四首 気になるもの・二
客が来たり来なかったりする代り映えのない午前中。人間の姿で接客している母の後ろ姿を見ながら、燈華は燦悟の遊び相手になってやっていた。まだ幼い燦悟はぱたぱたと尻尾を揺らしてやればそれにじゃれつくので、燈華自身は少女雑誌を開いて目を通していた。
女学生達の装いを紹介する記事がある。燈華は着物や袴を着ることはできないが、髪飾りなどであれば工夫して身に着けることができた。世間の娘達には何が流行しているのか。そんな情報を仕入れることは今どきの娘である燈華の楽しみであると同時に、服飾関係の商売である家の役にも立つ。
頁を捲ると、連載小説が掲載されていた。先月号から始まった新連載作品であり、新進気鋭の女流作家文屋乃姫子が執筆したものだ。読み始めると長くかかるため、後で読むことにしよう。そう思って、燈華は連載小説を飛ばして頁を捲った。
投書欄に恋の悩みが掲載されているのを眺めていたところで、動かしていた尻尾がついに捕まった。
「お姉ちゃん、まだお熱ある?」
燈華の尻尾を前足で掴んで、燦悟が言う。
「ないよ。どうして」
「ぼーっとしてるから」
「え?」
考え事はしていたのかもしれない。雑誌に送られたどこかの乙女の恋の話を読みながら、燈華はあの日の青年のことを思い返していた。
「お熱はないよ、大丈夫」
「そっかー」
ふと気が付くと、青年のことを考えてしまっていた。化けるのが上手だったなとか、綺麗な人だったなとか。やっぱり助けてもらったお礼を改めてちゃんとしたいな、とも思っていた。けれど、投書欄を眺めていて脳裏を過るとは思わなかった。どうして、恋の話を読んでいて感謝の意を覚えている彼が現れるのか。怪訝な顔になる燈華の耳が、誰かの足音を捉えてぴくりと動いた。
「あら、先生いらっしゃい」
「やあ、何か面白そうな反物は入っていますか」
客として現れた男の声に燈華は顔を上げた。来店したのは背広姿の優男である。カンカン帽の陰から切れ長の目がこちらを見ている。一見すると人間だが、彼もまた本性は毛むくじゃらの妖怪だ。妖怪の学校で教鞭を振るう若き教師の彼は、街で一番古い神社で代々神職を務めている一族の狐である。元々は妖怪という呼ばれ方ではなかったはずだと一族は語るが、他称も自称も妖怪になって久しい。
母が最近仕入れた反物を取りに棚の方へ向かう。燈華は近くにあった人形を自分の代わりとして燦悟に渡し、店頭に顔を出した。
「稲守先生、こんにちは」
「こんにちは燈華さん」
「今日は先生の授業お休みなんですね。燎里が今朝機嫌よかったのはそのせいかな」
「おや、嫌われているようだね私の数学は。君も……君も、学校に来られれば良いのだけれど」
「仕方のないことです、この獣の手ではペンを持てないので。勉強は妹に任せて、家のことを頑張っています。……あの、先生、質問があるんですが」
「はい、どうぞ」
教室で手を挙げて先生に当てられたようで、燈華はちょっぴり嬉しい気分になった。
「河童は人間に化けるのが上手なんでしょうか?」
「河童?」
「はい」
「私はあまり河童が化けるという話は聞いたことがないな。二足歩行ができて手指も自由に使える河童が、微々たるものとはいえわざわざ妖力を割いて人間に化ける必要なんてないからね」
「そうですか……」
稲守先生は母が持って来た反物をいくつか並べて見比べる。花の柄や、風景の柄や、動物の柄など様々だ。
「私、この間見たんです。水から上がった妖怪が人間の姿に化けるところを。泳ぎが得意だったから、河童なのかなと思って」
「河童はこういう海辺の街ではなくて、もっと内陸の川の傍に暮らしているのではないのかな。この辺で見たことはないよ。観光客ならいるかもしれないけれど……。その人に甲羅や嘴はあった?」
「いえ。でも、水かきのある手はありました」
「それじゃあ河童ではないかもね。何だろう」
では、自分が目撃したものは何だったのだろう。燈華は青年の特徴を思い出す。自分の知っている妖怪で、あの青年の特徴が当てはまるものは思いつかない。見たことのない河童だと思ったが、河童ではないらしい。色々な物事に詳しい稲守先生に訊ねてみたが、燈華の疑問は解決しなかった。
稲守先生は「図書館で調べてみたらどうだろう」と言って、反物を一つ手に取った。人間に人間の全てが分からないのと同様に、妖怪にも妖怪の全ては分からない。
「着物を仕立てようとしている友人がいるのだけれど、私はこれが似合うと思って……。彼にも確認させたいから、この柄のものを取っておいてもらえますか」
「これでいいんですか?」
「はい。それではまた来ますね。燈華さんも、謎の妖怪の正体が分かったら教えてね」
優男を具現化したような微笑みを湛えて、稲守先生は店頭から立ち去って行った。母が反物を棚に戻し、燈華は燦悟の元へ戻る。
「お父さんが仕入れから戻って来たら、お父さんにも訊いてみようかな」
「燈華、先生と何の話をしていたの」
片付けをしながら母が問う。
「泳ぎの得意な妖怪が上手に人間に化けるのを見たの。ちょっと助けてもらったから改めてお礼を言いたくて。どこの誰なのか気になってて。とても、綺麗な人だった……」
「先生はなんて妖怪だって言っていたの」
「分からないって」
「何の妖怪か分からないなら、人間の姿で探してみたら? もしかしたら、先生みたいに普段は人間の姿で出歩いているかもしれないわよ」
「なるほど……」
人間の姿の時はどんな感じだったかな。燈華は再び尻尾で燦悟と遊んでやりながら、あの青年のことを思い浮かべる。彼のことを考えると、なんだか気持ちが昂って来るような気がした。