第9話 佐伯夜永という性悪な女と偽恋人
サカナお姉さんとは十四時にちょうど中間地点くらいのカフェで待ち合わせした。
何の話をされるのかわからないけれど、苺果と配信切り忘れ時に喋っていたことを透夜にも改めて話すのではないかと思われた。
なにを聞かせてくれるのか、少し気になる。
十三時に起きて、顔を洗って、いつもと変わらないシャツに着替える。
そこでスマホが震えた。LINEのチャットではない、電話のほうだ。
透夜は画面に表示された『佐伯夜永』という字を見て、嫌な予感に襲われた。スマホを机に置いてみたが、コールは一旦止まった後、また鳴り始める。繰り返し、繰り返し。出るまで鬼電をするつもりらしかった。
透夜は口元を抑えながら、電話に出た。
「もしもし、トウ? なんで電話出ないの?」
「いきなり電話してくるのやめてくれない? 僕にも用事ってものがある」
「べつにいいじゃん。トウって二年前から住所変わってない? いまトウの最寄り駅にいるんだけど、迎えに来て」
「……え? なんで?」
「なんでって、トウのところにしばらくお世話になるから。待ってる」
寝耳に水だった。
事前に相談もされずに決められたことに、腹を立てたい気持ちはあるが、そうしている場合ではない。夜永を迎えに行かないと、きっとあとで暴れるに決まっている。夜永という女はそういうものだから。
サカナお姉さんに連絡しないと――と考え、ポチポチと文字を打つ。
透夜:すみません、サカナお姉さん。従妹が急に家に来ることになってしまって、会えなくなりました。ごめんなさい
すぐに既読がつく。
サカナ:従妹って夜永ちゃん?
――なんで知ってるんだ!?
スマホを危うく落としそうになったが、拾うことに成功する。
続けてサカナお姉さんからチャットがくる。
サカナ:ボクも久しぶりに夜永ちゃんに会いたいカモ。家に行ってもよければ行くけど?
透夜:いや、来てくれるのはうれしいです。夜永と二人っきりはつらいので。とりあえず、家には入れずに何とか頑張ってみようと思います
サカナ:了解。駅教えて
駅と家の住所を送り、透夜は部屋を出た。細かいところはあとで。
今はまず最優先で夜永を迎えにいかなければならない。
◆
駅のなかの柱の横に、佐伯夜永は立っていた。茶色のジャケットに、赤いベレー帽。苺果やサカナお姉さんと関わるようになってから逆に珍しくなった、背中半ばまである長い黒髪。黒いふちの眼鏡。
黄色のスーツケースを持っていて、大荷物だ。
佐伯夜永は最後、二年前に会ったときからあまり変わらない、モダンな大学生らしい姿をしていた。
少し珍しいのは、彼女が百四十センチもない低身長というところだろう。透夜と並んでちょうどいいサイズ感である。
「夜永」
呼びかけると、佐伯夜永はにこりともせず、「遅い」と小さな声で断じた。
「トウはいつもいつも、のろまったらしくて、どんくさい。姫が来たんだから、もっと喜んで、走って来なさい」
「無理」
無理だよ――だって、佐伯夜永のことが好きではないから。
肩を竦ませてしまう。これだから佐伯夜永とはあまり話したくないのだ。
佐伯夜永の夜永という名前。これは坂口安吾の「夜長姫と耳男」という小説から来ている。作中に出てくる夜長姫は美しいが、残酷で恐ろしく、人の痛みや死を喜ぶ、とんでもない魔性として描かれている。
夜長姫は最後に耳男の手にかかって死ぬが、〝「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」〟と言い遺す。
村人が苦しんで死ぬところをあますことなく見れる太陽が羨ましいと述べ、このままヒメを生かしておいたら世界が壊れると耳男が思っての殺害である。
あまりに残酷に美しく透き通った世界観で、怖い。
夜永の名付け親は祖父――ちなみに透夜の名づけ親も祖父――で、この小説が好きだから、そう付けたらしい。
夜永が生まれて以来、家庭では夜長姫にちなみ、夜永のことを「姫ちゃん」と呼んで育てている。本人的にも「姫」扱いが定着している。
十五歳から十八歳になるまでの高校三年間を夜永と共に、佐伯家で過ごした。
結果的に、夜永のことを嫌いになってしまった。というか好きになるエピソードがなかった。透夜の弁当の中身を捨てるわ、あることないこと学校のクラスメイトに言いふらすわ……。
今日だって自分勝手に、透夜のところに来ようとしている。
「……わがままでうんざりだ」
「なにか言った?」
「なんにも。とりあえずお茶でもしよう。カフェに入ろう」
「え、嫌。疲れたから家に行ってはやく休みたい」
「休みたいってお前……客用のふとんなんかない」
「姫は部屋で休んでるから、トウが買ってくればいい」
「お前……」
夜永は眉を寄せて、透夜の肩を小突いた。空手を習っていた彼女の筋力はすさまじいもので、透夜はあまりの力強さによろめいた。
サカナお姉さんが来るまで時間稼ぎと、家に入れたら最後だと思っての発言だったが、やはり素直に言うことは聞いてくれないようだ。
だが、透夜も負けていられない。
「年頃の女の子を部屋にあげるわけにはいかない」
「へえ、姫のこと、意識してるの?」
「してない」
するわけがない。寒気がする。
「してないならいいじゃん。トウのことだから、彼女もいないでしょ? だれか連れ込んでいちゃいちゃセックスしたこともないくせに。穢れなき部屋、白き無垢な部屋。姫が上がっても、なんともないでしょ」
「なんつーことを大声で言ってるんだ。とにかく、だめだ。今は彼女がいる。誤解されるわけがない」
「え、彼女いるの? むかつく。トウだけ幸せになるなんて許せない。っていうか姫がぶっ壊してあげる」
「だからお前に関わるのは嫌なんだ……」
言いつつ、透夜は佐伯夜永が持っていたスーツケースを奪った。勝手に駅のテナントに入っているカフェの方向へとゴロゴロと引き転がしはじめ、「行くぞ」と言う。
「あ、もう、勝手に――」
「夜永ちゃん、透夜君、久しぶり」
聞きなれた声。
喚こうとしていた佐伯夜永の肩に、サカナお姉さんの手が置かれていた。信じられないものを見る目で、佐伯夜永はサカナお姉さんを見た。
「その声と……少し面影がある顔……。もしかして、奈々世ちゃん……? 佐伯奈々世?」
「そうだヨ。ボクが佐伯奈々世さ」
その名前を聞いても、透夜の頭のなかで閃くものはなかった。佐伯というからには、親戚なのだろうなと思っただけだ。
「サカナお姉さん、合流してくれてありがとうございます。ひとまずカフェでお話を聞きましょう」
透夜は少しばかりほっとして、普段の調子を取り戻すことに成功した。
◆
駅ナカのカフェは混雑していたが、ボックス席を確保することに成功した。
オレンジ色の合皮ソファに腰かけて、透夜の隣にサカナお姉さん、対面に夜永というふうに座る。
夜永はココアとホットサンドを。透夜はブラックのホットコーヒーを。サカナお姉さんはオレンジジュースを注文した。
注文したものがすべて揃ったところで、透夜は口火を切った。
「話を聞きたいことが2つあります。ひとつは夜永がここに来た事情と、もうひとつはサカナお姉さんの、いえ、佐伯奈々世さんのことです」
「ちなみにボクの名前に聞き覚えある?」
「ないです」
断言すると、サカナお姉さんは吹き出した。
「小さいころに永遠を誓いあったのに、忘れちゃうなんて~! 薄情な透夜君」
「そうなんですか、初耳です」
流してしまったのだが、本当だろうか? 夜永とは面識があるみたいだし。
夜永をちらりと窺えば、黒髪を耳にかけて、上品にホットサンドを頬張っている。ごくりと飲み下すと、話に加わった。
「……奈々世ちゃんは小さいころ、よく家に遊びに来てた。うちは本家だからいろいろな親戚が来てたでしょ。奈々世ちゃんと姫とトウでよく遊んでた。覚えてないの?」
「まったく覚えていない」
とは言ったものの、なんとなく、おぼろげに、小学何年生かのころに夜永の家で同じくらいの年頃の子と遊んでいたような気もする。親戚の集まりは小学六年生のときに祖父が亡くなるまで続いていたので、それくらいまで遊んでいたのだろうか。
「奈々世ちゃんとトウは特別に仲良かった。姫を仲間外れにして、近くの公園に行ってたときもあったし。姫が小学三年生のころかな、トウはたぶん四年生か五年生のころに、奈々世ちゃんの両親が離婚して、そのときに奈々世ちゃんだけうちに預けられてた。で、再婚したあとは、うちから消えちゃった。そのあとのことは年賀状のやりとりくらい? あんまり知らない」
「……そうなんだ」
親戚であり、なにかのエピソードがあるかもしれないことは理解したが、やっぱりよく思い出せない。
「僕の名前を飲み会で聞いて、気づいたんですか?」
「そそ! 幼いころに将来を誓いあった運命の人だって思い出しちゃったんだよね~」
そうサカナお姉さんが茶化すように言うと、夜永はこちらを睨んだ。
「付き合ってる人って、奈々世ちゃんのことなの?」
「え、ちが――」
「そうだよ」
サカナお姉さんに、机の下で手をぎゅっと握られて、びっくりした。それに驚いているうちに、サカナお姉さんはすらすらと嘘を吐く。
「だから、夜永ちゃんが入る隙間はないんだよ!」
「ちょっと、サカナお姉さん……」
「あは、いいじゃん。別に。だから、夜永ちゃんはうちに泊まりなよ。透夜君と夜永ちゃんがひとつ屋根の下で共同生活をするのは見過ごせません! 彼女的に!」
「ふうん……そう……」
夜永は納得していないような、微妙な顔つきでうなづいた。
透夜にはその顔がなんとなく悪だくみをしている顔に見えて、嫌な感じがした。
夜永を生活のなかに組み込みたくないし、サカナお姉さんの生活にも関わらせるべきじゃないと頭のなかで警報が鳴っている。
「……それで、夜永の話も聞こうか」
「姫の話は簡単だよ。また親と喧嘩したの。もう出ていけって言われちゃったから出てきた」
「無職なことを責められでもしたのか?」
「そう。いつまでも親の脛をかじるなって」
夜永はニートだ。
佐伯家親戚の全体の人数は五十人ほどいて、医者や士業の人間・経営者を輩出し、それなりに潤っている。なかでも佐伯本家である祖父はとある事業で経営者として成功し、後を引き継いだ夜永の父は代表取締役をしている。それで金だけはあるので、夜永は現在二十一歳にして、大学も行かずに無職で親の脛をかじっていた。
夜永は高校時代から金遣いが荒く、高校生時点で月のお小遣いが五万円。デパコスを買うやら、ブランド品を買うやらしていた。
部屋はそれなりにごちゃごちゃしていて、男は月1でとっかえひっかえ。
高校在学中は透夜に地味に嫌がらせを行い、嗜虐心を満たしながら、勉強もせず、当然大学進学もせずに、地元に引きこもった。「夢や目標などなにもない、ただ漫然として家で暮らすのが姫の幸せ」と夜永は言い切っていた。
甘やかしすぎだと思う。
サカナお姉さんに耳打ちする。
「なんとかして、こいつ、実家に戻しましょう」
「なんとかなるのかな~?」
サカナお姉さんは苦笑した。
「まあ一日くらい泊めたっていいけど」
「とんでもない問題児ですよ、こいつは。一日どころじゃ済まないですよ、きっと」
「まあいいよ、こうして透夜君にボクの身の上話を聞いてもらうきっかけになったしね。なんとかしてみせるよ」
サカナお姉さんがあまりにも綺麗にウインクしてみせるので、不安はあるけれど、ひとまず彼女に任せてみるかという気になったのだった。