ボケ老人(3)
・CWの訪問頻度は世帯状況により異なる。
・介護認定調査は申請後、時間がかかることがある。
男性職員に促され、小森の部屋に向かう道すがら、加奈子は鼻を摘んだ。
「ねぇパパ。なんかこの施設の中、臭くね?」
「そりゃあジジババどもが大も小もするからな」
そう言いながら廊下を歩く途中でも車イスの老人を見かける。その老人は近くを通りかかった女性職員に対して手を挙げていた。
「えー? 斉藤さん、またオシッコ?」
声を掛けられた女性職員は笑顔を浮かべながら冗談のように親しく言っていたが、その目はどこか笑っていないようにも見える。
「な~んか、笑っているようで含みのある職員さんだねぇ、パパ」
「単純に仕事が大変なんだろ?」
「どうも職員が足りてないような気もするし、なんならお前も介護される側じゃね? って人まで働いてるとか、スゲェ現場だな」
加奈子はキョロキョロと辺りを見回しながら備前のあとについて回った。
「おや? この部屋のはずなんだが……もしや別の部屋に移ったのか?」
備前が慣れた足取りで辿り着いた部屋は狭い空間に二つのベッドが並べられた集合部屋であったが、その部屋のベッドにはどちらも見知らぬ老人が横になっていた。
「どったのパパ?」
「どうやら部屋を間違えたらしい」
備前は部屋の入口の名札を見て答える。そしてそんなことをしているうちに室内の老人が逆に備前たちを見てくる。
「あはは……部屋間違えたのはアタシたちが悪いけど、ドアも開けっ放しだし、知らない人と目が合っちゃうとちょっと気まずいね」
「気にすんな。大体どこもこんなもんだ。いちいち開け閉めするのも面倒だろうし、どうせ養分だからな……それより先ほどの職員にどこの部屋に移ったんだか聞いてみよう」
「ったく。部屋を移ったんなら、最初に受付した男性職員が言えってんだよな~」
「まぁそう言うな、それくらい笑って許してやれ」
そう言いつつ、備前は先ほど擦れ違った女性職員に声を掛ける。
「すみません。小森の部屋はどちらかに移りましたか?」
「小森さん? あぁ、それならアッチです」
女性職員はぶっきらぼうに廊下の先を指差して言い、すぐに自分の仕事へと戻っていった。そんな様子を見て加奈子は少し不満そうな顔をする。
「なにあのそっけない態度。案内もしないでさぁ」
「そんなもんだろ? あの職員にとって客は小森であって、俺たちじゃねぇ」
「だからってさぁ……」
「ははは。覚えておけよ小娘、こんなのはザラだ」
「そなの?」
「もちろんマトモな職員も多い。それは前提に置いておくぞ? だがな、これはあくまで俺の感覚だが、この施設に限らず業界全体的に、福祉に携わる人間は、その福祉対象者以外の人間に対して冷たい人間が多い」
「客にだけいい顔して、そのほかの人にはキツく当たるみたいな?」
「よっぽど心に余裕が持てないんだろうよ。だからあんまり気にすんな」
「わかった! かわいそーだなーって見てればいいんだね?」
備前は鼻で笑った。
「きっと人間は本来、他人に優しくするよう作られてねーんだよ。だから無理して客に笑顔を向けたぶんのしわ寄せが他人に行く。ただの精神論だが、俺はそう感じてるんだ」
「パパは他人に厳しくするぶん、もっとアタシに優しくしてくれぇい」
加奈子はケラケラと笑っていた。
「それよりホレ、今度こそ着いたぞ」
備前が部屋の名札に小森の文字を見つけたときだった。
室内からバタンと何かが倒れたような鈍い音がした。
「ああ! 小森さん! ちょっと目を離すとこれだ!」
続いて少し怒気を帯びた男性の声。
ほかの部屋と同じように開いたままの扉から備前が中を覗くと、そこには車イスから転げ落ちたと見られる小森と、備前と同じくらいの中年男性が一人いた。
「おうどうした綛野。何かあったのか?」
「おう備前か。ちょっとな、小森さんが転んじまって」
そう言いながら綛野と呼ばれた男性は小森を車イスに戻した。良く見れば小森の右足はギブスによって固定されている。そんな状況を見て加奈子は備前に耳打ちする。
「パ、パパ……? アタシ犯人わかった……足を怪我してるキモオジママが自分から動いて車イスから転げ落ちるわけないよ……これ、パパの友人が虐待してるんだぁ……」
「小娘は余計なこと言うな」
「いったぁい!」
備前のゲンコツを受けて加奈子は口を閉ざした。
「小森さんが転ぶ……? たしかに以前から足は不自由だったが、車イスに乗るような状態ではなかったと思うがな」
「それもきっとパパの友人が足を蹴っ飛ば……いったぁい!」
備前は二発目のゲンコツを落としてから首を傾げる。
「たしかに備前が連れてきたときは元気だったんだけどな。それから色々あってさ……ま、いいさ。まずは話してみるのが早いだろう……俺は少ししたら戻ってくるから」
「ああ、忙しいところ悪いな」
ひとことふたこと挨拶を交わして、綛野は部屋を出て行った。
綛野が去った室内に残された備前は小森に話しかけた。
「お久しぶりです小森さん、備前です」
しかし小森からの反応はなく、車イスに腰掛け動かぬまま、視線だけを一度備前に向け、またどこともわからぬ方向を見た。
「どうしたんだろ? 様子が変だね?」
加奈子が首を傾げる。
「小森さん、お身体の具合でも良くないのですか? 私です。隆史くんの同級生の備前ですよ」
備前は車イスの前に回って膝を折り、小森の顔を見た。
「あ……あ……」
だが小森はうめき声のような声を発しただけだった。
「どうしました? 私のことを忘れてしまいましたか? たしかに息子さんの友人なんだけどなぁ……そうだ!」
備前は自分のスマホを取り出して、その画面を小森に見せる。
「見てください。こないだ隆史くんと一緒に仕事をしたときの写真です。引っ越し業者の仕事なんですけどね。ほら、重い荷物を一生懸命持って、頑張っているでしょう?」
「か……かえ……」
小森は少しだけスマホに手を伸ばそうとしたが、途中でやめて項垂れてしまった。
「かえ……りたい……」
そしてやっとの思いで搾り出した言葉はそんな言葉だった。
備前と加奈子は何かを察したように真顔で目を合わせた。しかし備前はまたすぐに笑顔を作って小森の顔を見上げる。
「小森さん。こないだここに引っ越したばかりでしょう? 今はここが小森さんのおうちじゃないですか」
「かえ……りたい……」
そう言って涙を流す小森。
「帰るって言ったって、もうあの家は小森さんの家ではないんですよ?」
「どうして……?」
「どうしてって、ほかの人に売ったからですよ」
本当のことを言えばまだ小森宅の売却はできていない。だがそれを言ってしまうほうが悪手であるのが火を見るより明らかだったので備前は嘘をついた。
だがそこへ加奈子が口を挟む。
「違うよパパ。どうしてって……たぶん理由じゃなくて、嘆いてるんだと思う……この人まだ、頭はハッキリとしてるんじゃないかな……?」
「小娘の直感か? どうしてそう思う」
「だって、入所してからそんなに時間経ってないじゃん。ちょっと前まで元気にしてたじゃん。受け答えだってはっきりできてたし……」
「甘ぇな小娘……ちょっと来い」
備前は加奈子を連れて一時部屋を出て、廊下で小森に聞こえぬよう小声で話す。
「たしかについこの間まで元気にしていた。小娘にとっちゃ急な変化かもしれねぇが、こういう変化は稀にあるんだよ。ついこないだまでって人間が生活保護を貰いだした途端、一カ月も経たないうちに人が変わったように豹変しちまうんだ」
「どうして?」
「壊れた奴のことなんざ知らねぇよ。演戯かもしれねぇし、罪悪感とかで狂っちまったのかもしれねぇ。環境の変化によるストレスの可能性もある……こんなふうに廃人になっちまって、本人に聞いてもわからねぇ状態になってることもある。正直、高齢だとうつなんだかボケなんだかわかんねぇ」
「どうしたらいいの?」
「もう廃棄処分しかないかもしれないな、ありゃあ」
「酷くね? まだあれ意識あるって」
「だがもうまともな返答が返ってこねぇだろ。あれほど気にかけてた息子の話をしてもアレだ。しかもすでに失ったはずの家に帰りてぇ帰りてぇって、ありゃあもう亡者だろうがよ」
そのとき、室内からガシャンと金属が倒れる音がした。
二人が覗き込むと、そこには倒れた車イスから這い出すようにしている小森の姿があった。
「かえりたい……かえりたい……」
必至に身体を擦って進もうとする小森を見て、二人は気味が悪げな顔をした。
「たしかに施設から帰りてぇって訴える老人は少なくねぇがな、あんな状態で家まで帰れるわけねぇだろ……今ので確定だ、足のギブスもああやって転倒して骨折したんだよ」
「マジか……完全にゾンビにしか見えん……」
「逆に意識があるならなお悪い。あんなもん、人間たぁ言えねぇよ」
「人を人たらしめているのは精神だって、前にもパパ言ってたね」
二人は倒れた小森に手も貸さず、汚いものをみるように睥睨した。
「人って、こんなに短時間でこんな亡者みたいに成り下がっちゃうんだ……」
「こうなっちまったらどうしたらいいと思う? せっかくだ、最後に教材として使ってやるか」
「ど、どうしたらって、そんなのアタシにわからないって!」
「だが、これでわかったろう? 普通の老人なら寝転がしておけば養分になる。だが、あんまり手がかかるようなら邪魔になる」
「要介護度がいくつだろうと大人しくしてれば施設は囲う。そうじゃなければ捨てる。それが施設の本音ってことだよね?」
「そうだ」
「でも、そしたらどこに行けば……」
「綛野が俺に話があるって言ってたろ? おそらく用件はこれの処分だ。一度立ち去ったのは、この現状を俺に見せるためだろうな」
備前がそう言ったときだった。
「あれ? 備前さんに笹石さんも。こんなところでどうしたんですか?」
そこに現れたのはCWである安岡だった。
「安岡君か。珍しいね、まさか偶然にも訪問が重なったわけではないんだろう?」
CWの業務の一つに、生活保護者の生活状況等を把握するための家庭訪問がある。全国的な傾向として環境が変化しやすい若い世帯ほど訪問頻度が高く、逆に施設に入っているなど、大きな動きが生じにくい世帯へは訪問頻度が低くなる。
半年に一度、長ければ年に一度の訪問日が、たまたま今日訪れた自分たちと重なる理由がないと備前は考えていた。
「そうですね。今回は定期訪問ではありません。小森さんの状態を聞いて、介護認定調査をし直す必要があると思い、認定調査員と一緒に来たという訳ですよ」
「行動が早いね。もしかして今から調査かい?」
「そうですね。状況が急展開だったので、介護課に無理を言って組み込んでもらったんです」
「さすがだね安岡君、その判断は正解だった。もし特養に突っ込むなら俺も協力しよう」
「ありがとうございます」
そこで備前は首を傾げている加奈子を見た。
「何が起こっているのか、いまひとつわかってねぇ顔をしているから説明しておこう」
「助かるぅ!」
「まずは状況の確認だ。今、小森の要介護度は『1』だ。足が少し悪いが、つい最近までは今みたいな状態じゃなかったからな。急変した状態に要介護度がついてきてねぇ」
「特別養護老人施設、略して特養に突っ込みたいけど、特養は要介護度『3』以上の人じゃないと入れないから見直してもらおうということ?」
「そうだ。通常、認定期間ごとに継続で更新することが多いんだが、こんなふうに必要に迫られたときは期間の途中でも再調査をしてもらえるんだ。ただし、原則は状態が落ち着いてからの調査になる。つまり入院時や退院直後だったり一時的な悪化だと、原則、調査はしてもらえない」
「でも今回は安岡さんが手を回した……そりゃそうだよね、明らか壊れてるもん。つまり今回は要介護度3以上に変更することを目的にした形式的な調査ってわけ?」
「いやいや、我々はあくまで状況に合わせた適切な調査としか言いませんよ? 結果的に出てきた要介護度が見込みと違って計画を練り直すなんてこともザラですから。ただ、今回は要介護度3以上出ないと困るっていう、こちらの都合があるだけで」
「やっぱ何かあるって言ってるようなもんじゃん!」
「原則は原則。人の命にも関わりますから、どうしてもというときは臨機応変に対応せざるを得ないのが我々の仕事なんですよ笹石さん」
「柔軟なCWさんってのは大事なんだねぇ~」
「ですが笹石さん。今は高齢者がすごく多いので、基本的に介護認定調査って予約がいっぱいなんです。自治体によっては数カ月待ちなんて状況もあるんです。そこはちゃんと覚えておいてくださいね」
「ヒェ~! それ、困ってから申請しようとしたら詰むやつじゃん!」
「そうです。なかには介護なんて必要ないと頑なに拒む高齢者もいますが、なにも動けなくなってからでないといけないという訳ではありません。一人での買物が辛くなったとか、そういう些細な不自由が生じたら一度相談だけでもしておくべきです」
「要介護度が出なくても、その下の区分である要支援の度合いがつくかもしれんし、そうでなくとも準じるサービスに結びつく可能性もあり、また、地域から気にかけてもらえる繋がりができるので孤独死の可能性も減るというわけだ」
「なるほど~。介護申請は早め早めっと……」
加奈子は納得したように何度か頷いた。
「それにしても、下手すりゃ数カ月待ちの認定調査をこんなに素早く手配しちゃう安岡さんて、もしかして優秀なCW?」
それを聞いて安岡は肩を落とした。
「備前さんの指導をビシバシ受けてきたからなんですけどね……」
「ははは。まぁそんなことはどうでもいいじゃないか。それより早く調査してしまおう。せっかくの機会だ、小娘も介護認定調査ではどんなことが行われるのか良く見ておけ」
「うんっ!」
加奈子は元気に頷いた。







