無気力Z(2)
その後、加奈子はなんとか瓜破から保護申請に必要な生い立ちを聞き出した。
「普通に学校に通って、それなりの大学を卒業して、それなりの会社に入った、と……いかにも普通の若者て感じだなぁ……」
「だよね~?」
「なんで会社辞めちゃったん?」
「いやぁ、ちょっとした手違いでさぁ……クソ上司が退職届を受理しやがったんだよね~」
「ん?」
加奈子は首を傾げた。
「アタシがまだまだ世間知らずなのかな? 退職届って自分から出すものだよね……?」
「そうだけど、普通は一度預かったりして引き留めるもんだろ~?」
「はぁ……」
「こっちだって入社前は残業が頻繁にあるなんて聞いてなかったんだしさ~」
「それで辞めたの~?」
「だから辞めるつもりなんかなかったんだよ~。こっちだって歩み寄る姿勢はあったのに、それをあのクソ上司が……」
「い、意味がわからないんだけど、歩み寄るのに退職届を出したの……?」
「そうだよ? たしかに残業は嫌だけど、俺らだって社会人になったんだしさ。完全に理解がないわけじゃないんだぜ? 少しくらいは残業も容認するさ。だけど会社だって俺らに必要な情報を十分に開示していなかったんだ。お互いにいろいろとわかったところで当初の条件と違うんだから、それに合わせて雇用条件も見直すべきだろ?」
「そ、そうなの……?」
「だから退職届なんて、いわば交渉のためのツールでしょ? こっちが辞めるって言って、あっちがちょっと待ってって引き留めて、じゃあ待遇改善してってなって、お互いに落としどころを探して適正な雇用条件を結び直すべきじゃない?」
「あ~……それ、やっちゃったんか~……」
加奈子は苦笑いした。
「アタシも昔はそうだったんだけどさ。君、自分の価値を高く見積もりすぎだったんだよ」
「加奈子ちゃんて、マジいま何歳よ?」
「アタシのことはいいんだけどさぁ……君、それやって結果が予想できなかったん?」
「だから会社が交渉に応じるように手を打ってから臨んだんだぜ?」
「期待してないけど、いったいどんな手を打ったん?」
「同期のうち9人仲間を集めて一斉に退職届を出したんだよ」
「バッカじゃね!? なぜに!?」
「ほら、ストライキとかだって団結してやるから意味があるわけじゃん? 会社だって社員がそんなにまとまって退職したら仕事が回らないんだしさ、ちょっと待ってくれってなるわけじゃん? ならなきゃおかしいじゃん?」
「おかしいのはお前の頭でワロタ」
「それをあのクソ上司がよ~……なんで俺たちになんにも言わねーで受理すんだよ!」
「出されたものを受け取っただけでワロタ」
「くっそマジでどうしてくれんだよ……一週間で退職して職歴にヒビが入ったんだかどーだかしらねーけど、そのあとの就活も上手くいかねーしよー……」
「地雷案件まるわかりだからねぇ……」
「しかも一緒に退職した奴ら、俺を裏切って、俺に扇動されて退職してしまい被害を被ったとかほざいて、訴訟まで起こしてきやがった」
「争いが醜すぎワロタ」
「こんな状態で就活なんかできるわけねーだろって感じでさ~……」
「逆に君、そんな状態でよくアタシ口説こうと思ったよね?」
「マジで助けてくれよ~……俺ごとあげるからさぁ……」
「イラネ」
「冷たいなー……くそぉ……」
そう言って瓜破は頭を抱えて机に突っ伏した。
「無理にでも明るく振る舞ってないと不安で潰れそうなんだよぉ……もうどうすりゃあいいんだよ~……」
「自分でわかんねーの?」
「わっかんねーよぉ……」
「そっかぁ~……」
加奈子は憐みの表情で瓜破を見た。
「なんで実家に頼らねーの?」
「頼れるわけねーだろ! いい会社に就職したってドヤっちまったんだからよ!」
「あ~……そのプライド意味ねーのに気づいてねーポイントも加算かよ」
「もう死ぬしかねーのかなー……」
「あ! それなら保険金かけてアタシと付き合ってみない?」
「こんなときにフザけないでくれよぉ……」
瓜破は突っ伏したまま泣き出した。
「これが普通とは言わないけど、若者ってこんな感じなのかなぁ……いや、たぶんアタシもパパに会えてなかったら、もっと酷かったんだろうなぁ……」
加奈子は窓ガラスに映った自分の姿を見て自虐的に笑った。
「どうしよう……? この人メッチャ病んでるのに、この程度の状況、アタシには全然大したことなく解決できちゃうようにしか思えないんだよなぁ……」
「さすがに嘘だろ……? そうやって弱ったところにつけ込んで、俺をハメ殺すつもりなんだろ……? もう何もかも全部詐欺かなんかなんだろ……?」
「いや、だからアタシ最初から正直に言ってんじゃん。君を養分にするってさ」
「なんだよ、なんなんだよ……みんなして俺を殺す気なのかよぉ……」
「殺したら養分にできねーじゃん」
「じゃあなんとかしてくれんのかよぉ……?」
「いいよ? ただしこっから先は、アタシに服従するなら、だけどね」
「あ、悪魔かよ……」
「君は本当に世のなかってもんをわかってないなぁ……悪魔だなんて名乗ってくれる人はいやしないよ……でもさ? だからこそさ? 比較的優しめなアタシに引っかかって落ち止まっておくのも悪くないんじゃね?」
「落ち止まるってなんだよ……? でも、もうこれ以上、落ちなくて済むのか……?」
「そーだよぉ? でも、報酬もそれなりだから覚悟は必要だよぉ?」
「わ、わかった……わかったよ……」
瓜破は俯いたままであったが、少し安堵したような表情をしていた。
「よぅし。じゃあ今から君はアタシに服従する養分だ!」
話がまとまったところで加奈子は明るく手を打った。
「加奈子ちゃんの養分か……」
「あ。さっそくだけど君、アタシの名前呼び禁止ね。身の程を知れぃ」
「……さ、笹石さん」
「そうそう。ちゃんといい子にしてれば、アタシがちゃんと面倒みてやるからさ!」
「……我ながら情けないけど、ご主人様は可愛いし、ま、これで働かずに生きていけるなら悪くないのかな……こんなんじゃ実家とも縁を切るしかないなぁ……まぁいっか……深く考えるのはやめよ……」
瓜破は頭を垂れた。反対に加奈子は生き生きとしていく。
「まずは逃げられないように弱みを正直に差し出すんだよ? それからちゃんと養分になる契約もして、身も心もアタシに差し出すんだ~」
「あぁ……こんな可愛い子に身も捧げていいのはちょっと嬉しいかも……」
「あ、やっぱ身はイラネ」
「……なんだろ? 滅茶苦茶言われてんのに、なんか惚れそうだなぁ……」
「やっぱ心もイラネ。金だけよこせ!」
「あ~……ヤバい……これガチでこの子に支配されたやつだ……」
瓜破は渇いた諦めの笑みを浮かべた。
その後もしばらくファミレスの一角で加奈子と瓜破は会話を続けていた。
そんなときだった。
「あれ? 瓜破先輩じゃないですか」
加奈子の背後からそんな声が聞こえた。
そしてその声に聞き覚えのあった加奈子の背は大きく震えた。
「おお! 備前か。久しぶりだなぁ」
その声の主を見た瓜破は少しだけ明るい表情を見せていた。
「ご無沙汰してます。お元気でしたか?」
「いや、いろいろ散々な目にあって、元気とは言えねぇなぁ……」
「なぁに言ってるんですかー。素敵な女性を連れながら……もしかして彼女さんとかですかー? ……って、あれ?」
声の主は加奈子の顔を見て固まったようだった。
「か、加奈子さんじゃないですか……」
加奈子もおそるおそる顔を上げる。
そこに立っていたのは備前の息子、備前優也だったのだ。
「こ、こんにちは……優也さん」
「ど、どうしてここに加奈子さんが……? もしかしてお二人は付き合ってたり……?」
優也は少し動揺している様子だった。
「ああ、いや違うんだ備前。笹石さんとは本当に今日初めて会ったばかりでさ……ちょっと相談に乗ってもらっていたんだ」
「相談……? 今日初めて会った人に……?」
そこで失言だったことに気づいた瓜破は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「それより備前、と、笹石さんは知り合いだったんですか?」
瓜破は加奈子の面前で不自然さを隠しきれていなかった。
そして加奈子もまた予想外の展開に対応できず口を閉ざしてていた。
「先輩どうしたんです? 僕に敬語なんて使わないでくださいよ」
「あぁすまん……ちょっと緊張モードでさ」
「もしかして仕事中だったりします?」
「いや、そうじゃないつーか……」
加奈子も優也には自分の正体を話していない。優也は瓜破を先輩として上に見ている。だがその瓜破は加奈子に反抗できない。その微妙な空気が三者間に漂っていた。
「それより、備前はどうしたんだ? 一人じゃないんだろ?」
「いやぁ、ちょっと友達とメシでもと思って」
「彼女とかじゃないのか?」
「嫌だなぁ先輩! 僕が彼女とかできないの知っててイジらないでくださいよ~」
そう言って優也は加奈子をチラリと見た。
だが加奈子は視線をそらしていてそれには気づかない。
そんな二人の様子を見比べて、瓜破も何かを察したような顔をした。
「備前、笹石さんとは……?」
「ああ、いえ。僕も加奈子さんとは知り合い程度なんですけど……」
「加奈子さんねぇ……そっか~……知り合いじゃあ、あとで俺のこともバレちまうよなぁ……」
「えっ? 何がです……?」
「いやぁ……備前にはこんな格好の悪いこと話したくなかったけどさ……俺、仕事も続かなくて、いろいろ大変な目にあってさ……今、生活保護の相談をしてるんだよな」
「生活保護の相談……? 加奈子さんに……?」
「笹石さんは本当にすごい人だよな、この若さで。大学で遊んでたような俺とは大違いさ」
「そ、そうなんですか……?」
優也の不審な視線が加奈子に向かった。
「裏技とか知識がエグいんだ。知ってるか? 生活保護って預金調査とかで送金履歴を調べて収入はバレるけど、ぺーぺーで送金してもらえば電子マネーの調査までしてない自治体も多くてバレにくいんだってよ。なんでそんな内情まで知ってんだって話」
「い、いや、最近は調査の必要性を認識する自治体も増えてきたから、その方法はそろそろ危ないっていうかぁ……」
加奈子は優也の視線に戸惑いながら場を濁す。
「とにかく、地に足がどっしりついてるっていうか、教科書が教えてくれない現実的な力が飛び抜けてるっていうか……とても二十歳前とは思えない。話をしてみたらこれがマジですげぇんだって!」
二人の微妙な雰囲気に気づかない瓜破が明るく言うので、その場の濁った雰囲気を取り戻すかのように優也も明るい声で返す。
「地に足がどっしりついてるっていうか、教科書が教えてくれない現実的な力が飛び抜けてるっていうか……とても二十歳前とは思えない」
「そ、そうなんですよ! こないだ急にお邪魔したときも余り物の食材ですっごく美味しいお料理も作ってくれたし、家庭的なところもすごいんです、加奈子さんは……そっかぁ……先輩の相談に乗れるんじゃあ、やっぱり加奈子さんはすごい人だったんだなぁ」
「マジかよ……備前、そういう関係?」
「あ、いや。違うんですよ。別にそういうんじゃなくて……家が近くっていうか」
「へぇ?」
「ま、まぁいいや。お邪魔しちゃ悪いし、僕は友達のところに戻りますね……? 加奈子さんも突然お邪魔しちゃってすみませんでした……」
「あ、いえ。アタシなら全然平気です……」
「で、ではまた……」
加奈子も優也も苦笑いを交わして会話を終えた。
優也はそそくさとその場を去っていき、場には気まずい雰囲気が残った。
後日、加奈子は精神科を通じて瓜破が就労できない理由を作り上げ、無事に生活保護申請を通した。
また元同僚に訴えられていた件も落ち着いて考えてみれば無敵の存在となった瓜破にはなんら被害はなくやり過ごせる話になる。
賠償金や慰謝料など心苦しい顔をしながら踏み潰してしまえばいいうえに、扇動行為を詐欺として訴えられることにもなったが、こちらは元同僚も自らの意思で退職届を記載していたことから認められることはなかったのだ。
ただし、瓜破がこの期に及んでなお見栄を張って隠していた無職期間に作った生活費の借金について、別途破産手続きも行っていくことになったのであった。
瓜破の周りの出来事についてはこれで解決に向かうことになる。
だが、ここで備前優也との間に残った火種は、加奈子にとってまだ燻っていた。







