六首 人間の住む家・一
雫浜市の中心部は、海に近く運河が至る所に走る平地である。鉄道の駅があり、市庁舎があり、港があり、その他主要な施設がある。内陸に入って行くと徐々に坂が増え始め、比較的坂の少ない方へ進むと田園地帯に、坂の多い方へ登って行くと高級住宅街に辿り着く。学校や神社が多いのは高台の方である。さらに街の外へ向かって進むと徐々に人家が減り、怪異課や軍が置いている物見櫓が化け物の襲来に目を光らせるようになる。特に隣町との境界が田畑や道ではなく森になっている場所では、常に誰かが警備に当たっていた。
中心部自体は平地であるものの、市政に関わる施設の多くが高台に第二の拠点を置いていた。かつて、大水害があった。その際に海辺がほとんど波にさらわれてしまったため、もしもに備えているのだという。昔と比べると港も道も建物も運河も強固になったため自然に負けることは随分と減ったが、備えあれば憂いなしである。
雫浜市立第二図書館の前で鼬が一匹立ち止まる。第二図書館には歴史書や古文書、街にとって重要な資料など普段市民が原本を手にしない書物が収められている。華美な第一図書館に対して質素な外観の第二図書館の扉には鍵がかけられていた。ふぅ、と一息をついて燈華は懐中時計を包んだ風呂敷を咥え直す。
昨日拾った女の子の落とし物。今朝になって交番へ届けに行ったのだが、名前が書いてあるから本人に直接渡した方が早いと言われた。落としたことに気が付かない限り取りに来ることはないのだから、それでは懐中時計がかわいそうだ。燈華は巡査から聞いた住所を頼りに、人力車に乗ったり馬車に乗ったりして坂の上までやって来た。首から提げたがま口はちょっぴり軽くなってしまっている。帰りの分は一応ありそうだが、少し心配だ。
交番で対応してくれた巡査は懐中時計に書かれた名前を見てぎょっとしていた。その反応で、使用人風のおじいさんを連れていたことと「ふかみ」という姓を見てもしやと思ったものが確信に変わった。名前の表記はおそらく「深水」で、あの女の子はやはりお嬢様だったのだと。もしかしたらお巡りさんは自分が落とし主と接したくなかったのかもしれないな、と燈華は思った。
深水家は雫浜有数の名家である。海運で発展したこの街の基礎を創った貴族の血を引く一族で、長い歴史の中で幾人もの素晴らしい人材を輩出して来た。深水姓など国中探せばいくらでもいるが、雫浜で深水と言えばこの一族でほぼ間違いなかった。
高級住宅街の中をきょろきょろしながら歩く燈華のことを綺麗な身形の婦人が怪訝そうに眺めていた。もう少し神社や学校のある方向へ進めば人間と妖怪が半々になっているが、この辺りには人間が多く住んでいた。圧倒的に人間が多い。そのため、妖怪を珍しく思う者や苦手意識を持つ者も少なくなかった。
立派な塀や立派な生垣や昔からあると思しき立派な石垣に囲まれた家が立ち並んでいた。小さな花が咲き誇っている生垣の角を曲がると、より一層大きな家の姿が見えて来た。どこまで続くのだろうという塀に囲まれ、大きな門扉がどんと構えていて、庭に生える巨木が頭を覗かせている。
近くまで行けば分かるはずだと巡査は言っていた。確かに分かった。燈華は駆け足で巨大な深水邸へ向かう。落とし物のお届けは無事に完了しそうである。
ところが、問題は到着してから起こった。
「人を呼んだ方がいいのかな……」
門の前まで来て、家が放つ威圧感に押されてしまったのだ。獣の本能が危険な気配に恐れを為していた。この家はあまりにも強すぎる。半歩後退して、門を見上げる。ごめんくださいと声をかける勇気が出ない。とはいえ、無造作に落とし物を置いて行くわけにもいかない。どうしたものかとうろうろしていると、通りすがりの上品な身形の紳士に不審者を見る目で見られた。
「そうだ」
郵便受けに入れればいい。燈華は風呂敷包みを地面に下ろし、結び目を解く。そして妹に書いてもらった『落とし物です』というメモと一緒に懐中時計を前足で掬い上げた。後ろ足で立ち上がり、郵便受けの口まであともう少し。
「おい、そこの妖怪」
「えっ」
「何をしている」
後ろから投げかけられた声に燈華は振り返った。郵便受けにばかり意識を向けていて気配に気が付けなかった。頭上から降って来た声は聞いたことのある声で、ここ数日忘れられない声だった。
郵便受けを覗き込んでいた不審な鼬のことを見下ろしていたのは、着物姿の青年だった。見るからに質の良さそうな着物に、今日は細かな縦縞模様が浮かんでいる。全身がすっかり乾いているが見間違えるはずがない。あの日、運河から燈華を拾い上げてくれた青年その人である。予想もしなかった場所での再会に燈華は驚きを隠せなかった。綺麗な人だと改めて思うだけで精いっぱいで、声を出すことも動くこともできない。
「君……あの時の? ここで何をしているんだ。もしかして泥棒……?」
「あ……。ち、違うんです。怪しい者じゃなくて、落とし物を届けに」
燈華が懐中時計を見せると、青年は目を丸くした。
「それ、千冬の。……そうか、昨日は妹が世話になったようだな」
「妹……?」
「妖怪のお姉さんが泥棒をやっつけてくれたと言っていた」
「え。じゃあ、貴方はここの」
青年は燈華の前足から優しく懐中時計を取り上げる。「そうだ」と答える彼の目は、微かに震えていた。何かに怯えているのか、何かに怒っているのか、その心は燈華には分かりかねる。
「貴方、でも」
「俺は――」
「誰かいるんで……ゆ、雪成様!」
話し声が聞こえていたのだろう。門が開いて、使用人らしき男性が顔を出した。男性は青年のことを見て酷く慌てた様子である。
「ど、どうして。いけません。ど、どうしよう」
「……少し、外の空気を吸いたくなったんだ。もう戻るところだ」
「そうなんですか? あ! 妖怪がいる! どこから迷い込んだんだ、怪異課を呼ぶぞ」
「えぇっ!」