音は面接官を選ばない」
午前10時。
都内某所、合同企業説明会会場。大企業の面接ブース。
壁際の椅子で、ひとりの女が小刻みに震えていた。
後藤瞳
黒いリクルートスーツ、サイズは合ってない。足元は革靴じゃなく、スニーカー。
スーツの下に、ストラトキャスター型のギターケースを持参という、常軌を逸した就活スタイル。
まちがいなくこの会場でいちばん音楽的な人材だが、社会的にはたぶん最弱である。
「次の方、どうぞ」
受付係の声が、まるで地獄からの召喚のように聞こえる。
心拍数:160bpm。ステージに上がる直前のそれ。
だがここは、ライブ会場ではなく――
就活、である。
面接官は三人。
真ん中の男は「いかにも人事部です」な、スーツと笑顔の標準装備。
右の女はメガネを押し上げながら履歴書を見ている。
左の若い男はApple Watchを触っている(失礼)。
瞳は、名刺交換を失敗した。
そもそもポケットに入れておいた名刺が湿っていた。
震える手で履歴書を渡すと、書類がカサカサと音を立てた。
音楽以外の音に、今日はやたらと敏感である。
「後藤さんですね。では、簡単に自己紹介をお願いします」
その瞬間――脳内が真っ白になった。
自己紹介。
そんなもの、ライブMCでも詰まるのに。
「えっ、あ、はい……えと……あの……」
喉が、ギシギシと軋んだ。
沈黙が30秒続いたとき、面接官が微笑んで補足する。
「大丈夫ですよ、緊張されてますか?」
やめて。そういう優しさがいちばん効くの。
「えっと……わたし……」
その瞬間、背負っていたギターが、椅子に当たって**「キン」**と金属音を鳴らした。
リアルなGコードの残響だった。
誰も笑わなかった。というか、誰も反応しなかった。
ただ、瞳の中の何かが――ぶっ壊れた。
「すいません……」
と、立ち上がり――ギターケースを開けていた。
面接官が驚く間もなく、
彼女はギターを取り出し、コードを押さえた。
「えっ、ちょっ……」
ジャン。
Eマイナー。
「えっと、あの、これが……わたしの……自己紹介です……!」
彼女の指が動き始める。
A→D→E、定番のコード進行。
声は出ない。代わりに、手が真実を語る。
指先が語る、彼女の履歴書――それは六弦の上にしか書かれていなかった。
10秒。
15秒。
面接官Aが言った。
「……あの、それは……何を意図されてるんですか?」
瞳は、ギターを弾く手を止めた。
「……えっと……“コミュニケーション能力は、言葉じゃない形でも伝えられる”って……思って……」
その場が、完璧に凍った。
Apple Watch面接官が、咳払いをした。
数分後、彼女は静かに部屋を出た。
ギターを背負って。
たぶん、次に呼ばれることはないだろう。
でも、不思議と、心は静かだった。
外に出ると、雨が降っていた。
傘はない。ギターケースも濡れていく。
そこに立っていたのは――リョウだった。
「お前……やったのか?」
「うん……」
「ギター?」
「……うん……」
「面接で?」
「……はい……」
リョウは、ため息もつかず、ただ頷いた。
「よくやった。最高の事故だ。
これで私たちは、社会じゃなくて、音楽で死ぬことが決定したな」
ふたりは、濡れながら笑った。
それはきっと、失敗でも落第でもなかった。
ただの――
自分を信じた瞬間だった。