人伝
「あ、ここ私の旦那がよく通ってるバーなんだって。マスターさんが働き疲れた旦那の愚痴を聞いてるらしいの。私の胸はいつでも空いてるのに……」
「へー、そうなんだー」
「あ、ここ私の友達の旦那さんが通ってるバーなんだって」
「……あ、そうなんだー。……?」
「マスターが私の友達の旦那さんの愚痴を聞いているんだって。そんで私の友達が『私の胸はいつでも空いてるのに』って言ってたの。なんか可愛いよねー」
「??? へー、そうなんだー」
「あ、ここ私の友達の友達の旦那さんが通ってるバーなんだって」
「友達の友達の旦那さん??」
「んで、そのバーのマスターが、私の友達の友達の旦那さんの愚痴を聞いてるんだって。んで、私の友達の友達が『私の胸はいつでも空いてるのに』って言ってるっていうのを、私の友達から聞いたんだよねー、んで、その友達は、その友達のことを『可愛いよねー』って言ってた」
「????? なんかよく分からんけど分かったわ」
「マジでどうでも良いよねー」
「どうでも良いならなんでその話を俺にしたんだよ笑」
「なぁ、マスター、俺の後輩の友達の友達の旦那さんが、マスターに愚痴を言ってるって話を、俺の後輩から聞いたんだが、一体どんな愚痴を言ってたんだ?」
「『もう訳が分からねえ』とよく言っているよ」
「それは仕事のこと?」
「私にもよく分からないよ」
「なぁ、マスター、俺は訳が分からねえよ」
「またその話かい?」
バーテンダーはグラスを磨きながら、上の空で酔ったサラリーマンの話を聞く。
「嫁はいつも俺の知らない話をするし、仕事でも上司が訳の分からないことばかり言っている。クライアントもああしろこうしろばっかり、ほんと、どうすれば良いんだよ」
「知らないよ私は」
吐き捨てるようにバーテンダーは言った。
バーテンダーは日々、こういった酔っ払いの相手をしていて疲れていた。話を真剣に聞くだけ無駄なのだ。自分ばかりが聞いた話を覚えているのに、話している本人は酒のせいで全てを忘れてしまう。いつしか淡い期待を持つのはやめた。
「マスター、冷たいよそれは……。じゃあ最近のマスターの愚痴を聞かせてくれよ」
「なんだい急に」
「良いから、聞きたいんだよ」
バーテンダーはサラリーマンの言葉にグラスを磨く手を止めた。然るのち、逡巡した。
自分には13歳になる息子がいるが、彼は非行ばかりをしていた。タバコを吸い、酒を飲み、授業をフけ、父親には暴言ばかり。
しかし、こんな話を自分がして良いものか。別に珍しい話では無いだろうし、しかもこのサラリーマンは酔っ払っていて、翌日になれば全てを忘れてしまうだろう。
バーテンダーはグラス磨きに戻る。
「私の話はくだらないよ」
「でも、俺の話も知らないといって、聞いてくれないんだろ? 一体何がしたいんだよマスター」
「…………」
バーテンダーはため息をついた。後ろの棚にある酒瓶のコルクを抜き、つい先程まで磨いていたグラスに注ぎ始める。
「お? そんなことしていいの?」
サラリーマンは下品な笑いでバーテンダーの行いを咎めた。
「うるさいな。どうせ客はあんたしかいないんだし、あんたは全てを忘れるだろ? ……飲まないと話せそうに無いんだ」
「そうこなくっちゃ」
注いだ酒を一杯煽り、バーテンダーはぽつぽつと話し始めた。
息子は、幼い頃は可愛かった。私の後をいつも付いて回った。息子は機関車トーマスが好きでよく模型を買ってやったものだった。それが、家内が職場のいじめによって自殺してしまった。息子が小学5年生の頃だった。
そこから、全てが変わってしまった。
家内を失ったショックを忘れようと、私は仕事に没頭するようになってしまった。しかし経営はボロボロになるばかり、私の焦りと反比例するかのようで何度も地団駄を踏んだ。そして、大切な息子のことも、仕事を優先してほっぽり出し、息子は最初は私のことを求めて泣いていたものだったが、私は次第に見限られ、息子は素行の悪い友達とつるむようになってしまった。そのまま中学生になってしまった。
今や私はクソジジイと呼ばれる。学校の先生にも「あなたがなんとかしなくちゃダメなんですよ!」と叱られる。もう良い歳なのに情けないこと極まりない。しかし私には仕事がある。
一体どうすれば良いのだ。
気づけばバーテンダーは涙をぽろぽろと流し、完璧な酔っ払いが出来上がっていた。
「全てがうまく行っていたはずだったのに何一つ立ち行かなくなってしまった! こんなはずじゃなかったのに! 私が悪かったのか!? 私が家内の心の支えになれていたら! 私が仕事じゃなくて息子を見られていたら! でも働かないと生活は成り立たないし、でも最近儲からないし、私はもう限界なのだよ! 本当は働きたくない! 息子と笑い合いたい! ……加奈子に、戻ってきて欲しい……。どうすればいい、私は、どうすれば……」
「…………」
サラリーマンは何でもない風な顔で酒を煽りながらこんなことを考えていた。
(やべー、なんか想像以上に開けちゃいけないもの開けちまったなー、酔いも覚めちまった。どうすればいいかなんて俺が聞きてーよ。……仕方ねーな)
サラリーマンは携帯電話を取り出した。
「マスター、ちょっと人呼んで良いか?」
「うぅ、うぅ、誰を呼ぶのだ」
「みんなだよ、みんな」
数分後……。
「おう、来てくれたか!」
「うん、りょーくん、やっと私に愚痴ってくれる気になったのね! 嬉しい」
バーを訪れたのはサラリーマンの妻、それと…。
「あ、はじめまして! れいちゃんからは話を聞いてます!」
「おう、玲子の友達の美津子さん! はじめまして! ……一体どんな話を聞いてるのかは分からねぇけど、なんか初めて会ったのに知らない人って気はしないぜ」
「私もです!」
「さぁ、りょーくん、美津子、今日は飲むわよー! ほらほら、マスターも」
「……ほえ? お、おう」
さらに数分後……。
「おう、来てくれたか!」
「はじめまして! 美津子の友達の幸知です! なんかたのしそーだから来ちゃいましたぁ」
「こら、お前はいっつもテキトーなんだから……。はじめまして、幸知の先輩の徹です! お会いしたかったです! えーと……」
「あ、えーと……玲子の友達の友達の……あー! もうどうでもいい! 誰だか知らんが今日は飲みましょう! マスターが可哀想なんですよー」
「マスター、元気出しなってー」
「……ほえ? あんたら誰?」
とある街の一角に佇むバー。そこは経営危うしの寂れたバーに過ぎなかったが、今晩は違う。男女、年齢、関係性などどうでも良い。人の縁が紡ぐ、宴である。
もはやバーの雰囲気は消え失せ、完全に居酒屋の空気感を呈していた。笑い声、泣き声、叫び声、しかし、やっぱり高らかと響くのは、この世の面倒事を全てかなぐり吹き飛ばすかのような、快活な大爆笑である。
バーテンダーは思い出した。
そういえば、妻と息子と一緒に囲んだ食卓は、こんな雰囲気だったっけなぁ。
「あ、テメー! 誰だか知らんが俺のボトル勝手に開けやがったな!」
「うふふ、ごめーん、えーと、誰だっけ?」
「もう、あの子はほんとにテキトーね。ところで誰?」
「いや、もう今さら誰? とかは冷たくないですか!? マスターもそう思うでしょう!」
「……お前ら全員誰だよ」
「いや、マスターは俺のこと知ってるでしょう!?」
「あはは、マスターさん、初めて会ったけど面白いですね。あそこの誰かさんはツッコミが上手だわ」
「誰だか知らないですけどよく見たらかっこいいかも……」
「あー、先輩は私のだからダメです〜、ますたぁ、もういっぱあ〜い」
あれ? 私は、何に悩んでいたんだっけ?
忘れてしまったようだ。
酒のせいか?
それとも誰のせい?
なんだかよく分からないけど、明日は息子と久しぶりに話せそうな気がする。
加奈子、私、もうちょっと頑張ってみるよ。
宴もたけなわな頃、酔い潰れた者どもを見回しながら、自身もぐったりと机に突っ伏したバーテンダー。すっかり酔いもまばらになり、彼はふと一笑をこぼし、言った。
「もう訳が分からねえ」




