「働く理由は、コーヒーの温度で変わる」
お待たせしました。
閉店後。スタッフルームに漂うのは、汗と洗剤と“やれやれ感”の混じった匂い。
そこにいたのは、私、萌絵――じゃなくて、今日は脇役。
主役は、椅子に逆向きに座ってる伊達と、ポニテ揺らしてストレッチ中のチサト先輩である。
そのあいだに挟まれてるのが、今夜の不憫な仲裁係、瑞希である。
「だからさぁ、俺は言ってるんだよ。“働く”ってのは、社会が設計した“搾取の形式美”なんだよ」
伊達がアイスコーヒーを指先で回しながら、のらりくらりと語り出す。
「適性とか希望とか、ぜんぶ建前。
現実は、生活と、税金と、所属感のトレードオフ。
“好きなことを仕事に”って、要するに“好きなことも支配下に置かれる”ってことだよ?」
チサトは身体をひねりながら、鼻をすんと鳴らした。
「へぇ〜、で、そんなご立派な理屈で、今は何してるんだっけ?伊達くん?」
「……職業、フリー」
「それニートの上位互換って言うんだよ?」
「おい」
「ていうかチサト先輩、逆に聞きたいんだけどさ」
と、伊達が身を乗り出した。
「なんでそんな、毎日毎日、バイトなのにプロフェッショナルなの?
ミルクの泡にも魂込めてるでしょ?
時給970円で“命の一杯”出してたら、普通に過労死するって」
「うーん……」
チサトはちょっとだけ考えたあと、ニコっと笑って言った。
「楽しいから、かな?」
「出たよ、“楽しい原理主義”」
「違う違う。“楽しい”って、“疲れない”の近くにあるんだよ。
私、働いてるけど、ぜんぜん“耐えてない”の。
むしろ、生きてる感じ? “あ、今の自分、誰かのためになったかも”って思える瞬間が、
私にとっての“仕事の報酬”なんだよね」
「でもさ、それって自己満じゃん?」
伊達の声は、思ったより低かった。
「“誰かのために”って、ほんとに“その誰か”にとって必要だった?
ただの自分の納得のために、過剰に頑張ってるだけじゃないの?」
「……うん、それでもいいと思ってる」
チサトは一切、怒ってなかった。
「だって、“いいことした気持ち”って、世界がちょっとだけ優しくなる気がするじゃん?
伊達くんが言う“建前”とか“支配”って、たしかにあると思うよ。
でもその中で、“自分が意味を感じられる一瞬”があるなら、それって、すごく幸せな仕事じゃない?」
そのとき、ずっと黙ってた瑞希が、コーラの缶をプシュッと開けた。
「はいはい、どっちも正解、どっちも不正解。
あんたら、白黒つけるには人間が多すぎんのよ」
「瑞希ちゃん」
「だってさ、伊達くんの言ってることは“現実”だし、
チサト先輩のは“理想”だし、
そのあいだで私たちは、ただ“週5で働いてるだけ”だから」
「働く理由? 知らんわ。とりあえず、来週のシフト表に希望出し忘れた方が、負け」
「それは……私です……」
「俺だな……」
「平和だなこの店!」
たぶん、働く理由なんて、人の数だけ、季節の数だけあるんだと思う。
搾取でも、使命でも、あるいは単なる習慣でも。
でも、
コーヒーがあったかくて、
ちょっとだけ笑えるなら――
それが今夜の“働く意味”でも、十分だよね。