一首 雨上がりの庭・一
走っていた。走っている。まだ、走る。
どこまで続いているのか分からない真っ暗な道を、雪成は走っていた。自分の手が見えないくらい辺りは暗くて、聞こえて来るのは自分の息遣いと足音だけだった。
きっとこれは夢だ。
そう思ったが、一向に目は覚めそうにないし、夢の中の自分は必死に走り続けていた。このまま走るしかない。
しかし、どういうことだろう。一歩、また一歩と踏み出す度に見えない足が酷く痛んだ。ガラスの破片を踏み付けているかのように、ナイフを突き立てられているかのように、鋭い牙で噛み付かれているかのように。呻き声を上げるが、その声は聞こえなかった。
やがて、遠くの方に光が見えて来た。足の痛みを堪えて、雪成はそちらへ向かって走る。
光の中に小さな人影が二つ、こちらに向かって手を振っていた。
「雪兄様!」
妹の千冬である。それならば、もう一人は。
「兄上、こちらです」
もう一人は、弟の柊平だ。帝都で暮らしている柊平が千冬と並んで手を振っているのも、夢の中だから。
深水家の人間の中で、雪成の生母が人魚であることを知っているのは大人だけである。父と、母と、古参の使用人の一部のみ。弟と妹は表向きの説明をされていて、雪成のことを父の亡くなった前妻の子と認識している。
激痛の走る足を動かして、雪成は弟と妹へ駆け寄る。家の中で、自分に笑顔を向けてくれるたった二人の小さな弟妹。二人の名前を呼んだつもりだったが、声は出なかった。
真っ暗闇の中から、弟妹の待つ光の中へ駆ける。手を伸ばせば、あともう少しで届きそうだ。
光の中に一歩踏み込んだ。その時、それまでで一番強い痛みが両足から全身に広がった。足先が、膝が、腿が、立っていることを拒む。光の中に放り出された雪成の体は、無様に地面に叩き付けられた。
上体を起こした視界に、ぱさりと青みがかった長い髪が入る。地面に着いている手の指の間には水かきがあり、腕には鱗が生えていた。雪成は血の気が引いて行くのを感じた。夢の中ではなくて現実なのではないかというくらい、はっきりとした感覚だった。じっとりと冷や汗が滲む。
「えっ……。雪兄様は……?」
「ばっ、化け物!」
顔を上げた雪成が見たのは、怯える千冬と妹を守ろうとする柊平の姿だった。柊平の足も震えている。
「化け物! あっちへ行け!」
待って! と、叫んだ。叫んで、弟妹の名前を呼んだ。けれど、雪成の口はぱくぱくと動くだけで音を発することはなかった。喘いでいる息遣いだけが耳に届く。まだ、足は痛い。もう足は足の形ではないのに。
夢を見ているのだと分かっているのに、ありとあらゆる感覚が妙にリアルだった。差し出した手を柊平に払い除けられ、雪成は俯く。
早く、目を覚ましてくれ。早く起きてくれ、俺。
叫び声は音のない喘ぎになって空間に消えて行った。
「い、行きましょう、柊兄様。雪兄様はきっと別のところに」
「うん」
手を繋いで弟妹が逃げて行く。
行かないでくれと伸ばした手は虚空を掴んで、そして、頭を抱える。大声で叫んだが、音は何も出なかった。下半身を埋める美しい鱗がいつになくきらきらと光っていて、自分の体だというのに随分と気色悪かった。
そして、気が付けば足元から水が上がって来ていた。水位はどんどん上がり、遂には雪成の全身を飲み込んだ。
人魚の姿なのに、水の中で息ができなかった。陸を目指してもがく手は鱗を光らせるだけでどこにも辿り着かない。
やがて、最後に。
吐き出した空気に混ざって、体が泡になって消えてしまった。
燈華が深水邸へワッフルを持って来た三日後の朝。明け方まで降り続いた雨は上がり、深水邸の庭の草木はぽたぽたと小さな雫を落としていた。離れの池では雀が三羽水浴びをしていた。小さな小さな水音と囀りが聞こえる、雲間から朝日が差し込む穏やかな朝である。
静かな時間が流れていたが、一羽の雀が水から出たところで離れから叫び声がした。雀達は驚いて三羽共飛び去ってしまう。
ようやく声が出て、自分の叫び声で雪成は目を覚ました。飛び起き、掛け布団を跳ね除け、足に手を滑らせる。
「足……ちゃんと、ある……」
全身汗でびっしょりだった。寝巻が体に張り付いている。
「俺……。俺……人間……っ」
確認するように何度か足を撫でる。雪成はゆっくりと大きな深呼吸をして、乱れた精神を半ば強引に落ち着かせた。
酷い夢だった、と呟く。あれは夢であると自分に言い聞かせて、現実の自分は何ともなっていないと理解させる。そして、両足を抱えて蹲った。