辞退届
数日後、備前は散歩がてらに福祉事務所の安岡を訪ねた。窓口を挟んで対面する二人。
「安岡君もなかなか異動できないようだね」
安岡は笑って答える。
「でも、俺もだいぶ経験が長くなりましたからね。実は今年から査察指導員になったんですよ」
「おや。では俺の担当CWはもう安岡君じゃなくなってしまったのかい」
「そうですね……でもまだ査察指導員ですからね。俺が福祉事務所にいるうちに備前さんにこの話ができてよかったと思いますよ」
「ん? 俺に話をすること?」
「あはは……まさか身に覚えがないなんて言わないでくださいよ~?」
「すまない……本当に身に覚えがないんだ」
安岡は肩を落とした。
「さすがと言いますか、ちっとも悪びれてないんですねぇ」
「……すまないね」
「まぁいいですよ……じゃあ、これを見てもらうほうが早いですね」
そう言って安岡は一枚の紙を窓口に出した。
備前は一瞬驚いた顔をするも、すぐにまた落ち着きを取り戻した顔で答える。
「なんだい? これは」
「……ようやく見つけた、備前さんの預金口座と思われる口座情報ですよ」
備前は目を閉じて小さく息を吐き出した。
「あるのはわかっていながら、探し出すのには苦労しましたよ……我々の調査手段を熟知しているからこそできる芸当ですからね」
「……よく、こんなものを見つけてきたね」
「ええ……笹石さんにヒントを貰わなければ到底ここまで辿り着けなかったでしょう」
「そうか。小娘がね……俺にまで生活保護を辞めさせるつもりらしいな」
「さすがのひとことですよ。備前さんがお育てになられた笹石さんは……よくもまぁこんな方法を思いついたものです」
「……小娘はなんて言っていたんだい?」
「別に備前さんの情報を我々に密告したわけじゃないんですよ? ただ、可能性として考えられるのは住所も追えず、名前のカナも違う口座があるのだろうとヒントをくれただけです」
「ほう……」
「考えてみれば誰もが知り得る情報を組み合わせることで、こんなことができるんですね……我々も勉強になりました」
「どうするんだい? 差押でもするのかい?」
「……備前さんの口座だと認めてくれるんですか?」
安岡はわずかに微笑みながら備前を見た。
「逆に、俺の口座じゃなかったとしても俺がそうだと認めれば差押するのかい? 俺なら面白がって頷く可能性すらあるというのに」
「……結論とすれば別人の可能性がある以上、我々には差押できませんね。なんせ名前の漢字と生年月日しか一致していない口座なんですから……たまに別人口座を差押なんてニュースが出ますけど、そんなリスクは負えません」
「だろうねぇ……生活保護者ごときの口車に乗ってしまうわけにはいかないだろうよ。だがしかし、俺からは本当によく見つけてきたものだと言っておくよ。とうとうやったな安岡君」
「これも笹石さんから貰ったヒントのおかげなんですけどね」
「それで? 福祉事務所はこの件をどうするつもりなんだい?」
「我々にはこれ以上踏み込めませんので、備前さんの良心に訴えることにしました」
安岡はそう言って一枚の紙を事前に差し出した。それはA4サイズのコピー用紙であり、表にも裏にもまったく何も書かれていない、ただの白紙である。
もちろんそれが何を意味するのかは備前もよく理解している。備前自身が何度となく保護者に突きつけてきたものだからだ。
「辞退届を書けということか」
生活保護業務では表向きに辞退届を書くよう保護者に求めることはない。一般的には親族の引き取りや就労収入が増えた等の事由で、正当に保護を抜けようとする意思がある保護者から、あくまで最後の確認として受け取っていることがほとんどだろう。その様式もあらかじめ簡潔に印字されており、辞退理由や署名をするだけで済ませることも多い。
ただし、極稀に、あまりに指導に従わない者や型破りで手に負えない者も存在する。もちろん度重なる指導指示違反にも改善を示さなければいずれ福祉事務所の判断により保護廃止となることもある。そういったケースでは念の為に辞退届を求めておくケースもあるが、ただ既存の様式に署名をさせただけでは後日簡単に手のひらを返され、強制的に書かされたなどと騒がれるリスクもある。
そのような事態を避けるためにも、福祉事務所によってはあくまでその全文を自らの意思で書いたことを印象づけておくために白紙を差し出すことがある。もちろんそれになんの意味があるというわけではない。あくまで自分で書いたことを知らしめるためだけで、その効果は曖昧なものだ。
だが、それでも福祉事務所が白紙を差し出して辞退を迫るということはそれだけ重い判断を経ての結果だということだ。
「我々はあなたの財産を探し出しました。ですがまだ完全には結びつけられてはいない状態です……今ならば我々も備前さんに強気で追求することができないということです」
「本来であれば、口頭指導、文書指導と順に指導を行い、それでも従わなければ俺を召喚して聴聞会を開催し、正当な理由がなければ指導指示違反で生活保護を強制的に廃止もできる……さらには生活保護法第78条の徴収金も課せられるだろう……それをしないのかい?」
「なにせ、我々にはまだ確定できていない状況なので」
「今、この場で自分から生活保護の辞退届を書けば温情をかけてくれる、と」
「……ヒントを差し出す代わりに、これを笹石さんも望んでいました……俺は、それを受けました」
それを聞いて備前は目を閉じた。
「そうか……俺はとうとう小娘から引導を渡されたってわけだな」
それからしばらく二人の間には無言があった。
「わかった、書こう……ちょうどいい時期だ、踏ん切りもつく。廃止理由は財産活用でいいのかい?」
安岡はまた少し笑って口を開く。
「……廃止理由はもう一つ。笹石加奈子さんがあなたを引き取って扶養するそうですよ」
「……な!?」
備前は驚きを隠せない。
「あはは。やっぱりさすがの備前さんもこれには驚きましたか」
「当たり前だろう……俺と小娘は言ってみれば赤の他人なんだぞ?」
「そうですね。俺も笹石さんのお話を詳しく聞くまではそう思っていました」
備前はすぐに冷静さを取り戻して思考を巡らせるそぶりをする。
「なるほど……扶養者がいれば生活保護にはならない。つまり小娘はどうあっても俺から生活保護を奪い取るつもりらしいな」
「……最初は俺にもそう感じるところがありましたよ」
備前は自嘲気味に少し笑った。
「……ははは。最後のトドメを自分で育てた小娘に刺されることになろうとはなぁ……ここまでくると悪くねぇ最期に思えてきたよ」
それを聞いて安岡も軽く微笑み、首を横に振った。
「トドメなんてとんでもない。笹石さんはあなたを貶めようとは微塵も考えていませんでしたよ?」
「何を言ってる……俺の収入源を絶っておいて言うようなセリフじゃないだろう?」
「まぁ、こればかりは笹石さんに直接聞いてみるのがいいかと……最初に言ったじゃないですか、備前さんがお育てになった笹石さんはさすがのひとことだと」
「……帰って問い詰める必要がありそうだな」
「ええ……ただ、その前に」
「辞退届……そうだったね。書いていこう」
備前は白紙の上にスラスラと文字を書き連ねた。
「結果については、後日お知らせしますからね」
「……そのときまだ、俺が生きていたら、だがね」
そんなふうに言い捨てて去る備前を安岡は少しの苦笑いで見送っていた。
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次回が最終話となる予定です。
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