七首 追憶ワッフル・一
再度、燈華は深水邸を訪れることにした。茉莉と一緒に喫茶店に行ってから一週間後のことである。風呂敷包みを背負って、鼬が一匹、高級住宅街を進む。
雪成が所望していたのはりんごジャムとカスタードクリームのワッフルだった。一度店を訪れて、その値段に恐れ戦いて帰宅した。しかし、改めて店に確認に行ったところどうやら半分の大きさのハーフサイズがあるという。半分の大きさならば、今貯まっている分のお小遣いで買うことができる。
燈華はハーフサイズのワッフルを一つだけ買って、坂の上までやって来た。豪邸と豪邸の間に滑り込み、板の陰になっている穴を潜って深水邸の塀の中へ入る。
「ごめんくださーい」
返事はない。
「すみませーん。雪成さーん」
生垣から顔を出して池を覗くが、水の中に雪成の姿はない。離れの方を見ると、縁側のある部屋は障子が僅かに空いていた。
「ごめんくださーい。雪成さーん」
燈華は池の横を過ぎて、縁側から離れに上がった。体全体で押すようにして障子を開けて部屋に入るが、そこにも雪成の姿はなかった。
「留守なのかな」
背負っていた風呂敷包みを畳に下ろし、ワッフルが入っている箱を取り出す。甘い香りが漂ってきて、燈華は生唾を飲み込んだ。
駄目よ、これは雪成さんのなんだから。自分にそう言い聞かせて、箱から少し距離を取る。
燈華は廊下に出て、左右を確認する。左手の方が玄関である。右手には廊下が続いており、襖がいくつかあるのが見えた。突き当りが角になっていて、さらに奥まで続いているようだ。母屋よりもずっと小さい離れだが、敷地と母屋が大きすぎるので庶民の小さめの家一軒分くらいの大きさがありそうだった。
玄関にはブーツと下駄、草履が一足ずつ脱ぎ捨てられていた。履物の構成は先日訪れた時と同じで、雪成が所持しているものはこれで全部のようだ。
「家にはいるんだ。……奥かな」
名前を呼びながら、燈華は離れの奥へと廊下を歩き出した。
「ごめんくださーい。すみませーん。雪成さーん」
小さな四つの足が板敷を蹴って、小さな足音を立てる。そして、廊下の向こうからもっと大きな生き物の足音が聞こえて来ると燈華の丸い耳がぴくりと動いた。角を曲がって雪成が姿を現したのだ。たすき掛けにして着物の袖を纏めている雪成は、心底驚いた様子で燈華のことを見下ろした。指の先には絵の具が付着している。
「君……。来ていたのか」
「ごめんなさい、勝手に上がってしまって。声はかけたのよ」
「まさか、ワッフルを持って来て……」
「ハーフサイズなんだけれど、それでもよかったかしら」
ハーフサイズ、と聞いて雪成の眉間に微かに皺が寄った。
「……盲点だった。ワッフルならば買って来ないと思ったのに。そうか、ハーフサイズがあったか」
「あの……大きい方がよかった?」
「いや、構わない。……手を洗ってお茶を淹れて来るから、この間の部屋で待っていてくれ」
「分かったわ」
小さな足音を立てて燈華は縁側のある部屋に戻る。雪成と顔を合わせることができて、なんだか嬉しい気分である。
ワッフルの箱の横でおとなしく待っていると、少しして雪成がやって来た。盆の上には湯呑が二つ載せられている。皿が二つと、ナイフとフォークもある。
「ハーフサイズを切ると随分と小さくなってしまうかもしれないが」
「えっ。いいのよ、私は。雪成さんのために買って来たんだもの。貴方が全部食べてしまっていいのよ」
「受け取った俺が君にも食わせてやると言っているんだから黙って食べな」
雪成はワッフルをナイフで二つに切って、りんごジャムとカスタードクリームも丁寧に二つに分けて皿に盛った。
「ほら」
「い、いただきます」
燈華は皿の上のワッフルに鼻先を近付けた。気が付いた時には、二口程食べていた。ほのかに酸味を感じるりんごジャムと、ちょっぴりしっかりした印象のカスタードクリームが口の中で美味しく混ざる。甘さと素朴さが絶妙なワッフルの生地が、ジャムとクリームに包まれて一層素晴らしいものになっていた。
口の周りをクリームとジャム塗れにしてワッフルを頬張る燈華の様子を、雪成はフォークで一口ずつワッフルを口に運びながら見守っていた。
「君は美味しそうにお菓子を食べるな」
「こんなにハイカラなお菓子、普段は食べないもの。珍しくって、それだけで美味しさが増す気がするわ」
「そう」
雪成はワッフルの破片をフォークの先で突く。
「池の中にいた俺を見て、ワッフルまで買って来いと言われて……来るとは思わなかった。賭けは俺の負けだな」
「賭け……? 賭けは、分からないけど、私は貴方のことが知りたくて。気になって仕方がないの。ずっとずっと、貴方のことを考えてる。会えば、自分のこの変な状態が何なのか分かるかもしれないと思って、この間も……。また来れば、貴方のこと教えてくれるって言うから、今日も……」
「……変なやつ」
「へっ……!?」
「君は、変だ。君のせいで……」
深い溜息を吐いて、雪成は皿とフォークを盆に置いた。ワッフルは綺麗に平らげられ、残っているのはフォークでは拾えなさそうな小さな破片だけである。
私のせいで、何? 燈華は最後の一口を頬張って、もぐもぐと咀嚼しながら雪成を見上げた。
「君はそんなに、俺のことを知りたいのか」
「わ、私、貴方のことばかり考えておかしくなりそうなの」
「本当に変なやつだな……」
雪成は燈華の口の周りを拭い、それから手拭いを持ったまましばし黙ってしまった。目を閉じて逡巡し、ゆっくりと目を開ける。
「分かった」
そして、燈華をひょいと抱いて立ち上がった。部屋を出て右手に進んだ雪成は突き当りで左に曲がり、どんどん奥の方へ歩いて行く。しっかりと抱きかかえられている燈華はただ運ばれることしかできない。
やがて、辿り着いたのは一番奥にある部屋だった。土間になっており、雪成は脱ぎ捨てられている草履を履いて部屋に入った。
作業場らしい部屋は庭に面した縁側のある部屋よりも絵の具の匂いが強く、燈華はくんくんと匂いを嗅いで様子を窺う。部屋には画材が置かれており、イーゼルに載せられたキャンバスがいくつか目に入った。絵は庭の風景や、雑草の花束、夜の街を見下ろしたものなど様々である。しかし、そのどれもが離れの近くや室内を描いたもので、外の景色は夜のものばかりであった。
「これは雪成さんが描いたの」
「そう。いつも離れで絵を描いている」
「……昼の外の絵はないのね」
「体が弱いことになっている俺は自由に外出できないから。外の景色は夜の間に人目を盗んで少しずつ描くくらいしかできない。君が入って来たあの穴を通って出てね」
見せたい絵がある。そう言って、雪成は作業部屋の奥へ進んだ。
布が掛けられている大きな絵があった。
「これ?」
「そう」
雪成は大きな絵に掛けられている布を手で引いた。
燈華は息を呑む。
他の絵とは画風が少し異なる。それは昼の海の絵で、岩場で女の人魚が一休みしている絵だった。一見穏やかな風景だが、筆の跡は乱れていて荒々しい。
怖い絵だ、と燈華は思った。絵を描いた人物がまるで何か焦燥に駆られていたような、怒りに震えていたような、そんな感じがした。人の感情など分かるものではないが、絵を見ただけで恐ろしいものが伝わってくるくらいの激しい筆の跡だった。
「これ、は……」
「この絵は俺の母が描いたものだ。自画像らしい」
「お母さん……?」
腕の中で自分を見上げる燈華のことを、雪成は静かに見下ろす。そして、再び絵に目を向ける。
「俺の母親は、人魚だった」