第11話 夜永と水族館とモールス信号
朝七時に退勤したら帰宅して風呂に入ったり、YouTubeをチェックしたりして、九時くらいに寝る。起きるのは十八時くらい。遅いときは十九時までふとんの中でもぞもぞして、二十時からはまたネットサーフィンや読書など。二十一時には出勤の支度をして、二十一時半には家を出る。
透夜の生活はそんなふうにして回っている。
夜勤者なので少し普通の人とは違う生活とはいえ、時間がずれているだけでやっていることはほとんど同じだ。しかも九時間も寝ている。平穏な生活と言えるだろう。
それが今日はぶち壊された。
スマホが鳴っている。
透夜は夢半ばから、スマホの振動で起こされた。
スマホは常時マナーモードにしているので、電話でも震えるだけだ。
寝ぼけながらスマホ画面を見ると『佐伯夜永』の文字。
急速に覚醒していく。
通話に出なければまた鬼電してくると予想がついたので、透夜は通話ボタンを押した。
「十五時に品川駅で待ってる」
挨拶もなく、夜永は冷たい声でそう言った。
「待て、お前……」
咄嗟に時計に目をやり、十五時であることを確認する。
「来るまで待ってる」
「おい……っ」
電話はぷつりと途切れる。品川駅になにかあっただろうか。サカナお姉さんの家から埼玉に向かうのであればわざわざ品川駅に行かなくてもいいはずだ。
行かないという選択肢もあったが、少し考え、透夜はのそりと起き上がる。身体はだいぶ怠いけれど、夜永をひとりにしておいたら不安だった。それに母親の箪笥貯金を盗んだ以外の罪を告白してくるかもしれないし。
急いで準備をして、家を出た。
時計を見ると十五時半。品川駅まで三十分ほどで着く。
透夜:十六時に品川駅に着くよ
念のため、夜永にショートメッセージを送っておく。が、既読がついたかはわからないので、不安だ。
品川駅に着いて、さっそく夜永に電話する。
「着いたよ」
「隣の水族館の前」
そう言ってまたぷつりと電話が切れる。
脱出ゲームのヒントみたいに途切れ途切れでイライラしてきた。
透夜はGoogleMapで検索して、歩き出す。品川駅最寄りには水族館が二つあるが、近いほうだろう。
ビルにたどり着くと、たしかに夜永はそこに立っていた。今日は地味な黒っぽい服装だった。透夜も今日は黒いシャツだったので、奇しくも、服を合わせたみたいになってしまった。若干悔しい。
「夜永、お前帰るって言ったのに……」
そう話しかけると、夜永は視線を合わせたまま、堂々と言い放った。
「水族館に行ったあと、帰るか考える」
荷物を持っていないし、また翌日帰るかどうかという話であろう。
透夜はやはりこうなったかとため息をついた。
「チケットは買ってある」
スマホのQRコードを見せられて、今日は夜永と過ごすしかないのだと諦めた。
水族館のなかに入ると遊園地にあるようなメリーゴーランドと左右に揺れる船のアトラクションがあり、びっくりした。ビルの中の水族館なのに、豪華に空間を使っている。今日は平日だというのに小学生くらいの子どもを連れた親子の姿が多かった。
子どもが群がっているアトラクション類は無視して、展示のほうを見て回る。ひんやりとして心地よい暗がりで、魚の水槽が点々とあり、そこだけ色が灯っている。
施設の目玉イベントのイルカショーでは、思わず感嘆の声をあげた。たくさん拍手もした。
熱帯魚、ペンギンの水槽や、カワウソ、アルパカも見て回る。マンタやエイなどが泳ぐトンネル型の水槽もあった。
透夜と夜永はほとんど無言だった。
明るく活気のあるおみやげ屋さんにたどり着いたところで、夜永は透夜の手を引き、イルカショーのステージまで戻った。そこで座席に座り、透夜にも隣に座るように促す。
「なにか話があるの?」
夜永は無言。
イルカショーに使われる巨大な水槽を眺めること、数分。
「トウのことが羨ましい」
ぽつりと夜永は漏らした。
「それいつも言うけど、なんで? 僕の弁当を捨てた時も言ってたような気がするけど」
透夜は静かに訊ねる。
「そう……トウは姫の立場を考えたことある? そこそこ成功してる家に生まれた、平凡でなんの才能もない暗い性格の女のこと。家じゃ姫扱いされても、学校では一軍女子に見下されて、金づる扱いされて、社会での自分の地位ってものを否応なく刻み込まれて」
「金づる扱い? いじめられてたの?」
ふるふると夜永は首を振る。
「あれがいじめかどうかはわからない。ただ持ち物を盗まれたり借りられて、そのまま返してもらえなかっただけ」
「そう……夜永が『姫扱い』が世間に通用しないことを自覚しているのは意外だった。もう少し夢見がちな女かと思ってた」
夜永はなんの反応もしない。真っ黒な瞳の目指す先は、水槽。
夜永の持ち物でほかの女子が欲しがりそうなものといえば、ブランド品やファンシーな雑貨のことだろう。
それはいじめなんじゃないかな、とは透夜には言えない。
透夜には人間関係というものがよくわからない。自分から接触することもしないし、他人から接触もされなかったので、高校時代もひとりも友達がいなかった。
夜永に「風呂を覗かれた」などと変な噂を流されて、多少、女子からの視線が痛かったものの、いじめられることもなく人間関係がまっさらなまま卒業に至った。
「姫にとっては家は鳥かごなんだよ。大切にされる代わりに、自由に出ていけないの。トウはご両親の遺したお金を自由に使えて、どこへでも行ける。東京で暮らせてる。しかも本人もアホみたいに無頓着な性格してる。羨ましい」
「それは褒めてるのか……?」
「自分で考えて。……トウには夢とか目標とかあるの?」
訊ねられて、透夜の頭には苺果のことがよぎった。
――ODで眠る苺果、メイドコスの苺果、苺果の笑顔が一瞬浮かんで、すぐに消える。
苺果との未来。
膨らんでいく想像と、喜びとはらはらとした危惧が混じったような知らない感情に、透夜は自分で戸惑った。
「いや……ないよ。希望のない味気ない毎日を過ごしてる」
透夜は辛うじて、昔の――苺果と出会う前の透夜が言いそうなこと――を答えた。
嘘を吐いた。
苺果のいる毎日は味がする。変な味。だが、悪くない。
そう感じていることを自覚して、少し胸の奥が熱を帯びる。
夜永は透夜のそうした微妙な変化に気づいたのか、気づかないのかはわからない。ただ曖昧にうなづいて、「それでいい」と言った。
「どこにも行けない、なんの才能もない姫と、目標もなくて生きる気力のないトウ。お似合いだよね」
「僕は夜永とお似合いなのは嫌だ。けっこう、切実に、夜永のことが嫌い。夜永こそ、なにか目標や夢なんかないのか?」
「夢……目標……、姫は家を出たい。けどそれは叶わない。許すわけがない。お母さんも、お父さんも、姫が変わらないことを強要している。コンタクトに変えられないのもそう」
夜永は黒ぶち眼鏡に触れた。背丈のこともあり同世代よりは幼くみられることが多いが、なかでもずばぬけて黒ぶち眼鏡は垢抜けない印象を受ける。
「叔父さんと叔母さんか……二年前、正月に会ったのが最後だな……」
「ね、トウ。お願いがある。いっしょに来て説得してほしい。姫だけじゃ……呪縛から逃れられない」
「実家ほんとに出たいのか? ニートなのに」
「一人暮らしして、働く。お父さんの関係ない会社で。だから協力してほしい」
夜永はいつになく強い口調で、そう言い切る。
透夜は少し心動かされた。
考えてみれば、透夜も苺果の協力のおかげで、サカナお姉さんと知り合い、味気ない毎日を脱したのだ。お金は心の安定だけど、友にはなってくれない。やはり温かみのある人間の協力者は必要だ。
「……どうしてもって言うなら」
「どうしても。こんなこと身内のトウにしか頼めない」
「じゃあ週末、一緒に実家に帰ろう」
「うん、よろしく。LINE交換しよ」
「……しかたないか」
夜永とLINEの連絡先を交換した。夜永のアイコンは水族館で写したピンク色の熱帯魚になっていた。テキストプロフィールには「水族館♪」と書かれている。
私生活の充実ぶりをアピールする相手がいるらしいことが窺える。
そのあと二人は立ち上がり、おみやげ屋さんに寄り、夜永は白いクラゲのぬいぐるみを買った。「トウみたいだから。記念に」と夜永は言った。
おみやげ屋さんから出ると、カップルが二人で自撮りをしているところに遭遇した。
本当はこういうところはカップルで来るところなんだなあ、と思わせられる。
というか、カップルでもないのに男女の組み合わせで来ているのが謎だ。
改めて夜永との関係性を考えてみると、透夜から夜永への矢印は「嫌い」なのだが、夜永から透夜への矢印はなんなのか不明だ。
でもまさか好かれているということはないだろう。一歳違いで生活をした仲だからきっと、兄――親戚のお兄さん程度の好意のはずだ。きっと。そうに違いない。
「送るか?」
「いい」
真顔で断られたので、二人はそれぞれ最速で着く別々の電車に乗った。
――今日は疲れた。
バイトに行く前から、疲れてしまった。でも夜永が埼玉に帰るまでの辛抱だ。
夜永とのことが終わったら、苺果と水族館にでも行こう。水族館だけじゃなくて、テーマパークもいいな。透夜は友達がいないのでテーマパークは一度も行ったことがない。透夜自身はあまり興味がないが、苺果が行きたがれば、行くのも一興だと思えた。
バイトに行く前に夜永からLINEが来ていた。
夜永:---・- -・-・・ -・ ・・ --
夜永:-・・ ・-・-・ ・・-・・ ・・- -・・・ -・-・- ・- --・-・ ・-・・ ・・・
夜永:-・-・・ ・・-・- ・・-- ---- ・・-・・ ・-・・ ・・ ・・- ・・・ ・-- -・・- --・-・ ・-
「なにこれ……」
透夜はつぶやいてしまう。モールス信号であることはわかったが、こんな長文を解読する気もなく、スマホを投げだして、目をつむった。




