝……中身、水か?」


「う、うん。それは水だね」


「わかった」と言うと、泉翔は凛のタオルを深く被った頭に少し水を掛ける。 やっと気づいたのか「冷た! 何すんのよ」と言い顔を上げる凛。


泉翔は呆れた声で「集中しすぎ…。もう始まるぞ、みんなコートに行ってる」 と伝える。凛はひと睨みして泉翔の手の中にあったドリンクボトルを強引に奪うと一口含んで身体へ流し込んだ。


ドリンクボトルを泉翔の胸元へ押し付けると「行ってくる!」とにこやかに微笑みながら、彼女はコートへ戻っていった。


千佳が「…蓮見さんと仲良いね、川神くん。私、全然フォローできていないや。マネージャーなのになぁ」とははと笑い、俯く。


「そうか?」


「うん。あんなに嬉そうな笑顔するんだね、蓮見さん。いつも張り詰めた感じでバスケしてたから」


たしかに、あんな笑顔で楽しそうにバスケットコートに戻る彼女を見るのは、泉翔も初めて見た。今日この時まで、バスケットボールをすることすら、どれほどのプレッシャーに感じていたのだろうかと思わせる程だった。泉翔は、去っていく背中に改めてその想いを馳せた。


ベンチから、控えの部員たちの精一杯の応援が凛へコートに立つチームメイトへ浴びせられる。 凛はコートの入り口でふと足を止め、振り返った。そして、白い歯を見せて屈託なく笑い、大きく手を振ってそれに応えた。


その瞬間、泉翔の目には、彼女が今までで一番眩しく見えた。


電光掲示板が示すスコアは、52対58。 前半を32対37の5点差で折り返し、一時は二桁差まで突き放されたものの、第3クォーターでの凛の猛追によって、ついに背中が見える「6点差」まで漕ぎ着けていた。


運命の第4クォーター。最初のポゼッションは莉子のボール運びから始まった。 莉子はエリア内に潜り込んだ詩季へ、相手の虚を突く完璧なノールックパスを通す。受け取った詩季が跳躍し、そのままシュートモーションに入った。


だが、相手校もシードの意地を見せる。センターが死に物狂いで詩季の視界を塞ぎ、ヘルプに入った選手が横から強引にシュートコースを潰しにかかった。 空中で逃げ場を失った詩季の目の前には、分厚い人垣。強引に打てば確実に叩き落とされる。万事休すかと思われたその刹那――。


「詩季先輩、上へ!」


凛の声が響いた。 詩季は迷わず、放つはずだったボールを、声のした「さらに高い」場所へと放り出した。 そこには、相手のブロックを遥か上空から見下ろすように跳ね上がった凛がいた。


滞空時間の概念を覆すような飛翔。相手センターが着地し始めるなか、彼女だけがまだ空中で静止しているかのように見えた。 詩季が放り出したボールを、凛は最高到達点でひったくるように掴む。 相手の「壁」を上空から飛び越え、空中での接触をものともせず、しなやかな手首の返しでボールをリングへと送り届けた。


乾いた音を立ててボードに当たったボールは、吸い込まれるようにリングの縁を滑り、激しくネットを揺らしながら真下へと突き抜けた。


第4クォーター開始わずか十数秒。一気に4点差まで詰め寄るその一撃に、会場全体が逆転の予感に震えた。


着実に得点を積み重ね、試合を優位に進めてきた相手チームの顔から、余裕は完全に消え去っていた。 彼女たちが直面していたのは、点差を詰められたこと以上に、「詩季さえ抑えれば勝てる」という絶対的な前提が、たった一人の選手によって粉砕されたという冷酷な事実だった。


詩季に張り付いていたダブルチームが解かれ、そのうちの一人が血相を変えて凛へと向かった。詩季への包囲網を薄めてでも、今この瞬間、この「凛」を止めなければ逆転される――。これまでは無視しても構わなかったはずの、チームの足手まといだった選手。それが今や、勝利を根底から覆す最大の脅威へと変貌していた。なりふり構わないその陣形変更は、彼女たちの戦術が完全に破綻したことを意味していた。


だが、凛の勢いは止まらない。あんなに苦戦し、拒絶されていたはずの莉子からのパスを、凛は既にものにしていた。ボールが渡るたび、会場には熱気を帯びた歓声が沸き起こる。


「……すごい。凛ちゃん、今のパスほとんどノールックで取ったよ」


隣で千佳が興奮した声を上げる。その鮮やかなプレイを目の当たりにし、泉翔の中で抱え続けてきた違和感の正体がついに繋がった。


凛には、パスが出るより先に、ボールを受けるための最適解の場所へ動き出す癖がある。おそらくかつて彼女の隣にいた相棒は、その場所へミリ単位のパスを供給する精密な選手だったに違いない。走り込めば、そこに必ずボールがあるという前提のプレイ。


試合序盤のミスは、その一致を信じきれず、慣れない莉子のパスに無理に「合わせて」動こうとしたための迷いだった。耳から入る音の情報がない今、目で見ようとすればするほど、かつての理想のリズムとの僅かなズレが、決定的なミスを招いていたのだ。


しかし今の凛は、莉子のパスを凝視などしていなかった。 ベンチで目を閉じ、指先でリズムを刻んでいたあの時間。彼女は莉子のパスの癖を再確認し、自分の走り込むポイントを、莉子のパスが『来る』場所へとあらかじめ設定し直したのだ。 自分の感覚を疑い、現実のパスに体を擦り合わせる。その孤独な再構築が迷いを消し、今の最速の走り出しを可能にしていた。


同時に泉翔は、凛と初めて二人で練習した日のことを思い出していた。あの時、自分の放ったパスを、凛はほとんど見ることなく吸い込まれるようにキャッチしてみせた。 もしかしたら、泉翔が意識せず放るパスの軌道は、凛がかつての相棒と築き上げた理想のコースに酷似していたのかもしれないと思いふけていた。


「天才だな、蓮見……」


泉翔が漏らしたその言葉に、隣の篝が深く頷く。


「……そうもいってられないかもしれない」


不意に、斗希が硬い声で呟いた。そのただならぬ気配に、泉翔は視線をコートに固定したまま問い返す。


「……どうしてだ?」


「凛ちゃんの体幹……少しズレてない? なんか……こう、左に寄ってきてるような」


言われて、凛のドライブを凝視する。あまりの速さに目を奪われていたが、よく見れば、先ほどまでとは明らかに違っていた。彼女は真っ直ぐゴールを狙っているはずなのに、その軌道は磁石に引かれるように左へと傾き、何よりその表情には、これまでの昂揚感とは違う、何かを耐え忍ぶような険しさが張り付いている。


明らかに、無理をしている。何かが凛の身体の中で、崩れようとしているのが見て取れた。


「気のせいならいいけど……」


「いや、気のせいじゃない」


泉翔の声は焦りに震えていた。中学時代にしていたプレイを、今の今までしてこなかった理由。凛はおそらく、もうそのプレイは自分にはできないと、誰より理解していたはずなのだ。


ただ吹っ切れたのではない。聴覚を失って以来、できなくなってしまったプレイスタイルを、チームを勝たせるためだけに、今回無理やり身体に強いてまで行っているのではないだろうか。


泉翔は目を離さぬまま、隣の篝に告げた。


「篝……タイムアウト取れるか?」


「え……? あ、うん。先生に言いに行くね……!」


篝は事態の深刻さを察し、すぐさまベンチの顧問のもとへと駆け出していった。


その直後だった。相手のパスミスを、詩季が逃さずその手でもぎ取った。 ついに、絶望的だった点差はワンゴール差まで射程圏内に収まった。詩季から莉子へ、そして莉子から流れるようなモーションで、最速の連携が凛へと繋がれる。


凛はそのまま相手エリアへと侵入した。瞬時に二人のディフェンダーが左右から迫り、壁となって彼女を封じ込めようとする。だが、凛の加速は止まらない。身体が左へ流れようとする中、右足の凄まじい踏ん張りだけで強引にねじ伏せる。凛は半身を崩しながらも、襲いかかるディフェンダーを紙一重でかわし、ゴールへ向かって力強く踏み込んだ。


高らかに跳躍したその直後、必死に食らいついた相手選手が空中で凛の身体と激しく衝突する。 鋭いホイッスルの音がコートに響き渡った。だが、凛の意識はその音すら置き去りにしていた。


衝撃に投げ出され、視界が上下に激しく揺れる。自分が今、上下左右のどちらを向いているのかさえ定かではない混沌の中で、凛はただ、指先に残る感覚だけを頼りに右腕を振り抜いた。 体勢を完全に崩しながら放たれたボールは、祈るような静寂を切り裂いて放たれた。


凛の身体は、床に叩きつけられた。しかし、痛みを感じる余裕さえなかった。バックボードに当たったボールを誰もが凝視する。リングの上でゆっくりと一回りし、永遠にも感じられるほど長い数秒の後、ボールは吸い込まれるように、重力に従ってネットを揺らした。


審判の鋭いホイッスルが響き、バスケットカウントと相手選手のプッシングによるファウルが宣告された。倒れ込んだ凛に、ワンスローの権限が与えられる。


会場が逆転への期待に震える中、詩季がいち早く凛のもとへ駆け寄った。


「無茶しすぎよ、蓮見さん」


凛は、詩季が迷わず差し出した手を掴み、どうにか体を起こす。床に叩きつけられた衝撃で、遅れて鋭い痛みが出てくるが、それを無理やり意識の外に追いやり、深く息を吐いた。


「ありがとうございます……でも、これで逆転できますね」


凛は力強く、それでいてどこか儚い笑顔を見せた。


「ええ、そうね」


短く答えた詩季だったが、その表情には複雑な色が浮かんでいた。凛の執念に感嘆する一方で、それ以上に、彼女が自分を壊しかねない危険なプレイに手を染めていることへの強い危惧があった。今のような無謀な接触を繰り返せば、いつか取り返しのつかない怪我に繋がる。


「……でも、次はもうしないで。そんなプレイ、身体がいくつあっても足りないわ」


詩季は釘を刺すように言ったが、凛は審判からボールを渡される際、そのオレンジ色の球体を一瞬空振りするようにして掴み損ねた。指先の感覚が、現実の距離とわずかに乖離している。


「どうしたの? 大丈夫?」


詩季の鋭い問いに、凛は心臓が跳ねるのを感じた。


「え? 大丈夫です、なんでもないです……」


慌ててボールを掴み直し、凛は平静を装う。しかし、彼女自身はすでに身体の異変をはっきりと悟っていた。足元が微かにふらつき、視界の端がぐにゃりと歪む。立っているはずの床が、まるで泥沼のように頼りなく感じられた。


それでも、誰にも悟らせるわけにはいかない。凛は歪む視界の焦点を無理やりリングの一点へと固定し、前を向いた。


会場から喧騒が消えた。 逆転を懸けた最後の一投。観客も、ベンチも、コートに立つ選手たちでさえも、凛の放つ弾道が鮮やかにネットを揺らす瞬間を疑っていなかった。


凛は重く震える腕を、ゆっくりと持ち上げた。誰もが息を呑んで見守る中、彼女の指先からボールが放たれる。


しかし、その弾道はあまりに力なく、不自然なほど右へと逸れていった。


「……え?」


誰かが小さく漏らした。 正確無比なシュートを沈め続けてきた凛のボールが、リングに触れることさえなく、空を切ったのだ。力なく落下し、床に跳ねるボールの音だけが、静まり返った会場に虚しく響く。


「エアーボール……?」


誰かが呆然と呟く。その言葉が合図だったかのように、凛の膝から力が抜けた。


支えを失った身体が、ゆっくりとコートへ沈んでいく。凛はそのまま崩れ落ちるように両手と膝を床につき、激しく肩を上下させた。先ほどまでの躍動感が嘘のように、その背中は小さく、小刻みに震えている。


「蓮見さん!」 「凛ちゃん!」 「蓮見!」


我に返った詩季や莉子、そしてベンチから身を乗り出した仲間たちから、悲鳴に近い声が次々と上がった。


「蓮見さん!」


誰よりも早く駆け寄ったのは、詩季だった。それと同時に、会場にはタイムアウトを告げるブザーがけたたましく鳴り響く。


「大丈夫……じゃないわね。肩を貸すわ。ゆっくり立って」


詩季は凛の細い身体を壊れ物を扱うように、それでいて力強く抱え上げた。凛は、自分の意志ではもう一歩も動かせない足を、詩季の支えを頼りに引きずるようにして動かす。


一歩、また一歩とベンチへ向かう。凛の視界は、もはや正常な像を結んでいなかった。床は波打ち、周囲の景色は激しく回転している。その混沌とした意識の中で、自分を支えてくれる詩季のぬくもりだけが、唯一の現実だった。


「……し、き先輩、すみません」


凛は、震える唇でその名を呼んだ。掠れた声は、コートを包むどよめきに消えてしまいそうなほど小さかった。しかし、それは助けを求めるような、あるいは無茶をした自分を詫びるような、切実な響きを帯びていた。


詩季は何も言わず、ただ、凛を支える腕にぐっと力を込めた。その無言の圧力は、「謝る必要なんてない」という詩季なりの答えのようでもあった。


詩季に支えられながら、凛は掠れた声で問いかけた。


「4クォーターが始まって……何分、プレイできましたか?」


詩季は、なぜこの極限状態でそんなことを聞くのかと不思議に思いながらも、脳内で時計を逆算した。


「……5分ぐらいかしら」


「……そうですか」


凛は力なく、それだけを返した。ベンチに戻ると、チームメイトから一斉に心配の声が上がる。しかし、凛はそれに答える余裕さえなかった。ただ深く顔を伏せ、激しく波打つ視界を無理やり抑え込むように、床の一点だけを見つめ続けていた。


凛の状態を間近で見た顧問は、彼女がもはやコートに立てる状態ではないと即座に判断した。


「メンバーチェンジ、瀬名!」


指名を受け、舞白が再びコートへ向かう。交代を告げられても、凛は異議を唱えることさえしなかった。


凛はふらつく足取りで、すっと立ち上がった。心配して駆け寄ろうとする仲間たちを制するように、消え入りそうな声で告げる。


「ごめんなさい……少し、外の空気を吸ってきます」


それだけを言い残すと、彼女は誰の助けも借りず、壁を伝うようにして一人体育館の外へと歩いて行った。その背中には、役目を果たし終えた安堵と、耐え難い苦痛が混ざり合っていた。


体育館の重い扉の向こうへ消えていく凛の背中を、泉翔はただ呆然と見送ることしかできなかった。


「泉翔……追わなくていいのか?」


隣にいた斗希が、静かだが鋭い声で問いかけてくる。


「え……?」


泉翔は虚を突かれたように、斗希を見た。


「お願い、川神くん。行ってあげて」


千佳もまた、祈るような目で泉翔を見つめ、持っていたドリンクボトルを泉翔に手渡す。二人の必死な表情に押されるようにして、泉翔は固く拳を握りしめた。


「……わかった。行ってくる」


泉翔は短く応えると、凛が去っていった出口へ向かって、弾かれたように駆け出した。


追ったところで、一体なんて声をかければいいんだろうか。「大丈夫か」と聞くのが正解なのか。それとも、今は何も言わずにそばにいるべきなのか。転校してきたばかりの彼女のことを、自分はまだ何も知らないに等しい。何を話せばいいのか、何が彼女のためになるのか。正解が一つも見つからないまま、泉翔は凛の背を追った。


重い鉄扉を押し開けると、夕暮れ時の少し湿った風が吹き込んできた。爽やかなはずの空気は、汗ばんだ肌には驚くほど冷たく感じられ、熱狂の渦にいた耳の奥が、急激な静寂にツンと痛む。


凛は体育館を出てすぐの階段に座り、頭にタオルをかけたまま深くうずくまっていた。


激しく上下するその背中は、コートで見せていた圧倒的な存在感とは裏腹に、今にも折れてしまいそうなほど脆く見えた。泉翔は、手の中にあるボトルの結露した冷たさを感じながら、その数歩手前で足をとめる。


声をかけるべきか。それとも、もう少しだけ、彼女が自分を取り戻すのを待つべきか。泉翔は開いた口を閉じ、動けずにその場に立ち尽くした。


気配を感じたのか、凛はゆっくりと顔を上げた。タオルに覆われた影から覗くその瞳は、まだわずかに焦点が定まっていない。


開口一番、彼女の口から出たのは皮肉めいた言葉だった。


「なんだ、川神か」


「わ、悪かったな俺で」


あっけにとられながらも、泉翔は精一杯の言葉で返した。自分でも情けないほど不器用な返しだと思ったが、凛は「別に……」と短く呟くと、拒絶するようにまた顔を伏せてしまった。


重苦しい無言の空気が流れる。その静寂に耐えきれなくなった泉翔は、千佳から託されたものを差し出した。


「蓮見、ドリンク」


だが、凛はピクリとも動かず、差し出されたボトルを受け取ろうとはしなかった。差し出した腕が虚空を彷徨い、しびれを切らした泉翔は、彼女の傍らにボトルを置く。そして、そのまま凛が腰かけている一段上にどさりと腰を下ろした。


「なんで近くに座るのよ……」


すかさず飛んできたのは、いつものような憎まれ口だった。 しかし、その直後に聞こえた、小さく鼻をすする音を泉翔は聞き逃さなかった。強気な言葉とは裏腹に、彼女の肩はまだ微かに震えている。


何かかける言葉を探しているうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。夕闇が少しずつ深まり、周囲の静寂がいっそう重みを増していくようだった。


その沈黙を切り裂くように、凛がぽつりと口を開いた。


「8分だった……全力でプレイできる時間……」


「……」


泉翔は、何も言い返すことができなかった。第4クォーターの開始から五分、そしておそらく、それ以前の蓄積。彼女が計算していたのか。たった八分しかあのプレイをすることができない現実を突きつけてきた。


鼻をすする音が、また小さく響いた。八分しか戦えなかった自分への悔しさなのか、それとも、八分で力尽きてしまった身体への絶望なのか。泉翔は、傍らに置かれたままのドリンクボトルを見つめ、ただ彼女の震えが収まるのを待つことしかできなかった。


「……あんな無様なシュート、人生で初めて」


自嘲気味に呟いた凛の声は、まだ少し震えていた。一段上に座る泉翔には、彼女がタオルを握りしめる指先の白さが見えていた。その指は、まるで何かに縋るように、あるいは自分を罰するように強く食い込んでいる。


「中学の時は、全然余裕だった。何も気にせず、自由にプレイできてた。急に……急にだったの……」


溢れ出した言葉は、堰を切ったように止まらなかった。


「突然片耳から音が聞こえづらくなって……まるでずっと片耳だけ水が入ってるような感じ……。次第に声を聞き取れなくなって、まともに立つことすらできなくなって……」


凛の声は、震えを増していく。一段上に座る泉翔の耳に、彼女の激しい鼓動さえ伝わってきそうなほどの、剥き出しの告白だった。


「今まで不自由なく受け取っていたパスも、シュートも突然……何もかも……できなくなった。……何もできなくなったの……」


「何もできなくなった」と繰り返す凛の言葉は、暗い夜の底へと沈んでいくようだった。しばらくの沈黙の後、凛はひときわ深く、震える息を吐き出した。


「あの時もそう……。中3の全国大会中だった……。急に自分の理想のプレイができなくなって……それでチームは負けた」


凛はそう口にしたが、その声に温度はなかった。自分の過去をどこか他人事のように、冷たく突き放して語る響き。膝に顔を伏せているせいで表情は見えないが、吐き出される言葉の一つひとつに、消えない傷跡が滲んでいる。


「散々言われた。あらゆるところから散々叩かれた……それでもバスケが好きだから、もう一度あの頃のようにプレイしたいと思って頑張った結果がこれ!」


凛は膝を抱える腕を、折れんばかりの力で強く抱きしめた。叫ぶようなその声は、夜の静寂を切り裂き、ひどく震えている。


「……たったの8分。私は……1クォーターもまともにプレイができない……笑える……本当に…笑える……」


膝に顔を伏せたまま吐き出されたその言葉は、まるで自分という存在をゴミ箱に投げ捨てるような、ひどく無機質な響きだった。笑おうとして、けれどひきつったその声が重い静寂の中で鋭く震えるたび、彼女が必死に堰き止めている感情の濁流が、隠しきれずに漏れ出している。


これまで積み上げてきた努力、捨てきれなかった情熱、そして一縷の望みをかけてコートに立った今日。そのすべてを「8分」という、10分間の一クォーターすら戦い抜けない短い時間に否定されたような心地だった。


一段上に座る泉翔は、ただ黙って彼女の言葉を聞くしかなかった。あんなに鮮やかで、誰もが息を呑むようなプレイをしてみせた凛が、その裏でこれほどまでに泥臭く、苦しい絶望を這いずり回っていたなんて、想像すらしていなかった。


「ちくしょう……ちくしょ……」


凛は、震える声で何度も自分を罵るように繰り返した。何度も鼻をすすり、膝を抱える指先がさらに白くなっていき、さらに強く自分を縛りつける。今にも溢れ出しそうな涙を、限界まで食いしばって堰き止めている。その小さな背中は、やり場のない怒りと悔しさで激しく波打っていた。


「……たったの8分だったかもしれない」


泉翔の声に、凛の肩がわずかに跳ねた。けれど、泉翔は視線を逸らさず、彼女の背中を見つめたまま言葉を紡ぐ。


「だけど蓮見、お前は一度負けそうになりかけた試合を、逆転できる手前までにしたんだぞ。今までできなくなったことを、あの8分間、できるようにしたんだ。それもすごいことじゃないのか……お前はすごいよ。蓮見」


その言葉は、夜風にさらされて冷え切った階段の上で、不思議なほど熱を持って響いた。凛は顔を伏せたまま、ぴたりと動きを止めた。握りしめたタオルの端が、さらに強く握り込まれる。鼻をすする音さえも止まった静寂の中で、泉翔の言葉だけが、彼女の頑なな心に染み込んでいくようだった。


「……川神に、何がわかるっていうのよ」


凛は弾かれたように立ち上がると、一段上に座る泉翔を射抜くような視線で睨みつけた。タオルが肩から滑り落ち、夜の闇の中で露わになった彼女の瞳は、悔しさでぐちゃぐちゃに歪んでいた。溢れ出した大粒の涙が、止まることなく頬を伝い落ちていく。


「私は、あんな中途半端なところで終わりたくなかった。もっと、もっと長く……!」


「…わかってる」


泉翔は、彼女の言葉を遮るように短く応えた。納得などできるはずがない。誰よりも完璧を求めてきた彼女が、八分という限界に満足できるわけがないのだ。それでも、泉翔は彼女が今日示した「強さ」を、誰よりも肯定したかった。


睨みつける凛の肩は、激しく上下していた。けれど、真っ向から自分を受け止める泉翔の瞳を見るうちに、張り詰めていた糸がふっと切れたように、険しかった表情がゆっくりと緩んでいく。


「……ごめん、川神。私今、ただ八つ当たりしてる……」


凛はそう掠れた声で漏らすと、逃げるように彼に背を向けた。溢れ続ける涙を隠すように、乱暴に腕で目元を拭う。凛の嗚咽だけが小さく階段に消えていく。


泉翔は、震え続けるその背中を静かに見つめていた。やがて、彼は一段降りると、彼女のすぐ後ろに立つ。


「……よく頑張ったな」


そっと、彼女の頭の上に大きな手が置かれる。ぽんぽん、と。優しく、けれどどこかぎこちない手つきが、彼女の強がっていた心に触れる。


凛の肩がまたびくりと跳ねた。けれど、彼女はその手を振り払おうとはしなかった。手のひらから伝わる温もりが、冷え切った彼女の心をゆっくりと溶かしていく。


「……頭撫でるな、へたくそ……」


顔を伏せたまま、凛は震える声でそう毒づいた。泉翔は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口角をわずかに上げると、そのまま黙って彼女の髪をさらに一度、優しく撫でた。


背を向けたまま、彼女はさらに深く顔を伏せ、溢れ出す涙を止めることも忘れて声を殺し続けた。


「あー……泉翔、凛ちゃん! やっと見つけた」


不意に、体育館へと続く長い廊下の先から響いた声に、二人の時間が止まる。そこには肩を揺らし、息を切らせた斗希が立っていた。


「……斗希」


「あー……もしかして、お邪魔だった?」


斗希がニヤニヤとした笑みを浮かべた瞬間、泉翔は弾かれたように撫でていた手を引っ込めようとした。だが、それよりも早く、凛がその手を乱暴に振り解く。


「……べ、べつに。邪魔とかじゃないし」


凛は顔を真っ赤に染め、逸らした視線の先で必死に涙の跡を隠した。斗希の視線から逃げるように、彼女はあえてぶっきらぼうな声を出す。


「試合……終わったの?」


「終わったよ。うちが勝った! 最後は凛ちゃんと交代した……舞白ちゃんだったっけ? 莉子ちゃんが投げたパスからの連携で綺麗に決めてた。ワンゴール差で逆転勝ち」


斗希が誇らしげに親指を立てて見せると、凛の瞳がわずかに揺れた。


「よかった……」


凛は小さく息を吐き、安堵の表情を浮かべる。仲間の勝利は心から嬉しい。けれど、逆転のその瞬間に自分がコートにいなかった事実が、彼女の心にちくりと棘を刺した。廊下の窓から差し込む夕日が、彼女の影を長く、寂しげに伸ばしていた。


「みんな凛ちゃんを探してるから戻ろ? 特に姉貴がめっちゃ心配してるし」


斗希の言葉に、凛は「……わかった。戻る」と短く応えた。今の弱り切った姿を悟られないよう、彼女は二人を追い越して一人で駆け出そうとする。だが、限界まで身体を酷使したせいで、足が思うように動かず無様にもつれた。


「……っ!」


地面に叩きつけられるかと思った瞬間、強い力が凛を支えた。横から素早く手を伸ばした泉翔が、倒れそうになる彼女をしっかりと受け止める。


「無理するなよ……」


泉翔はそう低く呟き、凛の体を支えるようにそっと肩に手を回した。至近距離にある彼の温度に、凛は一気に顔を赤く染める。


「……っ、……ありがとう」


蚊の鳴くような声で礼を言うと、泉翔は静かに頷き、彼女の歩調に合わせてゆっくりと体育館へ歩きだした。


すると、それを見ていた斗希が「おっ、じゃあ俺も!」と悪ふざけをして、反対側から凛の肩を抱くように割り込んできた。左右を男子二人に挟まれる形になり、凛は「ちょっと! めっちゃはずい! いやだ! 離して!」と騒ぎ立てる。


そんな彼女の様子を見て、斗希と泉翔は顔を見合わせ、廊下に響き渡るほど高らかに笑い声を上げた。


休み明け、学校はいつもの喧騒を取り戻していたが、そこに凛の姿はなかった。休み明けの初日、連休明けの火曜日。彼女の机は空いたままだった。


同じクラスの莉子と千佳は、何事もなかったかのように席についていた。泉翔が意を決して二人の元へ歩み寄り、凛の様子を尋ねると、莉子は面倒そうに教科書をめくり、泉翔と目を合わせようともしなかった。


「は? 知るわけないじゃん」


「……ごめんね、川神君。私たちも何も聞いてないの」


「……そうか」


泉翔はそれだけ返すと、自分の席へと戻った。


「……泉翔、凛ちゃんと連絡してる?」


ふいに、斗希が声をかけてきた。泉翔は無言でポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。そこには彼から送った短いメッセージが並んでいたが、どれ一つとして既読のマークはついていなかった。


「……あらら。嫌われてるの? 泉翔」


「……知らねーよ」


斗希の茶化すような笑いに、泉翔はぶっきらぼうに返しつつ、スマホをポケットに突っ込んだ。胸の奥に、澱のような不安が溜まっていく。


そして、その不安は昼休みに最悪な形で的中した。


「失礼するわ。……蓮見凛さんはいるかしら」


教室の入り口に、バスケ部主将の詩季が立っていた。その姿に気づくと、泉翔は弾かれたように席を立ち、彼女の元へ歩み寄った。


「蓮見は今週、一度も来てないです。……何かあったんですか?」


泉翔の問いに、詩季は小さく溜息をつき、真剣な眼差しで彼を見つめてきた。


「そう……困ったわね。本人の口から直接、理由を聞きたかったのだけれど……」


泉翔は嫌な予感が背筋を駆け抜けるのを感じた。詩季は一瞬ためらったあと、覚悟を決めたようにまっすぐ泉翔の目を見た。


「蓮見さんから退部したいと申し出があったのよ」


詩季の唇からこぼれた言葉に、泉翔は自分の耳を疑った。目の前が、急速に色を失っていくようだった。




第11話 実力③をここまで読んでくださりありがとうございました。

色々書いていたらこんなに長い章になってしまいました。どこかで区切ろうかなと思いつつも勢いに任せてしました。練習試合勝ってよかったです…だけど凛の心には深い傷跡を残す結果になりましたね。凛の心の揺れ動きや泉翔の優しい触れる機会が結構多めにある章となっています。辛い時誰かにいて貰えたらうれしいなと思いつつ執筆しました。

今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。

それでは次回エピソードでお会いしましょう。

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