信じられないことは嘘でまとまるはず
決勝からさかのぼること2日前。
桜のほころび始めた地元からコーチの車ではるばる東京までやって来た。積んだ荷物はわずかな着替えと貴重品類だけ。なんせ予選で50mを1本泳げば任務完了の簡単なタスクだもの。
泊まりは水泳選手の聖地、国立の競技場からざっと30分離れたホテルだった。
「やっぱりもったいないよな。今さらだけど競技を続けた方がよくないか?幸平ならまだがんばれるだろ」
ロビーのソファに向き合って座ったコーチ…30代のイケメンと噂される相原コーチが僕に話しかける。明後日が愛娘の入学式(実は僕もだ)だと言うのにわざわざ明日まで僕に付き合ってくれている。僕は一人でもと大丈夫と言ったけど、さすがに中学生一人で遠征はさせられないと自ら保護者役を買ってでてくれたのだった。厳密には高校生の気もするけどどういう扱いなんだろ。
幾度となく繰り返してきた話の中味にいつものように僕は愛想笑いを浮かべる。手のアイスコーヒーがしっかりと冷たい。コーチのは開栓もされず汗をかいている。僕は同じ答えを何度もしたから、特別な感慨はない。
明確な返事をしないことがかえって僕の気持ちをコーチが推し測ることになった。コーチの優しさが分かる瞬間だ。
「残念だな。俺の教え子から初めて選手権出場者になったのに。選手をみんな平等に扱うのが当たり前でも、なんか幸平を前にすると期待しちゃうんだよな」
正直答えにくい。だから
「ほんとに今までありがとうございます」
「高校に入った頃の俺なら」
思い出すようにコーチは目をつむり
「幸平みたいな思い切った決断なんかできなかったよ。なんせパワーこそ速さの源なんて信じていたからな。そもそも選手権が遠かった。狭い狭い視野で筋トレをがんばりきれば何かを達成できるもんだと信じてたもんだ」
そして振り払うようにニカって笑い
「結局今も信じてるけどさ」
ごめんなさい、コーチ。
「僕はコーチとちょっとだけタイプが違っただけですよ」
無理して大人ぶるな、15歳だろと僕が大好きな笑顔でコーチは自ら出した話題を変え、愛娘の話をしだした。
次の日の午前中。全国から集まった選手たちが予選に挑んだのだけど。50m自由形は2年前に第一人者が引退したあと本命不在の種目となっていた。前年記録上位者も故障や時期的な(4月上旬)理由によって不参加が相次いでいた上に、さらに出場した記録上位者も大量フライング事件(最終組の9人中7人がフライングで失格)のため、僕はなぜか18番目のタイムで午後の準決勝に残ってしまった。
慌てたのが相原コーチ。昼過ぎには地元に戻る相談を僕としていたのに予定を遅らせることになったのだった。
その準決勝、集大成となるレース。スタートがピタリと合い僕の最後のレースで会心の泳ぎができたと思う。ゴールタッチもきちんと合わせた。
自己ベスト。端っこのレーンでひそかにガッツポーズをした。思い残すことがなくて本当に良かった。満足できたと思う。そして僕はこの組で5番目だった。
ダウンプールに向かう前にちらりと遠目に客席のコーチを見やる。親指を立てgoodのサイン。お互いに笑いあったあと一応リザルト放送を待った。礼儀的にもね。
結果。8位で明日の決勝に残ってしまった。コーチとまた視線が合う。遠くだが僕と同じ言葉を発したのが分かった。
「嘘〜!」