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灯火と人魚  作者: 月城こと葉
第壱集 獣と青年
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三首 気になるもの・一

 翌朝、燈華は熱を出した。しっかりと手拭いで拭ったつもりだったが、拭き取りが足りなかったらしい。


 夏が走り去り、秋が駆け付けて来るような頃。あと二週間ほど時が早ければ、帰宅するまでにすっかり乾いていただろうに。髭を震わせて毛を震わせて、燈華は丸くなる。


「お姉ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫じゃない」


 布団の中に埋まっている燈華のことを弟は心配そうに見ていた。まだまだ小さな弟は、大人の人間の両手にすっぽりと収まってしまいそうなくらいの大きさの毛玉である。


「うつったら大変だからあまり近くにいない方がいいよ」

「はぁーい」


 清原家の子供達は四人兄妹。帝都で暮らしている長男の燐之介(りんのすけ)。店の手伝いをしている長女の燈華。女学生である次女の燎里。ちびっこ次男の燦悟(さんご)。一番上から一番下まではかなり年が離れているが、仲の良い兄妹だ。


 畳の上をころころと転がるようにして退室していく燦悟の後ろ姿を見送って、燈華は氷枕に顔を埋めた。


 いつか、そのうち、弟にも追い抜かれてしまうのだろうか。ふわふわの自分をすべすべの腕で抱いて歩く弟が現実になる日はそう遠くないのかもしれない。


 人間の姿になることができたら。そうしたら、濡れた体を綺麗にできて、寝込むことなどなかったのだろうか。


「普通に燎里に頼めばよかったよ」


 いつもはそうしているのに。


 風呂に入った時や、雨に打たれた時、昔は母が拭いてくれて、最近は燎里が拭いてくれていた。いつもは任せているから昨日も燎里は拭いてやろうと申し出たのに、燈華はそれを断ってしまった。なんだか、人間になれない自分を惨めに感じてしまって頼りたくなくなってしまったのだ。人間の姿で外出していれば、そもそも運河になど落ちなかったのだから。


 小さく鼻を鳴らして、鼬が一匹布団の中で丸くなる。


 子供の頃から何度も何度も挑戦して来た。けれど、一度として人間に変化できたことはない。同じ年頃の鼬や猫、狐などが己の成果を見せ付けるように人間の姿を披露している様を、燈華はぼんやりと眺めていた。そして、いつしかなってみようとすることすらやらなくなった。


 今の燎里くらいの頃、燈華はもふもふと毛を揺らす狸の老婆に出会った。老婆は急須の姿になるのが好きだと語り、人間になったことはないと言う。なってみようとしたことはないのかと問うた燈華に、老婆は「なれなかったのよ」とほんのちょっぴり寂しそうに答えた。自分だけではないのだとほっとすると同時に、老婆をかわいそうだ思った。燈華の表情から言いたいことを察したのか、老婆は穏やかに笑みを浮かべて言った。これは、わたしの素敵な個性の一つなのよ……と。燈華は目から鱗が落ちたようだった。狸の姿が好きだと言う老婆に、燈華も鼬が好きだと言った。


 今となっては人間に変化することは半ば諦めているし、あの時の老婆の言葉も心に残っている。それでも、昨日運河に落ちたことが悔しかった。久方振りに、鼬の姿から変われないことを悔やんだ。挙句熱まで出したのだから、気持ちは沈むしなんだかよくないようなことばかり考えてしまう。


 何か楽しいことを考えよう。そう思った燈華の頭に浮かんだのは一人の青年の姿だった。昨日運河から拾い上げてくれた青年である。どうしてあの人がと思いながらも、ぼんやりと浮かぶ彼の姿をはっきりとしたものへと変えていく。上手に人間に変化する、水妖の青年。彼は命の恩人だ。菓子折りでも持って改めて礼をするべきである。だが、名前を訊けなかった。


「誰……なんだろ……」


 観光客じゃなくて地元の人ならいいなぁ、なんて考えながら燈華は静かに眠りについた。


 すやすやと寝息を立てる鼬を照らしながら、部屋に差し込む日差しが少しずつ動いて行く。


 やがて、二時程経った頃。燈華は静かに目を覚ました。


「お腹空いた……」


 食欲があるということは、朝よりは元気があるということだ。僅かに楽になった体に安堵しつつ、燈華はのそのそと布団から這い出る。


 鼬の鋭い嗅覚が何か食べ物があることを脳に知らせた。見ると、卵粥が盆に載せられて畳の上に置かれていた。眠っている間に母が持って来てくれたのだろう。水の入ったグラスと風邪薬がその傍らにある。


「ご飯を食べたら元気になりそう!」


 そう思った。


 思ったが、燈華がようやく元気になったのはその三日後だった。すなわち、三日間寝込んだ。


「燈華はもう起きて大丈夫なのか」


 熱が出た朝から、四日目。朝食の席に現れた燈華を見て父が言う。


「うん、もう大丈夫」


 今朝の状態は父と燎里が人間で、母と燦悟と燈華が鼬である。そんな清原家の面々の前には、どちらの姿になっているかに関係なく同じ食事が並べられていた。異なるのは一部の食器の形だ。


「いただきます」


 箸と椀を手に取る父と燎里。後の三人はふかふかの前足を平皿に添えて顔を突っ込む。毎日、毎食、燈華だけが鼻先を汚すことにならないように、誰かが鼬のままで食事をすることになっていた。これは家族で作った決まりというわけではなく、自然とそうなったものである。


 屋外で獲物を食べるのならば鼬の姿で豪快に食らった方が良いし、屋内で料理を食べるのならば人間の姿で食器を使った方が良い。当初、燈華は家族に対して申し訳ないような気持ちを持っていた。そんな彼女に向かって、両親は「崇高なる鼬の姿が本来のものなのだから何もおかしいことはない」と言った。今はもう、わざわざ気にすることのないいつもの習慣になっている。


 熱はすっかり下がって、食欲もあった。今度こそもう元気いっぱいである。


 食事を終えると、父は仕入れへ、燎里は学校へそれぞれ出かけて行った。店頭に立つ母と、手伝いの燈華、小さな燦悟が家に残る。やがて、従業員が数人出勤してきた。

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