一首 妖怪が暮らす街・一
逃げろ! と、誰かが叫んだ。
穏やかな昼下がりには不釣り合いな声だった。何事かと皆は顔を上げたり振り向いたり。
もう一度、逃げろと叫び声がした。
刹那、通りに大きな黒い影が飛び出してくる。
牛の頭に、蜘蛛のように足がいくつも生えている体。鋭い牙が無数に並ぶ大きな口から涎を垂らしながら、奇怪な化け物が白昼堂々往来に姿を現した。居合わせた人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。
反車七年。雪ノ宮帝国西部、雫浜市。
周辺のいくつかの街と共に広大な田園地帯を形成しているが、中心部は国内でも有数の大都会だ。運河が張り巡らされた街は古くから港町として開かれ、漁業や海運、交易によって栄えた。異国情緒漂う景観は観光地としても人気である。
毎日賑わう大通りに、今日は叫び声がこだましていた。
「ば、化け物!」
「牛鬼だ! 牛鬼が出たぞ!」
「こんな街中に出るなんて!」
「怪異課は何をやっているの!」
乗り捨てられた蒸気自動車を踏み潰し、街灯を圧し折る。牛鬼と呼ばれた化け物は手当たり次第に破壊行動を繰り返していた。頭から尻まで一丈以上ありそうな巨体に乗り上げられ、店主が逃げた露店も原型を失っている。
駆け付けた近くの交番の巡査が拳銃で威嚇をするが、効果は全くなかった。ある者は着物の裾をたくし上げて、ある者は手にしていたステッキを投げ捨てて、蜘蛛の子を散らすように走り出す。
燈華は人々の足元を縫うようにして走っていた。つぶらな赤い瞳が可憐な娘だが、今は恐怖に顔が引き攣っている。母に頼まれたお遣いの帰り道だった。妖怪事件に巻き込まれるなんて今日は運が悪いのだと考えながら、荷物を確認して駆ける。
誰かが食べられたかもしれない。いや、まだ誰も食べられてはいない。真偽不明の情報が逃げる人々の間で広まって行く。母親が手を引いているのは自分の子供ではないかもしれないし、若い男が助け起こしたのは自分の恋人ではなかったかもしれない。一緒に同じ方向へ逃げているのが誰なのかも分からないまま、右へ左へと逃げ回る。足を踏まれたとか、体がぶつかったとか、そんな怒声も聞こえた。
人混みの中、視界が悪くうろうろしていた燈華の尻尾を誰かが踏み付けた。きゃあと悲鳴を上げれば、咥えていた風呂敷包みが地面に落ちる。ころりと転がった風呂敷包みは誰かに蹴飛ばされ、さらに転がって行く。
「ま、待って」
行きかう人々の足と足の間を潜り、跳び、風呂敷包みを追い駆ける。その時、燈華には風呂敷包みしか見えていなかった。あっちへこっちへと忙しなく動き続ける人間の足など意識していなかった。まさか、無事に追い付き、咥えて拾い上げてほっとしたところで荷物もろとも蹴り飛ばされるなど、予想もしていなかったのだ。走り去って行った誰かは牛鬼から逃げることしか考えておらず、自分が蹴ってしまった相手のことなど気にも留めない。
「嘘っ」
油断していた燈華の体が宙に舞う。そしてやはり、今日は運が悪いのだ。燈華は運河の上に放り出されて、そのまま水の中に落ちた。近くに落ちた風呂敷包みがぷかぷかと浮かび、少しずつ流れて行く。
燈華は泳ぎが不得手であった。助けを求めるが、牛鬼から逃げる人々は運河に落ちた娘に目を向ける暇などない。まして、その娘が毛むくじゃらの獣であればこの状況で手を差し伸べるものなど皆無だろう。
清原燈華は人にあらず。丸い耳に、小さくも鋭い牙と爪に、長い尾。褐色の毛に覆われた体は細長く、俊敏に動き回る足を持つ。彼女は、群れると火を呼ぶとされる鼬の妖怪である。その名を、人は貂と呼ぶ。
助けて、助けてともがきながら一匹の鼬が運河を流れていた。お遣いの荷物もどんどん流れて行く。風呂敷に描かれたかわいらしい花が遠くなって行った。
今日はなんて運が悪い日なのだろう。出かけた先で牛鬼に遭遇して、人間に蹴飛ばされて、運河に落ちて、お遣いもこなせず、このまま溺れてしまうのだ。そう思うと、燈華はなんだか悲しくなって泣けてきてしまった。えーん、と子供のような泣き声まで上げてしまう。
通りでは相変わらず牛鬼が暴れており、今度こそ誰かが食われたとか、まだ食われていないとか、怪異課の警察官が辿り着いたとか、まだ着いていないとか情報が錯綜していた。居合わせた善良なる腕自慢の妖怪が勝負を挑んでいるらしいという声も聞こえた。
「誰かぁ、誰かぁ」
燈華の声は誰にも届かない。もっと大きな声で叫ぼうとして、思い切り水を飲んだ。意識が遠退きかけて体が沈む。
本当に運が悪い日だったわ。そう諦めかけた燈華の耳に、大きな水音が聞こえた。何かが飛び込んだ音だ。そして、自分の体が抱き上げられる。
「君、大丈夫か」
若い男の声だ。声の主は咳込む燈華の背をさすりながら、近くの桟橋まで運んでくれる。
背に触れる手のぬくもりを感じながら、燈華は誰かの姿を見る。ぼんやりとしている燈華の目に彼の姿ははっきりとは映らない。
「荷物……。荷物が、あるの……」
泳ぎ去ろうとしていた男が燈華の消えてしまいそうな声に振り返る。周囲を見回して、どんどん流れて行く風呂敷包みを見付けるとそちらへ泳ぎ出す。
徐々に意識がはっきりとしてきた燈華は、ぷるぷると体を震わせて水滴を飛ばした。泳いでいる男の後ろ姿を眺めながら、戻って来るのを待つ。大騒ぎの中で、自分の声を聞いて助けてくれた。一体どこの誰なのだろう。