絶望家族(8)
「無悪君、ちょっといいかい?」
備前が無悪の部屋を訪ねると無悪は一人でゲームをしていた。
部屋に招かれた備前は床に腰をおろして言う。
「実はね。君の息子、雅楽君から君と話をしたいと打診があってね」
無悪はピクリと肩を震わせた。
「それはまさか、元妻が相手にされなかったから今度は子どもをダシに使ってきたということですか?」
「君がそう思うのも無理はないがね。俺が思うに、これは雅楽君からの働きかけだと思うよ。でなければ俺も君に繋げようとは思わないからね」
「たしかに。備前さんが仰るのですからそうなんでしょう。でも、いったいどうして雅楽が?」
「実はね。俺があの母親に何を言っても仕方がない部分があったので、雅楽君のほうにも名刺を渡しておいたんだよ」
「なるほど。たしかにそのほうが良かったかもしれません」
「正直、俺も雅楽君から連絡がくることはないと思っていたんだが、彼にも相当の覚悟があると見えて先日会ってきたんだ」
無悪は少し気まずそうに苦笑いをした。
「知らないほうがいいこともあるとは言った……それでも全てを聞き入れたうえで言ったよ。……必ず君に対して母に頭を下げさせる、と」
無悪は驚いた顔をした。
「雅楽が?」
「無悪君。彼はたぶん君が思っているよりもずっと大人だぜ? 正直、俺にはどうやってあの母親を説得するつもりだったのかさっぱりわからなかった。だが、あんなに真剣な態度を見せられたら無下にもできない」
「そう……ですか」
「そして昨日、とうとう君と会う準備ができたと連絡がきたよ。……つまり、君の元妻をどうやってか説き伏せたというわけだ」
「でも、僕にはもう話すことなんかありません」
「だろうね。子どもにも合わせる顔がないだろう。それも伝えた。だが、それでも雅楽君は行動した……あとは君次第だ」
無悪はしばらく考えたあと深く頷いた。
「わかりました……会ってみて気持ちが変わるでも良し、変わらなくても……それはそれでどうしようもないことです」
「だろうね」
備前は淡々と言った。
「それじゃあ、日時と場所を決めたらまた連絡をするよ」
そう言って備前は無悪の部屋をあとにした。
後日、無悪は備前に指定された日時に壊島宅近くのファミレスに赴いた。
備前が家族間の話に入ることを遠慮したため、一人で臨んだ形だ。
無悪が店内に入ると蓬と子どもたちの姿はすぐに見つかった。四人掛けのテーブル席に蓬と貞茄が横並びに座り、雅楽がその隣を無悪のために空けて待っていた。
「やぁ待たせたね、雅楽、貞茄。元気だったかい?」
それしか言葉が出なかった無悪に対し、子どもたちは無邪気にも、久しぶりに会った父親に我先にと自分の話したいことを明るく話しだした。
学校で何があったなどと、ひととおり満足に話した貞茄が息をついたところで雅楽は話を催促するように蓬を睨みつけた。
「じゃあ……そろそろ話をしようか」
雅楽の声に蓬は少し肩を震わせた。そして子どもたちが楽しそうに無悪と話している間、ひとことも喋らなかった蓬が重く口を開いた。
「あの……あなた……?」
蓬の声を聞いた瞬間、子どもたちの話を終始楽しそうに聞いていた無悪からも笑顔が完全に消えた。
「なんだよ」
無悪の冷たい声は貞茄の無邪気な笑顔すら凍らすほどだった。
「ごめんなさい……まずは謝らせてください」
蓬は言葉よりも先に頭を下げてから言った。
「断る。今さらお前と話すことなどない」
間髪置かず返された言葉に驚いたのは蓬だけではなかった。隣に座っていた雅楽も目を見開いて無悪の横顔を見ていた。
「でも、もう私たちはあなたに謝ることしかできません……」
「それを聞くかどうかはこちらの自由だ。……僕は、お前に、地獄に落ちてほしいと思っている」
「そんな……そしたらこの子たちは……」
「また同じことを言われないと、わからないのか?」
「どうして……?」
「……そんなことじゃあ僕の気持ちは変わらない。動かない。もっとまともな話が聞けるかもしれないと期待してきた僕がバカだったよ」
口を噤む蓬に変わって今度は雅楽も口を開く。
「お父さんどうして? お母さん謝ったよ? どうしてそれじゃ駄目なの?」
そんな雅楽に無悪は悲しそうな顔を向けた。
「ごめんな雅楽。でもな、雅楽も大人になればわかるはずさ。この世界は夢や希望にゃ溢れちゃいない。謝って済むことばかりじゃない。過去に戻ってやり直せもしない。……一度の失敗で全てが終わっていることも多くある」
「僕たち家族は、もうやり直せないってこと……?」
無悪は重く頷く。
「だって、こんな気持ちを抱えながら一緒にいたら、お父さん、この女を殺してしまうかもしれないだろう?」
そう言って表情もないのに微笑んで見せているような無悪を見て雅楽は何も言えなくなった。その顔には絶望が浮かび、やがてそれは怒りへと転換されるように蓬に対する視線に乗る。
「お母さん。どうすんの? これ全部、お母さんのせいなんでしょ」
息子の視線と声に怯えるように肩を震わせる蓬。
「お母さんがあんまり好き勝手にしたから、もう言うこと聞いてくれないってさ! どうすんの? ねぇ、どうすんの!?」
テーブルの下では雅楽の足が蓬の脛を蹴っている。
蓬は足元の痛みに耐えながら、涙ながらにテーブルの上に頭を落として無悪に懇願する。
「お願いします……私たちと、やり直してはいただけませんでしょうか……?」
「今さらお前、生ゴミみてぇなもんだって言ったよな? ……汚ぇし、臭ぇんだよ」
無悪の言葉を受けて雅楽は再度蓬の足を蹴る。
「生ゴミだってさ。どうすんの? 諦めんの?」
「雅楽も……。あんまりお母さんを酷く扱うのはやめておきな?」
雅楽の足蹴に気づいている無悪はそこで優しく雅楽も咎めておく。
「でもさ! こいつ……お父さんだって、お母さんが憎いんじゃないの……!?」
「憎いよ? 憎くて、殺したくて殺したくてたまらない……でも、殺すのが一番いいとは思えないんだ。こんな女に殺す価値があるものか。……どうしようもない、どうにもならない……どうでもいい」
「お父さん……言っていることがわからないよ……」
雅楽は涙混じりに無悪を見た。
「ごめんな雅楽、貞茄。お父さん、こんなんになっちゃったよ……もう、ちゃんと考えたりするのも上手くできないんだ……もう何もかも、どうでもよくなっちゃうんだ……ごめんな」
そう言って涙を流す無悪の姿を見て、そしてそんな無悪に無意味にも頭を下げ続ける蓬を見て、雅楽も貞茄も顔を青くすることしかできなかった。
そしてその行き場のない気持ちを当てるように、雅楽は蓬の足をさらに一回、無音で蹴ったのだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……許してもらえるのなら、なんでもします。ごめんなさい……なんでもしますから……」
雅楽の謝罪催促を受けて蓬は懇願するが、無悪は嫌な顔をするだけであった。
そんなとき、無悪はふと何を思ったのか一瞬ハッとした顔をした。
そして顔を見逃さなかったのは雅楽だった。
「お父さん、どうしたの? 何か思いついたの?」
少し期待の混じった雅楽の期待に応えるように無悪は軽く微笑む。
「そうだね……お父さん自身も、もう何も要らないと思っていたけど、良く考えてみたら一つだけ期待してみたいことがあったみたいだ……もし、これが叶うなら、お父さん、お母さんのことを許せるかもしれない……また、頑張れるようになるかもしれない……」
その言葉を聞いて雅楽の表情はパッと明るくなり、蓬もまた驚いたように顔を上げて言った。
「なんでもします! 許してもらえるのなら、なんでも……」
「なんでも。その言葉がウソじゃないなら、僕がお前に求めたいことはたった一つだ」
「お願いします。なんでもしますから教えてください。私はいったい何をすれば……?」
縋るように食いつく蓬とは反対に無悪は淡々と口を開く。
「簡単なことさ、自殺してくれ」
刹那、その場から音が消え去った。
「お前が死ねば、僕は嬉しい。子どもたちも人殺しの子にならなくて済む」
「な、何を言って……」
蓬は呆然とするばかりだった。
「そうなれば僕はお前を許せるかもしれない……また頑張れるかもしれない……だから」
誰も何も言えない空気のなかで、無悪だけが無表情で淡々と言葉を紡いでいる。
「頼むから、自殺してくれ」
その一角だけ、ファミレスの喧騒などないものであるかのような異質な雰囲気だった。
「自殺教唆になろうが構わない。僕はどうなっても構わない……だから」
無悪は機械の如く続ける。
「それが一番いい、自殺してくれ」
そしてようやく何かを言いかけた蓬の言葉に多い被せるようにもう一つ。
「とにかく、一秒でも早く、自殺してくれ……自殺してくれ……!」
「もう……いいよ。ごめんね、お父さん……」
ただただ蓬に対して自殺しか求めなくなった無悪を前に、とうとう雅楽も諦めざるを得なかった。
その一家は、誰もが絶望の底へと沈んでいった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
「自殺してくれ」
相談者さんが実際に教えてくれた重いセリフとして私の心に残っています。
私財を投げ打ってでも、罪に問われてでも、何を犠牲にしてでも殺したい相手がいる。それを、どんな境地にまで至ればこんな言葉になって出てくるのだろうと……。
「氏ね」、「Shine」とか「自殺しろ」とかですらない。煮えたぎる殺意を胃袋に収めたまま出てきた言葉がこれかと思うと、本当に絶望を経験した人でないと出てこない言葉だと思った私です。







