第10話 実力②
「そう。俺と、お前ら二人。この3人でストリートの大会に出たいんだ」
斗希の言葉が静かな体育館に波紋のように広がる。あまりにも唐突な提案に、二人は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
二人の反応を見て、斗希が「……だめ?」と、先ほどまでの勢いが嘘のように不安げな声を漏らす。その問いに、凛は迷いながらも、はっきりとした口調で答えた。
「それは……正直、厳しいと思う」
「なんで?」
不思議そうに首をかしげる斗希の瞳には、打算のない純粋な疑問が浮かんでいた。
「私、部活があるから。練習も、遠征も……これから選抜の試合だってあるし」
凛は申し訳なさそうに視線を伏せた。その隣で、泉翔は密かに安堵を覚えていた。これで自分も、波風を立てずに断る理由ができたからだ。
「そっか……。じゃあ、泉翔は?」
今度は鋭い視線が泉翔を射抜く。泉翔は一瞬、答えに詰まり、重苦しい沈黙が二人の間に流れた。この場をどう収めるべきか、彼は懸命に言葉を探す。
「俺は……そもそもバスケを辞めたんだ。もう、大会とかそういうのには出ないって決めてる」
「そうなの? 凛ちゃんとあんなに楽しそうに練習してるのに」
食い下がる斗希の声には、まだ諦めきれない響きがあった。
「……蓮見の練習に付き合ってるだけだ。本格的にやるつもりはないよ」
泉翔はあえて突き放すように、冷たく言い放った。その言葉は、自分自身の奥底にある未練を封じ込めるための拒絶でもあった。
「申し訳ないけど、ごめんね」
凛が改めて頭を下げると、斗希は「そっか……」と力なく呟き、がっくりと肩を落とした。先ほどまでの高揚感は霧散し、彼の周囲には再び、誰の侵入も許さないような孤立した空気が漂い始める。
気まずい沈黙が体育館を支配した、その時だった。
重い戸が、静かに、だが迷いのない音を立てて開いた。三人が反射的に視線を向けると、そこには斗希と同じく、異国の血を感じさせる白銀の風貌を持った少女が立っていた。彼女は何も言わず、無言のまま冷たい緊張感を纏って三人へと近づいてくる。
「詩季先輩……? なんで、ここに」
凛の驚愕の声に、泉翔は息を呑んだ。
「蓮見さん、気にしないで。……ちょっと、この馬鹿弟に用があるだけだから」
少女は静かに告げると、斗希を冷たい目で射抜いた。「姉貴、なんか用?」と不機嫌そうに返す斗希の言葉に、泉翔と凛は揃って目を丸くした。
「えっ、姉貴……?」
「そういえば、詩季先輩と同じ苗字……」
そこに立っていたのは、来栖詩季。斗希の一学年上で、女子バスケ部の主将を務める高校三年生だ。 腰まで届く白銀のロングヘアを、野性的でありながら高潔なウルフカットに整えた彼女の姿は、歩くたびに冷たい美しさを周囲に振りまいている。斗希と瓜二つの容姿だが、彼女の方がわずかに色彩が深い。白というよりは月明かりを孕んだ灰色の髪、そして瞳は宝石のように硬質な緑色だった。
その異彩を放つ美貌は、常に周囲の生徒を驚かせ、彼女が歩くたびに視線が集まるほどだった。だが、彼女の真骨頂はコートの上にこそあった。卓越したバスケットボールの才能は誰もが認めるところであり、女子バスケ部の絶対的なエース兼キャプテンとして、他校にも広くその名を轟かせていた。
詩季は斗希の目の前に立ち、氷のような視線を向けた。
「……あなた、何をしてるのよ」
静かに、しかし有無を言わせぬ圧を孕んだ声。そう呟いた直後、詩季は迷うことなく右手を振り抜き、斗希の頬を思い切り叩いた。 乾いた音が体育館の静寂に響き渡る。
「いった……」
斗希が痛みに顔を歪めた拍子に、その顔からサングラスが弾け飛び、床を虚しく転がった。遮るもののなくなった彼の両の眼――深い霧のような灰色の瞳が、露わになる。
「あなたは……またそうやって、身勝手に人を巻き込もうとするのね」
詩季の口調は穏やかだったが、そこには明確な怒りが滲んでいた。無表情な仮面の奥で燃え盛る感情を、傍観するしかなかった泉翔と凛は、肌を刺すような緊張感とともに感じ取っていた。 斗希は、姉の言葉にただ無言を貫く。サングラスを失った灰色の瞳は、光を吸い込むばかりで、その奥にある感情を読み取らせてはくれない。
「二人とも、悪かったわね。この馬鹿が迷惑をかけてしまって……」
詩季は泉翔と凛に向き直り、深々と頭を下げた。一見すれば丁寧な謝罪だが、その背中からは弟の不始末に対する深い憤りが立ち上っていた。
「あっ、いえ! 迷惑だなんて……ねっ、川神」 凛が慌てて泉翔に助けを求める。 「は、蓮見の言う通りです。迷惑だなんて、そんな……」 泉翔もまた、詩季の放つ凄まじいオーラに気圧されながら、言葉を絞り出すのが精一杯だった。
「姉貴。……なんでここに来た」
沈黙を破った斗希の声には、隠しきれない僅かな動揺が混じっていた。 詩季は冷淡な瞳で弟を睨み返す。
「弟が学校に来たと職員室で聞いてね。教室にいなかったから、ここに来たのよ。どうせバスケでもしているだろうと思って……。そうしたら、ストリートバスケに誘うあなたの声が聞こえてきた」
淡々と、感情を排した声。その一言一言が、斗希への深い失望を物語っていた。
「前も言っていたわよね、ストリートバスケがどうとか。ろくに学校にも来ず、だらだらとした自堕落な生活を送っておいて、今さら何を言っているのよ」
詩季は吐き捨てるように言い放ち、再び泉翔たちへと視線を向けた。
「この子の戯言は無視してちょうだい。本当に、ごめんなさいね」
それだけを告げると、詩季は踵を返し、出口へと歩き出した。
「……それだけ言いに、わざわざここに来たのかよ」
背後から投げられた斗希の言葉に、詩季は足を止めずに答える。
「そうよ。あなたがまた周囲に迷惑をかけないように、釘を刺しに来たの。……それだけよ」
詩季の背中が遠ざかる中、斗希は床に落ちたサングラスを見つめながら、「あぁ…そうかい」と、自嘲気味に、力なく呟いた。
無表情だった詩季の顔に深い皺が寄り、その表情は一気に険しくなった。斗希もまたサングラスを失った瞳で詩季を睨みつけ、二人の間に張り詰めた空気が流れる。その重苦しい沈黙は、この姉弟の間に修復不能なほど根深い確執があることを物語っていた。
いたたまれなくなった泉翔と凛は、ただ黙って見守ることしかできない。二人の間に流れる空気を察したのか、詩季は一つ大きなため息を吐くと、心底呆れたような顔をして天を仰いだ。
「全く、あなたはいつも……馬鹿」
独り言のように毒づいた後、彼女はくるりと踵を返した。しかし、その先に立ち尽くしていた凛と目が合った瞬間、険しかった表情は嘘のように和らぐ。
「じゃあ、蓮見さん。また部活でね」
詩季は先ほどまでの冷徹さが嘘のような、穏やかで優しい笑みを凛に向けた。部活動を率いる主将としての、温かくも頼もしい顔。 凛が呆気に取られながら「あ…はいっ」と短く返事をするのを見届けると、詩季は一度も振り返ることなく、凛とした足取りで体育館を後にした。
残された三人の間に、淀んだような妙な空気が流れる。斗希は床に転がったサングラスを無言で拾い上げ、再びその瞳を闇の奥へと隠した。
「見苦しいところ、…見せちゃったな」
斗希はそう言って、サングラスの奥から自嘲気味な笑みを浮かべた。その表情には、姉とのやり取りで見せた険しさとは違う、どこか諦めにも似た影が宿っていた。
「いや、そういうこともあるよ。姉弟だしさ」
泉翔はなんとかフォローしようと口を開くが、すぐに凛が脇腹をこづく。
「フォローになってない、川神」
凛の言葉に、泉翔は「う、うるさいな……」と小さく反論した。そんな二人の様子を見て、斗希はフッと微笑む。さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ和らいだ。
「まさかあいつが来るなんてなぁ…予想外」
斗希は天井を見上げながら呟いた。その声には、怒りよりも驚きと疲労が滲んでいる。
「ごめんな…二人とも。やっぱりストリートバスケはなしかなぁ」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「うーん、今の状況だと猶更難しいと思う…」
泉翔が正直に答えると、斗希は「そうだな」と笑顔で返した。しかし、その笑顔の裏には、はっきりと落胆の色が見て取れた。
「まぁ、考えておいてよ」
寂しそうにそう言い残すと、斗希はゆっくりと体育館の扉を開け、廊下へと消えていった。彼の背中は、また独りになったように見えた。
凛は耳に補聴器をつけながら、泉翔に「そろそろ教室に戻ろう」と声をかける。泉翔は「そうだな、戻るか」と頷いた。
二人は重い足取りで歩き出す。廊下を進む中、凛がぽつりと呟いた。
「何があったんだろうね、あの二人……というか、斗希に」
「詮索はやめておけ」 泉翔は短く忠告した。斗希の姉が学校一の有名選手だと知っていても、その家庭事情にまで立ち入るべきではない。何より、バスケを辞めて以来、面倒な人間関係を避けてきた泉翔にとって、これ以上誰かの深い闇に巻き込まれるのは御免だった。
「そうだね……」 凛は納得したように頷き、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、苗字を聞いた時に気づくべきだった。詩季先輩と同じ『来栖』だったのに」
「たしかに、盲点だったな」
「詩季先輩に挨拶した時、本人から『下の名前で呼んでほしい』って言われたんだ。……もしかして、苗字で呼ばれるのが嫌だったのかな」
「……蓮見、やめておけって」 深追いしようとする凛を、泉翔が再び制した。
「そうだね……ごめん。そういえば泉翔は、詩季先輩と面識があったの? さっき、普通に話してたみたいだけど」
「あるというか……有名人だしな。それに男子バスケ部にいた頃は、練習試合の体育館の使用調整とかで関わることがあったんだ。まぁ去年の今頃だけど…」
「そうなんだ……。私、詩季先輩があんなに怒っている姿、初めて見た。転校してきて間もないけど」
「俺もだ」 泉翔は、先ほどの詩季の険しい表情を思い出し、声を低めた。
「あの人は、滅多に感情を表に出さないからな」
「……怖かった」 凛の小さな呟きに、泉翔は「……ああ」と短く同意した。
泉翔も同意しながら、先ほどの詩季の険しい顔を思い出していた。あの冷たい怒りの奥には、弟に対する深い悲しみや失望が張り付いているように感じられた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎に響き渡り、二人は教室へと戻る。 しかし、そこにあるはずの斗希の姿はなく、朝まで机の横に掛けられていた鞄も消えていた。
結局、放課後になっても斗希は姿を見せなかった。 西日に照らされた彼のがらんとした机を眺めながら、二人は彼がどこへ消えたのか、知る由もなかった。
第10話 実力②をここまで読んでくださりありがとうございました。
まさかのお姉ちゃん登場です。詩季先輩ですね。斗希と詩季の間には結構、深い問題がある感じにしようかなって考えています。少しずつ掘り下げれたらと思います。
今回もまた作品のご感想などお待ちしておりますので、引き続き次回エピソード更新までお待ちいただけますと幸いです。
それでは次回エピソードでお会いしましょう。




